What's the point of to know me?
(そんなことを知って、どうなるっていうんだ?)
夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。
レムは足音を聞いている。
みんなさして意識しないけれど音には多くの情報が詰まっていて、知りたいことをなんでも教えてくれる。
「(看護師仲間のダニエルは昔太っていたみたい。膝と歩幅が少しおかしい。そして今は焦ってる。ウェザー先生の指示はいつもたくさんあるから、大変なんだよね。……それと、松葉杖の音が二つ隣の病室で響いてる。右足のスリッパの音が0.48秒遅い。5012号室のウィードさんだ、また外に出ようとしてるんだね。でも反対側から婦長が来てるから、どこにも逃げられないよ)」
多分これは、あの最悪の経験の副産物なんだろう。レムは昔、きょうだいたちと一緒に箱の中に詰められていたことがある。酸素の薄い暗闇の中では、どんなに闇に慣れた目も意味を成さず、周囲を探るには音を聞くしかない。
地下へ下る重たい足音、眠る前の小さな話し声。吐息。最後には心臓の音。その全てに耳を澄まし、降りてくる足音にはもっと気を配った。生きるために、命がしたこと。その経験が息衝くたび、レムは少し死にたくなる。それでもきょうだいが間違いなく存在することを証明してくれるのは他でもないきょうだいたち自身とこの感覚だけなので、感じ取ることをやめられない。
今日もたくさんの音を聞く。ストレッチャーの車輪がリノリウムの上を滑る音を感じながら、レムは仕事をする。
次は採血と検温に行かないと。そう思ったときだ。
レムはその音を聞いて、足を止めた。
左足がほんの少しだけ軽くて、踵で靴を押し込むような歩き方。成長期に箱に押し込められたせいで関節が歪んだための、特徴的な足音。
レムにはわかる。わかってしまう。もしかしたら違うのかもと思いながら、でもどんな雑踏の中にさえ同じ足音の人間はいないと知っているから。
彼だけだ。
ずっと探していた。ずっと見つからなかった。
レムは慌てて外階段に繋がるドアを開けると、兄に電話をした。
「兄さん、マキナがいる」
早く姉さんにも、連絡をしないと。
「……本気だったんですかーぁ……」
「当たり前のことをぐちぐちと。何度も聞きやがって」
「いやでも……ここに至ってなんですけど……まさか本当に下水道使うとは」
「やっかましいわね、これ以上うるさいと置き去りにするわよ」
「え?それは作戦同行の拒否ですか?それとも下水道に置いてくるつもりですか?」
「どっちのほうが泣き叫ぶ?」
「下水道に決まってるじゃないですか」
「じゃあ下水道にする」
「悪魔ですかあなたは」
クラサメがコーヒーショップから出てくるのを遠目に見つめ、「じゃあね」と言ってナツメはベンチから立ち上がった。全く、こんな朝の短時間に接触を図るしかないのは困るな。いくらFBIが全くナツメを見張る気がないように見えても、通信関係はチェックされているはずだし。
クラサメからラテを受け取ると、「あれは誰だ」とわざわざ聞かれた。知らない、つまらないナンパじゃないと答えると、しつこく言われたら私を呼べなんて言いやがる。
「それで?なんて言って追い払うの?これは私が面倒を見ている犯罪者です、って?」
「……そのあたりは……べつになんでもいいだろう」
「よくないよ。一番大事なとこでしょ」
「む……」
クラサメは数秒以上うんうん悩んでいたが、結局ナツメの腕を掴んで「恋人だと言ってやる、そう言ってるんだ」と言った。
ナツメのことでは嘘ばかり言う、知る限り最も誠実な男のその言葉をもう一度、丁寧に笑い飛ばしてやった。言えるもんなら言ってみろ、強気だ。
FBI本部に着いて、未だに注ぐ捜査官たちの無遠慮な視線を無視しながら、ナツメはクラサメの後ろを歩いてここ数週間ですっかり慣れたオフィスに入った。カヅサがすでに来ており、「や、遅かったねー」と片手を軽く振った。
遅くはないよねとクラサメに耳打ちしたところ、カヅサはあれでとんでもない仕事中毒であるという。中毒というかむしろ時間の感覚がおかしいのだとか。
「分析官を経験してるやつは、そういうやつが多いんだ」
「なんで?オフィスにこもりっきりだから?」
「さあ……もともと変なやつが多いからじゃないか」
「FBIの選考基準が気になるわね……」
「愛国心だ、基本はな」
「このオフィスからは感じないけど愛国心」
「試しにフロアの中央あたりで国家歌いだしてみろ、全員乗ってくるぞ」
「テキサスのバーでもそんなもんだろうが。あっちは州歌だが。ここは我がテキサス、ってか」
「それもそうだな。リクルーターに伝えておくか」
「来年からカウボーイまみれになるわね」
朝から愉快な会話をして、そのうちにナギ、エミナが出勤し、昨日レムから告発のあった件に移る。ナツメは早あがりしたので地味な調べ作業は一切手伝っていないが、一方レムと連絡がつくのはナツメだけなのでそれなりに大きい顔をしていられる。
「とりあえずあれから、資料だけは探しておいたよ。レムちゃんが看護師してる、セント・B・スビルー病院」
そう言ってカヅサはデスク中央に冊子を投げた。
「……調べたと言って、堂々とパンフレットを出す奴があるか」
「まあまあ、そこから説明するから。この病院はね、母体がまあ、そっち系列で。聖人の名前付けてるところからもわかると思うけど」
「ベルナデット・スビルーねえ……大層な聖人の名前持ってきといて、実際アングラなことばっかりしてるわけだ?」
「資本は献金が主だから、これ揉めるだろうねー。後が怖いよ」
「それで、なんで危ない奴らが入り込んでんのよ」
のんびりとした様子で始まる会議に苛立ってナツメが短く呻いて言うと、カヅサは少し笑って「まあ、待って」と言った。
「スビルー病院は、地域密着型で中規模の総合病院だ。外科と内科、皮膚科と小児科がある。歴史は古くて、設置年月日は八十年前だね」
「それにしちゃ、パンフレットの写真がきれいだ」
「去年、大規模な改築工事をしてる。一体どこからそんな金が出てるのか、って話だよね」
「宗教系の病院じゃあ、誰も詳しくは突っ込めねえからな……うまい手をつかったわけだ。表向き、献金ってことにすりゃいい」
ナギは鼻を鳴らして、汚いものを見るみたいな目でパンフレットの写真を睨んだ。ナツメの隣で、クラサメがため息を吐いた。
「宗教系の病院が、銃創処理やら出生証明のちょろまかしやら医療用マリファナ流出やらに最初から手を染めてるとは考えられない。誰かが関与しているはずだ、我々の得意分野の誰かがな」
得意分野、と言うときに、ちらとクラサメはナツメを見た。ナツメは目を細め、舌打ちを返す。
「別にニューヨークを根城にしてるマフィアはミリテスだけじゃないし。あいつらは元はロシア系だけど、マフィアって言ってもいろいろいるでしょ。中華系、メキシコ系……イタリア系は、最近とんと勢力を失ってるけど」
「ミリテスの仕業と言いたいわけじゃない。手口やしてることの重大さを見るに、マフィアクラスの厄介事が絡んでるのは確かだがな。それにミリテスが絡んでいるなら、お前の身内は巻き込まないだろう?」
「……そうとは限らない。カトルが個人的に私を守ってただけで、ミリテス内部には私を疎んでるやつもいるし。……疎んでるわけでもないのに直接襲ってくる奴もいるし……」
思い浮かぶのは義姉のクンミだった。唯一法的に家族と呼べる姉妹でありながら、疎遠にしてずいぶん経つ。ナツメを嫌う理由は向こうには特にないし、実際嫌われていないが、ナツメを巻き込むと知っていても爆弾の起爆スイッチを押す女だ。しかも高笑いしながら。
「ミリテスもなかなか一筋縄じゃないんだな……」
「そこそこでかい組織だからね……。まあでも多分今回はミリテスは関わってないんじゃないかな。手口がずさんすぎる。最終的に力押しでなんとかなると思ってる奴の仕事だわ。看護師に勘付かれるなんて」
そしてそこが、ナツメには苛立つ。
バレたら始末すればいいと言わんばかりの雑な仕事。犯罪者として低劣だ。殺人者なら殺人者の流儀があろうが、泥棒なら泥棒の流儀がある。
犯罪を仕事と捉えている人間には、少なからずこの思想がある。完璧主義で、立てた作戦に従ってすべてを遂行することが喜びで、成果。非常にバカバカしいと思ってもいるが、その思想なしでこの仕事は続かないとも知っている。
……そういうやつなら楽だったのに。思想がないということは、行動に一貫性がないということだ。つまり、動きが予測しづらくなる。
「献金の額は公表されているから、カヅサは増えた時期や痕跡から誰かと紐付けられないか分析してくれ」
「僕もたまには現場に出てみたいなあ……」
「別に出たければ出てもいいのよ?銃の携帯許可もない分析官がどうなっても知らないケド」
「にこやかに悪魔みたいな事を言うねエミナくん」
「フフ」
エミナは目を細めて笑った。きれいな笑い方をする女だ。自分が魅力的だとわかっていなければ、こういう笑い方はできない。
ナツメはクラサメの横顔を見上げる。
「ねえ、私潜入したい」
「駄目だ」
「なんでよ」
「危険だからだ。マフィアがいるなら何があるかわからん」
「でもレムを放っておけない。止めても行くよ」
「まあまあクラサメくん。ナツメもこう言ってることだし、どうせ潜入は誰かがやらなきゃいけないし?」
「エミナ、お前そんな無責任な……」
「でも実際、こいつ本性は猪突猛進系だから、マジで止めても勝手に行きますよ。一人で暴走されるくらいなら、多少管理できたほうがいいんじゃねえかな」
ナギまでもがナツメの味方をしたので、誰が猪突猛進だ狐野郎とナツメはナギを抓って、それから立ち上がった。
カヅサは組織の調べを続ける、クラサメとナギは現場に向かって偵察を始める、ナツメとエミナは潜入用のプランを練ることで決着し、三手に別れた。
そしてナツメはエミナの愛車でエミナの自宅へ向かった、のだが。
「……いやあのね、車がスポーツカーな時点でちょっとびっくりしてたけど、あなたは何?ペントハウスじゃんこれ……しかも超広いワンルームだし……FBIの稼ぎで手に入るもんなんか一つもないでしょう……石油王の愛人でもやってんの?」
「もらったものばっかりだけどネ」
「家もらわないでしょ……」
「ここはさすがに自分で契約してるヨー。まあ、ツテで相場よりだいぶ安いけど」
棚やテーブル、調度品の類はすべてヴィクトリア朝の雰囲気にまとめられ、明らかに高価なものばかりだった。クイーンサイズのベッドは窓際に鎮座し、ビロードのカーテンが縁取る壁一面に広がる窓からはたっぷり光が差し込んでいる。際に立って見下ろせば、ニューヨークの街が端まで見えそうだ。
窓の反対側、エミナが両開きのドアを開くと、自動でパッと電気がついた。きらびやかなドレスやら靴やらが並ぶそれはどう見てもウォークインクローゼットだ。
「ニューヨークでペントハウスに住んで、ウォークインクローゼットにシャネルのジャケットやらプラダのドレスやらドルガバのオートクチュールやら詰め込めるのは犯罪者か企業弁護士か娼館のマダムくらいなものだと思っていたわ……」
「そうかもね。でもどっちみち全部手に入るんなら、FBIの方が面白いわヨ」
「……で、これ、私にスーツを貸してくれるって話だったよね?ヴァレンティノのスーツで営業にくるMRなんてどこにいるの?」
「大丈夫、ワタシだって自分の給料で仕事用のスーツくらい買うわ」
けらけら笑いながら、エミナはクローゼットの手前から黒いスーツを何着か出してきて、そこからは裸に剥かれて試着大会になる。
あれでもない、これでもない。こっちはセクシーすぎ。これじゃ物足りない。
十着近く着せ替えられて、ようやくエミナは「合格」を言った。
「まさに女性の営業だわ。ロスの娼婦って感じ」
「おい」
「褒めてるのよ、ニューヨークならともかくロスじゃ娼婦はキャリアウーマンだし?」
「褒めてないよ。誰のことも褒めてないよソレ」
そもそも、その容姿で女を品評すること自体敵を作る行為だ。隙がなさすぎる。言われたほうにできるのは逆ギレだけではないか。
エミナが選んだのは、ダークグレーのストライプスーツだった。開襟シャツと若干短めのスカートは確かに、ウォール街よりロサンゼルスにイメージが近い。
「……そういえば、サ。クラサメくんとはどうなの?」
「どうって、なにが」
「だって、なりゆきだけど結局一緒に住んでるじゃない。何もないってクラサメくん言ってたけど信じてないからネ」
「何もないわよ。保護観察みたいなものでしょ」
「ホントに?」
「あるわけないでしょ、クラサメだってそこまでバカじゃないよ」
「……ホントかなぁ?」
「しつこい」
「あはは、ごめんごめん。クラサメくんがまさか本当に潜入先で誰かと恋仲になっちゃうなんて思わなかったから」
エミナが本当に愉快そうに笑うので、ナツメは呆れてため息をついた。同僚の捜査官だというのに、心配しないのだろうか。最初はあれだけ警戒されていたのに。
ナツメがどうしようもない悪女とか、そういう女だったらどうしたのだろう。いや、悪女なのかな。少なくとも善人ではないし、これからもそれは変わらないだろう。
水が合わないように感じることにも慣れた。学生の頃も、実家でも、突然知らない水槽に落とされたような違和感が付き纏った。
それでも苦しくないわけではないから、時々どうしても逃げたくなる。そういう気分になるたび、あの箱に詰められた経験が、自分を徹底的に変えてしまったことに気づいて吐きそうになる。
どちらも苦しいから、結局逃げることになるのだ。
ここももう潮時だなと、ナツメは理解していた。
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