クラサメと二人、私は真っ暗な廊下を進んでいく。
私たちを見下しているだろうあの女王が不意を打ってくるとは思えないが、何が起こるかわからない。というか、何か起きてまた死ぬのは避けたいのが本当のところだ。戻ってくるのに数百年かかるし、また成功するかはわからない。
その警戒心を感じ取ったクラサメが振り返って顔を顰める。

「さっきからどうした、ずっと警戒して」

「警戒もするでしょうよ、私たち今ライフ残1なんだよ……」

「意味がわからん」

「もうこれがラストチャンスなんだよ……」

次はない。いや普通、最初からセカンドチャンスはないんだが、私たちはそれを手に入れてしまったから尚思うこと。もう次が、無い。

私たちはホールの手前で、気配を感じて立ち止まった。闇の中に、影がある。闇との境界線すら見えなかったが、十一の息遣いがたしかにそこにあった。

『マザーと戦うつもりか』

口火を切って、最初に問うたのはサイスだった。クラサメが私をかばうように進み出て、それに答える。

「戦うどころか、倒すつもりだ」

「く、クラサメ……」

剣呑な色が容赦なく宿り、子どもたちは総じてたじろいだようだった。記憶が戻っただけで、影だけの姿の彼らの表情が手に取るようにわかるようになった。

『っどうして……!どうしてそうやって、マザーの邪魔をするんだ!』

『マザーが何をしたっていうんだよ!?』

激情に傾くそれらは間違いなく熱を持って発火しようとしていたが、

「それは、彼女が、」

だが、クラサメが。

「彼女がエースを殺したからだ!!」

まさしく、冷水を叩きつけるようなものだった。
クラサメが鋭くそう叫ぶと、空気が一瞬で張り詰めた。彼の怒号は、戦士のそれだ。戦場を裂く号令を放つための鋭い声音。私でもとっさに姿勢を正してしまう迫力があった。正面からぶつけられた彼らにとってはいかばかりか。
だが子どもたちは更なる動揺をありありと浮かべながらも、クラサメの言葉に噛み付いた。

『な、何言ってるんですか……』

『エースを殺したのはあんたらでしょ!マザーがそんなことするわけない!!』

「……やっぱり、そういうわけなのね。それで私たちを殺そうとしてたのね」

私は転生前の記憶がなかったし、クラサメは話せなかったから、弁解も釈明もできようがなかった。それでも、彼らを放っておいたことには罪悪感だけがある。
もう誰を責めることもできやしない。みんな悪い。私もクラサメも女王もこの子達も、みんながいくらか悪いのだ。誰一人もう、善良ではないのだ。

「私たちが殺したって言われても仕方ないかもしれない。女王を止めることができなかった。エースは私たちを殺さないために、自分を殺すしかなかった。私たちがもっと強ければあんなことにならずに済んだのにって、ずっと思ってるよ」

『嘘……嘘』

『そうやって、私たちを騙そうとしても……通じませんよ』

「騙す必要もあるまい。そもそもお前たち、そんなこと信じていないだろう」

クラサメの冷淡な声は、石畳によく響いた。
彼の言葉を聞いて、ああ、と思った。やはりそうか。子どもたちを長く見てきた彼も思うのなら、きっとそれが真実なのだろう。

「信じているのなら、私かこいつのどちらかだけでもとっくに殺されているはずだ。そうでなくとも、無事でいられるわけがない。お前たちのうち誰か一人でも、本気で挑めばな」

クラサメが自嘲するような口ぶりで言った。

「お前たちは女王を裏切るまいとしているだけだ。裏切るまいと思った時点で、不信はとっくに極まっている。どうあがいても、心の裡は変えられん」

「く、クラサメ、もうやめて」

「私が黙ろうと何も変わらない。わかっているだろう、お前たちなら自分で気付いていたはずだ。それを、今になってまで……」

「もうやめようよ……!」

クラサメの言葉はいつも率直に、気づくまいと徹する真実すらも抉るので、元から逃げている人間には深く深く刺さるのだ。刺さりすぎて惚れたバカが私です。笑えない。
そして刺されたからこそ、私にはわかっている。彼らが私と同じように、恐れ、惑い、それでもどうにか己たちを守ろうとしているのならば、彼の言い様はあまりにも。

私にだって言いたいことはあったはずなのに、うまく言葉にならなくて、もどかしくて歯痒い。それでも黙ったまま、他人事のふりをしていられる時期はとうに過ぎている。
私は振り返り、子どもたちを見る。彼らの苦悩が、怒りが、空気を伝わってくるようだ。

「……信じてって言っても意味はないんでしょう?だったら、待っててほしい」

『……先生たちが、死ぬのを?』

「そ、そうじゃない。ていうかそういう言い方はやめてくれないかな結果的にそうなるとしても!嫌だよその言い方は!……と、とにかく、あなたたちは待っててほしいの」

話しながら、気付いたことがあった。
きっと何が正しいかなんて意味はないのだと。

私とクラサメがどんなに彼らを思ったって、選ぶのはこの子達だ。真実全てが明らかになったところで、何も変わらない。真実より愛の方が比重が重いなら、私たちがどんなに足掻いたって結局は。
人は裏切られようが虐げられようが、親を愛するものだ。反吐が出るほど熱心に。かつて私が、生涯逃げようとし続けたように。

でも、最後には、私は愛を選んだ。

クラサメをじゃない。ただ、愛を選んだ。
母に報い、子どもたちを守り、クラサメにもう一度会いたかった。全て愛していた。

だから。

「待っててよ。私たちが勝って、それを許せないなら私たちを殺せばいい。そのとき、私たちは自分たちを守るかあなたたちを優先するか決める」

隣に立つクラサメの顔が険しくなったのが見なくてもわかった。嘘も方便って、内心笑う。
だって、そうなったらそうなったで、私たちは今更新たな生を選べまい。この子達を殺してまで、生きる道があるわけないから。

『……そのとき、改めて殺し合おうって意味?』

『大丈夫ですよ、マザーが負けるわけないんですから……』

『でもトレイ、もしその万が一が起きたら』

彼らはとたん集合して話し合いを始める。全員が少し縮こまって顔を見合わせる様が妙に可愛い。この子達を守れたらもうそれだけでいい気がしてくる。
そして、暫時の空白ののちに、苦渋の表情を浮かべてクイーンが『致し方ありませんね……』と舌打ち混じりに言った。ほぼ造作も見えないのに表情までもわかってしまうのがきっと愛の証左。そう信じようと思った。

私は、この子達を愛している。

憎まれても、いいや。恨まれてもいいや。

私が終わってしまっても、もういいや。

逃げたくなくなってしまった。あんなに遂げたかった悲願も、もうどうでもよくなってしまった。

逡巡の後、彼らは音もなく闇の中に溶けるように消えていった。後には何も残らない。
エース、見ててくれてるかな。そこにいてくれてるかな。

「……勝たないと、あの子達を助けられない」

「それならば、勝つだけだ」

「そうだね」

本気で勝利を信じているような揺らがぬ声音は頼もしく聞こえ、私はつい笑った。
勝てそうな気がしてくるじゃないか。




二人でホールの扉を押し開ける。数時間前にも通ったはずで、そのときは昼間にも関わらず薄暗かったのに、今は夜のくせにやたら明るい。すべての蝋に火が灯されていた。

朽ちた玉座にひとりの影。空気を薙ぐように動く腕から闇が払い落とされ、その白いかんばせと肘から先が露になる。妙な光沢のある闇は、腕のある職人が一から織った正絹のドレスのようで、一瞬見とれた。

『……言ったはず。ルブルムが滅ばぬ限り私は滅ばない。お前たちはルブルムを滅ぼしに来たのかしら?』

「そんなはずはない。王が死んで滅ぶ国など、あるはずが……」

女王が悠然と笑うので、クラサメがわずかに狼狽えたのを感じた。軍人上がりで、国家守護に関係した家で育った男だ、国を引き合いに出されては動揺しても仕方がない。
私にとってはどうでもいいことでも、彼が愛すなら話は変わる。

そして、女王の言葉があって初めて、ここに来るまで見てきたものに意味が生まれてくる。

「そういえば私、現在と六百年前両方の知識があるのよね。それに照らしてみたんだけど、私村からここに来るまで、マクタイとメロエとイスカを通っているはずなのよね」

『……それが?』

「街があったら気付くわよ。集落程度に落ち込んでたって、存在してれば気付くのよ。私はここに来るまで森しか見てない、木しかなかったし動物しかいなかった。街は人が住まなくなったらすぐ朽ちるんでしょうね。でも、一見してわからないほどに、建物やら人間の痕跡が完全に消え去るなんて、一体どれだけの月日が要るかしら?」

「なっ……!?お前、それは……本当か?」

クラサメが目を見開き、唇を震わせた。
そして、そうやって照らせばわかることも増える。

「エースにバカなことを聞いてしまったわ。城がこんなに朽ちているのに、城下が保たれているわけもないわね。城がそのままになっている時点で、推して知るべしってところよね。女王様、あなた、六百年前あのあとすぐに、街すべて滅ぼしたんじゃないの?ルブルムを、消してしまったんじゃないの?」

『……ふふっ』

女王は典雅な動きで口許を隠し、笑った。肯定でしかありえない返答だった。

「き……貴様……!!」

クラサメが怒りに眦を吊り上げ、女王を睨みつける。彼からすれば家族もいただろうし、知り合いも友人もいたんだろう。恋人は、いないといいなと思うけど、どうだろう。
ともあれほとんど孤児であった私にはわからない優しい怒りが、彼の双眸に浮かび上がっていた。

が。

「聞きたかったことが、ある」

『あら……何かしら?』

クラサメはしかし、怒りを押し殺すように低くうなりながら、女王に問いを投げた。

「なぜ子どもたちに、魔力を充填し……爆発させようとした。なぜ子どもたちを殺そうとした。なぜ、人々を徒に殺すような真似を……」

『ふぅん、動機……ホワイダニットが肝要?所詮は人間ね』

「私もそれは、ずっと気になってた。どうして子どもたちでなきゃいけなかったのか」

『そもそも……あの子達をルシの郷から引き取ったのは、あのためだったからよ。兵器にするためであり、爆発させるためだった』

女王は少し考え込むような仕草をしてから、続けた。

『魔力だけじゃない、ルシは大きな器だから、人の魂……ファントマだって、収めることができる。それは魂の強化、ということ。魔力だけを充填したエースはあまり強くはなかったから、残ったあの子達にはファントマを注ぎ込んでみたのよ。おかげであの頃とは比べ物にならないくらい、威力のある爆弾になってくれた……代わりに、あんなに黒く染まってしまったけれどね。ともかく、戦争に発展したあとで、あの子達が白虎兵の中で爆発すれば、たくさん死ぬでしょう。それだけが狙いよ。下手に講和なんて結ばれても、困る』

「だからどうしてそんなに人を殺したいのよ!?」

『神を降ろしたいから』

こんなに答えをはぐらかしておいて―本人にはもしかしたらそのつもりもなかったのかもしれないけど、―最後にはあまりにも端的に述べられたそれは、どうにも受け入れがたかった。
呆然として、私は聞き返した。

「か、……神?」

『人が死ぬと、冥府への扉が少し開く。多く死ねば、それだけ大きく開くことになる。神はその中に隠れているから、呼び戻さないとならない』

女王はじっと、虚空を見つめてそう言った。間違いなく、こう言ったのだ。
うっすら微笑みすら浮かべながら、妙に感情の篭もらない目で。

『神を呼び戻すことが世界の悲願。そのために国を作り、人を増やしてきた。ルシも人もない、神を前に上下はない。みな等しく死ぬべきで、みな等しく救われるべき。世界とは最初からそうあった。全てはこの瞬間のためにあった』

女王が、ゆっくりと立ち上がる。音は何一つなかった。
壁際の火が立てるぱちぱちという音、私の呼吸音、心音、隣のクラサメが僅かにたてる動作音、それだけ。
女王から一切の音はなく、ただ膨らむみたいに近づいてくる。

「くるぞッ」

クラサメの短い声が、私の意識を明確にする。
女王と殺し合う。できること、すべきこと、生きる理由、死ぬ理由、全てがここにあった。

クラサメが剣を抜き、私は跳ねるように後退しながら魔法の詠唱を始める。
炎を集めて、光らせて。闇を散らすべく、女王に放つ。

女王が手を翳しただけで闇は姿を変え煙のような壁になり、炎をかき消した。魔力そのものを相殺した?私にはわからない。
クラサメが続けざま放った斬撃は、女王に届いたようにも思った。だけど刹那の沈黙、一秒後にはクラサメが弾かれる。

私は躊躇わない。詠唱を終えた瞬間から次の魔法を充填している。クラサメが女王に吹き飛ばされたと同時に、もう炎を放っている。
連続して行われる投射は、一撃でも届けばよかった。女王の闇は防衛に間に合わない、クラサメの一撃を受けた直後だ。
炎は私の視線の先で確かに女王の闇をかいくぐり、空気を震わせ熱気を伴い女王の躰に突き刺さる。

「やったッ……!?」

反射的に浮足立った声が出た。「まだだ!!」だけどクラサメの声が私を現実に引き戻す。

「……うそでしょ」

「敵は、想定以上に強大なようだな……」

女王を間違いなく焼いたくせに、炎はあっさりと服従し、闇に追い払われ。
女王は涼しい顔で、部屋の真ん中に立っていた。その肌には火傷一つない。

『ルシ二人でも、こんなもの?』

彼女の声には嘲笑が多分に含まれていた。苛立ち、私は再度魔法を練り始める。
練度が足りないのか。それとも元々の技量があまりにも足りない?どちらにしても、退路など最初から。

『それじゃあ、早く終わらせましょう』

独り言めいた響きで言った女王。彼女が笑うとその両手の中に闇の球が浮かび上がり、稲妻でも内包するかのような煌めきを放って四散する。
凝縮された闇が広がっていく。

「ッ!!」

「ぇあッ!?」

クラサメが私の身体を乱雑に抱え込むと、そのまま柱の影に滑り込んだ。直後、闇が劈く。

「ひっ……?」

私の喉奥で短い悲鳴が勝手に鳴った。
闇はまるで、教会のステンドグラスから注ぐ光に色がついているかのように綺麗で、しかし馴染む魔力が危険すぎると脳が警鐘を鳴らしていた。

「動くな……!」

私を抱きかかえたクラサメが強い力で更に抱きしめてくる。彼の腕が隠し、その先が見えない私にも、闇のために柱がゴリゴリと削れる音がした気がした。

「まだ詠唱できるか」

「う、うん、できますとも」

「この闇が止んだら、即座に放て。私が全力で追撃する」

「わかった」

口ずさむ詠唱、クラサメが握りしめた剣の先端が地面を叩く。
闇が宿す魔力が弱まっていくのを感じた。今だ、そう囁く声が耳元で鳴って、直後。

私は緩んだ腕からまろび出て、詠唱し貯めきった炎の決壊を許す。溢れ出す熱と光は我らが皇国のホーミング砲と同じだけの精度で以て、もう一度女王の懐を目指す。
目的は目くらましだった。炎が女王に迫る。されどいよいよ到達する直前、私は女王の唇の端が吊り上がるのを見た。

女王が右手を伸ばし、その至る炎をまるで虫でも追い払うみたいな雑さで振り払う。
炎は一瞬で方向を転換し、そして、私が撃ったときよりずっと速く鋭く私に向かってくる。跳ね返されたっ……!?

いとも簡単に、私の魔法は。
私たちは彼女の魔法を一撃受け止めることもできないのに、彼女はあんなに造作もなく。

顔面に魔法が迫る。私はついとっさに目を閉じた。

なんだ。いや、わかってたけどさ。きっと無理だろうって、思ってたのは確かにそうなんだけどさあ。

まるで敵わないじゃないか、こんなの。

自分の魔法が作った炎が注ぐ瞬間、

「       ッ!!!」

私は、懐かしい名で己を呼ぶ愛しい人の声を聞いた。






暫時、私は動けなかった。恐慌していたし、全身が震えて呼吸すらままならず。

「く……クラサメ……いや……いやぁ……」

私を突き飛ばして庇ったクラサメの喉に、炎は突き刺さり。
一瞬で喉は深く爛れ、ことによっては即死もありえたくらいの大怪我を引き起こした。
クラサメが即死しなかったのは、運がよかっただけだと言えるくらい。

私は女王を前に防御すらも考えられず回復魔法を必死に唱えていた。回復魔法が苦手すぎて、詠唱がなかなか終わらない。
どうして、ああどうして私は回復魔法をまるで学んでこなかった!!誰も救いたい人がいなかった、あの頃の自分を殺してやりたい。
クラサメを助けたい。ああ、お願い、神様がいるなら、女王に応える神様がいるなら、彼を助けて。お願いだから。

お願いだから。

「……っ、ひー、は……は……」

溢れ出る涙に溺れながら、私は必死に荒い息を押しとどめる。クラサメ、クラサメ、クラサメ。
緑色の光が淡く漏れ出て、クラサメの傷を癒やし始める。
魔力をすっからかんに食いつぶしながら、それでも傷はせいぜい塞がっただけ。顔にまで及ぶ広い火傷を治癒することなど到底できやしなかった。

……。

……ああ、全く。

嫌になる。己が憎くて、仕方なくなる。
何も出来ない、力のない、弱い私が。元々愛せない己がもっと、憎くなる。

それは嫌だなぁと、ただ漠然とした心で思った。

嫌だ。
誰かに愛されれば、こんな自分のことでも愛せるような気がしていたんだ。
私はクラサメに愛されたくて、そればかりだった。


このままじゃ私たち、助からない。
現実として、事実として、私は受け止めた。

クラサメに手を伸ばす。荒い息が胸の上下で伝わるのに、その音がしない。

気がついたら、闇が周囲に満ちていた。クラサメが必死に私を守ってくれたのに、今度こそ闇が私に突き刺さっている。
治癒魔法の緑の光が辛うじて闇を遠ざけてはいたが、クラサメはともかく私まで守ってくれはしない。

「っぐ……」

喉の奥で血の味がする。殺される。
顔を上げると、女王は玉座に座り直し、艶然と微笑んでいた。

『そう。それでいいわ』

優しげな笑み。私が知る数少ない六百年前の女王の姿と同じ。子どもたちの前で見せていた、母親らしい優しい顔。
母を知らない私があっさり騙された、穏やかなそれが、今はもう。

『あなたが死ぬことも、神を降臨させるためには必要なんだもの。せいぜいあがいて、きちんと死んでくれなくちゃ。そのためにルシの魂をいくつも貯めておいたんだから。あなたは気付いていないみたいだけど、あなたに充填された魔力はかなりのものよ?ルシ数十人分だもの。あなたじゃあ扱えないかもしれないけれど』

「……それじゃあ」

ごぽりと嫌な音が喉で鳴って、口から血の塊を吐いた。その嫌な味にも、構う余裕がない。

「私の魔法……叶えた、奇跡は」

『ん?ああ、あの稚拙な呪いのこと?……本当、どうしようもない魔法だったわね。あんなの叶うわけがないじゃないの。仕方がないから、数百年越しにでも叶うようにしてあげたわ。クラサメが死ななきゃどのみち城を出られないんだもの。礼はいらないわ、あなたがルシの魔力を大量に背負った状態で爆発してくれればどのみちクラサメは死ぬものね。先にクラサメが死ぬならあの子達ごとイングラムの首都にでも移送魔法陣で送ってあげてもいい。どのみち、たくさん死ぬのに変わりはないわ』

「……そう」

そうだったか。
やはり、そうなってしまうのか。
もうそうなるしか、ないのか。

それなら、やはり。
やはりもう。

私は震える指先で、腰のベルトから呪文書を抜き取った。
力の入らない手では掴んでいられず、地面に取り落としてしまうも、呪文書がうっすら発光しているのを感じる。

「やっぱり……かった……持ってきて、よかっ……」

跪く隣で、淡い光はどんどん強くなる。光は蛇のようにしなり形を取って、私の左手に絡まり薬指をギチギチと縛った。
光の蛇の反対側あh地面を這って、女王に伸びていく。

『なっ……何、が』

「あー……はは。ルシの、遺産よ……」

光は女王の闇さえ切り裂いて、彼女の左腕に同じように組み付く。薬指を掴む。縛る。

「この魔法に、名前はないわ……」

呪文書にしかない、習得不可能な魔法。
最大の献身を要求する、無意味な魔法だ。

「おい……お前、なにを……」

掠れた声で必死に起き上がるクラサメが私に手を伸ばす。私はなんとか安心させたくて、努力して微笑んだ。でもクラサメの顔に安堵なんて微塵も浮かばなかった。
なによ。少しくらい、笑い返してくれてもいいのに。

「たいしたことじゃあ、ないわ……」

この魔法は。
狙う相手と己の魂を一つつなぎにし、片方が死ねばもう片方も引きずられて死んでしまう、そういう魔法だ。敵を殺すために自分も死なねばならないし、それに、この魔法は使っている間他に魔法が使えない。
だから、本来の使用法では、敵と魂を繋いだ仲間を、誰かが殺さねばならない。この魔法単体では誰を傷つけるものでもないのに、その残酷さから習得体系を誰も考案しなかったような魔法だ。

「ま……今なら……私なら、それも」

血の味が、慣れすぎて、苦しくもなんともなくなってきた。呼吸の苦しさすら忘れてしまう。

「もう、いらないものね……」

殺してもらう必要がない。
存分に、死んでしまいそうだから。

クラサメが、傍らで何かを察したように目を見開いた。わなわなと、火傷の広がった唇が震える。

「やめろ……やめてくれ、それはだめだ……!!」

『このッ……!!ふざけないで!!まだ、まだ私が死ぬわけには……!!何も為さず終わりになんて……!!!』

「私、あなたに生きてほしいの。クラサメ」

『そんな馬鹿な話がッ……!!』

ああでも、死ぬ前にあんたの喚く声が聞けてよかったわ。
地面に座り込み、動けないままの私では、きっと蒼白だろう顔を見られないのが残念だけどね女王様。

クラサメの震える手が伸びる。

「やめろぉぉぉぉぉ!!!!」

「好きよ。ずっと、好き」

それを振り返って、私は笑った。

好きだから、私は諦めようと思う。私は、あなたのことも、子どもたちのことも、好きだから。唯一諦められる、自分を諦めようと思うの。


魔力が膨張していくのは、ひどい頭痛を伴っていて、私は割れそうな頭に壊れていく己を感じた。
薄れていく視力をそれでも駆使して、私は視界の端にクラサメを見つける。彼は緑の目に絶望を浮かべながらも必死そうな顔でこっちに手を伸ばしている。「やめろ、や、め、」あなたこそ満身創痍で声をひねり出すのおやめなさいな。
掠れていく視界で見る限り、闇は晴れたらしい。よかった。クラサメさえ生きてくれるならもうそれで、いいや。私は自分の息がゆっくりになるのを感じる。死期を悟って、驚くほど穏やかな気持ちだった。
女王が死ねば、きっと何もかも解決する。


……でも。
だから。
それで。

クラサメにもう一度、もう一度だけ。
もう一度だけでいいから、触れてもらいたかったなぁと思って。


もうこれで終わり。
私の逃走の終着点。

……ああ、死にたくなかったなぁ。


『……先生。おちついて、ゆっくり息をするんだ』

……。

『先生。聞いてくれ。僕と呼吸を、あわせて』

……。

……?

何か温かいものが、私の左手を握る。
ほとんどもう何も見えない命の終わりに、その体温はひどく熱く思えたが、一方で私を安堵させた。

『先生、ほら……僕を見て』

金色が、

「エー……ス……?」

かさつく唇を割って、声にもならない声が漏れる。ゆっくりと噛み合っていく焦点、淡く融けるような世界の真ん中に、エースの白い顔が浮かんでいた。

『そう。僕だ。いいか先生、時間がない。ゆっくり、身長に、その光を外して僕に移してくれ』

何も考えられなかった。優しく笑う彼が穏やかに笑うともう、何もかもエースの言うとおりにしたくなった。
私が震える左手を持ち上げると、エースが両手で光の蛇に手を伸ばす。

「……?」

重たい光が、腕からすっと抜き取られる。よくわからないまま、光はエースの手の中にその端を収めた。
そして、彼の左手に絡みついていく。

『エース……?エースなのね?』

『……マザー』

『よくやったわ!そのまま離れていなさい、母さんがすぐそいつらを殺して、さあ早く全部元に戻しましょう?』

はっと、意識が覚醒していく。
そうだ、エースに取られてしまったら、もう……ッ!!

たった一つの切り札をなくしてしまったことに気付いて、私は干上がる喉を無視して必死に目を動かした。
なんとかしないと。なんとか。エースを二度死なせるわけには。そもそも死人のエースでは、魔法が発動しないかもしれないが、どっちにしろまずい。
もう一度魔法を、私に戻さないと。

そう、思うのに。

思うのに。

『……エース、よかったぁ。戻ってきてくれたんだあ』

『うう、エースさん、ずっと待ってたんですよ?』

『ったく心配させやがって』

彼の周りに、黒い影が伸びている。闇を纏わされた、エースのきょうだいたちがそこにいた。
まるで何もなかった頃みたいだ。穏やかで静かな城での生活を思い出して、私は頬を滑り落ちる水滴を感じた。

『さあ、先生。今度こそ、僕を殺してくれ』

「エース……何を……何を、言ってるのよ……?」

言われた意味がわからず、私は動けなくなる。と、影の中からシンクが進み出、治癒魔法を放った。緑の光が、私のそれより美しく満ち、私とクラサメの怪我を癒やしていく。息苦しさが消えていく。クラサメの傷も、完治とまではいかずとも塞がっていくのが見えた。
クラサメがゆっくり、身体を起こす。私は慌ててそれを支えようとしたが、ぐっと肩を押し返されてしまう。

私だけ、座り込んだまま動けない。

『さあ早く、先生。今度こそ為してくれ。僕を殺してくれ。お願いだから、助かってくれ』

何を。

何を言っているんだ?

お願いだから助かってくれ。なんて。
私の手を握り、目を細め、懇願する目でエースが言う。

でも受け入れられない。
だってそうならないために、やっとここまで来て、私は。
クラサメは。

……クラサメは。

生きて。死んで。泣いて。私たちは。
なのに。

何一つまともな言葉にならない私を置いて、世界でいちばんあなたたちを大切に思っているクラサメが、武器を拾い上げた。

「く、クラサメ、だめよ……だめ、だって、それじゃ……」

『うん。先生なら、そうしてくれると思ってた』

「……安心しろ。痛みは、与えない」

『先生からそんな台詞が聞けるなんて!長生きしてみるもんだな』

それが、今から死のうとしている子供の言葉だなんて、私には信じられそうもなかった。
どうしてこんな。どうして。
どうしてこうなるの。どうしてこうなってしまったの?

絶望のさなか、立ち上がれない私を置いて、世界は早回しに進んでいく。

『ああ……やっと、終わるんだ……』

『長かったねぇ』

『過ぎてみれば短いような気もするけどな』

エースの安堵の声が聞こえる。子どもたちが笑いながら、それに賛同する。

子どもたちは振り返って、女王に笑いかけた。

『本当はずっとわかってたんだ』

『クラサメ先生が敵なはずないって知ってた』

『先生たちがわたしたちを裏切るはずないって』

『でもマザーが大事だったから』

『だからずっと、マザーといたかったけど……』

『でも』

『だめなんだ』

『マザー、ごめん』

彼らの言葉は、愛を込めて綴られた。愛してなきゃ出せない優しい声だった。

『マザー。先に行って、待ってるよ』

ごめん。
でも、大丈夫だから。

エースが優しく笑う。その笑みに、光の白が溶けて、エースは光に呑まれて消えていく。

『エース……あなたたち……』

呆然と立っている女王の顔がひどく歪んで見えた。超然とした様子はとたん鳴りを潜め、ただの女みたいだった。
そしてそれが、私が見た、最後の光景だった。


……い、

「いやぁぁぁぁぁぁ!!!」

泣き叫ぶことが許されたのは、私だけだった。
他の誰も、ただ唇を噛み締め、じっと耐えていた。


爆発が起きる。
吹き飛ばされる。
手足が千千に裂けてしまいそうになる。
頭に激痛が走る。
温かい誰かの腕が、転げた私を包む。
何も見えなくなる。



何も、見えなくなった。





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