崩壊の音だけが聞こえていた。崩れてきた瓦礫は、しかしクラサメの上には降らなかった。
否、おそらくは降った。ただ、子どもたちが魔法でそれを守ったのだ。崩れる音が止んだ後の、一瞬沈黙した世界でようやくそれを知る。
『……なあ、クラサメ先生、早く起きてくれ』
『先生が危ない。エイトがなんとか止めたけど、頭を打ったみたいで意識がないんだ』
ゆっくりと目を開けば、子どもたちが数名クラサメを覗き込んでいた。見ればその顔や身体から、闇が少しずつ剥がれ落ちていくのが見える。
卵の殻のようだと思った。黒く、呪われた殻だ。彼らを蝕む病のようなもの。
「……あいつ、が?」
起き上がれないままで出た声はひどく掠れていた。そういえば喉を焼かれ、治癒魔法はかけられたもののいまいち完治とは言えない状態だった。
全身に鋭い痛みが走っている。爆発の衝撃で、クラサメは吹き飛ばされていた。
「……」
それなら。
クラサメよりずっと戦い慣れていない彼女は、たしかにクラサメよりずっと危険に晒されたってことだ。
クラサメは全身が軋むような痛みをあくびみたいに噛み殺して、ゆっくりとしかし確実に起き上がった。一瞬一瞬がうめき声を上げてしまいそうに痛かったが、それでも身体は止まらなかった。彼女は、彼女は?彼女は、生きている?守れたのか?
彼女は壁際で、ぐったりと転がっていた。傍らに膝をつくクイーンが深く頷いたので、無事なのは間違いないようだった。
安堵を覚えると同時に、クラサメは気がついて子どもたちを振り返る。
「エースは……!」
『エースは……エースは、先に行った』
『大丈夫、もう痛くないから』
セブンとケイトが苦く笑って言う。
ここに、十一人だけがいて。エースはまた、ここにいない。
クラサメが突き立てた筈の剣は確かに傍らの地面に突き刺さっている。やはりあのとき、エースが爆発して。女王と道連れに。
先に行った。エースはまた一人だ。
「……ならば、早く追わねばならんな」
『そんなことより、早くあいつを助けてってば。アタシたちじゃ無理だしさ。それに、城がやばそう』
ケイトに言われて、立ち上がり、ふらつきそうになるのを耐えながら彼女の方へ歩く。意識なく身体を投げ出している彼女のすぐ近くに、折れた角が転がっていた。衝撃で二本とも折れてしまったらしい。それだけ強く頭を打ったということでもあり、クラサメの顔は自然と険しくなる。
だが、『壁に一度ぶつかって、落ちたの。シンクちゃん止められなかったよ……ごめんね』、泣きそうに顔を歪めて言うシンクに、クラサメは気にするなと言った。
守れなかったならクラサメの落ち度だ。子どもたちは何も悪くない。何一つ。大人の都合に振り回されて、こんなところまで付き合わされて。
「女王は、死んだのか」
『マザーもエースも、先に行って待ってるんだ。俺たちも行かないと』
「……そうか」
キングの言葉が、深く刺さる。
行かないと、なんて。こんな未来、歩ませたくなかったのに。
と、不意にピシピシと音が頭上から聞こえ、小さな石のかけらがぽろぽろと落ちてきた。さっきの爆発で、城はかなり危険な状態らしい。
クラサメは彼女の軽い身体を抱き上げて、子どもたちを振り返る。妙に軽くて怖かった。転生して記憶が戻ったばかりだというから、まだ年の頃はせいぜい十五か十六か。子どもたちと大差ないじゃないかと呆れる。
『ヒュウ、そうしてると犯罪くさいね』
『意識のない少女を運ぶ元兵士……やばっ』
「張り倒すぞお前たち」
『しょうがないじゃん先生、真実だよただの』
「ぅぐっ……」
不思議なもので、昔ほど苛立たなかった。融通のきかない性格と自分でも思っていたけれど、場合じゃなければこんなものか。
彼女を抱えて、クラサメたちはホールを出る。階段を下りていく。棺が大量に並んだ部屋を過ぎて、昇降機を下っていく。
城が崩れていく轟音が響く中、気を紛らわすみたいにいくつか話をした。
『そういやここでクラサメにボコられたぜコラァ』
『まだ何も決まってないのに一人で飛び出してくからじゃん?』
『ねえそういえばあっちでピクニックしたことあるよねぇ〜』
「授業をサボるのをそう呼ぶのかジャック……」
『あんだよ、そいつだって一緒に来てたんだぞ』
『そうそう先生も一緒だったもん〜!』
『クラサメ先生には内緒と言って無理やり連れ出した記憶しかありませんがね……』
『そういえば先生はずっと気にしてたなあ、これクラサメ先生知ってるのよね?知ってるのよね?って』
『最終的には楽しそうだったし、いいんじゃない?』
『あっちの窓からナインが落ちそうになったとき、大騒ぎになったの覚えてるか?』
『ああ、デュースのときもだ。あのときは先生がいなかったら大変だったな』
『クラサメ先生が来たばかりの頃やったテストで、何問か知らず知らず全員が同じ答えを書いてカンニングを疑われたこともありましたよね?』
『あったあった!偶然かぶっちゃったやつね〜!!』
『あれは腹立ったよシンクちゃんも〜?』
「……それは、まあ、すまなかった」
『本当だよもう、謝ってよ〜』
『まぁ全員クイーンの答え見てたけどね!!』
「おい」
ぽっかり空いた時間を埋めるみたいに、いつも無口なエイトやキングも積極的に喋った。いま、全員で終わりに向かっていることが、よくわかっているみたいに。
歩く度、彼らの身体から闇が剥がれ落ちては消えていく。呪いがとけていくのを、クラサメはただ喜んだ。彼らが解放されることをずっと願い続けてきた。
昇降機が一番下について、扉が開く。早く、と押し出されるようにしてクラサメは外に出る。
昇降機を出れば、もう外だ。クラサメが剣を隠しておいた洞窟にもつながっているが、目指すのは小さな入江の船着き場。いざというとき、王族が使う脱出路の一つだ。
一応浜の上にボートが残っていたが、六百年も経てば腐食も激しく、強くぶつかったら簡単に壊れてしまいそうに思う。真っ暗で灯台もない海に漕ぎ出すのだってとんでもなく危険だ。
けれどこのままここにいては、確実に死んでしまうから。
「すまんな。……こいつは、巻き込みたくない」
『先生は関係ないもんね。わかるよ』
彼女の、全く力の入っていない身体を、そっとボートに載せる。どうか無事で城を出てくれるよう祈った。
「お前たち、手伝ってくれるか。ボートを押し出さないと」
身体は重く、彼女ここに連れてくるところまではなんとか終えたものの限界だった。ボートの重みも加わった彼女を押す自信がない。
と、振り返った先で子どもたちは首を傾げたり肩を竦めたり眉を顰めたりと、一様に『何を言ってるんだあんたは』といった仕草を返した。
『クラサメ先生。行ってあげないと』
『先生が一人ですよ』
エイトが顔を顰めて言い、クイーンが首を横に振った。
言われた意味を一瞬考えてしまうくらいには、クラサメには信じられない話だった。
「私が、お前たちを置いていけるか」
『ううん、行ってくれなきゃ。だってそれが、エースの望みだから』
ケイトがじっと、クラサメを見てそう言った。クラサメも覚えている、エースの言葉。
お願いだから助かってくれ。なんて。
そんなこと承服できない。だって、そんな。
お願いだから助かってくれなんて。クラサメだって、きっと彼女だって、同じように思っていたんだ。
そう思っていたのに、こんなことになってしまって。助かるなんて選択肢、どうしたって選べるはずないのに。
『ナイン、左足持て』
『オウ』
『よっしゃあ僕も〜』
「っな、お前たち、何を!?」
子どもたちの中でも体格に優れた面々が、数人がかりでクラサメを掴み、ボートに投げ落とす。クラサメはといえば、先客の彼女にぶつからないので精一杯であった。
「何をしている……!教師を投げるんじゃない!!」
『うるっせえなあ、もういいだろそーいうのよぉ』
ナインが、腹の立つことに、呆れきった顔で言って、ボートを足で強く蹴り海に押し出す。
『もういいから、幸せになりやがれバァカ。よくわかんねえけど、エースもそう言いたかったんだろ』
本質しか見られない愚かな子供が、そんなことを言う。もうまともに身体の動かないクラサメは、揺れる船から起き上がることすらできない。
くそ、そんな、だめだ、お前たちを置いて生き残るなんてそんなことできるわけが。
クラサメは必死に身体を起こそうとする。だけど、刹那。
『……わたし、ひとりじゃなくて、よかった』
大丈夫だよと気丈に笑う、シンクの言葉が聞こえた気がした。
意識が薄れる。
彼女の体温だけがずっと確かで、あとはそれだけ覚えている。
私は光の中にいる。
そう気付いたのは、目覚めが近いからだろう。程なくして、ゆっくり目が開いていく。
眩しい。燦々と注ぐ日差しがじりじりと肌を焼いているのを感じ、私は舌打ち混じりに飛び起きた。
「肌が荒れるっつうの!!……あれ?」
後ろについた手が砂を踏みしめるみたいな感覚だったので違和感を覚えたが、当然だった。私が寝そべっていたのは砂浜だったのだ。どこまでも遠くに広がる海が視界を埋め尽くしていた。
慌てて顔を上げ、周囲に視線をやりながら私は立ち上がる。身体のあちこちに鈍痛が残っていたが、妙に気が急いている。どうしてだろうと思いながら濡れそぼったスカートを絞り、足や手にしつこく残る砂を海で洗い流す。
脳はとりあえず状況を把握し始める。ここは砂浜で、海が視界の半分を占めていて、海の反対側には森。
「最悪だわーここがどこだかわからない」
笑うしかない。
私は苦笑しながら、なんとか歩き始める。
ええと確か、そう、エースが私の呪いを取って、それで。
エースはどうなった。私はどうしてここに。
クラサメは、子どもたちは?
「城に……城に行かないと。ここどこよ……」
舌打ちしそうになりながら、私は必死に足を動かす。せめてここがどこだかわからないことには動きようがない。
白い浜に、空の水色が融けるみたいだ。綺麗な場所だなとは思ったけど、どうでもいいのでとにかく歩く。
と、進む途中で、砕けた船の破片のような大きな木の板をいくつも見かけた。そしてそのうち、果てのないような長い砂浜の、まだ遠くに黒い影を見る。私は慌てて駆け出す。
ただでさえ黒いコートは海水のせいか色濃く染められていた。火傷はうっすらとだが確かに残ってしまっている。
綺麗な顔なのにもったいないなと思いながら、私は彼の隣に跪いて彼の肩を揺すった。
「クラサメ……!!」
「う……」
彼の、薄い唇が動く。
長い睫毛がにわかに揺れて、ゆっくりと緑の双眸が覗いた。
彼もまた、ここがどこだかわからず混乱したような表情を一瞬見せてから、ゆっくりと私を見つめる。
そしてそれから、かさついた唇を開いて、動かして、懐かしい名を呼ぶ。
私の名前を。
それから。
「それで、……なんと、呼べばいい?」
掠れて途切れる声が、問うから。
それで一瞬、ほんの一瞬だけながらも何もかもどうでもよくなって、私はなりふり構わず彼にすがりついて泣きわめいた。
クラサメは身体を起こし、私を抱きとめ、言葉少なに顛末を語る。
子どもたちに救われたこと。女王がもういないこと。彼らが崩落する城に残ったこと。
私たちだけが助かってしまったこと、生きていること。
怒りと悲しみ、痛みに混じる確かな喜びと安堵。
もう逃げる理由がないこと。ただ生きていけるということ。
喜べばいいのか嘆けばいいのかわからなくても、命はここにあって、物語が終わっても、私たちは。
私たちが、綴られていく。
私たちは、生きていく。
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