夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。





ナツメは坂を登っている。
すぐに息の上がるようになった身体が恨めしい。きっと少しずつ弱くなっているのだ。そう思いながら、しかし解決策が思いつくものでもない。
不意に、目の前をオレンジが転げ落ちてくるのを見る。とっさに拾った先、見知った近所の老婦人が「ああ、ナツメちゃん、ありがとうねえ」と声を上げた。
夕暮れに滲む彼女と傍らの商人に、ナツメは短く手を振り、ついでにオレンジを届けに行った。



「ただいま」

声を掛けると、短い返事が返ってくる。外套を脱ぎ、壁に掛け、彼がいるであろうリビングに向かう。部屋は決して広くはないし、二人で住むには窮屈だろうなと彼は最初から言っていたけれど、今はそうでもない。最近は、生活が合わないから。

「クラサメ」
「ああ。おかえり」
「今日も夜勤なんだね」
「酒場だからな」
「うん……気をつけてね」

ナツメは買ってきたパンを紙袋から出した。昨日クラサメが作った豆のスープがまだ残っているはずだ。
竈に火を入れるのも、最近ようやくできるようになったことの一つだ。狼だったナツメには、火はただの驚異だった。火を見て思い浮かぶのは山火事だけだったのだから、火を起こせるなんて大きな進歩だ。

クラサメにとっては朝食で、ナツメにとっては夕飯。
ナツメが頭を覆っていたスカーフを外すと、狼の耳がぴんと立った。

「見られていないだろうな」
「クラサメの言う通り、とても醜い傷が頭にあるからって言えば誰も見ようとはしないよ」
「そうか。仕事はどうだ」
「どうだろう……慣れたといいけど」

もう火を恐れないし、靴ずれもしなくなった。
いろいろなものに、ナツメは慣れた。

あの、シュペングラーの息子を救ってから早くも二ヶ月が経った。
シュペングラー夫妻はクラサメとナツメに深く感謝し、貸家を無料同然の賃料で貸してくれた。それも最初は、クラサメとナツメ二人ではとても使えない大きな家を貸そうとしてくれた。それをクラサメが固辞し、結局この家に落ち着いた。クラサメ曰く、貰いすぎると面倒も背負い込むことになる、というわけらしい。
おまけに、学などあるわけもないナツメには針子の仕事を見つけてくれたし、クラサメには銀行の警備の仕事を紹介してくれた。とはいえ、クラサメはしばらくもしないうちに夜勤の仕事に転職してしまったのだが。

「……どうして夜勤の仕事にしたのよ?」
「家も広くはないからな。生活の時間をずらしたほうがいいだろう」
「ふぅん……」

ベッドはもともと二つ木枠があったが、一つは底が腐っていて結局一つしか使えない。最初は二人で寝ていたが、クラサメは嫌がっていた。
それじゃあベッドを新しく買えば元の仕事に戻ってくれるのかな、ナツメはぼんやり考える。今のクラサメの仕事は、嫌いだ。朝方帰ってきたクラサメは、一滴も飲んでいないんだろうに酒臭く、うっすらタバコの臭いもする。
でもベッドなんて買う金はない。酒場の用心棒は嫌な仕事だが、店主の金払いはいいらしい。あと三ヶ月も耐えれば、二人分の船代になると言っていた。クラサメはナツメのために、仕事を続けてしまうだろう。

「……それで。奴らの気配は?」
「大丈夫よ。頭もついてるんだから、人里近くに降りてなんて来ないわ」
「そうか。ならいい」

それならいいんだ。クラサメはもう一度、そう繰り返した。


クラサメはそれからすぐ、仕事の用意をしてマスクをつけ、家を出ていった。ナツメは食事を終えた食器を重ねて桶に入れ、裏戸から外に出た。
すぐに近くにある、このあたりの家のみんなで使うポンプで水を汲み、桶に流し入れる。裏戸に戻って、石鹸を使って皿を擦り、綺麗にする。何度か水を汲んですすぎ、流し、家に戻る。
裏戸から家に入ろうとしたところで、隣家の少年、レネが声を掛けてきた。少し斜視の入った、黒髪の少年は、隣家の裏戸横に座り込み、港で売っている工芸品のアクセサリーを磨いていた。

「もう、あのマスクの兄ちゃん、仕事行ったのか」
「うん。夜だからね」
「ちゃんと戸締まりしろよ。港の方より、治安は良いけどよ」
「大丈夫よ。うちには盗られるようなものないって、みんな知ってるでしょ」
「盗られるモンはなくても、お前がいるじゃないか」
「私?」

レネはナツメを指差し、浅くうなずいた。彼は手元を見もせず、せっせとアクセサリーを磨く。彼の母親である彫金師が作っているそれは、夕暮れの光を受けてきらきら輝いていた。

「いちおう、みょうれいのじょせい、ってヤツだろ。お前も」
「みょうれい……」
「言葉の意味はわかんねえけど。船を出入りしてるような奴らに目をつけられたら、押し入られて襲われるって、母さんが言ってた」
「お母さん怖いこと言うね」
「シビアなんだ。経営者だからな」

レネを女手一つで育てている黒髪の母親は、勝ち気な美人で、ナツメによく目を配ってくれる。たまに作りすぎたと言って、郷土料理を分けてくれる。切り詰めて金を貯めているクラサメとナツメにとって、ニシンや肉は贅沢品なので、ありがたく受け取っている。その彼女の助言なら聞くべきだろう。クラサメもナツメもまだこの街では新入りで、治安の良い悪いもわかっているとは言い難いのだし。

「ありがとう。気をつけるよ」
「そうしろ。あの無表情の兄ちゃんだって、嫁が襲われたりしたら怒るだろ」
「……ん?」
「お?」
「嫁じゃないってば」
「遠い親戚ったって、普通二人で住まねえだろ。大して広い家でもねえのに。どうせどっかから駆け落ちでもしてきたんだろ?追手でも撒こうとしてんのか」
「いや違うって。クラサメが嫌がるからそういうこと言わないで、本当嫌な顔すんだから」
「だからそこがヘンなんだって。親戚なだけなら、嫌も何も思わねえだろ。まあ、オレにゃ関係ないけど」

学はないがナツメより賢いレネはそう言って作業に戻ってしまったので、ナツメは結局うまく否定も言えないまま、家に戻ることになった。
その後、また水を汲んで、竈の残り火で温め身体を洗えば少しすっきりしたものの、クラサメのにおいが残るベッドに潜り込む頃にはまたレネの言葉が思い出されていた。

クラサメは嫌がる。ナツメのことなんて。
狼の群れから逃げ出しておきながら、狼の挟持を振りかざす愚かな子供なんて。

ふいに遠吠えが聞こえる。山の向こう、ずっとずっと先、誰かがナツメを探しているのだ。
びくりと肩を跳ねさせたナツメは、とたん早鐘を打つ心臓を押さえるように胸を抱えてベッドの中で蹲った。

大丈夫。まだ遠い。ナツメを見つけることなんかできないはずだ。

そう己に言い聞かせながらも、こんな恐怖に怯える夜は、一人でいることが恐ろしい。だから本当は、一緒にいてほしかったけれど。
ナツメは彼と一緒にいたくても、彼は夜勤を選んでまでナツメと過ごす時間を減らしたくらいだ。
嫌われてはいないとわかっていても、少なくとも、好かれてはいない。

「……」

まあ、私みたいな女、普通は好きにならないのだし。
面倒な家族に追い回されていて、プライドばっかり高い狼。群れを裏切っているのに、イヌとは違うと思っている。事実はおそらくもう抗いようもない、ナツメは客観的に見ればもう狼ではない。
こんな女、彼は好きにならない。頭ではしっかり、理解している。

けれども果たして。
そのことに傷付かずにはいられないくらいには、ナツメはたぶん、彼のことが好きなのだった。











夜になればどこの街もたいがい静まり返って、警邏の兵の足音ぐらいしかしないのが常なものだが、港町というだけあって、この街は全く静かにならない。
酒場の入り口、狭い席に長柄物を持って座り込み、黙り込んだクラサメはその声を聞くぐらいしかやることがない。

船乗りたちは一体どんな肝臓を持っているやら、一晩中平気で酒を飲み続けるし、そうなればたいてい、二日に一度は揉め事が起きる。そうなったらすぐに動かなければならないから、退屈でも他に何をするわけにもいかない。
こんなマスクをした仏頂面の男を雇ってくれた恩もあるし、給料のいい仕事だ。不義理はできなかった。

こういうとき、クラサメにできるのは考え事くらいなものだった。

思い出すのはナツメのことばかり。彼女と暮らすようになってまだ二ヶ月、無愛想なクラサメに負けず劣らず愛想はないが、たった二ヶ月なのに、見た目には変化が訪れていた。
どこがとは言わないが、背も少し伸びたらしいし、出会った頃辛うじて残っていた少女らしさが消えて、女らしくなってきている。クラサメは人狼の成長に詳しくないけれども、イヌであれ狼の血が濃い子供は成長が早く、一方で成長した後は老いが遅いと聞いたことがある。血が濃い程度のイヌでさえそうなら、ナツメはもっと“そう”なはずだ。
おかげで、最初は遠い親戚だとか、焼け出されたのを助けたとか言っておいたのが、今は通用する気がしない。実際、隣近所にはただの若い夫婦と思われているようだ。

勘違いされるのはどうしようもないとしても、実際そうなるわけにはいかない。クラサメにそんなつもりはないし、ナツメは誰とも契りたくないと言って群れを逃げてきた女だ。クラサメはそんな女に手を出したりしたくないし、彼女を守りたくてここにいる。
そのためにわざわざ夜勤の仕事について彼女から離れるなんて、我ながら不器用にもほどがあると思った。

「……」

本当は一緒にいるべきだ。この、夜闇の中でこそ。
ナツメはああ言っていたが、もし狼がナツメをこれから襲うなら、むしろもう夜しかないのだ。一緒にいるべきだ。

それでも、しかし、ナツメが幼い子どもならともかく最近どうもそうは見えないのだ。少し前まで、十五歳程度にしか見えなかったものが、今や十八歳でも通る。周囲と関わりもさほどないから気づかれないだけで、ナツメは今に“女”になるだろう。
時折クラサメの鼻先を掠める“女の肌のにおい”。ほとんど同じ生き物なのにどうして、あの得も言われぬ感覚をもたらすのか。

クラサメは、彼の知るどんな男よりはるかに強固な理性を持っていた。だがそれでも、女と平然と同衾できるほど図太くない。まして、娘側が平然と潜り込んでくるのだから。彼女に遠慮は見えないし、クラサメは寝不足に苦しむのは嫌だった。

「……」

寝不足になどなる必要はない。わかっている。
眠るべきだ。眠ればいいのだ。女のことなど考えず、ただ眠るべきだ。

わかっている。

だが、どんなにわかっていても、クラサメにはできなかった。
少なくともそれぐらいには、クラサメにとってあの狼は女にしか見えないのだった。




Back
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -