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大きな木の匙で、ナツメは鍋底をこそげるようにかき回した。火の調節がまだ下手なナツメには、料理を焦がさないことが何より肝要だ。
トマトと豆を煮込む料理は、今のところナツメの唯一の得意料理といえる。まだ舌の敏感なナツメだから、味付けがどうしても薄くなるのだ。それも、少し薄いどころではないらしく、クラサメは何も言わないが先日隣人のレネに少し分けたときはひどく渋い顔をされた。お前いくら若い嫁でも料理ぐらいできなきゃ捨てられるぞとのことであった。
嫁ではないと重ねて言いながら、捨てられると言われれば動揺した。クラサメはいつでもナツメを見捨てられる。

最近彼はひどく疲れている。仕事で何度か、トラブルがあったと聞いた。酒場の用心棒は危険だとナツメでもわかるし、何より彼は、近頃あまりよく眠っていないようだ。

もうじき、金が貯まる。今まで考えずにいたことも、考えなければいけない時期が来ていた。





クラサメの仕事は時折不定期で休みになる。酒場の主人が卸問屋に大量に注文を出し、在庫の整理をするときは酒場そのものが閉まってしまうからだ。他にも、前日に入港した船が多かったりすると主人が疲れ果てて翌日を休みにしたがったり。今日は偶然それが重なり、二日間の休みだというのは朝方に帰ってきたクラサメから聞いた話だ。

一方のナツメの仕事は、いわゆるマニュファクチュアであり、基本的に定休の休み以外は不定期の休みはない。

ない、のだけれど。

ナツメ?仕事はどうした」

日が暮れだした頃になって目を覚ましたクラサメは、キッチンに立つナツメの後ろ姿に向けて問うた。顔半分だけ振り返り、「今日は休みなの」と彼女は答える。
疲れているのだろう、クラサメはあまりよくない顔色をしていて、ベッドからようやっと身体を起こしたところだった。ただでさえ時間帯が不規則な仕事だし、喧騒の中にずっといるのは疲れるだろう。

「工場長が倒れたの。肺炎だって」
「そうか……それで」
「ハイエンがなにかはわかんないけど、危ないらしいよ。助けてあげるべき?」
「お前の最近の残業量を見るに、その必要はないだろう」
「そう?そこの線引がわかんないのよね……」
「救える人間は救うべきだとは思うが、お前が犠牲になる必要はないということだ。何より、本来、お前の技は他の誰にも使えないのだから」

人間が死ぬのはそもそも正常なことだと、クラサメは言った。シュペングラーの息子のときとは意見が変わったらしかった。そりゃあ、お前のあんな顔を見ればな、なんてクラサメは言うが、ナツメはそのときのことをよく知らないからどう答えたものかわからなかった。眠りこけていたのだから当然だが。

食事をテーブルに並べると、クラサメは無言で手を合わせ、食べ始めた。ナツメには少し塩辛いが、おそらくはこれでもクラサメには味が薄い。テーブルの上の、塩の入った瓶を滑らせると、クラサメは無言でそれを受け取った。無理に同じ味で苦しむ必要もないだろう。

「……お前、それ。スカーフ」
「ん?」
「端がほつれてる」
「ああ……本当だ。直さないと」

匙を置いてスカーフの結び目を解くと、窮屈に押し込められていた耳がピンと立った。それをぼうっと見つめながら、クラサメが目を細める。

「……ナツメは、イヌになるつもりはないのか」
「は?」
「だから。尾と耳を切り落とせば、見た目には普通の人間になれる。つまりはイヌだ。イヌになってしまえば、狼に見つかる確率も減るだろうし、そこまですればもう追ってはこないんじゃないのか。もう群れに戻れなくなるが」
「いっ、嫌!!」

振り返って怒鳴ったナツメは、怒鳴ってしまったことに自分で驚いた。口をつぐんで、声を落としてから、もう一度クラサメに向き直る。

「嫌よ。イヌになんてなりたくないわ。イヌになんて……なれないわ」
「……どうしてそこまでイヌを憎む。もともとお前たちには関係ないところで生きているだけなのに」

憎んでなんか。……憎んでなんか。

ナツメだって考えたことはある。クラサメと出会ってすぐの頃にも、この街に来たばかりの頃にも、一緒に暮らす中でも何度も――考えた。イヌとして生きる人生はどうだろうかと。耳と尾を落とすのはきっととても痛いだろうけれど、これから生きていく長さを思えば、それくらい耐えられるだろう。
でも、そう考えたとき、なんだか途轍もない心許なさに苛まれたのも確かだ。

イヌと同じ姿になって、ナツメはどうなるのだろうと。狼でなくなって、でも人間になれる気はしないのだ。
ナツメが例えば、自分の意思を貫いて生きようと決めたとして、それでどうなるのだろう。
何より、それでナツメはクラサメとどうなる。これからも一緒にいられる?イヌになれば?本当に?

イヌを憎んでいるんじゃない。狼としてすらうまく生きられないナツメでは、イヌになったとて、やはりうまくはいかないだろうと思うだけ。
そうなった後で後悔したら、ナツメは今度こそ、クラサメと一緒にいられないと思うだけ。
ただそれだけの話。

ナツメはそれを、懸命に言葉にしようとして、それでもうまくいかなかった。歯噛みするナツメを見て、クラサメはいつもの愛想のない無表情で浅くため息を吐いた。

「お前、もう群れに戻ったらどうだ」
「え……」
「イヌとして生きることができないんなら、これからどうやって生きていくんだ。それも考えられないなら、もう群れに戻れ」

疲れ果てた顔をして、クラサメが言う。
ナツメはスカーフを握りしめたまま、冷水を叩きつけられたような心になった。

いつか、こんな日が来るだろうと思っていた。
ナツメは彼に何一つ差し出すこともできないただの小娘だ。役に立つわけでもない、好きでもない女のために働き続けるなんて、できるわけがない。ナツメにだってわかることだ。
最初から不安だった。だからイヌになるべきか悩み続けてきたのだ。

でも。
突きつけられて初めて、わかることがある。

ナツメと一緒にいる意味なんてないと、クラサメが思うだろうと思うことと。
まさにそうして突きつけられるのでは、恐ろしく意味が違うのだ。

ナツメは震える指先で、スカーフを頭にかぶせ、いつもどおりの位置で縛った。指が悴むみたいに言うことをきかず、うまく結ぶのには時間がかかった。

「……ナツメ、すまない。言い過ぎた」
「いいの」

考えるより先に、言葉が口をついて出る。クラサメの顔が見られない。

「ごめん、ちょっと……でかけてくる」
ナツメ、待て、……ナツメ!」

クラサメが名前を呼ぶが、ナツメは振り返る気にもなれず、家を飛び出した。彼は追ってはこなかった。


海に沈みゆく斜陽が光をまっすぐ伸ばしている。もうじき夜が来る、空気が少しずつ冷えていくのがわかる。
ナツメは街の入り口に続く道をゆっくりと降りながら、遠くの喧騒や、いくつかの酒場が灯し始めた軒先の篝火を見ていた。


数ヶ月の間にすっかり見慣れた風景に、ナツメは恐ろしく違和感を覚えた。己はここにいるべきではない存在だ。
じゃあどこへ行けばいい。あの薄暗い巣穴へ戻るのか?懐かしい家族のもとに戻れば、きっと安らぐことだろう。そして犯され、罪悪感に苛まれる家族を見ながら、最期の時を過ごすことになるだろう。

市場の近くへ降りた頃、かすかな潮風に混ざって、なにかの気配を感じた。

「……このにおい……?」

知っている。嗅いだことのあるにおいだった。
理性が警鐘を鳴らす。嗅いだことがあるにおいがする、それはつまり、ナツメの知った何かが迫っているということだ。

逃げないと。逃げるべき。
そう思った時だ。

「狼だ!!」

市場のずっと手前、山へつながる街の入り口の方から、金切り声がした。
狼の襲撃を告げる怒号は、ナツメの足を竦ませた。

一瞬で理解した。とうとう、ナツメは見つかったのだ。
間に合わなかった。これより早く、海を渡るべきだったのに。

後退ったが、複数人の悲鳴がすぐに劈いた。
血のにおいが激しく膨張し、ナツメに届く。

私のせいで人が死ぬ。
どうしよう――私が行かなければ、狼たちは“ついで”の狩猟をやめないだろう。けれどナツメが行けば、ナツメが死ぬ。

逃げたい。逃げなければ。
喉が干上がる。たくさんの気配がある。すべて知っている。

恐怖のために踵を返したナツメの背中に、逃げてきた男がぶつかった。ナツメは短い悲鳴とともに転げる。肘を擦りむいた。
どさりと落ちる音がして、そちらを見ると、ナツメの横をかすめて飛んできたのは人間の腕だった。
ナツメはゆっくり振り返る。血溜まりが広がっている。狼が何匹も、死体の腹にかぶりついている。

「あ……ああ……」
「……ようやく、見つけたぞ。まさか人里に降りているとはな」
「か……カトル……」

どうして。
そう問おうとした声は、か細い息にしかならなかった。

振り返った先には、白い外套を羽織った若い男が立っていた。
白に近い金髪を撫で付け、片目には眼帯。頭には狼の耳がなく、尾も見えない。

「カトルが……なんでここに……」
「裏切り者だと思っていたか?」
「思うわよ、思うに決まってる……ある日突然いなくなったじゃない、それがどうして……」
「ああそうだ。このままじゃ群れが維持できないと思ったからな。群れの人数は減るばかり、雌はお前だけ。もしお前から雌が生まれなかったら、完全に終わりだ。狼は新たな生き方を見つけるべきだと、そう思った」
「……だから首領が、あんたを追わせなかったのか……」
「必ず戻る約束つきだった。お前は兄弟と交尾させられると思ったんだろうが、首領にそんなつもりはなかった。私が戻るのを待つつもりだったんだ」

男は、カトルは、一切すべてわかっているような顔をして、ナツメの方へ足を進める。恐れ慄き、尻餅をついたまま後退るナツメを、焦りなど微塵もない様子で追いかけてくる。

カトルのことはよく知っている。彼もまた、近からずも家族の一人だ。
ナツメの父はよそから来た狼だった。一方、カトルの母は群れの生まれで、ナツメの父の同腹だ。
関係性としては、従兄弟にあたる。できることなら避けるべき組み合わせではあるものの、兄弟よりはずっとましだ。

「……でも……どうして、耳も尾も……イヌになったの?」

ナツメが恐る恐る聞いたら、カトルは珍しく声を立てて笑った。

「違う、違う……まあ詳しくは、あとで話してやろう。時間ならいくらでもある」

カトルが笑って、そう言うので。
ナツメはざわりと、背筋が粟立つのを感じて、大慌てで立ち上がろうとする。狼に変異して逃げるべきだ。

私は狼、狼、狼。狼!!

変異しようとした、その瞬間だ。突然なにかが真横から体当たりをしてきて、ナツメは衝撃のあまり地面に叩きつけられる羽目になった。投げ出されただけだと思ったが、遅れてやってきた激痛と地面に触れない上半身のためにそれは違うとすぐにわかった。

体が動かない。全身が痺れている。狼が――兄の一人が、ナツメの横腹をくわえていた。牙が深々と体内に突き刺さり、ナツメは半分、宙に浮いている。

「あぐっ……」

狼が歯を動かす。肋骨の合間を縫って、上下の犬歯がナツメの体内を蹂躙する。殺すつもりではないのだろう、甘噛みに近いことはわかっている。けれど人の身で受ければ激痛だ。

どうして。
懸命に逃げてきたのに。すべてを尽くして、逃げたのに。命以外何もかも捨てる覚悟で、家族を見捨てて。
まだ何が足りなかった?あんなに努力したのに。私は頑張った。狼として生きていたら一生見ることのなかった景色をたくさん見て、いろんなことを学んだ。料理も作れるようになった。私は、火を恐れない狼になった……。
それなのに、駄目だった。全部無駄だっただろうか。私のしてきたことはなんだったんだろう。クラサメにもあんなことを言われる始末。
頑張っていると思っていたけど、ああもしかしたら私は結局、彼に迷惑をかけてきただけだったのかな。

悲鳴を上げる余裕すらなかった。だから、彼が現れたことにも声がするまで気が付かなかった。

ナツメ……!!ナツメ!!」

鋭い金属音と、遠くで上がる火の手。街は混乱に陥っている。ナツメは顔を傾け、上下の入れ替わった世界で彼を探した。
果たしてクラサメは、剣を手にそこに立っていた。妙にほっとして、ナツメは浅く息を吐く。

「貴様か。うちの術者を連れ去ったのは」
「お前は……人間か?なぜ群れを連れている……!ナツメを離せ!!」
「私は人間ではない。ただの狼でも、もはやないがな。ともあれ……あれの所有権を持つのは本来、我らの群れのほうだ。貴様には何ら関係ない、逃げた狼だ」
「ふざけたことを……!!ナツメの所有者などいない!!」

カトルが何事かつぶやくと、狼があっという間にクラサメを取り囲む。ナツメの家族が、ナツメを脅かす。
そちらへ加勢するためか、ナツメをくわえていた狼がナツメを放り出し、ナツメは地面に転がって倒れ伏した。
顔を上げるとクラサメが狼と戦っているのが見える。狩りになれた狼相手、彼が苦戦しているのがわかる。

ふいに、剣戟をかいくぐった狼がクラサメの腕に噛みつき、ぱたぱたと血が舞った。クラサメはすぐさま振り払ったが、多勢に無勢だった。

彼の血を見たその瞬間、ナツメは己の中でなにかがカチリとはまったのを感じた。合点がいった、納得した、理解した。なんでもいいけれど。

私は何をしているんだろうと、そう思った。彼に血を流させてまで、自分の人生のことを考えている。
私はなんて、救いようのない馬鹿なんだろうと。

どうせ孕むしか能のない愚かな狼じゃないか。生き延びることにどんな意味があったっていうんだ。
私以外、誰も望んでいないのに。家族だけじゃなく、関係ないはずのクラサメまで巻き込んで、傷つけて。

「……っはー……」

そう思ったら、とたんにすべてがどうでもよくなった。あんなに必死だった生への執着も、家族への嫌悪も、クラサメへの仄かな恋慕の情でさえ、まるで霧が晴れるみたいに溶けて消えてしまった。
早鐘を打っていた心臓が静かになっている。死んでもいいと思ったら、ナツメは自由だった。
怖いことなんて一つもなかった。

「カトル」

ナツメは、地面に倒れ伏した上体を起こして、腹の傷を押さえながら傍らに立つ白金の髪の男を呼んだ。

「カトル。もうやめて。私戻るわ。迷惑をかけてごめんなさい」
「全くだ。義務からそう簡単に逃げられると思うな」
「……わかってるわ。ごめんなさい。でもその人は何も関係がないの、巻き込むことないわ、だから」

カトルは一瞬悩むような仕草を見せたが、結局ナツメの言い分を受け入れることにしたらしく、指を鳴らした。すると狼たちは一斉に後退り、クラサメからは距離を取る。

「追ってこないのなら、我々も彼を攻撃しない」
「ふざけるな、ナツメを渡せ!!」
「わかったわ。クラサメ、私はもう大丈夫だから、追ってこないでよね。まさかとは思うけど」
ナツメ!!」

クラサメがナツメの名を叫ぶので、泣きそうになりながらも、差し伸べられたカトルの腕にナツメはしがみついた。
彼は、狼のくせにいい服を着ている。

「……カトル、群れに戻ったのね。外で新しく群れを作るつもりなんだと思っていたわ」
「人間にまぎれて調べ物をしていただけだ」
「そう。……お願いがあるの。弟たちに、間接的ではあっても私を殺すような真似させたくない」

だから。
子供を生むなら、あなたのがいい。

ナツメがそう言ったら、カトルは鼻を鳴らして笑った。何かに納得がいっていないような、そんな顔だった。

カトルがナツメを抱え上げたのと同時、クラサメは苛立ちを隠せない様子で怒鳴った。

ナツメ!!行くな、殺されるんだろう!?私が守ってやるから!!」
「ああもう、うるさいのよイヌのくせに」

喉の奥が痛い。ナツメは懸命に冷たい声をひねり出した。

「あんたなんか、道案内に使っただけじゃない。カトルのほうが、ずっと、私を守ってくれるわ」

ごめん。ごめんね。本当にごめん。
迷惑かけ通しだったくせに、最期の言葉がこんななんて。

でも、だってあなた、優しいから。私が中途半端におびえてたりしたら、無理をしてでも助けようとするもの。
わかってるのよ。だから。

「もう、イヌくさいのにも飽きたわ」

そう笑いながらナツメはクラサメの顔を見た。目を見開き、ナツメを見ていた。感情は読み取れず、ただ、彼はそこに立ち尽くしていた。

ナツメは抱きかかえるカトルの腕に体を預ける。カトルが走り出し、狼たちとともに森へ、山へ向かっていく。すぐにクラサメも見えなくなる。
まだ血の噴き出す腹の傷を強く押さえながら、ナツメは意識が朦朧とし始めたのを感じていた。
このまま目が醒めないことを心のどこかで祈るような思いで、ナツメは何度か瞬きし、そして目を開かなくなった。



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