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ナツメの傷は街に戻ってすぐに治ったけれど、それでも通常通り起き上がるのには時間がかかった。
傷も塞がっただけで動くには痛んだし、何より貧血をすぐに解消できるような食べ物はたいてい消化に悪く、ナツメには食べられるものではなかった。
だから、一週間ぐらいはほとんど寝たきりで、ひどく暇を持て余した。その間にもクラサメは働きに出て、結局ナツメが戻ってきて二週間もしないうちに。

ナツメ。今日の給金で金が貯まったぞ」

そういうことになったのだった。



ことこういうことに関しては、世間知らずで臆病なナツメのほうが用心深く、稼ぐ目標額は余裕を持って設定されていた。向こうの街に行ったとして、そこでまた仕事と家を見つけなければならないのだ。それまで泊まる場所を確保するにも金がかかる。なので実際は数日前に目標そのものはほぼ達成していたのだが、ともかく、ようやっと街を出られることになった。
貯金をするにはナツメの給金など雀の涙であったから、貯金の大部分は、というかほとんどすべてはクラサメの稼ぎであった。ナツメとしてはこれをすべてナツメが逃げるために使うのは忍びない気持ちもあったりする。

「……クラサメ、聞きたいことがあるんだけど」

あまり動き回るとクラサメが怒るので―無言でむっつり睨みつけてくるのでとても怖いし、それでも動き続けるとお説教に移行する―、仕方なくベッドに座ったままのナツメが問うと、仕事を終えて戻ってきていたクラサメは荷造りしながら振り返った。

「なんだ」
「それは二人分の旅費じゃない」
「そうだな」

内訳は二人分の船代、向こうについてからの宿泊費や食費等諸々、合計で五十万ギル。それが目標額だった。
船に一人乗るだけで十八万ギルも取られるというのだからぼったくりだとナツメは思う。ナツメとクラサメ二人の生活費が一ヶ月あたりおよそ五万ギルから七万ギルといったところだから、そこから試算して、二〜三ヶ月は生活できるよう計算したら、それだけで五十万になってしまう。
ナツメが月々得られる賃金が七万ギル弱、クラサメはかなり多くて二十万ギル近く得ていたが、それでもなんだかんだと半年かかった。生活を始めるときにも金がかかったし、完全にストイックに貯金にだけつぎ込んでいられたわけでもなかったから。
それなりに大変な思いをして貯めた金だった。特に、群れを出たばかりで働くということに疎いナツメにとっては苦行だったものだ。

「クラサメも一緒に来てくれる、んだよね?」
「……何をいまさら。来るなと言うなら考えるが」
「いや、そうじゃなくて……クラサメだって目的があってあの町に行ったんだよね?私が邪魔しちゃったけどさ」

クラサメは一瞬考えるような仕草をした後、「目的というほどのことではない」と首を横に振った。

「軍を抜けてきたのは話したか」
「うん」
「いろいろなことがあった。裏切りもあった、仲間も片っ端から死んだ。それが嫌になって軍を出た……まあ、有り体にいえば、人間社会に疲れたわけだ。何もかもどうでもよくなって、故郷に一度戻ろうと思っただけだったが、……故郷と言っても、遠戚が住んでいる程度にしか由縁もなくてな。挙げ句教会が魔女狩りに精を出しているときた」

釈明もしてみたし、マスクの中も見せたが、意味はなかった。あの辺りは田舎だから、異形と見れば殺しにかかる。逃げようかとも思ったが死んだ家族の墓もあった、簡単には動けなかった。
それで結局、あの山の中に追い立てられた。追手を殺してはみたものの、自分も重傷ではどうにもならん。

「もうこれも定めと思い、受け入れようかとしたんだが……そこに、お前が現れたんだ」

だから気にするな。お前が居なければ死んでいたし、今はお前が生きる理由だ。
何も気に病むことはない。

クラサメは事もなげに言い放ち、ナツメは躊躇ってから頷いた。頷いてからも、納得はできないままだった。
そんなこと、本当に受け入れていいものなのだろうか。ナツメは結局、彼に頼んですらいないのに。



この二週間はナツメにとっても苦難の二週間だった。腹の傷のこともそうだし、クラサメのこともそうだ。
巣穴から助け出されたとき、一度だけ、クラサメはナツメに口吻をした。ナツメの記憶や頭がおかしいんでなければ間違いないはずだった。

だがそれから二週間だ。二週間、何もなし。それらしい接触というか、なんかそういうのもなし。一切なし。
何だったの??弄ばれてるのかこれ??そういうことを何度か考えながら、しかしクラサメに面と向かって聞く度胸もないのである。職場で働く若い同僚がなにかにつけ「恋愛経験値が低い」とナツメを揶揄していたのだが、それはそうだ男兄弟の群れで育ったまだ年若い小娘なのだ。恋愛の何を知っているというのだ、れの字も知らぬわ。

もちろんナツメも怪我人なのだし、気を遣われているのだろうかと思わないでもなかった。しかしもしそうなら遣いすぎだ。十分元気になった、もう動ける。クラサメは人間基準で考えているが、彼が治癒の術を使ってくれたことも忘れてはならない。もうとっくに走り回れる程度には体力も戻っている。
それが何も起きない。彼は今は昼に働いているから、眠るときも一緒にいるのに、同じベッドで寝ればいいというナツメに強行にあらがって床で寝ているくらいだ。
やっぱり胸の一つも大きくするべきか。しかしカトルの話から考えれば、ナツメにできるのは耳と尾を隠すくらいだという。

そんな悩みも抱えつつ、金が貯まったのなら、早く船に乗らなければならない。次の船は明後日だというから、ナツメはクラサメを懸命に説得し、もう傷は大丈夫だということを納得させた。いや、納得しているのかはわからないがともかく、一応職場には事情を話して辞めると言わなければならないと言ったらようやく折れた。


二週間ぶりに浴びる陽光は目に痛い。ずっと寝たきりだったから、体はますます鈍っている。狼だった頃とは運動量が段違いだから比較しても仕方ないのも確かなのだが、それでも体が動かなくなっていくのは怖い。

新しいスカーフは昨日クラサメが買ってきてくれたものだ。深い赤茶色が髪によく似合うと言ってくれた。嬉しかったけど、うまく笑えた自信がない。そういうことに慣れていなさすぎる。
狼は恋をしない。子供を産むのも親族間だからなおのこと、できるだけ深く考えない。というか、叶うなら何も考えない。彼らがどう思うかも、ナツメは考えたことがなかった。そういうことを話し合ったり、確かめたりしないのが狼だ。狼には恋愛も哲学も存在しない。何かを考えて生きるには、彼らの人生は短く刹那的すぎた。

「……海を渡ったら、もう二度と会えないよね」

別にいいのだ。群れを出た日にその覚悟は決めていた。でも、だからといって、もう一度穏便に会う機会が持てるかもしれないのにそれを見過ごして出ていくなんて、それはなんだか。
なんだか、とても。

「うーん……」

薄情な気がするし、後悔しそうにも思う。それでもいいと思う反面、一度別れを言うべきだとも思う。
悩みに悩んだが、そのうち悩むのも無意味な気がしてきた。だってもともと家族なのに、何をためらう理由がある。考える必要がある。狼だった頃、なにかを悩むことなんてなかった。

海を渡って戻ることがもしもあっても、首領のことを思えば今生で会うことはないのだ。それじゃ、きっとナツメは後悔する。
後悔ぐらい、いくらでもしたっていい。そう思いながらも、ナツメは結局、もう一度を望んでいる。

怪我の末の退職で、まだ痛むしこれからもきっと痛むと大嘘をついてみれば、狼に襲われたということもあって工場長の業突く張りな女房もナツメの退職を許した。工場長が肺炎の結果死んだらしいので、工場の経営も大変らしく、ナツメと話している時間も惜しそうだった。ナツメにはあまり関係のない話だが。退職金と言うには少ないが、と最後の給金には少し色がついていた。怪我の見舞い金も入っているらしい。ありがたく受け取って、商店街で夕食のパンを買った。クラサメにはナツメの作る大したことのない食事でいつも我慢してもらっているし、少しくらい美味しいものを食べてほしいと思った。

山の近くでシュペングラー婦人に偶然会えたので、ついでに出ていく旨を話す。寂しくなるわとは言われたけれど、短い期間で出ていくことは最初から伝えていたから、特に詳しく聞かれることもなかった。
息子もずいぶん元気になったという。人に感謝される経験はまだまだ多くないナツメは、彼女の笑顔に少し所在なく感じたが、それももう最後だ。

そして、ナツメは夕食の包みを抱えて街の出口へ向かった。カトルたちに連れ去られた、森に繋がる道だ。そこから更に少し北へ抜け、ちょうどいい場所を探す。一時間近くかかったが、ようやく小高い丘を見つけると、ナツメは夕食を一度置いて、唱える。

私は狼。私は、狼。
体はすぐに応えるし、ナツメは狼になれる。久方ぶりに姿を取り戻した。
白い狼は、高く吠える。仲間を呼ぶ声は、山を超えて届くが、今近くにいる群れはカトルたちだけのはずだ。
一度吠えただけで、ナツメはすぐに狼の姿を止め、人間の姿に戻った。つい最近、狼の襲撃があったばかりだから、あまり吠えると街が騒ぎになるかもしれない。丘の上からは、遠くに街が見えている。

スカートをたたむようにして、包みの隣に腰を下ろす。きっと、すぐに向こうはナツメを見つける。美味そうな肉の匂いを横に漂わせているし。
実際、すぐに来た。

「……なぜだ?」
「なぜって、何が」
「なぜ呼んだ。やっと、解放されたんだろう」

降った声に振り返ると、白いコートを着た男が怪訝な顔で立っている。その仏頂面に懐かしいものを感じ、ナツメは笑った。

「ナギが来るかと思ったんだけどな」
「悪かったな、私で」
「別に悪いってほどのことじゃないけどね。……ただ言っておこうと思ったの」

立ち上がって、正面に立つ。こうして見ると、己の背が伸びたのがよくわかった。前に人間の姿でカトルの前に立ったとき、彼の身長の半分くらいの高さに頭があったのに、今は肩のあたりに目線がくる。
ナツメは大人になった。まだわからないこともできないこともたくさんあるけれど、少しずつマシになっていってる。今はその途中で、そのために群れを出た。

「海を渡って、遠くに行くわ」
「……ああ」
「もう会うことは絶対にないと思ったから、最後に会っておこうかと思って」
「それだけのために危険を冒したのか。首領が戻っていたらどうするつもりだった」
「え、戻ってないんだよね?」
「……戻ってはいないが……いつ戻るかわからない。もう少し頭を使ったらどうだ」
「そういう言い方はちょっと傷つくんだけど。……まあ、いいけど」

ナツメは手を伸ばした。怪訝な顔が再びだったけれど、人間は挨拶のときに握手をするんでしょうと言ったらカトルもまた手を伸ばした。
カトルの手は厚く、硬かった。この手は本当は前足なんだから、硬いのも当然か。
離れようと思ったときだ。しかし、カトルは手を離さず、引っ張った。

「……カトル?」

カトルはナツメの腕を引き、ナツメの体を抱き抱え、背に手を回している。ぎゅうと抱きしめられて、体温を感じる。

「息災でな」
「……うん」
「あの男と行くのか」
「うん」
「……妊娠するなよ、あれはイヌだろう」
「離せバカヤロー」
「本気で言ってる」
「……わかってるよ」

カトルが手を離し、ナツメは後ろに足を引いた。ナツメはしばし無礼な言葉に怒り彼を睨んだが、結局その顔もあまり長くは続かず、二人ほぼ同時に吹き出してしまった。
どうか変わらずに。……いや、好きなように変わっていけばいい。それでも互いの無事を願っていられれば、それが一番いい。
ナツメはさようならを言って、カトルと別れた。

笑顔で別離を言えてよかった。それからナツメはうっすら暗くなりつつある道を、夕食の包みを抱えて歩いた。
早く家に帰ろう、クラサメに会いたいと思った。何の後悔も恐怖もなく、クラサメと別の大陸に旅立つことができる。ずっと家族のことが頭の片隅にあったナツメは、不安がないことがこんなに嬉しいとは思わなかった。

包みが手の中でがさがさ鳴る。もうじき街道に出られるから、そうしたら下っていけば街につく。
クラサメの仕事も、多分そろそろ終わってしまう。早く帰らないと街を出ていたことがバレてしまうだろう。
そう思って、足を急がせたときだった。ふと知った匂いが届き、草の根を分け入る音が正面からした。

暗がりから、黒い影がゆっくり足を踏み出す。一瞬困惑したが、夜目の利くナツメはすぐにその正体に気がついた。
そこに立っていたのは、クラサメだったのだ。




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