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「逃げろ……早く。もう長くはもたない」
「でもそしたら、あんたたちどうするの……私がいなかったら、あんたたちどうなるか、わからない……」
「適当に他の群れを探すしかないだろうな。それより、いざそのときが来たら俺もお前を追いかけちまうだろう。今のうちに、早く……遠くへ」

彼に言われるがまま、ナツメはろくな荷も持たずに夜道を走り始めた。一世一代の大勝負、敗けたら死ぬとわかっていた。






山の中を、一匹の狼が走る。

白い息が鼻を掠め、喉を干上がらせる。三日を過ぎた頃から数えていないが、もうずっと碌な休息も取らず走り通し。これでは留まっても、走り続けても、結果は同じような気がしている。
針葉樹の硬い幹に身体を預け、身体を少しでも休めようと意識する。目を閉じて、臭いと音だけに集中した。木々の静かな香り、鳥の羽音。身体の内側は燃えるように熱く、一方滴る汗は放っておけば凍ってしまいそうな気がした。
ああ、腹が減った。何か、何か胃に入れなければ。焦った目が周囲を探す。鹿や兎とは言わない、コオロギか何か、そういうゲテモノでもいい。
死ぬわけにはいかない。

執念から立ち上がろうとした時、か細くくゆる煙のように、ほんのわずか薄い血の匂いを感じ取った。まだ熱の混じる、新鮮な血の匂い。
おいしそう。ふらりとそちらへ足を向けそうになったが、罠である可能性に慌てて踏みとどまった。それから少し時間を掛け、血の方向を探る。

「……大丈夫そう……?」

匂いは進行方向にあり、それにさほど遠くもない。一応行ってみてもいいだろうか。食えそうなら食い、無理そうなら引き返せばいいわ。ナツメは自分にそう言い聞かせ、雪の地面を踏みしめまた走り始めた。
跳躍を繰り返すたび、匂いがどんどん近くなる。鹿ではない、兎でもない、少し脂っこいような血の香。
今ならなんでもごちそうだわ。逸る気持ちを抑えきれず、ナツメは血を目指して急いだ。

木々の間を十分近く走ったろうか。不意にざあっと視界が開け、雪ばかりが積もる真っ白の広場に出た。そしてその真っ白の世界の中央に、赤い色がいくつも咲いていた。
人間の死体が五つはあった。溢れんばかりの血の匂いがなかったら、花にも見えたかもしれない。それくらい、まだ誰にも侵されていない死体はきれいだ。
まだ死んで一日も経っていない。雪のおかげで腐敗も進んでいない。服装から見るに軍人か貴族か。そう見えるがナツメは世間知らずなので確証はない。

ナツメはゆっくり手近な死体に近づくと、雪に膝をつき鼻先を死体の腹に寄せた。すん、においを嗅ぐ。悪くない肉だ。筋も少なそうに思える。
これなら、そう思いナツメは口を開いた。鋭い犬歯にて、柔らかい皮膚を裂こうとした、その瞬間だ。

「やめろ」

静謐でさえある無音の世界に、不意に声が落ちた。その声に弾かれたように振り返ると、広場の端、古い木の根本にそいつは座り込んでいた。
男だ。人間の?
黒い服を着て、長い外套を羽織り、口許を広く覆う黒い金属製のマスクをしている。一体何者だろうか。

ナツメはゆっくりと、その男へと近づいた。男は荒い息をしていて、死体とは少し違う甘い血のにおいがした。木の幹に身体をぐったり預け、男は碧の目でナツメをじっと見つめ返していた。

「食うなって意味?」

目の前に至ったナツメが問うと、男はおもむろにうなずいた。

「肉体を食われては、神の御許にたどり着けんだろう……」
「カミ?なに、それ」
「神も知らんか、山奥の狼は……」

少し嘲るような口調で言われて、ナツメはむっとした。知らなくてもこれまで困らなかったものを、知らないからと責められる謂れはない。

「でも腹が減っているわ。私はこのままじゃ死んでしまう」
「……そうか。なら、私と同じだな」

彼はふっと笑い、腹を押さえていた手がだらんと地に落ちた。その時、腹から血が流れ出ているのに気がついた。

「返り血だと思ってたわ」
「半分はな。半分は、殺したから被ったものだ」
「あれ、あなたが殺したの」

死体を振り返って言うと、彼はまたうなずいた。血の気の引いた白い顔は確かに、死のにおいがした。

「私が死んだら、食っていい。だからそいつらは、食わずに捨て置いてくれ」
「……殺した連中はカミのところに行かせるのに、自分は行かなくていいの」
「どうせそんなところにたどり着く予定はないからな。どうあっても同じこと」
「ふぅん……よくわからないけど、ねえ、どうして私が狼だってわかるの。私達の存在はそんなに知られてないって聞いてたけど」
「ああ……そんなことか……。それは私も狼だからだ」

男の血が流れ続けている。ナツメは、自分がその甘い匂いよりも、男の静かな声を聞くほうに興味を持っていることに気がついた。

「耳を切り、尾を落とし、それでもうまくいかないんだ。人の世は難しいものだな」
「……お前……イヌか」

勝手に尾の毛が逆立った。色のない嫌悪。生まれたときからずっと、イヌの存在は聞いていた。
群れを裏切った裏切り者。人間に尻尾を振って、狩らなくても手に入る食べ物や寝床のために生き方を変えた卑怯なものたち。

「そう呼ぶ者もあろうな」
「それ以外の呼び名なんてないだろう。裏切り者のくせに」
「裏切り?お前なんかと仲間だったことはないさ。実際な」

薄く笑って男が言う。間違いなくそれは事実だったので、ナツメの頬にさっと仄かな朱が差した。狼と一口に言ったって、一つの森にも複数の群れがあり、狼の種類によっても少しずつ違う。
ただ、種の離反者であることには相違なく、それだけでナツメには嫌悪の対象だ。これから己もそうなるしかないのだと知っているから、なおさら。

「……ねえ。人里ってどっちなの」
「なぜ聞く。襲う気か」
「ちがっ、……違うわよ」
「ならばなぜ……ぐ、がはっ……」

イヌは短く唸り、口の端から血を吐いた。懸命にこらえているようだが、内臓から出血したものが逆流しているらしい。このままでは死ぬだろう。
ナツメは一瞬悩んだが、そんな余地はないことを思い返す。短い舌打ち。

膝を折って近くへ。男の身体を雪の上に倒し、足を開いて跨った。
舌を噛む可能性を考え、マスクを外そうと留め金に手を伸ばす。留め金じたい、存在は知っていても外し方は知らないので苦心したが、時間をかけてなんとか外すことに成功した。

「何を……」
「痛いから。たいてい、暴れるのよ」
「は……?」
「始めるわ」

ナツメは己の羽織っていた毛皮のマントを裂いて男の口にねじ込み、彼の傷口に手をやって、ぬめる血を確かめる。男が獣臭さのせいか吐き出そうとしたが無視をした。
これくらいなら難しくはない。身体を重ね、体温を共有する。まるでつながった一つの身体のように、ナツメは目を閉じて懸命に意識した。

「フーッ……フーッ……」
「うぐっ、ぐ、ぐあ、ぐあ゛あ゛あ゛あ゛あ゛!!離せッ離せぇぇぇぇ……!!」
「はーっ……ああ、痛い……痛いわねえ……ッ」
「あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛ッ……!!」

内耳の奥で血管が腫れ上がり音が消える。どくどくと嫌な音が鳴っている。でもそれにも、もう慣れている。
何の問題もない。別に死にはしないのだ。

それから、悶絶するような痛みに十分近く耐えただろうか。痛みが薄れたのか、それとも痛覚が完全に壊れてしまったのかわからない、そういう解放がやってくる。男の息がか細くなり、ナツメの声に混ざって聞き取りづらくなった。
ナツメはかろうじて動く手を動かして男の傷口に触れる。まだ血はちゃんと残っていたが、乾いてかさつく血の向こうになだらかな肌を感じた。

「これは……なんだ……」

マントの切れ端などとっくに吐き出した口で、かすれた声で男が聞く。“これ”を受けて意識を失わない者が初めてだったので俄に驚きながら、ナツメは肘を立てて身体を起こした。

「私は群れのシャーマンなの。これは治癒術の一種で、快癒までの時間をどこまでも縮めることができる」
「あの激痛は……」
「そのぶんの痛みが一瞬で来るから。そりゃあとんでもない痛みになるわ。それだけよ。耐えきれないってことはないわ」

絶対に、ショック死等には至らない。そういうふうにできている術だ。
……更に詳しく言うなら、“患者に耐えきれる上限を超えた痛みはそっくりそのまま術者に向かう”。この場合はナツメにだ。今は関係のないことなので、省略するが。

「……こんなことができるなんて聞いたこともない。狼とはいったい、なんなんだ」

男の問う声にナツメは笑った。狼とはなんなのかだって?

「聞かなくても見ればわかるでしょう。私達は人狼、ヴァラヴォルフ。数百年前に狼の王と交わった人間の成れの果てよ。王の血が濃い者は王の魔術を扱えることがある、なんてのは常識だと思ってたけど?」
「お前が言ったことだろう、私はイヌで群れをはぐれた狼の成れの果てだ。狼の存在は知っていても、知らないことのほうが多いさ」
「……そう。それもそうか」
「それで?これが魔術であれなんであれ、……なぜ私を助ける必要がある。お前の言う通り、私はイヌだぞ」
「だから助けたのよ。私は今……群れから、逃げているの。でもこのまま森を逃げ続けても絶対に捕まってしまう。私の足では行ける範囲にも限りがある。人里を介せばにおいも変わるはず、でも私には人里の知識なんて一つもないわ。うまくいくはずがないから、だから……」

雪の上から起き上がるさなか、口の中に溜まったのだろう血を吐く彼の横顔を見た。マスクを外した顔は、世間知らずのナツメでは見たこともないくらい整っていた。
男がマスクを拾い上げ、顔に合わせるのを見ながら、ナツメは続ける。

「その案内をさせるには。死なれちゃ困るの」
「……助けても私が断るとは思わなかったのか」
「断るんなら、改めて殺すまでのこと」

ナツメは一言のもとに断じ、彼を見た。彼はしばしためらうような仕草を見せたが、結局は「いいだろう」と言った。

「どうせ放っておいても、人里は目指すんだろう。一応の恩人を殺すというのも、寝覚めが悪いからな」
「ふん、イヌのくせに生意気な口叩くじゃないの。……まあ、いいわ。さ、早く向かいましょ。急いでるのよ」
「待て。私もお前も血まみれだ。狼が追ってきているというのなら、においで追われるぞ。逃げ切れると思うか」
「あー……そうね。でもこの冬場じゃ、水浴びもできないし……」
「……仕方があるまい」

男は雪の中から立ち上がり、捨て置いていた死体の傍らに膝をついてなにやら荷物を漁りはじめた。
略奪はいいのかと聞いたら、これは略奪ではないという。

「勲章を盗むのとはわけが違う。彼らが飲むつもりだったものを有効活用する。それだけだ」
「フーン……?」
「お前、よくわかっていないだろう」
「クンショー?とかいうのだって知らないし」
「……本当に何も知らないんだな」
「生きていける限りのことを知っていれば、それでいいのよ」

クラサメは死体のマントを剥ぎ取り、裂いてそれに酒をかけた。そしてナツメに差し出して、「拭かないよりはマシだろう」と言った。
それもそうかとナツメはいったん毛皮を脱ぎ、露出した肌についた血を拭おうとする。そうなると乳房と腰にしか布地がないので冷たい風が肌に滲み、ぶるりと震えたがほんのわずかの辛抱だ。

「……お前、さっきも思ったが、ひどい服装だな」
「え。……む、群れの中では私一番まともな服着てるんだけど……?」
「お前の群れの文化が心配だ」
「なんですって……」

そうして揶揄を受けながら、ナツメは彼の先導に従って歩き始める。走らないのかと聞けば、人里はもうさほど遠くないのだという。

「お前の群れの狼がどの程度賢いのかは知らんが、白昼堂々人里に降りればどうなるかくらいわかっているだろう。人里につけば、いったんは安全だ」
「そうね……でもこの辺りには小さな町しかないと聞いていたけど」
「ああ。南へ降りれば、大きな街もいくつかあるがな」
「あ、ねえ、あんた名前なんていうのよ?……イヌでも互いを名前で呼ぶ、わよね?」
「私の名前なぞ知る必要があるのか?」
「……あっそ。まあいいわ。それで?町はどっちよ?」
「こっちだ。この獣道を下る」

男に言われるがまま、ナツメは道を下っていった。高い木々が茂る森の中、お互いの足音しか聞こえない。途中、何度か会話はあった。

「どうして群れから逃げている?お前もイヌになりたいか」
「それは嫌よ!……でも、ただ、生きるためにはこうするしかないの」
「群れに殺されるとでも?」
「彼らにそんなつもりはないわ。でも、このままだとそうなってしまうわ。彼らにそうさせるのも嫌だったから、逃げてきたの」
「……要領がつかめんな」
「それこそ、知る必要があるの?」

等と。男はそれに「それもそうだ」と短く答えると、その話題への興味は失くしたようだった。ナツメとしても語りづらい事柄だったので助かった。
それからは、人里での過ごし方に終始した。曰く、今は旅人が少ない時代だから身を隠した方がいいとか、金は分けてやるから宿屋に泊まりできるだけ早く南へ向かえ、とかそんなことばっかりだったが。
あとは周囲の人間をよく見て学べと、それだけだった。それができなくて死ぬのなら助けない、そういう意味だろうと判断した。
思ったよりは饒舌な男だ。イヌとはそういう生き物なのだろうかな、首を傾げて思ったときだ。木々の隙間、その奥に若草色がちらついた。
男は足を止めると、ナツメを制止し、外套の前ボタンをパチパチ音を立てて開いた。そして、脱ぎ去ったそれを突然ナツメに掛ける。
フードを目深に被せられ、首元の紐を結ばれ、外套のボタンを閉めるように指示もされる。わけもわからぬまま言われたようにし、「なんなのよ」と問えば、
男はこちらから視線を逸らして笑い、こう言った。

「一応恩人だ。死なれては寝覚めが、な」
「それさっきも聞いたわよ」
「奇遇な話だが、私も逃亡者なんだ。魔女狩りの対象として追われている」
「……マジョ……がり?」
「不思議な話だがな。このマスクが不気味がられるらしい。……田舎町ではそんなものだ。そういうわけで、私は早晩捕まり処刑されるだろう。だから、お前とはここでお別れだ」
「何言ってんの、追われてるならここからも逃げるべきじゃ……」
「もう逃げるのも疲れたものでな。……先程死ぬところだった、その礼は果たしたぞ」

ではな。
男は言い放つように、まさしくナツメの返事など必要とはしていないといった態度で踵を返し、木々を分け入り町のほうへ歩いていってしまった。ナツメはしばし呆然とした後にあわてて彼を追ったが、町に近づいたとたんこれまで嗅いだこともない雑多なにおいにやられてしまい、彼を追えなくなってしまう。

――人間がいる。たくさん。群れの人狼はせいぜい五人ぐらいだったのに、もう、そんなの比べようもないくらいたくさん。怖い。

それでも、とフードをぎゅっと押さえながら、ナツメは彼を探した。なんのことはない、ただただ心細かったのだ。
短い渓谷に掛けられた橋を渡り、おいしそうなにおいの漂う通りを抜けた辺りで、ナツメはとうとう彼を見つけた。あの、山の中で彼に殺されたという、貴族か軍人かナツメには正体も知れぬ服を着た人間が何人も彼を追い立て、武器を向けていた。
ナツメは目を丸く見開いた。ほんとうだった。本当に彼は、同族に追い立てられている。
ナツメと同じ。

「クラサメ・スサヤ!無駄な抵抗はやめろ!お前はそのマスクの下に人間ならざる顔を隠していると複数の通報があったんだ!!」
「この下は、ただの火傷の跡だ。もう見せただろう……」
「そんな場所に火傷をすることじたい、悪の儀式の影響に相違あるまい。全ては裁判で明らかになるのだ!」

彼は浅くため息を吐いて、そして諦めた。遠目から見ていたナツメにも、彼の目に浮かぶその色がわかった。
諦めだ。もう逆らうのはぜんぶやめようという顔だ。

ナツメはその目を見るのがいっとう嫌だ。

「……ああ、いやだわ……」

思い出してしまうから。
自分の前。選ばれた女が、そう、ああいう目をしていた。
もう逃げられないし、これから自分の人生は終わっていくのだと、ゆるやかな苦痛を与えられて死んでいくのだと知ってしまった目だ。

ああ、いやだ。

ナツメは彼が連れて行かれるのをただ見ていた。
しかし絶対に目をそらさず、距離を離して後を追っていった。彼の血のにおいはもう覚えていた。



彼が連れ去られたのは町の外れ、ナツメたちがきたほうとは逆の方向に森へ入った辺りの、平屋の建物だった。建物の入り口に男が一人いて、さらに先程から建物の周囲をぐるぐると一人の男が見回りをしている。きっとこういうのを、兵士と呼ぶんだろう。
周囲に他の人間はいない。それならば。

「……お腹もすいているしね」

見回りのほうを先に狙った。単純な行動、木々の合間に潜んで走り出し、背中から襲いかかる。喉笛を噛み切れば悲鳴もない。ナツメはそのまま、死にゆく温かな身体の血を啜り、柔らかく薄い首の肉を噛みちぎって咀嚼した。おいしくもなんともない、ただの肉だ。それでも力は湧く。
ナツメは死体を引きずって森の中に放り捨てた。今度は門番の男にも、同じようにする。こちらは煙草でも吸っているのだろうか、肉が臭くてまずかった。

門番の腰のところに掛けられていた鍵の束を外し、平屋の入り口を開ける。鍵の使い方を知っていてよかった。
扉を開くと、またすぐ扉があった。開くと下方に、坂が広がっている。坂。坂?等間隔で段差がある坂のことは、たしか別の呼び名があったはずだ。……今はなんでもいいか。
彼のにおいは、下からする。ナツメは足音のしない足で、ゆっくりと坂を下り始めた。



真っ暗な土の下には、死ぬ以外で入ることはないと思っていた。
獣である自分たちは、建物も作らないし土も掘らない。死んだ骸は埋めるけれども、こんなに深くまで掘ることはない。
涼しくて、風はなくて、気に入った。陽の光がないのは残念だが、土のにおいをベースに、食事と血と死体のにおいが漂っている。あと、松明から立ち上る判別しやすいので、彼のにおいひとつを追うのは難しくなかった。

――もうすこし下。坂を下ろう。





修道士は薄暗闇の中であくびをした。地下という場所は朝も夜もなく、そのせいで昼夜問わず眠たい気がしてしまう。
眠らないよう、見張りの相方とくだらない話を延々続けているが、あまり効果がない。

「それで……今回は、どうするんだ。こんな田舎に、古い牢舎があっただけで幸いだけどさ、裁判っつったって、なあ」
「でかい水槽は用意できないからな。池にでも沈めるんじゃないか」
「沈めば人間、それさえわかればいいからな。しかし悪魔がとうとう男も誑かす時代になったとは。世も末さ」

話題も、もうすぐ行われる裁判の話ばかりになる。いま、他の修道士は簡易法廷の用意で忙しいはずだ。それさえ済めば、退屈な見張りもおしまいだ。
牢の奥、座り込んだまま動かない男を振り返る。黒に近い髪と服が闇に溶け、ほとんど姿が見えない。影の中に飛び込んで、悪魔の元に逃げられてはおしまいだ。見張っていなければ。
そう思った時だった。突然、廊下の果てから犬の吠える声が聞こえた。大型犬にしては声が高いし、小型犬にしては声が大きい気がした。

「おい、今の……?」
「犬でも入り込んだか?それとも狼とか……」
「狼なんてこのあたりには出ないさ。山の中ならともかくな。犬なら、外に出してこよう」

相方の修道士が傍らの鉄杖を手にして廊下の向こうへ歩き始めた。そのわくわくした横顔は、犬と戯れたいという欲望をありありと語っている。

「この辺りで犬は見かけなかったからな……」

犬好きなら、都市部を離れたのは辛かったろう。都市部は婦人がよく愛玩犬を連れて歩いているから。
そう思った時だ。松明の灯りも届かない果てで、「うわっ!?」と声が上がり、直後に転んだような、鉄杖の叩きつけられる音がした。

「おい、どうした?」

呼びかけるも、答えがない。暗闇がどこまでも続いているだけだ。
不意に牢屋の中から音がした。男が立ち上がり、牢の近くに立っていた。彼もまた、音のしたほうをじっと見つめている。

なんなんだ。修道士は慌てて己の鉄杖を手に取り、闇の方に向けて構えた。まさか、まさか悪魔がやってきた?

「主、主よ、私たちを平和のためにお使いください、私にもたらさせてください、憎しみのあるところに愛を、争いのあるところに赦しを……ッ」

ひたひたと、濡れた足音が聞こえる気がする。きっと血だと、修道士は思った。

「ぶっ、分裂のあるところに一致を、」

神よ我を救い給え。悪魔の鋭い爪と牙にさらされることのないように。
懸命に祈った。祈りながら、くそくらえと思った。
闇の中から、いっとう黒い何かが姿を表した。黒い外套は決して魔を示すものではなかったが、この場に限ってはそうであると思った。
でも、

「疑いの、あるところに……」

ああなぜ自分が、自分がこんな目に、毎朝の祈りを欠かしたこともない、女で遊んだこともない、せいぜい下働きの少年程度でそんなことは誰もがやってきたこと、自分もされてきたこと。罪なんて犯していない。原罪を主が贖ったのならもう己に罪などないはず。それがどうしてこんな、こんな恐怖に。

「信仰をぉッ……!!」

漆黒の悪魔が、空間を自在に駆けて、修道士に襲いかかる。
影はしなやかにうねり、闇そのものが具現化した悪であるようだった。その影がまさに修道士の喉を食い破らんとする瞬間、彼は爛々と光る一対の光を見た。

それは獣の目であったが、修道士がそれを理解する前に、不意ににゅっと、黒いものが横から伸びた。牢に捕らえた囚人の腕だとすぐわかったが、抗う隙はなかった。その黒い腕は修道士の首を両側から掴み、彼はそのまま牢の鉄格子にしたたかに叩きつけられた。
激痛と白む視界。自分を襲った黒い影がどんな悪魔であったのか知ることもなく、彼は意識を失い土の床に倒れ伏した。そしてもう二度と、立ち上がることはなかった。






「……見つけた」
「何をしにきたんだ。バカ者め」
「一応の恩人にひどい言い草ねえ。助けに来たのよ」
「なぜ」

イヌの緑の目が闇の中に浮かび上がって見える。本当にきれいな男だなと思った。群れの中に、こんなにきれいな人間はいなかった。

「さっきも言ったでしょ。私は狼としての人生しか知らない。これからイヌとして生きるしかないのに、やり方がわからないわ。それを教えてくれるとしたら、あなたしか思いつかない」
「ここまで逃してやったろう?」
「それでチャラになるわけないでしょうが。もうちょっと付き合ってもらうわ」

ナツメは倒れ伏した兵士の躰を探り、鍵を探した。やはり腰に束がぶら下がっており、束ごと無理に外して牢の錠の前に立つ。鍵はちらと見ただけで三十はありそうだ。全て試すほかに、ナツメはやり方を知らない。

「……一つだけ条件がある」
「なに?」
「理由を教えろ。群れから逃げる理由を」
「なぜそんなことが知りたいの」
「私が命を先延ばしにする理由を知りたいと思うことはそんなにおかしいことか?生きることは苦しいことだぞ。私にそれを強いるなら、せめて言い訳をするべきだろう」

ナツメは一瞬だけ手を止めた。けれどまたすぐ、鍵を探し始める。
銀色と鈍色の鍵は違った。次の鍵。赤褐色のものを掴む。

「群れだから。繁殖する必要があるわよね。私達人狼は、ほとんどの機能が人間寄りだわ。身体の構造もほぼ人間と変わりないと聞く。違いがあるとすれば、非常に発達したこの耳と、名残として残る尾、それから生殖機能ぐらい。……イヌは違うのかしらね?」
「そうだな……イヌは人間と更に交配が進んでいるというから、……少し早産なことが多いくらいらしいが」
「そう。それはいいことだわ。狼は世代を追うにつれ、狼の原種と再度交わった例もあるくらいだから、変化がないの。未だに三ヶ月で腹から出られるほどに成熟し、一度に五匹は生まれてくる」
「……そんな出産に耐えられるものなのか?……ああ、いや、……そうか」
「そうよ」

察した顔つきになった彼に、ナツメは肩を竦めて目をぐるりと回した。
その間も鍵を試す手は止めない。彼は言葉を選ぶような仕草で、ナツメを見ていた。

「では、その出産から逃れるために?」
「……わからないでしょうね。どれだけ怖いことなのか、あなたには」
「……?」
「発情期が来て、彼らが自分を抑えきれなくなったら、もう地獄でしかない。悲鳴を上げても誰も助けてくれない、家族たちが遠巻きに私を見ているだけ。……家族なのに、私が犯されて壊れていくところを見ているしかないのよ。それ以外に、群れを保つ方法がないから。みんな仕方ないってわかっているから、私を諦める。ふざけんじゃないわよ……」

なお、交尾・発情と言ってもわかりにくいことではあるが、人間の交尾とは違ってひたすらに暴力的で苦痛を伴う行為である。背後から地面に押さえつけられ、首を噛まれ、無理に射精される。所要時間にして二分といったところか。
本当にただの、動物同士の交尾。受精だけが目的。

「交尾すれば着床する可能性もとても高くて、次の春にはほぼ確実に数匹を腹に宿しているわ。その間、群れは片っ端から食糧をその雌に運ぶけれど、たいていは足りなくて生まれる前に衰弱死してしまうわ。そしたら腹を裂いて、子供を引きずり出す。栄養失調にならず生き残っても、出産のさなかに死ぬことも多い。そうしたらやっぱり腹を裂くわね。それでもしぶとく生き残ったとして、経産の雌なんて授乳期間が終わったら捨て置かれるばかりよ」
「……壮絶な話だな。それでよく群れを維持できるものだ……皆、逃げ出さないのか」
「逃げたって追いつかれて、結局同じことになるんだもの。ここまで逃げたのは私が初めてだわ。……さ、これで理由は話したわよ。助けてくれる気になった?」

ナツメが問うて、顔を上げると、存外近くで顔を覗き込まれていたので驚いた。びくりと尻尾を飛び上がらせ、反射的に半歩後ろへ下がろうとするのを、しかし彼が止めた。
鍵の束を握るナツメの手を掴んだのである。彼はその中から、まるで正しい鍵を知っているかのように一本の鈍色の鍵を選んだ。

「まあ……お前に救われた命だ。お前のために使うのも、悪くはないだろうさ」
「あ、ありがとう……」

ナツメの手ごと鍵を掴み、器用にも鍵穴に滑り込ませて彼は鍵を開けた。古びた牢の扉が、ギシギシと錆びた音を立てて開く。
彼は傍らに積まれた木箱の上から、あの金属製のマスクを拾い上げて振り返る。

「それから。私の名は、クラサメだ」
「クラサメ……?ああ、連れて行かれたときもそう呼ばれていたわね。クラサメ・スサヤ……だっけ」
「そうだ。お前には?名前はあるのか」
「あるわよ、失礼ね。私はナツメ。お前、じゃなくて名前で呼んで」

言い合って互いに短く笑い、地下を出た。まだ天高く登る陽に目を眩ませ、ナツメが来た方とは逆の、南に向けて二人はまた森へ入った。
そうして二人は逃亡を始めた。ある寒い冬の日のことだった。




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