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起きたらクラサメの顔がすぐ目の前にあって困惑した。何だこれと思ってから、そういえば昨夜自分から彼の寝床に潜り込んだことを思い出した。
あのまま眠ってしまったのか。抜け出そうと思っていたのに。

窓の外はまだ薄暗い。息を殺してベッドから降りると、ナツメはクラサメの外套を羽織って部屋を出て、洗面所に向かった。昨日クラサメが教えてくれていた通り、水瓶には水がたっぷり入っている。横に積まれた桶を使って汲み、外で顔と口を洗うんだそうだ。
水の貯めた桶を抱え、ナツメは宿屋の主人たちが忙しく動く一階を通って外に出た。山の向こうに白い光が差しているのを見つめ、地面に桶を置いて膝をつき顔を洗う。あまりの冷たさに身震いし、尻尾の毛がスカートの中で逆立つのを感じた。
残った水で口をゆすぎ、桶を空にして宿に戻る。部屋で昨日買ってもらったばかりの服を着て、裸足をブーツに突っ込んだ。固い革が足にあたって痛む。どうしてだろうと思ったが、若い娘が靴を履かないのはおかしいとクラサメが言っていたし、履かないわけにも。

ため息とともに靴を吐いて立ち上がると、ちょうどクラサメが起き上がった。眠そうな目で「おはよう」と言ったので、ナツメは戸惑った。それが朝の挨拶だと教えてもらうまでは。


朝食の代わりに、干し肉をパンで包んだものをもらい、食べながら歩いた。本当は行商人の馬車なんかに行き会えれば乗せてもらえたんだがとクラサメが言うのを横で聞きながら、ナツメは懸命に足を動かす。だんだん足は痛くなってくる。……靴って、こんなに痛いものなんだな。人間は大変だ。イヌも。
狼は少なくとも、自由だ。責務を果たす日が来るまでは。
イヌだって苦しい思いはする。そんなこと、ずっと前から知っていた。

四時間くらい歩いた頃だ。嗅いだことのないしょっぱい臭いがしてきて、――クラサメがそれは潮の臭いだと教えてくれた――遠くにたくさんの煉瓦の屋根が見えてくる。
気がつけばそれまでの凸凹道から、滑らかで固い地面に道が変わっていた。森の中の獣道とはまるで違う、たくさんの人が時間をかけて踏みしめた道のりだった。

「クラサメ、あれ」
「ああ。あれがオールボーだ」
「へえ……大きい街なんだね……」

海はどこまでも青く、果てが見えない。川で水浴びするぐらいしか水場と縁のなかったナツメにはとても怖いことだ。よくよく考えたら、船に乗って海を渡るなんてナツメは怯えずできるだろうか。所詮は獣だというのに。

「わっ!?」

考え事をしていたら転んでしまった。両手を地面についてしまって、クラサメが驚いて振り返る。

「どうした、なぜ転ぶ。狼のくせに」
「う……ちょっと考え事してて……ああ、いったい」
「……足が痛むのか?」

転んで打った膝ではなく、靴を押さえるナツメにクラサメが訝しんだ。そうだと言うと、ブーツを脱いで見せてみろと言う。

言われたとおり、道の端の手頃な切り株に座り、靴を脱ぐとクラサメは顔を顰めた。

「お前、こんなことになっているのに何で早く言わなかった」
「こんなこと?」
「靴ずれだ。……水膨れになっている。これは痛むぞ」
「水膨れ……?なにそれ」
「ほら」
「いたっ……ああ、なんか確かに、水が溜まってるね」

クラサメが押した場所を己の指でも触ってみる。かかと側に、爪の大きさほどの“水膨れ”ができている。
森で暮らしていれば切り傷も幾度となくできたし、木の枝が腕を貫通したことすらあるが、こんな傷は見たことがなかった。

「お前、そういえばシャーマンだったな。私を治したように、自分のことも治療できないのか」
「……できないことも、ないけど。他人を癒やすほどの効果は発揮できないの。今すぐ完治なんてできないわ」
「そうか……とりあえず靴を脱いだほうがマシだろう」
「いいの?」
「痛むんなら、仕方ない」

クラサメの言うことはよくわからない。人間の決まりが、どういう基準でできているのかも。どうして今、決まりを破ることが許されるのかが。
それでもクラサメの言う通り、靴を脱いだほうがずっと楽だったので、ナツメは彼に従った。
そしてそれから一時間弱で、オールボーにたどり着いた。








「ここでも宿を取るの?」
「いや……船代はかなり高額だ。一朝一夕では稼げない。その間宿に泊まっていたら、稼ぎはろくに貯まらないだろう。どこか、長期間住めるところを探さなければ」
「そうなの?人間って大変ね」

狼は簡単だ。群れが一帯を縄張りにしているから、その中であればどこでだって眠れる。
だが人間はそうもいかないらしい。そんなのって、ほんと手間だ。

「空き家を探すなら、商人に聞くのがいい。市場の立っている方へ行くぞ」
「それってどっち?海のほう?」
「騒がしい方だ」

クラサメは短く率直な言葉と視線のみで行先を示した。ナツメは歩幅の違う一歩を追いながら、あまりにも彼に頼りっきりの自分を少し恥じた。
靴を指先に引っ掛けて、石でできた地面のざらざらとした感触を楽しむ。オールボーは大きい街だったが、市場はそう遠くないらしく、ナツメがそれに飽きるより早く市場についた。

クラサメが昼食の調達がてら情報収集に行くのを、ナツメは市場の外れで見ていた。どこでトンチンカンなことをして疑いを持たれるかわからないからだ。
それにしたって暇だなと、靴を横に置いて地面に座る。背を預けた建物も石でできているようだ。煉瓦と言うらしい。

人間っていうのは、知恵の塊だ……。
ナツメたち狼は、領地という名の縄張りを持ち、群れを持ち、かつての王の血による呪術のちからを持つ。
人間はそれらすべてを持たない代わりに、言葉を持ち、字を持ち、家を持ち通貨を持つ。

狼は生活の改善など考えない。これまでと変わらない生活を送っていくことに意味を見出していて、だからこそ逃亡も許さない。
ナツメはこれまで、人間のことを理解したいなんて思ったこともなかった。けれど、それはもしかして、狼の知性のなさを露呈しているだけなのかもしれない。……考えるだけで頭が痛くなる話だ。

さて、結果は芳しくなかったらしいクラサメが違う露店に移ったときだ。
突然、近くで大声が上がった。

「……ッだから!!アンタもうるさいね、店の邪魔だからどっか行けって言ってんだよ!」

野太い中年男の声が、森の奥深くというど田舎育ちのナツメの繊細な耳を劈いた。人間を見直した瞬間にこれかと思いながら、ナツメは苛立ち紛れに立ち上がってそちらを見る。
怒鳴っていたのは、汚いエプロンをつけた、野菜を売る露店の親父だった。そのすぐ近くで、見るからに富裕さを感じさせる女が転んでいる。露店の中年男よりは若そうだが、それでもクラサメの倍くらいの年齢だろうとナツメは思った。

「だいたい、アンタの旦那の仕事が悪いんじゃないかい。息子とやらがいなくなったって、衛兵ぐらいしか協力しないよ」
「で、でも!息子はなにも、何も知らないんです!お願いですどうか、なにか知っているなら……!」
「ああもう、しつこいって言ってるんだ!店の邪魔だよ!」

しっしっと追いやる仕草で追い払われた婦人は、数秒そのまま項垂れていたが、結局は一人で立ち上がった。うつむいたまま、肩が震える。
ナツメは少なからず迷った。クラサメに言われている通り、ナツメには人間として振る舞う常識が一切合切欠けている。不用意に誰かに近づくのは危険である。
けれど、冷血なナツメでも、家族を捨ててきたばかりの今、息子がいなくなっただのという話が漏れ聞こえて無視するのは寝覚めが悪そうだ。具体的には、これからしばらく折に触れて思い出して後悔しそうである。
となれば。

「……ねえ、大丈夫?」

人を気遣う言葉の選び方などわからないので、近づいて、顔を覗き込んでみる。明らかに具合を残った様子の婦人は、ナツメを見ると泣きそうな顔をした。

「大丈夫じゃないわ……あなた、私の息子を……見て、ないわよね……」
「息子って、いくつぐらいなの?」
「今年十六になるの。背は……あなたと同じくらいかしら」

今年十六の少年。
人間に換算するとどの程度の成長度合いになるのか、正確なところはわからないが、クラサメより若くとも“子供”ではないだろう。ナツメだって群れでは充分に大人の側だし。
その息子がいなくなったからといって、母親が血相変えて大騒ぎするというのは、なかなか込み入った事情がありそうに思う。

「何があったのか、聞いても?」
「……あなた、この街の子じゃないわね。……ええ、話すわ」

うっすら白髪の混じったまとめ髪から落ちた数本の髪をまとめ直しながら、婦人は頷いて名を名乗った。

「私はアデーレ・シュペングラー。夫は……いわゆる高利貸しをしているの」
「コウリ……ガシ?」
「お嬢ちゃんには少し難しいかしら。例えば何か今すぐに欲しいものがあったとして、今すぐはお金が用意できないことがあるでしょう?」

あるでしょう?と言われても、ナツメにはピンとこない。シュペングラー夫人はされど気づかず続ける。

「そういうときに、お金を一時的に借り受けて、欲しいものを買う。お金は、少し増やしてあとで返す。これが借金。それで、私の夫は、“少し”じゃなくて“かなり”増やして返してもらう仕事をしているの」
「……“かなり”増やさなきゃいけないんなら、みんなお金なんて借りないんじゃないの?」
「普通はね。だから、よそではもう借りられない人が借りに来るのね。そうなると、借りた人は更に生活に困ることになるし、うちでも貸せないこともある。どっちみち……とても恨まれているの……」
「なるほど。それで、息子がいなくなったのは?」
「少し前に、お金を貸してほしいって人が来たの。実は主人が、副業で担保として貰い受けた家を貸し出したりもしているんだけど、その家を借りるのにお金を貸してほしい、って。あまりにもうちに利益のない話だから断ったのだけれど、……直後に息子がいなくなって……息子を返してほしかったら空き家を使わせろ、って。それで、貸し出したはいいけれど、まだ息子が返してもらえないの。仕事が終わるまでは、と……」
「仕事?」
「……マヤク」

シュペングラー夫人の言葉は聞き取れなかった。聞き返してようやく、

「麻薬、よ」

その言葉を理解した。

「麻薬って、人間がおかしくなるっていうやつ?聞いたことある」
「……お嬢ちゃん、恐ろしいほどスレてないのね。そんな格好しているけれど、まさか良家のお嬢様とか?」
「……リョウケ?」
「世間知らずなだけか……。ともかくそれで、夫は今こっそり街を出て、領主様に助力を願い出に行っているのだけれど。私は……息子を探そうと思って……でもこんなに世間知らずなお嬢ちゃんに聞くのは間違いね」

夫人は疲れ果てた表情で笑ったが、陽の光が当たると目の下の隈がくっきり浮き上がって、やつれた様が簡単に見て取れてしまう。
そこにクラサメがやってきた。

「おい、ナツメ、どうした?」
「ああ、クラサメ……」

ナツメはクラサメに事情を話した。うまく伝える技術はなかったが、幸いクラサメが読み取る技術に長けていたので、なんとかクラサメが事態を理解するに至る。
クラサメも話を聞きながら、なかなかにひどいこの話に顔を顰めた。そして夫人が街中を探し回る心中も慮る。

「最初は、すぐに息子を返してもらえると思ったのよ。だから大騒ぎせず従うのが一番かと思ったのだけれど、でも、従っても返してもらえない。もしかしたらもう、……そういうことを考えると、眠れないし、いてもたってもいられなくて」

夫人は肩をすくめ、それじゃあと言いおいてゆっくりナツメたちに背を向けた。ふらふらとした足取りで、市場の外へ歩いていく。
それを見送りながら、傍らでクラサメが浅くため息を吐いた。

「なるほど。話はわかった。それでナツメ、どうする」
「え?」
「私達も手を貸すことができるかもしれない。……いや、むしろ、“あの家を出てきたばかりのお前なら”」

クラサメが持って回った言い方をするので、それでナツメも察した。確かにそうだ。ナツメは嗅覚と聴覚ならば、優れすぎるほどに優れているのだ、だって狼なのだから。
だからあとは、ナツメが協力する意図があるか否かだけ。

「……家族を心配する気持ちはわからないことも、……ない。だからまあ、どうせ今すぐ仕事や家が見つかるわけでもないんなら、手伝うのもいいと思う」
「そうか」

ならばそうしようとクラサメは言った。自分の意思はないのかと聞いたら、「すでに死んだも同然の身だからな」という答えが返ってくる。

「お前に救われたからここにいる。今はそれだけだ」
「……でも、私もクラサメに助けられてるよね。クラサメがいなかったら、この街に来てないし。だからむしろ、クラサメの意見はどうなの?クラサメは助けたい?」
「私は軍人だったが、軍人になったのは国の民を守りたかったからだ。だから、そのためにできることならば、今からでもしたいと思う」

いい回答だなと思った。ナツメにそういう希望はなかったので、新鮮だ。
狼として生きる群れにも、そういうことを考えるやつはいない。基本的には群れのため、次に自分のため。食事にありつけることが一番の関心事。
……でも唯一、そういえば。
今は群れにいない“彼”だけは、このままじゃだめだと言っていたな。

「……ナツメ?」
「っあ、ええと……そうね、……ねえちょっと!」

クラサメの呼びかけで正気に戻ると、ナツメは慌てて夫人のあとを追った。
協力を申し出ると、夫人はためらいがちに、それでも手は多いほうがいいと考えたのか、手伝いを了承した。


ナツメにとって難しい話ではない。ナツメは人狼であるが故、狼と同等の器官は持たないが、嗅覚は狼に準じた程度のものをもっているわけだ。
夫人の家に招いてもらい、息子の部屋を見せてもらう。そこで臭いを掴み、覚えた。クラサメは夫人から、息子がいなくなった日の足取りを尋ねる。しかしどうも息子は反抗期真っ盛りだったらしく、夫人もほとんど状況を知らなかった。それどころか、実際のところいつ拐かされたのかもわからないのだという。

「それじゃあ、臭いだけで探すしかなさそうだな……」

シュペングラー家を出ると、クラサメは明らかに落胆を滲ませた。どうも、ナツメならできると言っておきながら、本当に臭いだけで簡単に探し出せるものだとは思っていないようだ。

「まあ……難しいけどね、確かに」
「臭いだけでなんとかなるものか?せめて起点だけでもわかればと思ったんだが」
「わからないことはないよ。でも昼間は難しいかな……人が多すぎるし。夜、裸足で……狼に戻ってもいい?それならきっと探せるよ」
「仕方ないな……夜でも衛兵の見回りはあるから、気をつける必要があるぞ。狼が入り込んだなんて思われたら、深夜でも焼き討ちされる」
「こっわあ……」

人間ってこれだから嫌だわとつぶやき、今夜の宿を探すためナツメはクラサメと共に港の方へ向かうのだった。





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