She knows it takes to fool this town.
(彼女はこの街を馬鹿にするってことがどういうことか、わかってる)
夢主の名前を入力し、変換をクリックかタップしてください。デフォルトだと“ナツメ”になっています。
彼女が薬物の中毒症として診断を受け、検査入院することになって、しばらく。クラサメはその青白い顔をじっと見つめていた。
i run but please follow me from SSS, pick me up.
逃げるから、サウスストリート・シーポートから追いかけて、助けて。そう言って、ナツメは橋から飛び降りた。
そして、ザイアス兄弟の死体とともに発見された。
担当看護師がFBIをものともせず入ってきて、意識のないナツメに微笑みかけた。そして引きずってきた点滴台をベッド横に置くと、針のキャップを外しナツメの腕の内側にゆっくりと刺す。
テープでそこを押さえてから、なぜかポケットから絆創膏を取り出した。そしてその絆創膏に、胸元のポケットに刺してあった赤いペンで何事か書き込み、腕のテープの上にそっと貼る。
「なぜ絆創膏を?」
クラサメがつい聞くと、看護師は微笑んだまま、「こうしないと、外してしまいそうなので」と言った。
意味はよくわからなかったが、クラサメには知りようもない理由があるかもしれないと思った。それに加えて一睡もできなかった彼の気力はとうに切れていた。
ので結局、深くは聞かなかった。
自分につながれた管を見ながら、ナツメは目を覚ました。自分の置かれている状況を理解するのに少し時間がかかって、その間ずっと、透明なその管を見ていた。
……何だこの状況。
ついとっさにその管の先の針を引き抜こうとして、しかし手を止めた。針を止めているのは医療用テープだが、その上から絆創膏が貼ってある。そこに小さく書かれた、赤いハートマーク。
「……え?」
絆創膏に見覚えがあった。というより、そこにハートマークを書くという行為に。
周囲をうかがって、ようやくそこが病室であることと、真昼であることに気がついた。己の服は傍らの椅子の上に畳んで置かれていて、ナツメ自身は患者用の薄くて固いガウンを着せられていることも。
「……」
真横の棚の上に、自分のスマートフォンを見つけ、取ろうとして手を伸ばす。が、手元が狂って、巧くつかめずに取り落としてしまう。
「あっ、」
高い音を立てて、それはベッドの下に入り込む。その音を聞きつけたらしい誰かが、病室のドアを外から開けた。
「お、やっと起きた」
「ナギ……」
見慣れた金髪と呆れたような表情。どうかしたのかと聞かれ、スマートフォンをベッドの下に落としてしまったことを告げると、彼が屈んで取ってくれた。それを受けとりながら、ナツメは混乱する頭で問いかける。
「ねえ、ここ病院だよね?これ、この絆創膏……」
「あ?絆創膏がなんだよ?」
「……いや、なんでもない」
でも彼女が、こんなところにいるはずはないし。
とりあえず今日、手が空いたら連絡してみようと思った。そういえばここ数か月、ちゃんと話せていない。心配だし、きっと向こうも心配してくれている。
「お前はただの検査入院なんで、たぶん今日中には帰れるから。クラサメさんに連絡してくるから、まだ動くんじゃねえぞ」
「……」
「返事!」
「うぁっ、はいはい……」
担当医が来て、診察といくらかの話をし、丸一日意識がなかったのでしばらくは運動を控えるようにとかそういったお決まりの話をされた。ナツメに打たれた薬は昏倒させる以上の効果のあるものではなかったようで、特に気をつける必要はなさそうだとも。
担当医は、そんな薬を打たれた女がFBIに連れられてやってくるという状況に思うところがあったのか、暴行被害の形跡はないようでしたが、と口ごもる。何も起きずに済んだのは確かなので、特段問題ないとだけ伝えた。それ以上の問答はなく、退院の許可をくれた。
その場で担当医に点滴を引き抜かれ、絆創膏を見咎めた彼に小言を言われたが、ナツメは絆創膏を剥がさせなかった。片方だけ剥がして針を抜かせると、小さな赤い針の刺し傷の上に絆創膏を被せた。ハートマークが少し滲む。
――早く良くなりますように。
そう呟くように言った声をナツメは覚えている。部屋の隅で探してきた絆創膏。赤いペンで彼女は小さなハートを描いた。子供らしい、くだらないおまじないが、妙に己を安堵させたことも。
担当医と入れ違いで、クラサメが入ってくる。少し眠そうに見えた。寝てないのかと聞いたら、おかげさまでなと嫌味が返ってくる。もしかして自分のせいなのかと重ねた問いに、返答はなかった。
「体調は」
「寝すぎたときみたいなだるさは感じるけど、問題ないと思う」
「そうか」
服を着替えながら、彼の質問に答える。彼は一瞬言いよどむ気配を見せてから、「死体のことだが」と椅子を己のほうに引き寄せながらクラサメは言った。
「うん」
「ザイアス兄弟の、兄の死因は胸部を一発、即死だったようだな。落ちていた拳銃と、線状痕が一致したとさっき連絡があった。あれはどうしてできた死体だ?」
「あー……襲われて。それで、向こうの持ってた銃奪って撃っちゃった」
「弾道を調べた限り、角度が明らかにおかしかった。銃弾が体内に残っているのも、もみ合いの末ならおかしい。どちらかというと、起き上がったところを少し離れた距離から銃撃した。そんなふうに見える」
「ふぅん。でもそれって、“確実”じゃないんでしょ。私は慌てて銃を奪って逃れて、離れたところからでもとっさに撃ったかも。それでも充分正当防衛でしょ」
「それで、どうしてできた死体だ」
「だから、正当防衛で」
「ナツメ」
クラサメが、鋭くもない、優しくもない、まるでなんともない声で―お前はきっと真実を語ると全く信じていると疑わない声音で―ナツメの名前を呼んだ。
落ちる沈黙をきちんと読み合って、目が合うだけで全部理解してしまう。……決して付き合いが長いわけじゃないのに、どうしてすべて信じることができるんだろう。彼も、己も。
その理由が知りたいのに。そしてそれが、ただ純然たる愛情だけであると思いたい。
この男を愛さずにいられるような理由を、探している。
「……。あれは、カトルを逮捕させたことについて、私を標的にした襲撃だったの。それで、ザイアスって奴も利用されてただけ」
「殺したのはそいつらか?」
「そうよ」
「窓ガラスは?」
「……そっちは、カトルの命令に従って私を守ろうとした人間が、威嚇で撃った……みたいな」
「そいつらを指名手配するために、情報はあるか」
「いや、何もわからないから。しなくていい」
「そういうわけにもいかんだろうが」
嘘ではない。まるですべて、誰が行ったかはわかりませんという体で話してはいるが、嘘ではない。
ともかく、そうなるとなかなか問題である。
「可能なら証人保護プログラムの申請を……だが、二度通るという話は聞いたことがないな……」
「もしもーし、まさかとは思うけど、証人保護プログラムでマジで逃げ切れるとか思ってるならあなたの頭の中は思っていたより愉快なところみたいね?」
「む……だが実際、一度は逃げ切れているんだろう」
「できてるわけないじゃん。カトルに捕まってる。今から思えば、私が自分から裏社会に入ったから迎えにきただけで、ずっと見張られてたんじゃないかな」
「それは……そうだな。ああ、関わった相手が悪すぎるな。確かにその通りだ」
クラサメは、相棒だったころからとても優秀だった。無理なことは無理と、きちんとわかっている。
どうあがいても逃げ切れない相手というのはいる。それこそ、全てを―人間関係だの財産だのなんて簡単に思いつくものだけではなく、これまでの人生で生きるために培ったもの、経験や努力、間違いなく人生の全てを―捨てて、北欧の僻地とか、アジアの山奥だとか、そういうところに逃げ込むのなら、そりゃあなんとかなるだろう。
もう盗みも詐欺もしない、言葉も生まれも忘れ、細々とした農業をしたり日雇いの労働者として倹しく生きていくのなら。
逃げ切れる。生き延びられる。そこまでは誰も、追ってなんかこないさ。
「本当、とんでもないのに絡まれちゃったわ」
でもそれは逃亡というより、もはや自殺なのだ。
たったひとりの雲隠れ、なんてのは。
「……とりあえず、警護をつけるか。それでしばらく、ほとぼりを冷ます」
「無意味だってわかってるでしょ?何人いたって同じ、掘る墓穴を増やすだけの嫌がらせにしかならないよ」
「それじゃどうする、殺されるのを待つのか」
「いいえ。私、刑務所に入るのは別に平気だったけど、まだ死ぬわけにはいかないの。……ねえクラサメ、私の命はあなたの中で、優先順位どれぐらい?」
「……」
クラサメは無言で、ナツメの手を握り込んだ。外からナギが覗き込んだら、その一瞬でわかってしまう。
まだここに何かがあること。クラサメが、同僚に知られるべきではないこと。
「お前が、一番だ」
「……そう」
ナツメはじっと、深く目を閉じた。
それなら、ナツメはこうするのがいちばんいい。まだ死ぬわけにはいかないナツメは、覚悟を決めた。
「最悪クビになっても、あなたは裏社会でもうまくやっていけるよ」
「……できれば御免こうむる……」
「そうでしょうとも」
あなたはそういう人でしょうとも。
ナツメは彼の手をじっと握り返した。
クラサメと、廊下で待っていたナギに連れられて病院を出る。不意に、後ろ髪を引かれるような奇妙な違和感を覚え、敷地を出る前に振り返ると、二階の窓にこちらを見つめる人影があった。
レム。その名を心で唱え、ナツメは一瞬混乱した。どうしてここに。そう思ったけど、彼女が泣きそうな顔で笑って、胸元で手を振ったのを見て、はっと正気に戻った。
ナツメも手を振り返し、後でねと口の中で呟く。クラサメが気付いて腕を引くまで、そうしていた。
敷地を出て、煉瓦の歩道を歩いて地下鉄の駅へ向かう。車じゃないのかと聞いたら、ナギは口をへの字に曲げクラサメは渋い顔をした。
「……あの狙撃で、バンは再起不能になった。修理するくらいなら買い直した方が早いと言われてしまってな」
「それはそれは」
うちのクンミがすいません、そういう気持ちにはなったが、まさか言うわけにもいかないので肩を竦めた。
いやナツメのせいでもあるんだが、もとをただせばFBIのためにカトルを売ったことが原因だし。
「FBIって車一つしか持ってないわけ?」
「いや、さすがに壊したばかりで新車を申請するのは憚られるってだけ」
「んーお役所っぽい。金がないのね」
ナツメたちは三人で地下鉄を使った。昼過ぎ、ちょうど空いている。
だめになってしまったライダースは抱えて持ち、腕に貼られたままの絆創膏をじっと見つめていると、それに気付いたクラサメが「何が書いてあるんだ」と聞いた。ので、見せると、変な顔をしてみせた。
「どうしてそんな模様を書くんだ?」
「描いたのは私じゃない」
「はあ?じゃあ誰が」
ナギが怪訝な顔で問うのを黙殺した。別に言うほどのことでもないと思った。
彼女があそこにいたのはただの偶然だろうけど、今はただの一般人である彼女を巻き込みたくないし。
ブルックリンブリッジ・シティホール駅で下車し、駅の出口の階段を上がる。ナツメは不意に足元の水たまりに気を取られ、立ち止まった。その拍子に、互いに気がついていなかった誰かと真正面でぶつかりそうになって、ナツメはとっさに半歩後ろに引いた。
階段を上がったばかりであるということも忘れて。
あっと声を上げる暇もない。階段の淵から踵が滑るのを感じ、ナツメは内心とんでもなく焦った。地下鉄の階段ときたら、急だし長いし、頭を打ったら命にかかわる。
だからその空間を裂いて、黒いスーツに包まれた腕が伸び、ナツメを抱え上げてくれたときは、やっぱりとんでもなく安堵したのだった。
「はーっ……お前、気をつけろ……」
「く、くらさ、クラサメ」
クラサメは手すりに左手を引っ掛け、右手でナツメの腰を抱き込むように支えている。ナツメとしても半ば足がついていないのだから、クラサメによって宙に浮かされているようなものだ。
ひやひやしながら、クラサメの支えで姿勢を正常に戻す。と、ぶつかった相手が謝罪の言葉を口にした。
「すみません、ちゃんと前を見てなかった」
「あー、ええ、そうね……」
そう言いながら、互いに顔をしっかと見たときだ。
目の前の男の目はみるみる見開かれ、一方ナツメは一日に二人ともと出会ってしまうという強運にうすら寒いものを感じた。
「イザナ……」
「ナツメじゃないか」
「っはーもう、何なの私たちは。どれだけ強固な運命に操られていたらこんなことが起こるのよ?」
いっそのこと、呆れてしまう。あの子に会ったばかりで、今度はイザナと出くわすだなんて。
イザナは濃紺の、ニューヨーク市警の制服を着ていた。手にオレンジ色の小さな紙の束を持っているので、どうも駐禁を切っていたらしい。
「……ニューヨーク市警で警官になるって言ってたの、マジだったわけ……」
「そんなくだらない嘘をつくはずないだろ」
「いや、それもそうなんだけど」
イザナは苦く笑って言い、ナツメもまた笑いながら首を傾げた。
「うん、でもよく似合ってる。いいんじゃない?」
「おう。そんなわけだから、これからはオレの前で犯罪計画を暴露するなよ」
「したことないでしょそんなこと」
失敬な、これでも巻き込まないためにそこは気を使っているというのに。顔を顰めたナツメの腕を、不意にナギが引いた。
「おい、誰だ?お前に警官の知り合いなんていたのかよ」
「あー……ええと……」
一瞬躊躇った。レムのことを言わなかったように、できれば知られたくない話だったのだ。イザナのことも。
だが、出会ってしまった以上は、もう勘ぐられるだろう。特にナギはその点容赦がない。そういう男であることはよく知っているし、再会してからこっち、幾度か鋭い詰問を受けているので。
なら、巻き込めないよう、本当のことを話したほうがいい。そう判断したとき、クラサメの眉間の皺が目に入った。
そいつは誰だと言いたげなその不機嫌そうな皺に、ナツメは笑い出しそうになり、そして悪戯心が首をもたげるのを感じ、その心の命じるままにした。
「ええと、そうね、元夫?」
「ナツメお前、そういうブラックジョークはやめろって何度言ったらわかるんだ!?」
「ジョークじゃないでしょ、実際結婚式を……ああ、離婚してないから元がつかないのか?」
「頼むからせめて兄貴とか、そういう嘘をついてくれないか。ビビるから」
「じゃあ別居中の夫」
「話を聞いてくれ……」
がくりと肩を落としたイザナに、FBI二人は混乱を極めている。クラサメは訝しむ表情をしてみせ、そしてそれを変えなかったが、多少の動揺はあるらしい。
「ちょお待て、お前、何、結婚してんのか!?」
「広義の意味では」
「してないって言ってるだろ!ナツメこら!!」
「ま、そうね、その話はもういいわ。イザナ、FBIのナギとクラサメよ。私がコンサルティングさせられてるチームの人間」
「はっ!?FBI!?」
スーツ姿で、バッジも普段は見えない場所につけているので気が付かなかったらしい。二人がバッジを見せると、イザナは少し慌てるような様子を見せた。それもそうか、現職のFBIに犯罪者と懇意にしているところなど見られたい警官はいない。
だからナツメは、説明をする。
「それで、こちらはイザナ。私の隣で箱に詰められてた、かわいそうな被害者少年そのいち、よ」
ナツメが誘拐され、売られ、行き着いた地下室には既に少年二人の兄弟がいた。
彼は、その片割れ。ほどなくして、ナツメたちを監禁していた男が新たに幼い少女を買ってくるまでは、三人で寒い地下室に閉じ込められていたのだ。
「……!おい、ナツメそれは……!」
「ええ、ごめんねイザナ。でも言わないと勝手に嗅ぎ回られるだろうから。警官になったばかりなのに今FBIの人間があなたに探りを入れるなんてこと看過できないでしょ」
「良い話みたいな言い方だけどそれ結局お前のせいだろ、お前が犯罪者じゃなきゃFBIと関わることもないんだから。まあいいけど」
「それじゃあ被害者同士でまだ親交があるって?接点を持つのは珍しいな……」
ナギが驚いたように言う。それも確かにその通りで、実際互いの保護者によって接触は絶たれていた。事件のことを思い出すことに繋がるので会わないほうがいいのだと、FBIの人間にも言われたらしい。
それでも、偶然出会ってしまったのだけれど。
FBI支局とは駅を挟んで反対側にある警察本部へ帰るというイザナと別れ、支局に戻り、その後はザイアスが死んだ時の現場検証に付き合わされた。クラサメに言われたことと実際起きたことを参考に整合性を図ったので、他の捜査官には疑われずに済んだ。それもどうよ、と思ったけれど、結局犯罪者を射殺できたことに変わりはないので詳細はどうでもいいらしい。
ナツメが捕らえられ、薬まで打たれたという部分については伏せて、ナツメを捜査官の一人と勘違いしたザイアスが拉致したというストーリーにチームで作り変えた。カトルを逮捕させたナツメを狙う人間がいるという話は、ナツメの希望で伏せられた。
仕事を終えて帰宅して、夜。ナツメは自分の金で買ってきたワインとサラダをローテーブルに並べ、シットコムのドラマをソファで眺めながら食べた。クラサメはクラサメでダイニングテーブルで食事をしている。もともと会話の多い恋人ではなかったし、関係を解消しても会話が増えるわけではない。
「ナツメ」
「んー?」
ここに越してきてからこっち、やはり会話は多くないのだが、今日は少し違った。
「今日の、あのイザナという男は」
「嗅ぎ回られたくないから本当のことを話したんだけど?」
「夫だとか言っていたのは、何だ?」
てっきり監禁のことを聞かれると思っていたので、少し驚いたが、そういえば嫉妬心を煽ろうと夫と紹介したのを思い出す。つい口を開けて笑ってしまい、クラサメに嫌な顔をされた。
「夫っていうか。ううん、でも夫なのかな?っていうか、私の事件のファイルくらい読んだんじゃないの?」
「……」
「読んだのね」
ナツメはまだくすくす笑いながら、食べていたサラダをテーブルに戻した。
そりゃ読むだろう。自分の勧誘したコンサルタントが犯罪被害者であると判明したなら。読まないほうが無責任だし、クラサメならちゃんと目を通しているはずだ。
「あいつはね、トランスジェンダーではなかったらしいんだけど、でもそのあたりが不明瞭なやつだったのよね。幼少期、アメフトごっこと人形遊びを並行してやりたがるタイプだったんでしょ?タイプってほどそういうやつが多いかどうかは知らないけど、ともかくそれを親が“異常”の兆候と受け取った。保守的な家庭だったのね」
「ゲイになると思ったのか」
「そういうこと。それで、人形遊びみたいな、女の子らしい遊びを徹底的に禁止した。こっそりと手を出しているところを見つけるとさんざんに折檻もした。あいつは、大人になって、サイコパスの典型らしく会社を作って大成功。金があったから、地下に子供を四人も押し込めて、数年も隠し通せたみたい」
それで。
人形遊びには、もちろんまず女の子が必要だ。でも彼が最初に手に入れたのは、とある兄弟だった。男には、欲しい“人形”に明確なビジョンがあって、それに最初に合致したのはイザナたちだったのだ。
少年たちは元々、そう遠くないところに住んでいて、男はそれを誘拐し地下に閉じ込めていた。まだ十にもならない兄弟だった。兄のほうはナツメと歳が近く、ほどなくして新たに買ってきたという少女は弟のほうと歳が近かった。たぶん、意図してのことだったろう。
「……おいまさか、夫って……」
「人形ごっこで結婚式っていうのは定番なのかもね。人形だから、私にもイザナにも台詞はなかった」
ただ棒立ちで目を見開いていることが重要だった。
持ち主である男の機嫌を損ねたら殺されると知っていて、それに集中していたことをよく覚えている。あとは、白いワンピースを着せられていたこと。ダンボール紙で作った、教会みたいなかたちのハリボテの前で結婚式をさせられたこと。あとは、口を乱暴にぶつけ合わされて互いの口から血が出たこと。
とても痛かったのに、涙すら出なかった。
人形なら出ないはずの血を持ち主に見せないことばかり気にしていて。
元々人形ではないことを主張したら、殺されると思っていた。
「そんなこと、調書には書いてなかった」
「言わなかったのよ。何も覚えてない、そう言い続けたし。実際、事件の直後は何も覚えてなかった」
いや、覚えてないというより、何をさせられたか全くわからなかったの。腰を掴まれてぶつけられた、そう説明することすらできなかった。
あれは不思議な感覚だった。
地下室は酸素が薄くて、箱に入れられるとなおのこと息ができなくて、ずっとくらくらして辛かったのを覚えている。箱に閉じ込めアルミラックの下に押し込まれ、出ることもできない。かといって外に出されるときは、遊ばれる合図だから怖くて、でも充分に息ができたから閉じ込められている間はひたすらそれを待っていた。
途中から、自分が何を求めているのか、何に支配されているのかすらわからなくなった。
助かりたいのか。この男に助けてほしいのか。ストックホルム症候群にはならなかったが、本物の人形みたいに何も考えることができなくなっていった。
他には、事件のことはもうあまり覚えていない。飼われていた数年間を、一日とか一週間とか、それ以上でも、ともかく区切って考えることができないのだ。始まってから終わるまでの数年間が一つの出来事で、その中で起きた一つ一つを時系列に並べたりとか、そういうことが一切できない。
「それで、あいつとは親密なのか」
「そう見えた?」
「お前があんなに穏やかなのは、初めて見た」
そう言われたとき、ナツメは初めて、よくなかったかもしれないと思った。
イザナをあんなふうに紹介するべきでもなかったし、クラサメの前で親しいところを見せないほうがよかったのかも。どうせ後で、話はするのだから。
ちょっと妬かせたいと思ったのは、確かだ。
でもこんなふうに、怒りより悲しみを思わせる顔をしてほしかったわけじゃなかった。
ナツメは立ち上がり、ダイニングテーブルに片手を置いて椅子に深く座る彼を、後ろから抱きしめた。
「イザナとそういうのはないよ。本人が言ったとおり、きょうだいみたいなものよ」
「お前にとっては、誰より信用できるのは事実だろう」
「それはそうね。確かに、そうかもしれない」
「あいつと住むんなら、偽造パスポートを隠し持ったりはしなかった。だろう?」
「そりゃあそうね」
クラサメがどんな顔をしているかは見えないけれど、でも、その淡々とした声音がむしろ恐ろしいと思った。彼が平静を装っている証のような気がして。
「でもね。イザナが私を裏切らないのは、私をそういうふうに愛してはいないからよ」
「……」
「私たちはむしろ、家族なの。私とイザナと……あと、二人。四人で一つの家族なの。互いのために全力を尽くすし、たしかに大事に思ってる。でもそれだけなの。私たちは家族だから、互いにたいして欲がない。もっと知りたいなんて思わないし、それ以上なんて望みすらしないよ。そういうものなの」
口ではそう言いながら、でもクラサメとイザナやレムを比べて、いちばん大事なのは誰かと聞かれたら、答えようがないなと思っていた。
クラサメには一番だと言わせておきながら。
不誠実極まりないし、最低だとも思う。でもこの関係はなんなのだろう?
恋人でなくなったけど、互いに愛しているというのなら。
「もう寝るね。また明日」
「……ああ」
ぴったり当てはまるような言葉はないような気がしていた。そしてそんなもの、探さなくていいとも思った。
『……全く、姉さんが運ばれてきたときは本当、心配すぎてこっちの心臓が止まっちゃうかと思ったんだから。薬物ってなに?気をつけてよね、裏社会なんて危険ばっかりなんだろうし……』
「悪かったってば……それにしてもレム、ニューヨークに来てるなんて知らなかったわよ」
『言おうとしたけど、姉さん、最近の自分の連絡がどれだけ雑だったかわかってるでしょ?』
「ああ……」
『もしもし、私ナツメ、逮捕された。すぐ出られると思うけどしばらく連絡はできないかも。っていうのが二ヶ月前で、その後一回釈放されたってメールを寄越したきりだからな。レムもオレも心配したんだぞ』
「うう……ごめんなさい。刑務所は時間決まってたし、FBIに釈放されてからも……」
『それからは時間あったよね?』
「う……うん……」
『あったみたいだな』
『次あったとき姉さんをビンタする、と……』
「レム!リマインダーにそんなこと追加する妹は私嫌だな!」
深夜、グループ通話。
ナツメはベッドに置いたスマートフォンに向けて、なるべくの小声で怒鳴った。
「っていうか。イザナは結局警察官だし、しょうがなかったと思うけど……レムをFBIの前に出したくないのよね。職業柄、人質を取られるようなものだし」
『FBIに人質取られるって字面がすごいよね』
「でも事実だしね。イザナも最悪の場合仕事失う覚悟しといてね」
『お、おい、NYPDに入るのにオレがどれだけ苦労したか、』
『まあそれもしょうがないよね』
『れっ、レム!』
ナツメが犯罪者でさえなければ、そんな問題は起きなかったかもしれない。けれど実際犯罪者だ。
そしてこの二人は、ナツメが“そう”していることを、決して責めない。足を洗うことを薦めることもない。理由があってのことだと知っているから、そしてこれからもそういう技能が必要になるとわかっているから。
ナツメだけではない。同じ理由からレムは看護師になり、イザナはニューヨーク市警の警察官になった。どれもすべて、これから必要になる技術のため。
「それで……マキナについて、誰か情報は掴めた?」
『残念だけど、私はまだ。兄さんは?』
『オレもまだ警官になったばかりだからな……でも、ここからだ。ナツメだけに負担はかけさせないからな』
「期待しとくよ。……うん、でも、そうだね。私もFBIに関われるようになって、表と裏の両面でのアクセスができるようになった」
想定外の運びだけれど、意味はある。運はそう悪くない。
「できるだけ早く……マキナを見つけるわよ」
そのために私たちは時間をかけて、ここまで来たんだから。
ナツメの言葉に、電話の向こうで二人が微かに頷く気配を感じた。
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