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その悲鳴を聞いて、クラサメはすぐに後悔した。
ナツメの薄い身体が少年の上で痙攣する。雷にでも撃たれたみたいだった。
クラサメはその光景を見た瞬間思い出した。ナツメがクラサメを救ったとき、そういえば、ナツメも相当苦しそうに悲鳴を押し殺していなかっただろうか?もしかしてこの術には、副作用があるんじゃないのか?

けれどもう止めることもできず、クラサメは暴れるナツメの身体を抱え込んだ。彼女の身体をシュペングラーから引き剥がそうとしたが、彼女は身体を跳ねさせながら、手でぎゅっとシュペングラーの腕を掴み離れようとしない。彼女の悲鳴が劈いて、耳の奥にずきずき響いた。クラサメの頭の奥まで痛みが刺さるようだった。

「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーッ!」
ナツメ、落ち着け!!ナツメ!!」
「あ゛、あ゛ぅッ、あ゛あ゛ッ……!」

彼女は多分何かを喋ろうとしている。けれどどれも言葉にならず、断続的な喘ぎとなってクラサメの耳朶を叩く。押さえつけても押さえつけても、彼女はクラサメの腕の中でどんどん熱を帯びるようだった。
そして、やがて、――数分は経っただろうか、ナツメがふっと静かになった。ひゅっと喉が鳴り、呼吸がかき消えた。
それがまるで死んでしまったような気配の消え方なので、クラサメは大慌てで腕の中の少女をひっくり返す。ナツメは全身汗に塗れ、さっきまでの熱はどこへやら、身体が完全に冷え切っていた。浅く小さな呼吸が不規則に聞こえる。生きてはいる、生きてはいるが、けれど虫の息だ。顔は青ざめ、半開きの口を閉じる力もないらしい。

ナツメ……!」
「……」

彼女は目を開かなかった。クラサメはしばし彼女の傍にいたが、彼女が意識を失っていることを確認すると、すぐさま立ち上がって動き出した。軍にいた頃の経験が優先順位をはっきりさせる。

まず海賊どもを縛り上げる必要がある。クラサメはともかく、ナツメと、シュペングラーの息子もまだ意識がない。海賊が意識を取り戻せばまっさきに殺されるのはこの二人だ。
最下層で殴り倒した海賊を掴み、引きずり、上階へ向かった。他の海賊も含め、後ろ手に縛り上げると、全員を甲板に運ぶ。それから、船の横に浮かぶ渡し用の小舟に一人ずつ落としていく。六人が乗って沈まないようには見えないが、クラサメの知ったことではない。船を降りると、小舟を沖に向けて蹴り出す。適当なところで沈めばよし、沈まなくても再起不能ならばよし。

それから、酒臭くかびた毛布を舌打ち混じりに引きずり出した。度数の高い酒を探し、シュペングラーの息子の首にかけて消毒した。ナツメのおかげで今すぐ死ぬような状態ではないとはいえ、放っておけば敗血症や感染症になることもある。
それから、ナツメの身体を毛布で包み、抱え上げた。ぐったりと投げ出された手足はまるで死体のようにぐにゃりとしていて、まだ彼女が生きているか確証がなくなる。呼吸を聞いて確かめては、すぐに不安になった。

「……」

ぐったりとした彼女の身体は冷たい。クラサメはしばらく以上の時間悩んだ。本当なら、揺れる上に寒い船の中は看病するのにはよくない。彼女を宿に連れて帰りたい。
しかし、意識のない人間が二人いて、片方は味方で片方は救出対象。同時に二人運ぶのは無理があるし、他に船員が絶対にいないとも言い切れない以上、片方を残していくのも嫌だった。

「……ナツメ

せめて彼女が目を覚ましてくれれば。
クラサメにはわかっている。残していくのならナツメだ。クラサメは元軍人だ、救出対象を残して現場を離れることなどできない。
でもクラサメはそんなこと絶対にしたくなかった。浅くため息を吐く。

陳腐な表現かもしれないが、クラサメは彼女を守るために生きている。
監獄の奥、地下の冷たい空気と、駆け込んできた暗い目の少女。鍵を探す手がほんの僅か震えているように思えた。

意思など一つも関係なく、組み伏せられ、犯される。助けてくれるはずの家族が目の前にいるのに、見捨てられる。それが怖くて仕方がないから逃げてきた娘。
クラサメのような生き方を嫌いながら、同じように生きるために必死の娘。何も恐れないようで、何より家族を恐れている娘……。

最初は同情心だ。
でももしかしたら、全部最初は憐れみなのかもしれない。
それがいつしか、己の信条すら曲げてしまうのかも。

クラサメはナツメを死なせたくないと思った。
誰よりも。

短い舌打ちと一緒に、後頭部を背後の壁に押し付けた。そして、軍人を辞めてよかったと初めて思った。
どうせ死んでいた命だから、歪めてもいいとは思わない。それでも前より、今は自由だ。
クラサメは今、ナツメを選ぶこともできるのだから。










ナツメは気がついたら、霧の深い森の中を一人で歩いていた。
自分が今狼なのか、人狼なのか、はっきりしない。ただ道が果てなくどこまでも続いている、森の奥。
歩き続ける。歩き続ける。歩き続ける。何を目指しているのかもわからない、後ろにも前にも何があるのかわからない。それでも足を進め続けるほうが易く、立ち止まってみようとするのはどうしようもなく怖いのだった。

どこまで行けばいいのだろう。それ以上に、一体いつまでこうして歩けるだろう?
歩き続ける。歩き続けている。止まるべきだと時々思う。それでも恐怖が歩くべきだと何度も囁き、懸命に足を前に進める。

そのうち、足が痛み始め、腕が重たくなる。首が頭を支えていられない。苦しい。呼吸ができない。
皮膚が腐る。病がナツメを足から侵す。吐きそうだ。
死体のようなこの身体をどうする。

とうとう歩く力を失い、ぐにゃりと地面に崩れ落ちる。雨の降った後の水たまりに顔が映る。
ナツメは悲鳴を上げた気がしたが、上げなかったようにも思う。

土気色の顔をした自分には、獣の耳がなかった。
ナツメの耳に、自分の悲鳴は聞こえなかった。








汗が額を滑り落ちる感覚に、己が生きていることを悟った。気がついたときにはもう呆然と天井を見つめていて、いつから目覚めていたのかは判然としない。
生きてる。そう呟いて、指先で硬いシーツの上をなぞり、身体を起こしてみる。
立てた肘ががくがく震えているが、呼吸はできている。

「……生きてる」

あの少年の上に寝っ転がった瞬間に襲った痛みが、まだ身体の奥にくすぶっているような気がする。少しでも気を抜けば動けなくなる、予感よりもずっと近い確信。
目をぐるりと回して、少年を探しに行く前に取った宿であることを理解する。まだ不規則な息を浅く吐いて、喉の乾きに喘いだときだ。

ドアがゆっくり静かに開いて、クラサメが入ってきた。まだ出会ってほんの三日かそこらなのに、ナツメは彼の顔を見た瞬間安堵で泣きそうになった。
クラサメはナツメを見て目を細める。

「良かった。目が覚めて」
「……助かった?」
「は?」
「シュペングラー。助かったんだよね」
「ああ。もう家に送り届けてある」
「首の傷、塞いでるだけだから、しばらくは安静にするように言ってね。急に走ったりとか……無理すると、首が裂ける」
「……伝えておこう」

立たせた肘が倒れそうになるのに気付いて、クラサメがナツメの背に手を差し入れ支えてくれた。なんとか体を起こし、壁際に寄って身を預ける。クラサメが水差しから注いだ水を差し出してくれたので、ゆっくり飲む。干上がった喉はその程度の刺激にすら怯え、噎せてしまう。
ゴホゴホと嫌な咳をいくつかして、顔をあげると、クラサメがじっとナツメを見ていた。

「すまなかった」
「……何が?」
「お前があの奇妙な術を使う時、何の代償もないわけがない。考えればわかることだった」
「ん……別に、いい。納得してなければあんなことしないんだし」
「それでも。私が強要したようなものだ」
「そんなに気にすることないよ。生きてるんだから」

ナツメはなんでもないことのようにそう言ったが、――実際は全く根に持っていないとは言えなかったが――、気にするなと言った。十二分に強がりの大言壮語だった。クラサメはそれでも目を逸らさず、改めて「お前の術についてもっと詳しく教えてくれ」と言った。

「あれは一体どういうものなんだ。私や彼を救ったのは」
「……シャーマンにしか使えない呪術だね。相手の傷の上に、自分の同じ器官を押し当てる。クラサメのときは腹を、彼の時は首をね。生き物である以上、どんなに大きくて深くても切り傷は必ずいつか治るでしょう?それまでに血が流れすぎたりしなければ。私は治癒を早めているだけ」
「その代わりに、あの激痛か」
「そう。数日、数ヶ月かかる苦しみが圧縮されて数秒になる。だから、傷の深さによっては激痛で死んでしまう。私はその、死に至るほどの痛みの“過剰分”を引き受けるの」
「それは……つまり、致命傷であればあるほど、お前の負う痛みも増えるのか」
「うん、そういうこと。それで術者が死んじゃうこともあるけど……稀だよ。術者だって、治療していい傷の程度は弁えてるしね。どちらにしても極論を言えば痛いだけだから、その後に響いたりはしないかな」
「……だがお前は憔悴しきってるように見えるが」
「ちょっと疲れただけ。しばらく休めば復活する」
「私のせいだ」
「はいはいそうかもね。……その分、もっと私を助けてくれれば、それでいいよ」

謝られるのには慣れていなかった。ナツメは群れのシャーマンだったが、まだ年若く、尊崇される地位にもなかった。
だからこそクラサメの命令にすぐ従ったのかもしれない。命令されるのはいつものことだったから。

でも、クラサメはナツメに頭を下げた。

「悪かった。もう、あんなことはさせない」

ナツメは、小さなつむじを見つめて戸惑った。謝られるのも初めてなら、頭を下げられるのも初めてだった。
ぽかんと口を開けたまま硬直していると、クラサメのほうがその沈黙に耐えられなくなったらしく、はっと浅い息を吐いて「何か言え」と困ったように言った。

「……私、もう少し眠りたい」
「ああ。それじゃあ、シュペングラー家に行ってくる。あとでまた来てくれと言われていたんでな」
「わかった」

ベッドにもう一度横になると、すぐに眠気が頭をぼんやりさせてくる。ベッドの柔らかさにはまだ慣れていないけれど、昨日よりは違和感がない。

私はきっともう狼じゃない。けれど、イヌでもまた、ない。

クラサメの後ろ姿を見ながら、改めてそう思った。




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