I wanted everything that i never had.
(手に入らないものはすべて欲しかった。)
夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。
フェリーは、川の上を行くのには他のなにものより速く、陸を行く車よりはずっと遅いスピードで、イーストリバーをのぼっていく。海から流れ込む潮風が髪を舞い上げて、ナツメはそれにただ不愉快な気持ちになる。
既に焦りでいっぱいだ。情緒も何も感じている余裕がない。
突然降ってきた女に周囲の客は驚き、混乱しているようだったが、奥から出てきた従業員にナツメが乱雑にチップを押し付けているのを見て関わるのはやめようという雰囲気になった。従業員も「いや料金がとかそういう問題ではなくて……!」と喚いていたけれど、警察に通報するにもまず陸へ降りてからだろうし、突然空から降ってきた乗客への対処法なんて思いつくはずがない。うるさい、黙れ、金は払うしこれ以上の迷惑もかけないからすっこんでろ。端的にナツメがそう述べると、結局はすごすご引き下がった。
足が折れることもなかったし、想定外にうまくいった。橋が低い位置にあったのがよかったなと冷静に分析しつつ、さてどうするかなと考える。
とりあえず分断はうまくいった。橋の上に向けての狙撃は止んでいるようだった。やはり標的はFBIではなく、ナツメだ。
だがそれにしては、気になる点が一つあった。
スナイパーの心当たりは二人。どちらが犯人だったとしても、ナツメを殺したいのなら、できたはずだ。あの長距離射撃は、ザイアス兄弟なんて“小物”には無理だが、あの二人ならどちらにとっても“むしろ簡単な部類に入る狙撃”。ならばナツメを殺したいわけではなかったということ。
そうであれば、この分断はナツメの思惑というより、向こうの策略にまんまと乗った形である。しまったと思わないでもないが、ナツメがあのままあそこに留まればFBIを皆殺しにするという形でナツメを一人にしただろうから、飛び降りたのは間違っていない。
それに、相手がスナイパーなら、最善の策は遮蔽と迂回。FBIの彼らが攻撃を受けないのなら、攻撃の機会はある。
「……ま、見捨てられるかもしんないけどね」
その場合は、身軽になったと思うことにしよう。記録が見られないのは残念だが、ダメで元々だったし、別に機会が絶たれるわけじゃない。
フェリーはサウスストリート・シーポートに到着する。甲板を通り抜け港に降りたとき、ナツメは港に通じる階段を降りてくる人影を見つけ、自分を狙撃していたのが誰か理解した。
うっすら褐色の肌に、白金の髪がよく映える。にやにや下品な笑みを顔に浮かべていた。美人なくせに、その容貌の持つ魅力すべてを言動口調行動で駄目にする女の代表格みたいなやつである。
「よお元気かクソガキー」
「……クンミ」
「さて、刺されるよりゃーマシだよなァ?手軽にバチッと、な」
全く躊躇もなにもなく、彼女は手に持ったスタンガンをナツメに押し当てた。あっと悲鳴を上げる暇もなく、ナツメは全身に走った激痛でぐったりと動けなくなった。
スタンガンは気絶させる武器だと思っている者が多いが、実際のところ、激痛と麻痺を与えるものだ。だから意識はあるし、感覚はあまりないが自分に何が起きているかはわかっている。
「おーおーナツメ、久々に姉さんに会えて嬉しいってかあ?そりゃ最ッ悪だな誰がてめぇみたいなのの姉なんだか。こちとらまともに人間だぜ?」
悲鳴もなく崩れそうになったナツメを介助するふりをして支えながら、クンミは人の多いサウスストリート・シーポートを抜けていく。けたけた笑って、耳元で「このリビング・デッド」と悪態をつくのが聞こえた。うるさい馬鹿、そう言い返したいのに言葉にはならなかった。
クンミはナツメを運び最終的に路上に停めてあったバンの後部座席に押し込んだ。ぐったり倒れ伏すナツメなどもう見向きもされず、ドアが閉まって、おしまいだ。
クンミが助手席に乗り込むのが見えた後は、動き出した車の中で曲がった回数や体感の速度を数えていた。クラサメには伝えたが、助けが来るかは既に賭けだから、逃げ出す方法を考えなければならない。
「おっと、忘れてますよ」
信号のためか車が停止したそのとき、運転席にいた女が明るくそう言い助手席のクンミになにかを差し出した。そうだったそうだった、助手席のクンミはそう言って上半身をよじり、細い鉄の筒のようなものをナツメに向けた。
そして、まだ痺れている太腿の皮膚に何かが突き刺さるような感覚があった。ナツメが意識を失う直前に見たのは、インスリン注射のような、素人でも扱える小さな注射器と、クンミの嘲笑うような笑みだけだった。
次に目が覚めた時、ナツメは光の中にいた。
大きな窓から注ぐ白い陽光の柔らかなこと。穏やかな朝だと思った。
目覚めの水面、揺蕩う隙間、世界には自分一人だけ。何も認識できないし、自分の名前すら判然としない夢うつつの中。
この瞬間だけは、何も考えず幸せを信じていられるとナツメは知っていた。過去もいまも未来も何も関係ない、ただの白い世界。
でもこれはどうしても長く続かず、意識は覚醒へ向かう。
そして全てが戻ってくる。
箱の中にいたときのこと。キスしたこと。結婚式。
指先の動きひとつ、自分の自由ではなかったこと。
「……おい、起きたぜこいつ」
戻る意識の中でようやく、ナツメは自分の有り様を知った。
己にのしかかる大柄の男が一人、まさにナツメの服に手をかけ、引きちぎらんとしていたところのようだった。ライダースジャケットはジッパーが下げられ、中のシャツのボタンがいくつか飛んでいる。
「トゥルーエ!別に好きにしていいんだろ?」
「あー?……あれ、そんなこと言ったっけか?イネス、お前言った?」
「イイエ、まあ確かにあの女はすごく、それはもう嫌いですが、クンミ様の命令なしにそんなことはしませんよ」
「だよなぁ……。それじゃ、殺しちまってもいいか」
クンミとイネスの声が続けざまに聞こえた後、パァンと、骨の髄まで揺らすみたいに鋭く、それでいて乾いた音がした。重たい身体がナツメの上に崩れ落ちる。
それをクンミが蹴り飛ばし、ナツメの横に倒れ伏したので、ようやくナツメは動けるようになる。後ろ手に縛られてはいたが、上半身を起こすことには成功した。
「ちょっと……何なのよ、この男は……」
「ああ、その死体な、なんだっけ?なんたら兄弟?」
「ザイアス兄弟の兄のほうですよ、クンミ様」
「そう、そのなんたら兄弟な。FBIを撃つならやっぱ適当な誰かにやらせるに限るだろ?で、タイミング良く激怒してるアホがいたから、うまいこと釣っただけさ。FBIが総出で出てくりゃ、カトルが用意した連中もお前を守る余裕がなくなるしな」
「え、私まだ監視されてるの?さすがにそろそろ気持ち悪いんだけど」
会話しつつも、ナツメは周囲に視線をやった。どうやら、どこかの工場のようだ。地面はコンクリート、壁は煉瓦、無駄にだだっ広く窓は高い位置にある。本来なら、用途に合わせた機械をたくさん置くはずの床だが、資材がいくらか隅に積まれている以外は何もない。
何一つ設備がないところを見るに、偽札や国債の印刷、あるいはハッパの栽培をする工場に化けるのはこれからなのだろう。窓の位置が高いせいで、周囲に目立つ建物があるかさえわからない。ここはどこなのだろう、せめてニューヨーク市内であることを祈るが。
そんなことを考えながら、ナツメはクンミの顔をじっと見据えた。
「……それで、私に何の用なの?クンミ」
「聞かなくてもわかるだろそれくらい?」
「カトルの件よね」
「そうそう、礼がしたかったのさ」
クンミは傍らにぽつんと置かれていた、無意味に細かい意匠の入った椅子にどかりと座った。イネスはその傍らにぴしっと背筋を伸ばして立つ。
妙に誇らしげだ。クンミへの敬愛をつねづね公言しいつまでたっても憚ることのできない女なので、クンミの隣に立っているということがもう嬉しいのかもしれない。ナツメには到底わからない感情である。
「カトルの野郎をぶち込んでくれて助かった。これでこっちもだいぶ動きやすくなるってなもんだ」
「……そんなにカトルを疎んでいたとは、知らなかった」
「別に疎んでなんかない。ただ、邪魔だっただけさ。いいことを教えてやろう。ミリテスってのは、でかい組織なんだ。当然一枚岩ではいられない……それは、幹部でも同じこと」
自身もミリテスの幹部であるクンミはいつになく穏やかな顔をして、お前もある程度は知ってるだろうが、そう前置きして続けた。
ミリテスという組織はそもそもカトルの親族が作った組織であること。始まりはよくあることで、古き良き禁酒法時代、酒の密造から。
いくつものギャング、マフィアが生まれては去ってを繰り返す中、ミリテスが生き残れた理由はわからない。手堅く抗争に打ち勝って、運良く警察のがさ入れを逃れて、そういうことの繰り返し。
そして先代、カトルの父の時代だ。
厳しい時代だった。ニクソン政権下に麻薬取締局ができてしばらく経ち、仕事は相当やりにくくなってきていた。
それで苦肉の策と手を出したのが、幼児誘拐だった。
「子供ってのはいろんな用途があるよなあ。子供を亡くした人間も、健康な臓器がほしい人間も、子供にしか性欲をぶつけられない屑も欲しがる。売る組織はちゃーんと別にあるから、そこに売り渡すだけ。そこそこ大きな儲けにゃなったらしい」
けれど、これは諸刃の剣であった。
麻薬で人間を狂わすことはできても、子供を誘拐して売り飛ばすことに罪悪感の芽生えない奴はそういない。
組織は離反者を多く出し、幹部も揉めた。
それで、当時ボスだったカトルの父を弑してその地位に成り上がったのが、シド・オールスタインである。
これがおおよそ、十年ほど前の話。
「……待って、じゃあシドは、殺した男の息子を養子にしたの?」
「ま、カトル自身、父親とはほとんど会ったこともなかったみたいで、特に復讐心とかもなかったみたいだがな。それでカトルも、今やボス。シド様は数年前に退いて、今は相談役ってことになってる」
そして、そこからが問題だ。
クンミはにっこり笑って言う。
カトルは、シドの傀儡になるべきボスであった。
そのためにシドは彼を養子にしたというのに。
「なのにあいつ。まるで父親の罪滅ぼしをするみたいに、売られていった子供を探してくるわ、そいつらを自分の邸に抱え込むわ……。挙句シド様が命じた仕事は悉く無視しやがる。ボスになるまでは従順な犬だったくせにな、最ッ悪なことに、最近じゃシド様よりあいつに従う部下ばっかになってるしよ。ここらでいっちょ、誰がホントの主人か教え込んでやろうと思ったんだよ」
「シドの命令じゃないのね」
「シド様はこんなことお命じにならない。そんな必要はないからな。それが本物のボスってやつなのさ」
自分の余罪を増やさないのが、か。組織のボスってのも大変だなと、ナツメは内心だけで嘲弄した。
だが、決して口や表情には出さなかった。狂信者の前で崇拝されている偶像を蹴り飛ばしたところで、別に信仰が薄れるわけじゃなし。
「それで……カトルに言うことを聞かせるために、私を痛めつけて写真でも撮るわけ?」
カトルにどの程度効果があるかは知ったことではないが、怒り狂うことにかけては間違いあるまい。ナツメのために刑務所にまで入るような男だ。恋愛らしきものが互いに全くないというのが、いっそ不思議なほどである。
クンミがナツメをいつでも殺せるのだと、いつでも壊せるのだと言われたら、ある程度のことはしてしまいそうだ。
「おお、良い勘してんな。まさにそのとーりだよ。あっ、なんたら兄弟!そうだったそうだった、あいつがお前襲ってるとこ撮ろうと思ったんだった」
「下種な考えだね」
「おいこらナツメ!お前は立場をわきまえろ!だいたいクンミ様がそれでお前を襲わせるわけないだろう、なんかいい感じの写真さえ撮れたらあの男は殺すつもりだったんだ!」
「ああ、うん、ありがとう……」
イネスが全力で妙に情けないことを言い張る。クンミの性格上、それもそうだろうなとは思ったので、特に反論はしなかった。
残虐な性格をしてはいるが、ナツメを傷つけて喜ぶわけではない。カトルを疎んでいないと言った、その言葉に嘘はないだろう。
ただし。
必要と判断すればナツメもカトルもためらいなく殺すだろう。
この世界は、“そういうもの”だ。どんな業界よりビジネスライク。復讐も怒りも何もない。必要と判断したことだけをする。これがとても難しく、これができなければ生き残れない。
それじゃあどうやって逃げ出そう。FBIがじきに探しに来ると知れば、お荷物のナツメは処分されてしまうかも。まだ死ぬわけにはいかない。
どうしようかな。迷いながら視線を彷徨わせた、そのときだ。
窓に小さな光を見た。
光は断続的に、ニ、三度チカチカ光って、消えた。ナツメはそれに、つい笑った。
「あー……クンミ。ねえ、姉さん?」
「どうした、義妹」
「少し後ろに下がった方がいいわ」
「あ?……チッ、イネス!」
クンミが察し、イネスの腕を掴んで椅子を蹴り倒し、壁際に下がる。直後、鋭い爆発音。
ガラスを割って、銃弾がクンミの座っていた椅子に突き刺さる。
そしてほぼ同時に、銃弾によってヒビの入ったガラスが粉々に割れ、陽光に輝きながら降ってくる。よほど質の悪いガラスだったらしい。低品質で空気を孕んだガラスは、ちょっとした刺激で粉々になってしまうのだ。
ナツメは慌てて顔を背け、イネスやクンミもまたそのようにしていた。
「っち……フェイスの野郎だな……!!」
「クンミ様、こっちも狙撃しかえしてやりましょう!?」
「馬ァ鹿!狙撃できるような場所に行ったら向こうを見つける前に撃たれて死んじまうだろ!!」
「あー、とりあえず、逃げたら?別にフェイスもそこまでしてクンミを殺したいわけじゃないだろうし」
「言われなくてもそうするっつうの!!」
クンミは盛大に舌打ちすると、壁際を歩いて工場の出口を目指す。ブーツのヒールが床を踏みしめ、怒りが伝わってきた。
一方のイネスが振り返り、悩んだ後、十ミリの銃を滑らせて寄越した。彼女もまた主の苛立ちを受けてだいぶん苛ついているようだったが、状況を詳しく調べられてまずいのはナツメより彼女たちのほうだ。
「そいつを殺したのは正当防衛ってことにしておけ。手の縄はもうとっくに解いてるんだろう」
「あれ、気づいてたの?」
「それぐらいできない女を守らなきゃならないなら、フェイスの阿呆がいくらなんでも哀れじゃないか」
彼女は鼻で笑い、クンミの後を追い去っていく。それを見送ってから、ナツメは己の髪にかかったガラスを払う。
さて、銃声が二発も鳴ってしまった。銃声に敏感なニューヨーク市民なら通報するだろうが、そもそも付近に人がいるかどうかもナツメにはわからない。
市警とFBI、どちらが先にここに来るかな。
立ち上がると眩暈がして、結局ふらりと膝をついた。何やら薬を打たれた記憶があるし、まだ残っているのやも。
壁際にゆっくりと近づき、ガラスの破片のないところに腰を下ろし、だんだん強くなる頭痛や吐き気と戦う。そうして、クンミが飛び出していって数分は経った頃。
バタバタといくつもの足音が響き、工場の入り口から金属音が聞こえてきた。どうやらクンミたちは、出て行くついでにきちんと鎖でナツメを閉じ込めて行ったらしい。
暫時、言い争うような声がした後、鎖を解いたのか扉が開く。そして、銃を構え中を窺いながら、見慣れたスーツの人間が数名、入ってくる。
ナツメは笑って片手を軽く上げ、「一応不法侵入になっちゃうんじゃないの」と聞いた。
クラサメは、「お前は服役中の扱いだ」と短く言った。
ああ、逃亡犯が逃げ込んだ先に、不法侵入もなにもないか。
実際とはまるで異なる法解釈に、ナツメは肩を竦めて笑い。
そして、頭痛と吐き気に絡め取られるように、ゆっくり意識を失った。
「……おい?ナツメ、どうした、おい!!」
畜生、クンミのやつ、一体何の薬を打ちやがったんだ。
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