夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。





「鼻が馬鹿になりそう」

誰に向けた苦情でもなくあくまで独り言としてつぶやいた言葉だったが、荷物を整理しているクラサメには丸聞こえだったらしく、「そいつは悪かったな」と嫌味の応酬がなされた。
なんとなくだが、昨夜の一件――クラサメの寝床に潜り込んだことと、それに至った経緯――以降、つっけんどんになったというか、無愛想さに拍車がかかったというか。
ある種究極の村社会とも言える群れ育ちのナツメにとっては、そういう相方は新鮮なので、まあそれはそれで構わないのだが、逃亡生活に支障が出るのは困る。さりとて、ナツメに解決する能力があるわけでもない。
というか、その手の能力があったら多分クラサメは機嫌を損ねるに至っていないのだ。

「……信じられない。弟が恋しい」
「弟?」
「逃してくれた弟。会話能力が無駄に高かったもんだから。……まあいいよ、そんなことは。どう?そろそろ行けそう?」
「問題ないだろう。鼻は?」
「……別に大丈夫よ」

潮の臭いが、わずかに開いたばかりの窓の隙間から届いている。海に近づくにつれ、そして人間の雑踏が減るにつれ、ナツメの鼻を刺すような臭いは強くなっている。
鼻がおかしくなりそうだが、“なりそう”なだけなのをナツメは知っている。森の植物の中には、もっと強烈な臭いを放つ食べられない草もたくさんあるし、それらに左右されない程度には鼻も強い。

「狼になったらちょっとは辛いかもしれないけど、すぐ慣れるでしょ。なんとかなると思うよ」
「私は、狼の形になったことがないからわからないんだが、……嗅覚はかなり変わるのか?」
「んー、そうだね。例えば、襲った鹿の群れから運悪く二匹とかしか殺せなかったとするじゃない?」
「運が悪いのは鹿のほうだろうがな」
「残りの数匹を探すってとき、鹿も命がけだから平気で山の一つや二つ越えちゃったりするわけ。人間じゃ追いつけもしないし臭いもわからないけど、狼の姿になれば、それでも全然余裕で追える」
「逃げる鹿の臭いがわかるのか?」
「生命の危機にさらされると、鹿もうさぎもヤギも臭いが変わるんだよね。だから全然感じ取れる。……クラサメは鼻、強くないわけ?」
「他の人間に比べれば相当良いほうだ。耳もな。だが狼と同程度とはいかないな……せいぜい方向を掴むのが精一杯だ。山一つどころか、姿が見えていても離れたら追えない」
「それは不便だね。人間ってどうやって食事するの?育てて食うって聞いたことがあるけど」
「基本はそうだな。まあ、狩りをする人間もいないこともないが、それで自分を賄う人間となるとかなり少ないだろう。育てたほうが安定して得られるだろう?」
「私にはまだ未知の世界だわ」

苦笑いしてブーツを脱いだナツメの白い足に、クラサメは目を細めた。

「そういえば気になってたんだが」
「なに?」
「お前のその狼の耳は機能してるのか」
「そんなの、聞かなくてもわかるでしょ。生まれつき頭に耳は生えてたんでしょうが?」
「切り落とされたのはまだ物心つく前だぞ。覚えているわけがない」
「ふうん……ま、ご想像におまかせします」
「何だそれは。余計気になるだろうが」
「気になるなら親にでも聞いたらどう?」
「私にも、親はもういない。同胞ならばいるが、それも今は遠くにいるしな」
「同胞って、イヌってこと?」
「ああ。私と同じく、祖先に狼を持つ者がいる。いつか会わせてやろうか」

クラサメが少し愉快そうに聞いた。同胞とやらを思い出しているんだろうと思った。
そんなクラサメを見て、ナツメときたら家族を思い出してしまったので、ついとっさに首を横に振った。家族にはもう会いたくない。

「とりあえず今は、家族から離れたい」
「……ああ。そうだな。そのためにも、早く仕事を探そう」
「……、」

ナツメはもう一度、クラサメはそれでどうするつもりなのだと聞きたいと思った。ナツメの逃亡に手を貸してくれるのは助かるけれど、クラサメは一体いつまでついてきてくれるのか。前の村で聞いたときはちゃんとした答えをくれなかった。私達はこの街でお別れ?それとも、海の向こうへ行くときにも隣にいてくれる?
そう思って、気付いた。彼がついてきてくれることを望んでいることに。

「うん」

そんなこと言ってみても、またあの険しい顔をされるだけなんだろう。
ナツメはただ頷き、裸足で立ち上がった。



人狼の狼への変異は、ナツメのような森の狼にとっては呼吸をするように簡単に行える。町外れ、狼の毛皮でできた服だけを着てナツメは闇に身体を融かした。

「その変異は、どうやってやるんだ」
「ただ、自分が狼だと信じるだけよ。方法は私にもわからないけど、魔術的素養がなければ変異もできないから、これも魔法なのかもしれないわ」
「変異ができれば魔法も使えるという意味か?」
「それは難しいかな……簡単な魔法なら使えるかもしれないけど。私も、技術は学んでいるけど、正直才能がある方じゃないし。そんなんでも群れのシャーマンは私だけだし……」

ぐるる、低い息が喉から漏れ出る。夜の冷たい空気に、生暖かい吐息が白くぼやけた。
ナツメは前足を折って屈み、地面に鼻を近づけた。すんすん言わせた鼻が、臭いを嗅ぎ分ける。
汗。塩。油。肉や野菜、そういうものの入り混じった臭いの奥に、個人を限定できる固有の臭いがある。ナツメは数秒で、シュペングラー家で覚えた臭いにたどり着いた。
見つけてしまえば後はそれを手繰って探すだけ。鹿を狩る時と同じ。
ナツメはとてとてと小さな音とともに歩き始める。本当なら走りたいが、クラサメがいることを思うとゆっくり進んだほうがいいだろう。狼のナツメがシュペングラーの息子を見つけたところで、無事に連れてくることはきっと不可能だ。

臭いはどんどん、潮に混じる。海に近づく。

「これは……難しいかもしれない……」
「どうした?」
「海のほうなの。もし海の上だったりしたら、流石に狼でも……」

目を細め、糸のようにか細い臭いを追った。臭いは根源に近づくほどきっと強くなっているのだろうが、海の臭いが強くそれをかき消していく。
これは難しい。海の臭いにもだんだんと慣れてくるが、海辺に差し掛かるとそれにも自信がなくなった。

「このあたりなのは、間違いないんだけど」
「……もしかしたら、殺されて、死体が海に投げ込まれた後という可能性もあるな」
「もし海の下の方に沈んでたら、私にはどうしようもないよ」
「私にもどうにもできんさ」

クラサメがため息混じりにこぼしたときだ。ナツメの夜目が、海岸まで続く森の向こうに建物らしき影を捉えた。
狼でなければわからないほど遠くに霞んでいて、昼間であっても人間の目ではとても見えなかっただろう。

「……クラサメ、向こうになにか見える」
「向こう?森のあたりか」
「その更に向こうだよ。昼間は人間の目だから見えなかったけど、今なら見える。建物みたいなものが見える、木造の」
「……船か?」
「ふね?海の上を渡るやつ?」
「ああ。……大きな船は桟橋がないと陸地に降りれないんだ。森の向こうにも入江があるなら、同じように桟橋を作って係留しているかもしれない」

ナツメは狭い視界を研ぎ澄まして、森の向こうを見る。懸命に手繰れば、臭いはそちらへ続いているとわかった。

「あっちだよ。間違いない」
「わかった。行こう」
「朝を待たなくていいの?」
「朝になったらきっとすぐ騒ぎになるからな。私もただの人間よりは、夜目がきく。それに誘拐されてから経っている時間のことを考えれば、彼はもうとっくに限界だろう」

クラサメの横顔は、真剣に森の向こうを見ている。
彼は本気で、会ったこともないシュペングラーの息子を助けることを望んでいるのだと思う。狼とは違う。ナツメは狼だから、彼の考えがわからない。
人間のことも、イヌのことも、ナツメは知らないことに囲まれている。これからこうして生きていくなら、もう知らないじゃ済まされないのだと思ったら、少し怖い気がした。

「きっと海賊も、目はいいだろうが……どうだ。やれるか」
「数によるわ。クラサメは?あなたは、強いの?」
「逃げ出したら総出で修道士が追いかけてくるぐらいには」
「あなたが怖いんだ?」
「多分な」

けれど武器がない。クラサメは森の中で、手頃な枝を一本拾った。そんなので大丈夫なの、と聞いたら彼は剣に見立てて横薙ぎに風を切った。
ブゥゥン、と鋭い音が鳴り、ナツメは目を丸くする。

「何その音……」
「剣を振ったら音がするものだ」
「それ棒だけど」
「棒も太い剣みたいなものだ」
「まあ……私、棒も剣も振ったことないからわからないけどさ……」

ナツメがそう呆れて呟いた時だ。

「……人の声がするな」

クラサメが声を落として言い、ナツメもはっと視線を前に向けた。いつの間にか木々の切れ目が見えていて、その先にある建物も見える。

「やはり船だ」
「船。……建物じゃないんだよね?あれ、海に浮かぶの?」
「いずれ乗るぞ」
「怖すぎるんだけど……」

近くで見ても建物にしか見えない。海の中にある建物って変だけど。でもあれは、海に浮かんで他の陸地まで進んでいくらしい。怖い。

「それより、臭いはどうだ?」
「うん……強くなってるよ。たぶんいる。生きてると思う、死体の臭いじゃないから」
「他にはどんな臭いがする?」
「海と、いろんな人間の汗、肉……豚と鳥。……鶏……雌鳥」
「肉の種類はいい」

つい肉の臭いを追ってしまうナツメにクラサメが呆れた。少し恥ずかしくなって、慌てて違う臭いを探る。

「お酒と、果物と、焦げた麦……それから、ちょっとだけ血」
「血?」
「多くはないし、もうあんまり強い臭いじゃないけど……たぶんシュペングラーの血……」
「なんだと?……やはり急いでよかったか」
「うん……そうだね。あと、声がする」
「どんな声だ」
「男……五人……いや六人。すごくうるさい」
「酒宴だろうな。それなら見張りもいないだろう」

クラサメが言うには、この街を根城にし始めておよそ一週間経って、その間誰にも発見されていないならそろそろ気が大きくなる頃だろうとのこと。酒宴をするのに見張りを立てる脳があるとは思えないと。一気に襲えば難しくない。

桟橋の上を渡るのはナツメにとってすでに怖かったし、船に乗り込むときは柄にもなく手足が震えた。クラサメが手を貸してくれて、ようやく船の中に入る。

「ゆ……揺れてる……」
「ああ」
「足元が……揺れてる……」

怖かったが、クラサメは意にも介さないのでナツメは仕方なくそれについていった。
船はそんなに大きくなくて、入ってすぐ酒宴に騒ぐ男たちの声がした。ドアの前でクラサメが息を殺し、棒を強く握り直した。入るぞ、彼が低く言い、直後にクラサメはドアを蹴破った。

そして、クラサメが猛威を奮った。
ナツメにはさほど何をする暇もなかった。彼が大きく一歩を踏み出し、一閃すると、驚いて振り返った男の頭に見事に大当たりした。慌てて立ち上がる彼らは酒が回っているのかすぐに抗えない。彼らが武器を拾うより、クラサメが振りかぶるほうが早い。二人目を殴り飛ばし、三人目も強打。ナツメは鼻と耳、目を使って部屋を見回すが誰も見えない。
捕まっているのはここじゃない。じゃあどこに?

ナツメ!ぼーっとするな!!」
「!」

四人目を倒したところで、クラサメは五人目の抵抗にあっていた。大量の酒瓶を挟んで反対側、六人目の男が足をもつれさせながら立ち上がる。

「あっ、待って!」

声にならない悲鳴を上げながら走り始めるその男の後をナツメは追った。廊下は狭く、どこに向かうのかもわからずうまく追いつけない。彼は転げるように、廊下の橋にあった細い階段を下り始める。
狼の身体では、うまく階段を降りられない。ようやっと追いついた時、六人目の男は、おそらくシュペングラーの息子だろう少年を抱えて座り込んでいた。
男の荒い息が聞こえる。シュペングラーの息子は明らかに衰弱しており、今にも気を失いそうに見えた。

「な、何してるの……?」
「く、来るな化物ぉぉッ!狼、くそ、狼のくせになんで喋りやがる……!?」

混乱しているらしい男は、ナイフをぶんぶん振り回した。カンテラの光が鈍く反射して部屋を照らした。
クラサメが後ろから階段を降りてくる。そして男とシュペングラーを見つけると、浅く息を吐いた。

「おい。お前らが何をしているかなんて関係ない、その息子さえ渡せば別に殺しはしないぞ」
「信じられるか!!お前も化物なんだろう、喋る狼なんて連れて……!!」
「違う。こいつも私も別に化物じゃない、その少年を助けに来ただけだ」

クラサメは諭すように言ったが、瞳孔の開いた男はわなわなと震え、ナイフをシュペングラーの息子の首元に押し当てる。

「あっ……!」
「どうせ……どうせ殺されるなら、こいつを道連れにしてやる、ただで殺られてやるもんか……ッ!!」

ナツメは慌てて駆けるが、間に合わない。ナイフの先端が、一瞬で首を裂いた。
クラサメも遅れてたどり着き、男の頭を一撃、男はぐらりと意識を失う。だがその身体の下で、少年の首から血が勢いよく吹き出す。

「くそッ……!!」

クラサメが少年に飛びつき、その首を押さえる。吹き出す血は勢いこそ止まったが、どくどくと傷口から流れ出ているのは傍目にもわかる。少年の身体が痙攣し、跳ねる。少年は白目を剥く。
誰にも教えてもらわなくても、十二分の致命傷だ。今にも彼は死ぬとナツメにもわかった。
ナツメは冷静に判断する。これは無理だ。この少年は助からなかった。ナツメは諦める。
だが、クラサメは諦めなかった。彼は懸命に傷口を押さえ、懸命に助ける方法を探していた。
そして、振り返ってナツメを見つけた。

「そうだ……ナツメ!!お前なら!!」

詳しく言われなくても言いたいことはわかった。ナツメは人狼のシャーマンで、他人を癒す力を持っている。ナツメならたしかに彼を救えるのかもしれない。
だが、迷って二の足を踏んだ。人狼にとっては常識だが、即死しかねないような傷を治すのはご法度なのだ。他人を癒すとき、例えば傷口が塞がるまでの治癒だとしても、塞がるまでの期間に味わう痛みが圧縮されて当人を襲う。そんなもの今にも死にそうな傷病人が耐えられるものではない。そして、耐えられなかった部分は全て術者に向かう。
ナツメが死ぬかもしれない。そういうことは稀だが、無いわけじゃないのだ。
だから。
できない。

ナツメ!!早く!!」
「だ……だめ、やっちゃダメなの、こんな大きな傷は……」

ナツメは生き残りたかった。だから逃げてきたのに、ここで死んでしまうなんて。

「ふざけるな!!お前に助けられたことを、後悔させるな……」

ナツメは息を呑む。

「私に、お前をここまで連れてきたことを、後悔させるな!!」

……そうか。
ナツメは思った。
私がここで彼を助けないなら、クラサメは私を助けたことを後悔するのか。
ナツメがここにいる意味を、存在の価値を、“後悔”するのだ。

そう思ったら、腹の底から最悪な気分になった。
ゆらゆら揺れる船の真ん中で、自分が何処に立っているかわからない。私はイヌ?狼?もうどちらでもない?いったい、どういう生き物なんだろう。
わからない。狼の姿でいることができなくなる。白い足がまっすぐ伸びて、それからゆっくり座り込んだ。……わからないということは、たぶん、これから決めてもいいということだ。
ナツメが好きなように。
そのためには、クラサメに認められていたいし、信じられていたいと思った。

ナツメはすぐさま、クラサメが傷を押さえる手を引き剥がし、少年にのしかかった。
こんな最悪な気分、もうあと一秒だって感じたくない。

「ッづ、あ、あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ーッ!!!」

そしてナツメは、少年に身体を重ね、絶叫した。

この術には非常に便利な点もある。
一度発動させてしまえば、術者が意識を失おうが、死んでしまおうが、被術者は助かるのだ。



Back
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -