We don't talk anymore like we used to do.
(もう、ああやって会話することすら、きっと)
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今日も日が照る。暑さにもようやく慣れたなと、プールの端に座って足を水に漬けながら思う。
このヴィラを設計したのはパリの設計士らしく、プールにも屋根がついているから水着でこうしていても陽に焼けることがなくていい。ヴィラの中から見たときにプールが海とつながって見える設計を目指したようで、ヴィラのすぐ下には砂浜がある。現地民しか知らない浜なので、初夏のシーズンでも喧騒は感じない。さすがにマーケットまで降りれば観光客で溢れているが、ナツメはあまり外出しないので今のところ静かな時間を過ごしていられる。
玄関ドアについたベルがチリンと鳴る。
「……姉さん。ただいま」
帰ってきたマキナは白いシャツとベージュのクロップドパンツ姿で、肌はまだ白いが十分この国に馴染んでいるように思う。仏頂面がなければなお良いのだが、レムがいないと難しいだろう。
「おかえり。マーケットはどうだった」
「いつもどおりだよ。カフェの子にまた姉さんのこと聞かれた」
「それはあんたを狙ってんのよ。私とマキナじゃ、姉弟って言っても似てないもの」
「事実なんだけどなあ……」
「まあなんだっていいじゃない。どうせ誰のことも好きにならないんでしょ」
ナツメはプールを出て、足をタオルで拭き、薄手のガウンを羽織った。バルコニーから入ってすぐのダイニングにマキナが置いた茶色い紙袋に手をかけ、中身を出していく。
林檎が二つ、オレンジが四つ、アボカドが一つ。ベーコンとリーキ、カブ。豆の缶詰が二つとオリーブオイル一瓶、種無しオリーブの缶詰にスープストックのボトル。
「今日の夕飯が想像できないんだけど」
「適当に作るよ。……文句言うなよ」
「まあこっちに来た頃よりは上達したしね。黙って食べるわよ」
「ったく少しくらい……手伝ってくれても……」
「お金出してるのは私なんだからちょっとは怠ける権利があるの」
「だからってすぐカウチで寝るのやめろ。ベッドまで三メートルもないのに」
「うるさいなあ……そんなに家事が嫌なら使用人を雇うって手もあるのよ?」
「今は働いてないんだ。この国は別に物価が安いわけでもないし、金は残しといたほうがいい」
ナツメたちが一旦腰を落ち着けたのは、セントクリストファー・ネイビスという独立国家だ。。カリブ海、ドミニカやプエルトリコの東に位置する英国領の少国家である。国の財源を観光資源に頼ってはいるが、観光客を引きつける取り立てて珍しいものもなく、英連邦に加入していることぐらいだろうか。珍しい点といえば。
アメリカ合衆国の南、そう遠い国ではないがアメリカからの観光客は少ない。カリブ海に来るくらいなら彼らはメキシコでハッパをやるからだ。治安もさほど悪くはないし、こっそり生きていくにはいい場所だった。
「金がなくなっても、現地人じゃないから仕事にはつけないし。入国管理が杜撰だからなんとかなってるだけなんだぞ」
「向こう二十年は普通に暮らせるだけの金はあるじゃない。ま、何年もこんなとこに腰を据える気はないんだし、危ない気がしたらすぐ逃げましょ」
「……オレは、そういう人生が嫌なんだ。オレは、あの犯人を殺して、兄さんと姉さんが一緒になってくれれば……」
「そしたらあんたが逮捕されてたでしょうが。レムはどうなるの?」
「報復殺人だから数年で出て来られる!それに、レムは……レムは……オレはレムが好きだけど、レムは他の奴とのほうが、幸せかも……しれない」
「そんなわけないでしょ。滅多なことを言わないで。レムがそんなこと聞いたら」
ナツメはマキナを睨んだ。
レムがそんなことを聞いたらどれだけショックを受けるかわからない。レムに他の奴なんて、探せるわけがない。
マキナを睨み、静かになったナツメを見て、マキナがかっと目を見開いた。
「今度は説教するつもりか!?もうこんなのうんざりだ!こんなよくわからない国に来て、あんたは一日中プールかカウチでぼーっとするばっかり!!オレもマーケットと家を往復するだけなんて!!」
「……」
「このまま逃げ続けるのは嫌だ、あんたに迷惑をかけ通しなのも嫌だ!どうしてあんたらはそうやって、無理やり俺たちを守るんだ……!!」
「兄と姉だからよ。……今更そんなこと、言わないでよ。そもそもあんたの望み通りじゃない」
「望み通り!?オレが望んだことなんて何一つ叶ってない!オレは、……オレがあいつを殺したかったのは、安心したかったからだ。それで、レムにも兄さんにも、安心してもらいたかった。でも兄さんは逮捕されたろうし、あんたもレムの傍にいない!レムは今一人だ!こんなのオレが望んだ結末じゃない!!」
マキナが怒るのは当然だとわかっている。
早々にカトルに拾われたナツメとは違い、マキナは生きるために多分相当手を尽くした。闇社会に入って、いちからネットワークを築いたんだろう。そうでもしないと、あの男を見つけ出すことなんてできない。ミリテスは犯罪組織としてかっちりしているから、過去人身売買した客の記録ぐらい残しているだろうが、簡単に見られるものじゃない。
それに一人の男を誘拐、監禁する手際もよかったはずだ、ナツメがあの日看護師に拉致されなかったらきっとFBIはあの男を見つけていない。子供一人を誘拐するのとはわけが違う、マキナは一人でよくやった。
彼はよく、耐えた。
そんな血の滲むような努力はすべて、兄と恋人のためのものだった。マキナは必死だったし、賢くなった。それはつまり、それだけ何度も打ちのめされて、それでも這い上がってきたってことだ。
ナツメはそれらを全てだめにした。マキナの半生を無駄にしたのと同じことだ。
これまで以上に恨まれても文句は言えない。
「言いたいことはわかるわ」
「わかってる?ああ、そりゃあわかってるんだろうよ!わかってて、あんたは、オレが人生賭けてやってきたことをぶち壊しにしたんだ!!」
「……わかってるわ」
先へ進む展望がない。結局はそのことが、一番怖いだけなんだろう。
これまでは目的があった。マキナはあの男を殺すことだけを考えて生きてきた。レムに「もう大丈夫だよ」って言うためだけに。それだけのために。
だから、もう二度とレムを見ることさえできない人生に絶望している。
「レムのことを……いつか、呼び寄せてみせるわ。次はそのために手を尽くす。もちろん、レムの気持ちが一番だけど」
「そうやってレムのことも巻き込むのか……!レムは普通に生活できてるのに!」
「馬鹿言わないでとっくに渦中よ。物理的に逃げることはどこまでだってできるわ、でも自分の心を蝕むものから逃れることは誰にもできないのよ。あの子が普通に生活してるなんて妄言もいいところだわ。誰もレムを癒せないまま、一番壊れてるわ」
ナツメは目を細めて、そう言った。マキナは言葉を失ったように暫時沈黙していたが、いろいろな言葉を――おそらくは罵声に近い言葉を――飲み込むと、ため息混じりにナツメに問うた。
「あんたはどうなんだ」
「何?私?」
「クラサメとかいう捜査官と一緒に住んでたじゃないか。あいつのこと、好きだったんだろ」
「……」
ナツメはざわりと鳥肌が立つのを感じて、黙りこくった。クラサメ。必死に思い出さないようにしていた名前だ。心臓が嫌な音をたてる気がした。
「兄さんのことは放ったまま、連絡もしないで、ずっとあいつと一緒にいたじゃないか。……オレは、あれは裏切りだと、今でも思ってるよ」
「……試してだめだったって、言ったじゃない」
「それなら努力すればいいだろ。ちょっと失敗したくらいで諦めないでくれよ……」
マキナは俯いてそう言った。
ただでさえ、レムとマキナには障害が多い。ナツメも事件後、カウンセリングやセラピーに通わされたが、ナツメが「みんなに会いたい」と言うたび彼らは絶対に駄目だと言った。
思春期前に受けた性犯罪は、人格形成に大きな影響を与える。だから、カウンセリングを通して問題に向き合うことはともかく、事件を想起させる人間や場所に触れるのはタブーなのだと。そういう療法を取るには早すぎるし、専門家がきっちり立ち会わないといけないと。
ナツメがそう言われたなら、レムとマキナも同じく言われただろうし、親もマキナたちを見張ったかもしれない。ナツメの家はナツメのことなどどうでもよかったし、わざわざちょっかいをかけにくるのもクンミだけだったけれど、彼らの家族がそうでないことは知っている。だから、再会するのも大変だったんじゃないか。
それに、自分たちでも疑い続けてしまう。この関係がどこから始まったのか、常に自信が持てない。
互いに好意を持つのは、君たちは恋人なんだよとあの男に言われ続けたからじゃないのか。それならこの感情も結局後遺症で、“治療”して“なかったこと”にするべきじゃないのかと。
「諦めたんじゃないの。ただ、私達は……」
お互いに違うと思ったから。
マキナは、ナツメにそれでも続けて欲しかったのだとわかっている。でも、恐怖と戦うだけのものが、ナツメとイザナの間にはそもそもなかったから。
それをマキナにうまく伝える方法がわからない。
ナツメは悩み、歯噛みし、結局言葉にすることはできなかった。代わりに出てきたのは、生ぬるいため息だけだった。
「……それでも、もう、クラサメとだって、なにかすることはないのよ。イザナと試すことは、もうないでしょうけど」
ナツメは逃げてしまったから、いつかまたクラサメに出会うことがあったとしても、犯罪者と捜査官以上の何者にもなれない。次のチャンスはない。
もう終わった。完全に終わった。終わらせたのはナツメだし、後悔はしない。頑なに。
「手に触れることも。一緒に映画を見て文句言ったり、買い物で待たせて喧嘩したりもしない。怒って家を飛び出して、それでも彼が追いかけてくるのを期待したり、日曜に朝食を用意することもないの。もうなんにもないの。もう、ああやって会話することすら、きっと」
後悔はしない。
後悔がない、のではない。後悔しないのだ。あの日クラサメはナツメを探してくれていた。名前を呼ぶ声が耳に残って未だに痛む。ナツメを助けるつもりだったのは言われなくてもわかることだ。
そのクラサメに責任を押し付けて逃げた。少なくとも彼らは、ナツメとマキナをみすみす逃したのだからキャリアにもダメージを受けたはずだ。ナツメはあまりにも無責任だし、ひどいことをした。
「……やっぱり、あんた、まだ」
マキナは少し苦しそうに舌打ちをした。まだも何もない。
こんなの一生引きずるに決まっている。ナツメの人生はきっと、彼に一生支配され続けるだろう。
「私のことより、レムとのことを考えなよ。そもそも私がイザナと仮にうまくいったとしたって、それはあんたたちの関係も大丈夫だって安全保障にはならないんだからね」
「わ、わかってるよ。……オレも、努力するよ」
「よろしい。時間はかかるけど、なんとかレムを呼び寄せる方法を考えてみるから」
「……うん」
簡単ではないだろうけど、マキナだって簡単ではないことを成し遂げてみせた。おかげで、あの男は死んで、今ナツメたちは少なくとも安心している。夜中に悪夢を見て飛び起きても、あいつはもう死んだと思い出せば安堵できる。
ナツメも努力しなければ。そう思った。
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