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ああ、とうとうやってしまった。
夕暮れ時、クラサメは斜陽の差し込む自宅で項垂れていた。

ナツメは出ていったきり戻らない。探しに行こうかと何度も腰を上げたが、どんな顔をすればいいのかわからなくて結局追うのをやめてしまった。
どうしてあそこまで言ってしまったのだろう。群れに戻れは明らかに言い過ぎた。
本心ではない、もちろん本心ではないのだが、だが一方で、口にしてしまった以上、クラサメの望みの一端が反映されている言葉なのは事実だった。

ナツメはまたきれいになった。本当に少しずつではあるが、それでも一ヶ月前と比べたら大きな差があるのは間違いなかったし、更に言うなら街に住み始めた頃とは全く別人のように思う。
いや、完全に同一人物ではあるのだが。

最初は少女然としていた。クラサメが戦場の果てで飢えに飢え、倫理観や常識、理性をとっくに肥溜めに投げ込んだあとならともかく、大人として庇護する以上、絶対に手を出すことはありえなかった程度には。
それが一ヶ月で同じ寝床で眠るのはおかしくなって、二ヶ月すると足を絡められたら気が狂いそうになって、三ヶ月目には周りの男に言い寄られているのを見るたび本気で腹がたった。半年経った今では、少し年下という程度の感覚の、きれいな女になっている。肌はつるりと肌理が細かく、腰は高い位置でくびれ、未だにクラサメの寝床に平然と潜り込んでくる。
いろいろと限界だった。

そもそも人嫌いのクラサメがわざわざ守ってやるくらいだから、最初から好感があったのに間違いはないのだ。家族と別れても生き抜こうとする強さにも、人の群れを恐れる弱さにも。
それがこうして変化してしまうのは仕方のないことだった。ただクラサメはそれを避けたかったし、ナツメにも勘付かれたくなかった。
だって、交尾を恐れて逃げてきた娘だ。クラサメではだめだ。彼女が誰かを好きになるなら、人間でないといけない。

そう思いながらも、もしイヌになったら、そう希望を抱くことをやめられなかった。
彼女がイヌになったら、イヌの医者に見せて問題を解決できるかもしれなかったし、少なくとも逃げる間の連れ添いだけではなくなるかもしれなかった。
なんにしても、今よりはずっとマシなのだ。スカーフやスカートで隠す生活の不便さも改善されるし、耳など見られたらすぐさま魔女狩りの対象となるのだから。

それがだめなら、もう期待したくない。ナツメから離れたいと、そういう気持ちが芽生え始めていた。
そういう気持ちがないまぜになっているところに、未だにイヌとなることを強硬に嫌がられるので、ついかっとなって言ってしまっただけだった。

――それも考えられないなら、もう群れに戻れ。
なんて。

「……でも、言い過ぎた」

群れに戻れなんて思っていない。……思っていない。
死んでほしくない。ちゃんと幸せになってほしい。できればそのときに近くにいるのは自分でありたい。それだけだ。

やはり、もう一度謝ろう。言い方があまりにも酷かったし、あれでは八つ当たりだ。
ナツメはまだ子供で、クラサメが抱く心を捨て去らないなら、ナツメが大人になるのを待つ必要があるのだから。

彼女を追うために部屋を出ようとした、その瞬間だった。
遠くで声がした。言葉は聞き取れなかったものの、叫ぶような声には鬼気迫るものがあり、怪訝に思ってクラサメは慌てて外に出てみた。
山から街へつながるあたりで、火の手が上がっているのが見えた。

「狼が……!!狼が出たぞ!!」
「逃げろ!!燃……せ、近づけさせるな!!」

完全に聞き取れたわけではなかったが、クラサメの人より優れた聴覚は悲鳴の理由を判別した。
狼。こんなにも大きな街に。それが意味するところは一つしかない。ナツメが見つかってしまったのだ。

――よりにもよってこんなときに!!

クラサメは内心舌打ちをしながら、一旦戻って装備を取り、もう一度外に飛び出した。ナツメを探しても遅い、まず狼を食い止めるべき。
一瞬の判断で、クラサメは風を切って走り出した。そして、風に血のにおいが混ざる頃、狼たちの眼前へ飛び込んだのだった。

ナツメ!!」

果たして、ナツメはそこにいた。
狼が横から腹に噛みつき、夥しいまでの血を流しながら崩折れている。身動きが取れないらしく、髪の合間からクラサメを見るので精一杯らしい。
彼女の唇がわなわなと震えるのが見える。一見してまずい状態だった。慌ててもう一度名を呼んだが、彼女はそれに反応を返さなかった。

ナツメの傍らに立っていた白いコートの男が、彼女とクラサメの間を遮るようにしてこちらへ足を向けた。

「貴様か、うちの術者を連れ去ったのは」

男は妙に余裕を感じさせる仕草でそう問うた。話し方にどことなく覚えがある。軍部時代、前線には行かない貴族の息子がまさにこんな調子だった。

「お前は、……人間か?なぜ群れを連れている?ナツメを離せ……!」
「私は人間ではない。ただの狼でも、もはやないがな。ともあれ……あれの所有権を持つのは本来、我らの群れのほうだ」

貴様には何ら関係ない、逃げた狼だ。
カトルが笑う。後ろで狼がナツメをまるで咀嚼でもするかのように強く噛み、クラサメは目の奥が赤く染まるようないらだちに吐き気を覚えた。

ふざけたことを。

ナツメの所有者などいない!!さっさとナツメを離せ!!」

剣を構え、振り抜く瞬間だ。狼たちが、野生動物ならではの反射神経ですばやくクラサメめがけて飛びかかってきた。
クラサメは元軍人だ、戦いには慣れている。されど一対多数、かつ相手が野生動物では戦いの本質が異なってくる。真っ先に掻い潜り迫った狼の側頭部を剣の柄で突き、返す刀で斬りつける。悲鳴を上げて倒れる狼、クラサメは何度も刃を振り上げた。間合いを取ることに慣れている狼は剣先から逃れるのもうまく、なかなか致命傷を与えられない。
そのうち、クラサメの太刀筋に慣れた狼が一匹、クラサメの隙をついて腕に食らいついた。すぐさま振り払ったが、クラサメの血が舞う。痛みを感じる余裕もなく、次の狼を狙って剣を再度振りかぶった。
ようやっと、二匹目の狼を沈める。

急がなければ。ナツメを早く助けないと。
出血を早く止めなければ。きっとひどい痛みだ。

焦るほどから回ってうまくいかない。クラサメにとって狼の群れなんて、取るに足らない敵であるはずなのに。
狼を蹴り飛ばす、その先で、ナツメがゆっくりと体を起こすのが見えた。

だめだ。動くな。
そう告げたいのに言葉にならない。狼を殺す。殺せ。鏖にしろ。すべてはそこからだ。わかっている。

起き上がったナツメが、地面に腕をつき、あの白いコートの男に話しかけた。カトル、そう呼んだのが聞こえる。

「カトル。もうやめて。私戻るわ。迷惑をかけてごめんなさい」

そんな親しげに呼ぶな。その男はお前を脅かすんだろう。

「全くだ。義務からそう簡単に逃げられると思うな」

ナツメにだけどうして重たい義務が降りかかる。

「……わかってるわ。ごめんなさい。でもその人は何も関係がないの、巻き込むことないわ、だから」

謝るな。お前は何一つ悪くない。
一つも言葉になりやしない。早くナツメの元にたどり着きたい、その一心だ。

男が指を鳴らすと、狼はすぐさま翻ってクラサメから距離を取った。だがクラサメにとってはそれどころではない。

「追ってこないのなら、我々も彼を攻撃しない」
「ふざけるな、ナツメを渡せ!!」
「クラサメ、私はもう大丈夫。怖いことはなくなったから」
ナツメ!!」

怖いことはなくなった?
何を言っているんだ。
怖いことばかりじゃないか。自分がこれから家族に犯されることを、それから死ぬことを、お前はあんなに恐れていたじゃないか。
どうして強がるんだ、怖いと言えよ。

クラサメと目があったナツメは、まるで聖女のように微笑んでいた。
そこには一片の恐怖もたしかに存在せず、穏やかで、静かだった。

クラサメはその瞬間、背筋が粟立つのを感じて、完全に立ち尽くした。
どんなに手を尽くしても、救われなかった仲間たちは、さんざん死にたくないと泣き喚いたくせに、死ぬ寸前はそういう顔をした。
ナツメは死を覚悟しているのだと思ったら、堪らない気持ちになった。

それなのに、傍らの男は、そんなナツメの悲壮な表情に気づく気配すらなかった。
ナツメは彼に笑いかける。

「お願いがあるの。弟たちに、間接的ではあっても、私を殺すような真似させたくない。だから」

クラサメには見せたこともない、淫靡ささえ感じさせるような笑顔で。頬はうっとりと緩み、誘惑するようにカトルを見上げる。

「子供を生むなら、あなたのがいい」

狼たちの群れの向こうで、クラサメが懸命に愛すまいと己を律してきた娘は、クラサメの心を折る一言を吐いた。吐きそうだ。そんな言葉、お前が誰かに告げるところは、絶対に見たくなかった。
それでも、クラサメはナツメを引き留めようと叫ぶ。

ナツメ!行くな、殺されるんだろう!私が……」

私が守ってやるから。
クラサメが叫んだその言葉の裏側には、だからそんなこと言うな、そういう意味が多分に含まれていた。頼むから、そんなことを言わないでくれ。

「うるさいのよイヌのくせに」

なればこそ、その言葉は胸を突いた。
うるさいのよ、イヌのくせに。そんなことを言う権利はない。私が誰かを選ぶときに、お前の意見など関係ないのよ。
まさにそう言われているようで。

「あんたなんか、道案内に使っただけじゃない。カトルのほうが、きっと、私を守ってくれるわ」

そんなはずない。これから殺されるんだろうに。
怖いと一言言ってくれれば、それでいいのに。クラサメはそれだけで、彼女のために命だって賭けられるのに。

ナツメを抱いたカトルが森のほうへ姿を消す。追わせないために狼が邪魔をする。
狼たちがクラサメに撃退され逃げ帰る頃には陽が完全に落ち、もうカトルの姿など影も形もありはしなかった。





クラサメは、それで、一度家に帰った。
狼に噛みつかれた傷は、隣家のレネが包帯を巻くのを手伝ってくれた。
それに礼を言うと、レネは「ナツメはどうした」と聞いた。

「あいつは実は、狼のお姫様でな。さっきの狼騒ぎで、連れ去られてしまったんだ」
「意外だ。あんた冗談なんか言えたのか」
「冗談に聞こえるか」
「当然だろ」

レネはため息をついて、手当に使った布を纏めた。それからちらりと、戸口に掛けられた剣を見る。

「それで?助けに行くんだろ」
「……どうしてそう思う」
「狼だろうとなんだろうと、あんたの嫁なんだろ」

真正面から虚を突かれて、クラサメは真顔で固まった。しばらくの沈黙の後、辛うじて「そう見えたか」と聞いた。
そう思われているらしいことは知っていたが、真向から言われたのは初めてだった。

「いや。実は、あんまり」
「……そうか」
「でも、ナツメがあんたのこと好きなのはわかる。必死だったから。仕事も、料理も。ぜんぜんできなかったじゃん、最初」

他人ですら知っていることだ。クラサメはもっとよく知っていた。
でもそれは、人間に馴染むしかないという状況がさせることだと思っていた。

もしそれが、違うのなら。
クラサメとともに生きるためだったのなら。

「行ってくる。連れて帰ってくる」
「母さんに頼んで、なんか食うもん作ってもらっとくよ」
「そうか。それは、助かる」

クラサメは椅子を立ち上がり、固い革の服を着込み、あの黒い外套を羽織った。部屋にも外套にも、ナツメの気配がまだ残っているような気がした。
においとか、ナツメの持ち物だとか、そういう彼女の残したものが――クラサメを奮い立たせ、剣を握る力が増す。

もう二度と、ナツメにあんないかにも聖母じみた顔をさせたくなかった。
そのためになら、何度だってクラサメは牙を剥く。群れを捨てた矜持のない生き物だとナツメは言ったけれど、でも、これがクラサメの、イヌとしてのプライドだった。


ナツメの血のにおいが点々と続いている、山の中。
数ヶ月前に来た道を戻れども、人の足では追いつけはしない。一体どこまで行ってしまっただろうか。狼たちの巣穴がどこにあるかわからないが、もしもナツメに出会った場所より更に北で、そこまで戻ってしまっていたらクラサメに追えるかわからない。
わからなかったけれど、でも考えてもどうせ止まれないから、クラサメは考えるのを意図的にやめた。どんなに遠くても、結局クラサメは辿り着くんだろうから。

感覚が研ぎ澄まされる。ナツメの血のにおいを探している。どこだ。どこへ行った。獣道ですらない木々の合間を分け入って、クラサメは進む。そのうちに狼の足跡を見つけた。

「(あの男はどうだかわからないが、他が全て人狼ではないただの狼なら、知恵がきくとは思えない)」

罠ではないだろうと結論づけ、クラサメは足跡を追った。

足跡は西へ続いている。どうやら北へ向かったのではないらしい。このあたりに一度留まることにしたのだろうか。ナツメの怪我のことを思えば、クラサメにとっても賢明な判断だと思った。あの状態の彼女を連れ回されなくてよかったと素直に思う。
もしかしたらこのあたりにも、巣穴があるのかもしれない。狼は縄張り意識が高いから、このあたりの山すべてナツメの群れの縄張りということもあり得る。それなら、そう時間をかけずに追いつけるかもしれない。

狼の足跡はまばらに散りながらも、山を登っていったようだった。クラサメは暗い山道を睨み、持参した松明にさえ灯りもつけず進んでいく。ほとんど完全に真っ暗ではあったが、不思議なくらいに夜目がきいた。
狼の血を継いでいるとはいっても、機能はすでにだいぶ人間寄りのクラサメだったが、本気になれば狼の特質を活かすことができるのか。

血のにおいが濃くなってきた。たぶん地面に何度も垂れて、落ちて、それでもナツメは運ばれた。

夜を徹して続いた捜索は、数時間後唐突に終わった。遠くに一匹の狼が見えたからだ。
狼はじっとクラサメを見つめていたように思えたが、ふっと踵を返した。巣穴に戻るつもりだろうと察したクラサメは、剣の柄を握りしめてそれを追った。金色に近い色をした狼は時折振り返ってクラサメが追ってきているか確かめながら進んだ。誘い込まれているのだと気づいたが、それでも足は止めなかった。
狼のくせに頭が働く。“これ”はおそらく罠だ。注意して進まなければ。

そのうち、木々の合間から狼の緑の目が光るようになった。狼たちは遠巻きにこちらを見ている。群れで動く生き物はボスの声がなければ動かない。ボスが動くまで、クラサメに襲いかかるつもりはないのだ。
数分もしないうちに、クラサメは家一軒入りそうな大きな洞窟を見つけた。暗いので中の高さはわからないが、夜闇の中にあって、空間にぽっかり穴を開けたような闇が広がっていた。
ナツメの血のにおいがかつてなく濃い。きっとここだ。見つけた。

クラサメは松明を取り出し、マッチを擦って火をつける。そして洞窟に足を踏み入れようとした瞬間、「待てよ」と話しかける声があった。

「……まさか、マジで来るとは思わなかったぜ」

金髪の少年が、洞窟の岩壁に凭れて立っていた。人狼だとすぐにわかる。耳がピンと立ち、尾がだらりと垂れているからだ。それに、初めて会ったときのナツメのように毛皮を身に纏ってはいるが、文明的とはとても言えない格好だった。ナツメにしても、今は暖かいからいいけれど、寒い時期はどう過ごしていたのだろうかと、どうだっていいことを思った。ナツメはもう、山で冬を越したりしないのだから。

「来るとは思わなかった?どういう意味だ」
「ああいや、こっちの話。あんたがさ、もしナツメを追ってきたら……って考えてたんだ。まあ追いかけはするだろうけど、ここを見つけることなんて人間にはどうせできねえと思ってたし。あんた、イヌなんだろ。ナツメもそんなようなこと言ってたし、なんとなくそれっぽいにおいがするし」
「だからなんだ。邪魔立てするなら切るぞ」

少年からは敵意を感じない。それどころか、いっそ親しみさえ感じさせるような態度でクラサメに接してくる。そうなると相手が人間の姿をしていることもあり、自ら斬りかかるには若干の抵抗を覚え、クラサメはそう言って睨むに留めた。
少年は薄く笑って、「邪魔なんてしねえよ」と言った。

「あんなんでも、姉だ。このままカトルの野郎に犯られて死ぬとこは、見たくねえ」
「……お前が弟か。なるほど」

仲がいいかはわからないが、少なくとも互いを思い合う兄弟なのは確からしかった。ナツメが群れを出たのはこの少年のためで、この少年がクラサメを見逃すのがナツメのためだというのなら。
クラサメを導いた金色の狼は、おそらく彼だったのだろう。来るとは思わなかったなんて大嘘だ。来ると信じて待っていたのだ。

ナツメは奥にいる。まだ傷が塞がってねえから、変な話だが、無事だ。……あいつはきっとあんたと逃げたかったんだ」
「……そうか」
「連れて逃げたら、できるだけ早く遠くに行ってくれ。首領が戻ったらナツメを逃さない。また捕まえに行くと思う」
「もともと、お前たちに見つかる前に海を渡るつもりだった。連れて逃げるさ」

言われずとも、クラサメはそのつもりだった。歩くたびナツメの血のにおいが濃くなっていく。
もうすぐだ。すぐそこに彼女がいる。松明を振り翳し、一分も歩かないうちに、クラサメは彼女を見つけた。
彼女と、彼女が凭れる白い狼を。






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