夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。




目を覚ましたら、ここ数ヶ月全く目にしていなかった岩壁が最初に目に入り、少しだけ混乱した。状況を思い出して、自分が連れ戻されてしまったことを知る。
体を起こそうとしたと同時、全身に鈍い痛みが走り、耐えるために強張った体には激痛が響いた。

「っぐ……」
「……まだ起き上がるな。傷が塞がっていない」

背後から声がして、ナツメは振り返りもせず男の名を呼ぶ。

「カトル……どうしてそこにいるのよ」
「仮にも怪我人を地面に転がしておくわけにはいかないだろう」
「寝藁くらいなかったっけ……」
「あるわけなかろう、そんなもの。人間に染まったな」
「うるさいなあ……」

ナツメの上体の下に、ナツメより一回り以上大きな白い狼が入り込んでいた。ナツメの体を支えている。
確かに善意から為されたことなのだろう、血の気が引いて冷えた体にはほんの僅かな体温でさえありがたかった。

「……でもどうして完全な狼の姿になれるの?人型だったときは、耳も尾もなかったのに。切り落としたんじゃないの?」
「そもそも、人型のときに耳と尾があることがおかしいんだ。おまえ、人狼なんてものが存在するのがなぜかわかるか」
「あー……狼の王の末裔だからでしょう?」
「ああ、そうだ。……狼の王は、時代の王の娘を拐かし、孕ませ、子を産ませた。王は娘を愛したが、子が生まれたときに娘はあまりの多産に腹が裂けて死んだ。生まれた子どもたちは人型だったが、母をひと目も見ることはなかったから、人間の形をよく知らず、いずれも人間もどきの姿になった。王は娘を殺した原因になった己の子を憎み、殺して回った。逃げ延びたのは、尾を残して変異した次男と、耳を残して変異した末娘だけだったそうだ。その後、二人の間には子が生まれ、それが我らの祖先にあたるというわけだ」
「狼の王ってそんなやつだったの?っていうか実際腹が若干裂けてる相手によくも嫌な話をするわね……でもそれ、私の質問に関係あるの?」
「これから関係するんだ。黙って聞け。……この話の肝はな、“人間の形を正確に知らないから人間もどきにしかなれなかった”という点だ。だから望めば、耳と尾を消して変異することはできる」
「生まれた姿と、最初の変異で固定されるんじゃないの?」

人狼は生まれたとき、人に近い姿をしている。ほとんど人型で、獣の耳と尾があるだけだ。もちろんそのままの姿でも生活できないことはないが、体内の器官に狼のものと人間のものが混在するため、狼の姿になって狩りができるのが望ましいとされる。人間が道具もなく他の動物を狩るのはどうしても現実的ではない。
それで、人狼は生まれてから数ヶ月後、群れのシャーマンの術に触れ、変異する。初めての変異はそれ以降の生で経験できないほど激しく、激情的だ。生まれたばかりの子供とはいえ一切の理性が吹き飛んだ狼の相手をするのは大変で、群れ総出で押さえつけることになる。

「思うだけで変異ができるんなら、生まれたばっかの子たちをあんなふうに変異させる必要ないじゃない。みんな怪我するのに」
「人狼の術に触れたことがない人狼は、ただの人間に近いから自発的な変異などできない。狼の王の血を継ぐ人狼は全て、生まれつき多かれ少なかれ魔力を持っているのはわかっているだろう?」
「まあ、そりゃあね……?」
「その才を目覚めさせるには、魔術に触れさせるのが最も早い。魔力の奔流に触れてしまえば、体内に眠っている魔力も目覚めざるを得ない」

狼の王の魔術的素養は凄まじく、街一つ滅ぼさん勢いだったらしい。その血を継ぐ人狼はみな、多少の魔力を持って生まれてくる。
大小の差は才能に由来し、ナツメのように意識的に行使できる例は稀だ。だからシャーマンになっている。

「それももちろん制限はあって、全く違う何かになることはできない。完全に姿を想像できるものに限られるから、それだとどうしても自分の体を少し変異させる程度だな。お前なら訓練すればすぐできるようになるだろう、魔術の才がある」
「ふうん……そういうもんなんだ……。でも、手軽に胸が大きくなったりはしないのね。残念」
「……したいのか?」
「いや、今は別に。……なったらいいなと思ったことはあったけど」

もしナツメに何か差し出せるものがあったら、クラサメも少しくらいナツメを好きになってくれただろうか。たとえそうだとしても、クラサメはナツメに触れもしない気がするが。

「……私は別に、お前の胸に文句はないぞ」
「気を使うなころすぞ」
「いや本当に文句はないんだが」
「文句つけられても殺すし気を使っても殺すわ」
「どうしろと言うんだ?」

あんたに望むことなんて、最初から何もない。ナツメは苦く笑った。

「……にしても、狼の魔法って、すごいのね。今はみんなそんなに使えないのに」
「そうだ。だから群れを出て、調べていたんだ。……本当は、母親が死ななくても出産できるような方法を探していたんだがな。イヌの連中が何か知っていそうなんだが、人間以上に近づくのが難しい」
「そういうものなの?……向こうもこっちを警戒してるのね」
「当然だろう。狼が突然イヌに近づいたりしたら戦争になるかもしれん。結局調べるだけの時間もなく……あまり群れを離れていると、お前が兄弟の子を産むことになるのはわかっていたからな」
「それで戻ってきたんだ。でもそうか……そうね。あんたがいたままだったら、私、群れを離れなかったかもしれない……」

弟たちに犯されなくて済むのなら、最初から諦めていたかもしれない。カトルは首領からの信頼も篤かったし、ナツメはシャーマンとしてすら尊重されない女だった。そういう状況に立ち向かう気力など、ナツメにはそもそもなかったのだから。

カトルがいなかったから、ナツメは逃げる勇気を出せた。カトルというやつは、有能なことは間違いないのだが、ナツメは傍にいるだけで気持ちが削がれた。子を産む覚悟もできず、さりとてシャーマンとしても能力の低いみそっかすの己がごみみたいに見えた。本人にそんなつもりはまったくないところが、ナツメにとっては厄介だった。
群れを留守にした目的も、ナツメを殺さない方法を探していたみたいだし。そういうところが、ナツメは。

あんたのそういうところが、私は。

「あるいは、発情期を散らす方法とかな。それでもよかったが」
「そんなことしたら群れが滅んじゃうじゃない。発情でもしてなきゃきょうだいなんて襲えないわよ」
「……そもそも。母親が必ず死ぬような経過でしか繁殖できない種など、半分滅んでいるようなものだと思わないか。こんなこと首領に言えはしないがな」

首領は今、群れの半分を連れて北側の山を探しているらしい。もちろんナツメの行方を、だ。

「……そんなに大切なら、縄にでも繋いでおけばよかったのよ。絶対に逃げられないように」
「いくらなんでも、首領もそこまでしない。お前が逃げるとは思っていなかったからな」
「どうだか……。それより、変異のこと教えてよ。どうやったら耳が消えるの」

もうどうせ人里に出ることもないだろうから、覚える必要のない技術だ。なぜ学びたいと思うのかはわからない。まだ希望を捨てていないからなのかもしれない。

カトルは、別に複雑なことはない、自分の頭から耳がないところを想像するだけだと言う。

「そんなので消えるの?うそでしょ」
「まあ、すぐにはできない。時間もかかる。鏡を見ながらだとやりやすいがな」
「鏡って、あれ高級品なんでしょ?難しそうね……」

カトルは何も言わなかった。何を期待したって無駄だとか、どうせもう短い命だとか、そういうことを。ナツメは沈黙し、白い毛皮に顔を埋めた。
傷はじくじくと痛む。動かずにいたとして、傷が塞がるのにはしばらくかかるだろう。自分に治癒魔法をかけることはできないし、群れに他のシャーマンはいない。
とにかく休むしかない。首領が戻ったら多少の折檻くらいはあり得る。今休まなければ、耐えられないだろう。

そう思って目を閉じたときだ。

慎重に地面を踏みしめる、ざり、という音を聞いた。兄弟が外から戻ったのかとナツメはもう一度目を開いて、そちらを見ようとした。
そして己の目を疑った。

「……っ?」

松明の灯りが彼の手元を照らしている。こちらを睨む、若い男。黒い外套。
初めて会ったときと同じ。違うのは、腹から血を流しているのはナツメだということだけ。ナツメは呆然と彼を見上げていた。距離にしてほんの数メートル、ナツメが動けたらすぐに駆け寄れる程度。
夢だろうかと思った。彼がナツメを追いかけてきたとは思えなかったし、見つけられるとも思っていなかった。一体どの程度の距離を運ばれたかはわからなかったにしても、クラサメが見つけ出せる程度ということはないだろう。

けれど驚いて起こそうとした体に響く鮮烈な痛みや、松明の灯りがもたらす暖かさが夢ではないとナツメに教え込む。
現実、今クラサメはそこにいる。ナツメの下で、カトルが鈍く吠えた。

「貴様……あいつらを皆殺しにしたか」
「大して妨害も受けていない。よほど人望がないんだな」
「……言ってくれるな」

ナツメはうっすらぼんやりとした頭で、二人の会話を聞いていた。カトルは確かに少し群れを離れすぎたし、首領に従順な、つまりカトルにも従順な奴らは北へ行っている。残っているのはナツメの兄弟と狼だけ。そんな状況では、彼らがカトルに従わなくても無理はない。
……けれど、それにしたって、クラサメを通すなんて。どうしてだろうと、弟の顔を思い浮かべた。そんなこと、後で知れたら彼らも折檻を受けることになる。

ナツメから離れてもらおう。従わねば切る」
「今切ったら、ナツメごとということになるぞ。それでいいのか」
「ならば頭でも潰すか。お前一匹殺すなど造作も無いことだ」

二人がじりじりと睨みあっている。ナツメが動けないために、その下に横たわるカトルも動けないのだ。だがクラサメはカトル一人を殺すつもりだし、実際それは決して不可能ではないから、このままでは確かにカトルは殺される。
結局、最初に動いたのはカトルの方だった。すまない、短く呟いてナツメの下を抜け出し、一瞬での変異。白いコートの裾が翻る。
ナツメは支えをなくして地面に転がる。大した高さではないと言ったって、叩きつけられて激痛を覚えた。カトル、やめて。そう叫ぼうとするのに声にならない。

カトルは懐から抜き取った何かを構えた。直後、パァンと何かが破裂するような音がして、ほとんど同時に金属音が鳴った。

「……冗談だろう」

カトルが呟く。その手にあるナツメの肘ほどの長さの、途中でぐにゃりと曲がった鉄筒は見覚えがあった。
港の衛兵に持っているやつがいたのだ。銃というんだ、そう自慢げに話していた。後でクラサメに話したら、それはフリントロックだなとまたよくわからない言葉が出てきた、あの武器だ。

その鉄筒が向けられた先で、クラサメは無傷で立っていた。何が起きたかナツメにはよくわかっていなかったが、クラサメは手にした剣で銃が放った弾丸を叩き切っていたのである。真っ二つにされた銃弾は今、クラサメの後方の岩壁にめり込んでいる。

「とんでもない技術だ、……だが、剣が耐えられないようだ」
「……」
「次は受けられんし、もうまともに剣戟できんぞ」

カトルが低い声で笑い、また銃を向ける。ナツメにはやはり何が何やらわからないが、このままではクラサメが危ないことがわかる。クラサメもクラサメでそれを理解し、カトルの首を取る気だとすぐに理解した。
このままではどちらかが死ぬ。ナツメが動かないままならば。

ナツメは腕を支えに無理やり足を立て、転げるようにして前に進んだ。カトルの腕を後ろに引き、その前へ飛び出す。
今にも斬りかからんとしていたクラサメが目を見開く。ナツメは後ろ向きに崩れ落ちて、カトルを巻き込みながら地面に倒れ込んだ。

「……っは、はぁっ、……クラサメ、止まって……カトル、その、銃を捨てなさい」
「命令できる立場か、退け!」
「退くわけないでしょ……そんなもん、もう二度と使わせないんだから……!」

銃を叩き落とし、カトルが手を伸ばすより早く、傍らの石でナツメは銃身を叩いた。腕の悪い職人が作った弱い銃は、強く叩かれるとすぐに歪んでしまう。
荒い息を吸って、吐きながら、ナツメはずるりとカトルの上から降りた。そして後ずさりしながら手を広げ、クラサメを庇うようにしてへたりこんだ。

「わ、たしが……生きてる間は……もう、何もさせない、から……」
「……死人のような顔でよく言う」

カトルが苦い顔で舌打ちをした。ナツメは動かない。視界はひどく霞んでいる。もうダメだ、いやまだ倒れるわけにはいかない、そんな思考を繰り返した。何であれ、ナツメはクラサメをこれ以上巻き込みたくない。
姿勢を保てず崩れた体を、クラサメが抱き抱えてくれる。無骨な手が己を抱え込むのを見て泣きそうになった。

「……ナツメ

カトルがナツメを見ている。霞む視界の中、ナツメはじっと彼を見上げた。

「お前はどうしたい。また逃げたいか」
「カトル……それは……」
「お前が逃げれば、お前の弟たちは折檻を受けるだろうし、私も罰は免れん。お前はそれでも逃げたいか。逃げた後、後悔して、また戻ってきたりはしないか」
「……」

逃げたいか、だって。
ほらね。だからよ。そういうところだわ。
あんたのそういうところが、私は。

「……カトルがいたままだったら、私は群れを離れなかったわ」

ナツメが呟く後ろでクラサメが息を呑む。前に回された手にぎゅっと力が込められたのがわかった。

「誰かが聞いてくれたらよかったの。たぶん。このままでいいのかって、お前一人が耐えるのでいいのかって。ナギが逃げろと言う前に、誰か、誰かが……このままでいいのかって、考えさせてくれたら」

でも誰も、ナツメに思考を許さなかった。ナギだってそう、土壇場になって突然ナツメを群れから出した。
この群れにいる限り、ナツメの思考は無視されている。ずっと慣れている。

きっとちゃんと自分で考えたら、考えて結論を出した。群れのために死ぬことを自ら選んだ。
聞いてくれるのは唯一あなただけだった。でもあなたはいなかったから。

だから。
だけど。
でも。
それで。

私はもう。

「私は逃げて、生きる道があることを知ってしまったの。だから、……だから」

だって私は、この人に出会ってしまったから。

「逃げるんじゃない。ただ、私は、あなたたちとはもういられない」

唯々諾々受け入れて、かつて死んでいったたくさんの母たちのように己を諦めて生きて死ぬ。
ナツメはもうそれを選べない。理由をどんなに並べても、行き着く答えはそれだけだ。

「ごめんなさい……群れが滅んでも、私は……」
「……そうか」
「ごめんなさい、いまさら、でも……ごめんなさい……!」
「謝らなくていい。お前が悪いんじゃない」

カトルは短く息を吐いて、それからナツメとクラサメをじっと見つめた。

「一体どうして見つけたかわからんが、……そうだな。男がいるぐらいだ、今からお前が孕んでも誰の子かわからんのではな」
「……今私シンプルに侮辱されてる……?」
「もういい。すでに孕んでいたことにでもしておく。それなら我らが責められる謂れはないしな」

いかにもうんざりした顔でカトルが言う。ナツメが顔を上げると、クラサメが見下ろしているのと目があった。
カトルの言葉はつまり、もう諦めるという意味だ。
ナツメは自由だということだった。








クラサメに腕を借りて外に出た。抱き抱えられながらようやっと洞窟を出ると、ほんの僅かだが空の果てが白んでいた。
ひどい夜だった。痛みにすら慣れ、もう苦痛ではなかったが、血を流しすぎてしまったのか手足が冷えてがくがくする。視界が曇っているような気もするが、目覚めてからずっとそうなので、それが普通のような気もしてきた。

ナツメ、歩けないだろう……抱えてやるから、こっちに……」
「いい、大丈夫……」
「大丈夫には見えない」
「平気だってば」

言い張りながら彼の手を拒むも、結局姿勢を崩して倒れ込む。木の幹に凭れて、地面に転ぶことはなかったが、ぐったりと座り込んでしまう。

「……ナツメ。あれはどうやるんだ」
「あれ……?って、なに」
「お前の術だよ。他人の傷を癒やす」
「ああ、あれは……相手の傷と同じ場所の自分の体を想像するの。首なら首……腕なら腕」
「それで重ねる、だったな」
「言っとくけど……できないよ。狼でさえ……群れに一人か二人しか、できるやついないんだから。イヌには無理だよ……」

そう言う間にもクラサメは腕を伸ばし、ナツメを木に縫い止めた。抱きしめられると、傷は癒えないが痛みが楽になったように錯覚する。
逃げてきたのはいいけど、今日を生き延びられるだろうか。ナツメにはもうそれすら怪しい。

そんなことを思った瞬間だった。腹部に突然、強烈な痛みが走った。

「っぎ、い、あ゛あ゛あ゛あ゛ッ!!?」
「ぐう……ッ」
「何、どうし、何で、い、痛い痛いいだいぃぃッ!!」

こんなはずないのに、ありえないのに、心臓がどくどく高鳴って、血が全身の血管を夥しく揺らしている。頭が破裂しそう。
この痛みはまさにあれだ。クラサメと最初に会ったあの日の痛みとそっくり同じだ。
痛みが止むまでナツメはそればかり考えていた。

そうして、痛みが消えてしまえば、喉元過ぎればなんとやらといった風情で、ナツメの傷は治っていた。手を伸ばして触れてみると、まだ鮮血が貼り付いていたが、もうこれ以上血は出てこない。薄紅色の皮膚が盛り上がり、傷を塞いでいた。

「う、嘘……ほんとに、治ってる……」
「お前は私を見縊りすぎなんだ……」
「でも……苦しかったでしょ。できたのはできたにしても、……術者も苦しいの、知ってるのに」

どうして助けてくれたの。
クラサメも今は疲れ切って、ナツメの肩に額を押し付けている。それだけ苦しい術だ。

「お前も私を助けたじゃないか」
「あれは……あなたを利用するためだったんだよ。ぜんぜん、違うよ」
「そうか……そうだったな」

クラサメが耳元で短く笑う。そんな余裕もないのに、ぞくぞくした。
怖いと思った。これ以上そんな距離にいられたらナツメは勘違いしてしまいそうだし、これまでよりずっと好きになってしまう。それは怖いのに。

「これで逃げられる。よかったな」
「うん……ありがとう」
「もう私はいらないな。お前は一人でも逞しく生きていけるだろう」

クラサメがうっすら目元を緩ませて言う。そんなこと言ってほしくない、ずっと離れないでほしい。
言えなかったわがままだった。

「クラサメ……クラサメ、お願いがあるの」
「なんだ」
「こんなに巻き込んで、これ以上なんて、言うべきじゃないのわかってる。私はもうひとりで生きていくべきだって……でも、……でも……」

お互いの息が荒い。細く微かな木漏れ日が視界を白く染めている。互いの顔もよく見えない。ナツメは貧血で、ひどいめまいすら感じている。
短い金属音がする。クラサメがマスクを外したのが音だけでわかる。
彼の息が顔にかかる。
意を決して願いを言おうとした。

「くらさ、……んんっ……ぁ……」

けれど、全く言葉にはならなかった。薄暗闇の中、ナツメは彼に深く口吻けられていた。ぬるりと舌が入り込み、ナツメの舌の裏側に絡む。歯列をなぞられると背筋が粟立った。
これは夢?だとしたらなんて都合のいい。ナツメは薄く笑って、クラサメの腕に凭れ、彼のもたらす快感の中でそっと意識を手放した。

できるだけ長くこの夢を見ていたい、そんなことだけ考えていた。




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