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ナツメは最初、ただの愚かな子どもであった。
空から降る白い結晶が憎くて憎くて、生きる術は一つもなくて、略奪して略奪されての繰り返しだった。
あと何回、この痛いのを我慢したら、己は救われるのだろうか。何も知らぬ子どもが生きるには、寂れた街の路地裏は厳しすぎた。
喉の奥を、血管から溢れた血が逆さまに降っていく。口蓋を滑って、血が口から垂れ落ちる。悲鳴を上げる気には、もうなれない。

そしていずれのときか。
ナツメがその後も生きたからには、救われた原因が確かにあった。

ナツメを救った男は名をクラサメと言った。





穏やかに、されど悔いを残して死んだナツメは次に、湖のほとりの青草になった。隣に懐かしい気配を感じたが、風にそよいで絡むばかりで、言葉すら交わすことはできなかった。
枯れて白い猫になり、空を飾る一点の微かな光になり、次に本の下巻になった。
そして狼になって、蛍になって、きれいな剣の鞘になった。
彼もまた青草に、黒い猫に、星に、本の上巻に。狼に、蛙に、剣になった。
いつもナツメは彼の隣だった。ナツメはそれを知っていた。


次、ナツメは鷹になった。寒い土地は慣れていたのでどうということもなく、すぐに巣を飛び出して彼を探した。果てに見た大鷲を懸命に、食べるのも休むのも忘れて追うと、おそらくは初めて彼は進むのをやめて振り返った。

「なぜ、私を追う」

鋭く冷たい目をして、彼が見る。ナツメは、今にも倒れそうな身体で、か細い息を吐きながら答えを考えた。考えて、考えて、考えて、言葉が思いつかなかった。
だから結局、ろくな答えにはならなかった。

「あなたが……なによりも好きだから」

何の回答にもなっていない気がした。好きだから追う、なんてことが許されるはずがない。彼は呆れたような声を出して、踵を返すとさっさと飛び去ってしまう。
ナツメは、彼を追うべきではないと思った。これ以上はだめだと、そう思った。でも彼の姿が空の果てに霞みそうになると、背筋がぞっと冷えて、肌が粟立ち、全身がぶるぶる震え、大慌てで彼を追って飛び立っていた。それでずっと彼を追いかけて、栄養失調で死にかけるまで追い続けてしまった。地面に叩きつけられ、足が折れたのを感じた。
終わりだ。わかっていた。もうこれで、己の生はおしまいだ。ただでさえ動けない身体で、足が折れた。飛ぶことも休むことももうできない。
そう思って目を閉じるのに、すぐ近くで羽音がするのでゆっくり顔を上げた。

するとそこには、あの彼が静かに立っていた。その顔には逡巡が浮かび、懊悩が見えた。ナツメがもう一度ゆっくり目を閉じ地に臥せる隣で、飛び立つ羽音を聞いた。
よかった、と思った。彼は飛び去った。死んだ後、腐る己の身体を見られるのは嫌だなと、いまさらなことを思って笑う。
そうして幾許か、痛みも苦しみも感じなくなった頃、不意にどさりと、なにかが落ちる音がすぐ近くで鳴った。もう身体を動かすこともできないし、目を開くこともできない。そう思う中で、不意に嘴がこじ開けられるのを感じた。

「……?」

なんだろう。突然、口の中に何かが入ってきた。咀嚼する力がないナツメのために、飲み込めるぐらいに小さくなったそれはおそらくねずみの肉片だった。
何度かそれが繰り返されるも、ナツメは結局途中で意識を失った。
それが翌朝、目を覚ましたので驚く。

私、生きてる。
でもどうして。もう死ぬんだと思ったのに。
どうして?

ふと見れば、傍ら、彼が木の根本に座り込んでいた。眠っていないのだろう、ただ静かにナツメを見ていた。
どうして。呆然としながらそう聞いたら、彼はしばしの沈黙ののち、「私にもわからん」と言った。

ナツメは少しずつ回復したが、折れた片足は曲がったまま動かなかった。これではどのみち、猛禽類としての生はうまくいかないだろう。ナツメはそう思って、彼に謝った。ごめんなさい、助けてくれてありがとう、でも大丈夫よ。一人で行って。しかし彼はじっと黙って座り込み、ナツメが回復するまで食事を運び続けた。
今度はナツメの呆れる番だった。こんなことして、ナツメが求愛給餌だと勘違いしたらどうするつもりだ。

ナツメが飛べるくらいまで回復すると、今度は彼は小枝を集めて巣を作った。ナツメをそこに押し込めると、今度は大型の鳥を狩って咥えて持ってきた。
食えというのである。

「ねえ、私もう大丈夫だよ。これ以上は……」
「いいから食え」
「で、でも……!」
「つがいになってやると言ってるんだ」

どうせおまえ、またついてくるんだろう。だったらもう最初から一緒にいてやるんでも、結局同じだ。
なんかいろいろ言っていたが、驚きのあまり動けなくなったナツメにはほとんど聞こえていなかった。
それからつがいとして狩りに出たりしたのだが、嬉しくて嬉しくて、本来なら別々に狩りに行くものをついついまたついていってしまったが、ともかくその日々は彼が寿命で亡くなるまで続いた。
ナツメは泣いて泣いて、彼に食事をと狩りに出た。してもらったように、細かくして口に運んでを繰り返した。でも彼が動かなくなって、冷たくなってしまって、ナツメは彼の死体の傍らにゆっくり身を横たえた。

ああいつか、こんなこともあったような。私はいつから彼をこんなにいとしく思い、追いかけてきているのだろう。
わからない。思い出せない。もう、ただただいとしい。

そのまま死んだナツメはいつしか、彼のことを忘れ、全てはただその光を、傍らの彼を追うだけの生となった。
次にナツメは小魚になった。群れで動き、大魚のふりをする魚。ナツメはそうやって生きることの意味がよくわからず、いつも群れからはぐれては慌てて戻る、そういう生き方をしていた。
……そこまでしなきゃ生きられない命を、どう捉えよう。そんなことを考えながら、でも群れの先頭に彼を見てしまったので、はぐれていなくなることもできなかった。必死で彼を追いかけて、でも彼の目に映ることはなくて、諦めるより早く、最後には大魚の口に丸呑みされて、胃で溶かされて死んだ。短い生であった。

それからも。
何度も、同じことを繰り返した。
幾百、幾千を越えても変わらず、ナツメは彼を追い掛け続けた。追いかける理由ももうずっと昔に失って、ただ追いかけるばかりであった。





そして、ナツメは今、初めて彼の背を追っていない。
けれど彼の名を知っている。彼はクラサメ。強く気高い魂の名。彼は魚で、鷲で、剣で、狼。美しく輝く、決して折れないまっすぐな光。

ナツメは歩いている。歩くたび激痛が足に刺さる。喉の奥が干上がる。
生きているのだろうか。自分は、生きているのだろうか。考えても詮無きことと、ナツメはただ歩き続ける。
そのうちどうして歩いているのかわからなくなってくる。何を目指して歩き出したのか、この痛みを負ってまで何を求めているのか。
彼はいないのに。

「……おい」

痛みがひどい。何もわからない。見えないし聞こえない。ただ激痛が、ナツメを苛む。
息ができなくて、喉の奥が干上がりキリキリと痛んだ。それでもナツメは歩いていく。

「おい、……お前」

ナツメは歩き続ける。目の奥に赤い色が広がる。血管が破裂したのだ。
歩き続ける。内耳で短い破裂音がした。血が垂れる感覚が首に伝わる。
歩き続ける。内臓がぐずぐずに千切れていくのが自分で知覚できる。皮膚が、筋が溢れるのを支えているばかり。

ナツメ!!」

何も聞こえていないはずだった。でも足を止めた。
ふらふらと、ひとところに留めるのが難しい頭をゆっくり後ろに傾ける。振り返る。

そこにはクラサメがいた。クラサメが、闇の中に立っていた。
真っ暗なのに、彼の姿だけは見える。この闇の中において、光は彼ただひとつなんだと、だから彼だけあんなによく見えるんだと、うすぼんやりした頭で思った。
彼が驚いて見つめる先、ナツメは己の身体を見下ろす。赤い視界では見えづらかったが、よくよく見れば真っ黒に錆びた有刺鉄線がナツメの足から下腹までを覆って締め付け、皮膚を何十箇所も貫いていた。
痛みの正体に気づいて、それを外そうと動いたが、有刺鉄線の棘はより深く刺さるばかりだった。

そんな恐ろしい光景にも、ナツメは恐怖も疑問も抱かない。ただ見下ろしていた。

「待っていろナツメ、こんなものすぐに千切って助けてやるから!」

待っていろ。いいな。
言い聞かせるように、クラサメは叫んだ。

できないよとつぶやく声は、きっと彼には聞こえなかった。そう思う。
ナツメは振り返るのをやめ、また少しずつ歩き始めた。ナツメはクラサメを見て初めて、自分が歩く意味を知った。

これは罰だ。かみさまが私を許さないのだ。私のような愚かな女があの光を求めてしまった。そのことが罪、これは罰。
彼を解放するために、ナツメは彼から離れて歩かなければならない。命をかけて縛ってしまった彼を、絡まった命を解いてしまわなければならない。
離れようとする命の命じるまま、心を殺してナツメは進む。

「おい、ナツメ、待てと言っているだろう……!」

背中から彼の声がする。聞こえないはずなのに、ちゃんと聞こえる。そんなことに幸福を感じる。

「これね。私をこっちに引っ張ってるの。だから、抗わなければ大丈夫なの」

「だからなんだ!?こんなもの、千切ってしまえば……」

「だめだよ。それ、私たちの命だから。もう千切らないで」

絡まって、ナツメとクラサメを結びつけ、縛ってしまった。それが解けようとしている。引き離されようとしている。

「はっ……?」

「あなたを縛っているのは私の命だから、私たちは互いを向かなければ自由になれる」

「おい、何を言っているんだ……?」

クラサメの呆然とした声が痛い。ナツメは目の奥がつんと熱くなって、熱がじわじわ瞼をすり抜け涙となって溢れるのを感じている。

「あなたのことが、なによりも好き。私のことよりも。こんな命に縛られて、うまく触れることもできないくらいなら、あなたに自由に生きてもらったほうがずっといいんだと思う。……もっと早く気付けばよかった。どうして私、あなたを追いかけたんだろう。……あなたが逃げてるって、ちゃんとわかってたのに」

振り返りたい。本当は。
四肢が千切れようと、意識が途絶えようと、たとえどんなに壊れてしまった後にでも、彼の懐に飛び込んでそこで死にたい。
でもナツメには、それができない。どんなに望んだって、ナツメは己にそんなことは許せないから。

それがわかっているから、ナツメは棘など関係なしに止まれない、のに。


ナツメ!!」

彼が、もう一度ナツメの名を呼んだ。
ナツメは堪らない気持ちになって、とうとう振り返って彼を見る。

ずいぶん久しぶりに真正面から見据えた顔はまるで初めて見たような気がして、鋭い双眸はナツメを逃さぬといったふうにしっかり見つめ続けているのであった。
クラサメは足など置いていっても構わぬといわんばかりの迫力で、彼を縛る蔦を引きちぎった。

そうして、走り出し、ナツメを捕まえるために手を伸ばす。
ナツメはただ一言、呟いた。
愛してるわ。


ナツメはそこで己の限界を知った。足が崩折れ、内臓はとうとう決壊、視神経が眼球を支えるのを諦めずるりと滑る。
もうずっと前に死んでいた死体が、人間を装うこともできなくなって、終わる。
ぐしゃりと地面に叩きつけられ、ナツメの生は終わった。

最後にクラサメの指が己をつかもうと迫るのを見た。それだけだ。








「……全く、カヅサは……今度ばかりはさすがに許さないわ……」

ぶつぶつと呟きながら、ナツメは湿布等の外傷薬を用意する。ナツメが動かしていたとはいえ、眠っていた時間が長いから筋肉がだいぶ硬直しているだろう。筋肉を解すものが必要だ。
そうしてため息を深く吐き出しながら彼の傍らの椅子に座った瞬間、

「……ナツメッ!!」

「うわぁっ!?」

突然叫ぶように名を呼ばれ、ナツメは椅子ごと後ろにひっくり返った。お、起きたのか。ナツメはおもむろに、椅子を戻しながら立ち上がる。

「びっくりした、でもよかったわ。起きたのね。もう大丈夫?」

目を合わせて問うと、彼は幽霊でも見たような驚いた顔でこちらを見ていた。それから、意図せずと言った様子で、「ナツメ」ともう一度呟いた。
何か変な夢でも見ていたのだろうか。愛しさにおかしさが入り混じった不思議な気持ちで、ナツメはクラサメの手を握った。

「はい、私はここですよ」

「……」

クラサメは無言で手を強く握り返した。どこか憔悴したような様子に心配になって、ナツメはカヅサに怒りを向ける。

「全く、二日も眠らせるなんて許せないわ。薬を作るのはいいけど、どうしてすぐ人に使うのかな……次やったら器具を片っ端から没収してやるんだから、もう」

「……ナツメ

「ん?……あ、」

クラサメはとつぜん、ナツメを抱き寄せた。普段ないくらいにきつく、ぎゅうぎゅう締め付けてくるので、「ぐぎゅっ」と潰れた蛙のような息が漏れてしまう。
一体どうしたのだろうと心配になったけれど、彼が望むそれが嬉しくて、こっそりクラサメを心配しまくっていた0組が見舞いに来る足音が聞こえてくるまで、ナツメはおとなしく彼の腕の中に収まっていた。









そして、次に。
次の次、次に次次次継ぐ次に。

ナツメは小さな旅芸人一座の座長の、身持ちの悪い妻の腹から生まれた。
母はお産で死に、父はナツメの出自を疑い、ナツメに向けられたのは憎しみだけだった。

まあそれはいい。慣れている。
どこの世界にも、喜んで受け入れられたことなどなかった。ナツメはどこまで行っても異邦人だ。

剣も戦争もないただ貧しい世界を、一座の馬車の最後をけんめいに歩き、しかしナツメは何かを探していた。あの懐かしいにおい、温度、光。その全てがただ一人を指し示している。
ただ、名前が思い出せなかった。彼はなんて名前だった?

重たい金属でできたアクセサリーはひたすらに邪魔だった。いつぞやのときのように、大きな翼を広げて彼を追いたいとナツメは思っていた。命がまた果てる日まで、ナツメは彼を追って走りたい、生きたい。
でもその理由がひっかかって、彼の名前と同じように曖昧だ。この世界に生を受けた日から、ナツメのまぶたにはずっと不鮮明なヴェールが掛けられているのだ。
これを剥がして。ナツメは祈る。
ああでも、祈るだけじゃ駄目。

「……似合わないものね」

自分がどんな人間だったかなんて、わからないけど、でも似合わない。きっと似合わない。
私には。

そして、山の麓を通りかかったとある夜だ。
ふっと、ナツメは光を見た。光はヴェールを通してもはっきりと見え、まるでナツメの道筋を照らしているように明るい。
ナツメはそっと一座の最後を離れ、光を追って森に入った。空腹で足は重たかったが、それでも浮き立つ心がナツメを前に進ませた。

何時間経ったかわからない。夜が明け、太陽が高くのぼった頃、視界が不意に開けた。
小さな村があった。

留め具の壊れかけたサンダルを引きずって、ナツメは光を追って歩いた。そうして最後、ある家の前で足を止めた。
“彼”だ。“彼”がいる。気配がある。
どうしよう。ここに至って緊張して、ナツメは動けない。

そう思った時、ドアが開いた。出てきた少年はナツメには気付かず、壁に立てかけられた農具に手を伸ばし、調子を確かめるような仕草をし始めた。
ナツメは迷った。さんざん迷って、それで結局、後退った。足首に幾重にもかかったアンクレットががしゃりと音を立てる、彼が気付く、こちらを見る。一対の目。

彼はただじっとそこに立っていたが、じりじりと差す太陽の光が頬を焦がす前に、ナツメに向かって歩き始めた。ほんの七歩、短い時間だったけれど、途方もなく長い七歩だった。
その道程を軽々踏み越え、彼はナツメの手を突然に掠め取った。

「あっ、」

「最初からこうすればよかったんだ。どうして追い掛けてばかりで、一度も隣に来なかったんだ」

それは叱責で、ナツメは身を縮こまらせた。ナツメにはそれがどんなに難しいことか、きっとわからぬ彼ではないのに。

「私……私は、あなたのことが、なによりも……だから……」

でもきっと、難しいことでも乗り越えて欲しいんだろう。この人は。
ナツメにだけ、それがわかる。

クラサメのことならなんでも知っていた。


彼はナツメの手をぎゅっとつかみ、太陽の下を歩き始めた。

二人がこれまで歩んだ世界は途方も無く厳しかったが、これから往こうとする生も結局同じだけの苦痛と苦労が待っていた。それでも二人は手を離さないだろうし、終わっても何一つとして恨むことはないのだろう。
いずれかの果てに何があってもずっとこうしていよう。クラサメはそう言った。

ナツメはどうしようもなくうれしくなって、この世界にはなにひとつ恐れることなどないのだ、生きることも死ぬことも彼を失うことだって、もちろん嫌だけれど恐れる必要なんてないのだ、その別れの上にまた自分たちはきっと手をつなぐのだと確信めいて思って。

落ちた涙を空いた手で拭い、懸命に笑って「うん」と言った。


船頭を征く灯火は二つ、ずっとずっとそうやって、互いを懸命に追いかけ続けているのであった。



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