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四課には、エステルという名の女がいる。
仕事に一段落を付け部屋で休む算段を立てたナツメは、重い足取りで歩きながらなぜか彼女のことを思い出していた。後家蜘蛛に由来するあだ名を持つ色ボケ女。戦後、姿を消したらしい。ナギが歯噛みしていた。どうもまずい事態らしい。
色ボケというのも単純な話ではないそうだ。蒼龍王家の傍流の血を少なからず継ぎ、クリスタルへは叛逆の姿勢を取る一族の現当主で、性行為を武器として戦う女だった。恐ろしいことに比喩ではない。本当に、性行為した相手が必ず死ぬという、毒性のある女だというのである。

とはいえこれまでクリスタルに逆らうのはそう簡単なことではなく―何をしても壊せないのだから当然だ―別にどこで何をしていようが、彼女のほうこそ路端の石だったのだけれども、クリスタルのほうが石ころ同然になった今になって、非常に危険な話になったというのだ。
ナツメはよく知らないが、エステルはクリスタル信仰とは全く異なる教義を持つ宗教家であるのだとか。抑止力がない今世界征服とか言い出しても不思議じゃねえぞとナギが舌打ちをしていた。らしい、らしいと伝聞ばかり。よく知らないし、知る気もない。

最近どうしてか彼女の顔が思い出される。ろくに覚えてもいないのに。ナツメとすら寝たがった頭のおかしい色狂いだった。

昔。
ナツメは四課に入ったばかりの頃、初任務を終えてすぐ、4組の技術に目をつけた四課武官たちの命令で効果的な不妊化手術に着手した。まず最初にナツメは己にそれを施したが、次に手を挙げたのは後家だったのを覚えている。だってそれすれば妊娠しなくなるんでしょぉ?サイッコーじゃなぁい?愉しげな声だけがやたらと耳に張り付いて。

そうか。こういう女にとって、それは最高という意味になるのか。
なぜだか妙に絶望した気分になったのを覚えている。

女という生き物の、底を見たようで。
ナツメにはわからない、家族というものの底を見たようで。
少なくともちゃんと親がいたはずの女が、家族ができない未来を最高と呼ぶなら、ナツメには家族など望むべくもないのだなと。

「……まだ寒い」

魔導院の中なのに、妙に底冷えする。血の臭いも尋常ではない気がしていたが、ナギもカヅサもそんな臭いはしないと言っていた。妊娠初期から中期に見られる嗅覚異常だろうと。


そう。
ナツメは間違いなく妊娠していた。

まだ腹は目立たないが、妊娠三ヶ月も半ばを過ぎ、ナツメの多くない妊娠の知識に照らしても悪阻のひどくなる時期であった。

妊娠なんてことを知っても思ったより冷静でいられたのは、ナツメが一人だからかもしれない。ナギにもカヅサにももう甘えられない。事実を突きつけられたナツメは一人で戦うしかなくなった。戦争でもなんでもない、ナツメの人生というありふれたくだらない普遍的な戦場を一人で生き抜かねばならなくなった。

カヅサは言葉少なに、「もし、記憶が戻らなかったら、」そう問うた。続きは聞かなくてもわかった。記憶が戻らなかったら、クラサメには伝えるか。ナツメはその問いを飲み込み、咀嚼し、目を閉じて首を横に何度か振った。記憶が戻らないのなら、彼に言うつもりはない。
ただ、かつての朱雀四天王の墓には報告をした。クラサメにだけは言わずにいることを怒られそうだと思ったが、ナツメにとって一番怖いのもまたクラサメだったので、三人に怒られるくらいはよしとしようと思った。


クラサメが記憶を失って、もう一ヶ月近くになる。ナツメはクラサメのいない生活に戻って、生きている。
時折彼を見かけた。彼はいつもナツメを見つけると、何かを探すみたいにじっと見る。ナツメの中に、二人の過去を見つけようとしているみたいだった。
ナツメはいつもその視線から逃げるので、結果はわからない。ただ、特に何も言わないところを見ると、クラサメはそれを見つけることはできないみたいだった。


どうしたものかな。私はどうすればいいのかな。どの選択が、一番マシかな。
正解の無い問題だった。思うに、そういう問いはこの世に溢れかえっていて、ナツメはいつも不正解ばかり選んでいる気がした。


ナツメはふらつかないよう気を使いながら自室に戻り、ドアの内側に凭れてようやっと息を吐き出した。気がつかないうちに呼吸を抑え込んでいたらしい。ナツメは元ルシで、魔導院でも今や0組と並ぶ認知度だ。具合が悪そうだ、なんて触れ回られるのは困る。0組が見舞いにきてくれてしまう。たぶん。……想像したらちょっとうれしいので困る。

吐き気はかなり落ち着いてきて、一定の周期があることもわかった。一旦吐き気が止んでしまえば、数時間は問題ないことも。
代わりにナツメを襲ったのは、更に切羽詰まった問題だった。

いわゆる食べづわりである。

「……くらくらする」

問題は、水だった。
水の臭いがダメ。飲むと必ず吐いてしまう。

ジュースの類もほとんどダメ。定説になりつつある酸味のあるものも、ナツメにはあまり合わなかった。ナギがぺらぺらぺらぺら相手を選びつつも喋ってしまったカルラが色々手に入れてくれるものの、ここ数日まともな食事は摂れていない。それどころか、季節外れの脱水症状が長く続いている。
このままだとよくないな、と他人事のように思った。頭に血が回っていない気がする。なんとか立ち上がり、吐き気を抑えながらコップに水を注ぐ。そこに塩と砂糖を適当な濃度になるように落としてスプーンで混ぜ、口にする。味など考えない。ただ息を止め、ひたすら流しこむ。胃が内側から冷やされるのがわかった。

吐きそう、でも堪える。少しでいい、少しの間だけでも耐えれば頭に血が行く。

「……あー」

枯渇した身体は勢い良く栄養素を摂取しようとしている。少しずつ視界はクリアになっていった。
昨日カルラが持ち込んだものをいくつか試してみようか。彼女が手を尽くしてくれているのがありがたい反面で、少し辛い。どこか森の奥にでも転がって、死にゆくのを放置されていたい。

ナツメは、本当に弱い。生きる理由や死ぬ理由を誰かに放り出して、決めて欲しがっている。ナツメは一人なので、誰もそんな責任を負ってはくれない。そのくせみんなナツメのために、ナツメに生きろとばかり言う。
どうして私に、こんな私に、そんなふうに愛をくれるの。みんなして。

こんな人生の最中に宿ったものをナツメはよく腹を撫でて探す。まだきっととても小さくて、人間の形にもなっていないもの。
それを子供と呼ぶのはまだ抵抗を感じる。“これ”が子供としてこの世に生まれることができるかさえわからない。堕胎を考えているわけではなかったが、こうして体調の最悪な日々が続いていると、己が何もしなくてもそういう結果になってしまう気がしていた。
ナツメの知識の中においては、悪阻が原因の栄養失調が赤子に影響を与えるほどひどくなることはないはずだが、母体に無関係なわけがない。このままでは、産んだ後生きていられるかも定かではなかった。

それじゃあ、この小さな何かは。心臓の宿った誰かは。誰の手で育てばいい。

酷い矛盾だ。どうせナツメには無理だと思うなら、ナツメなんていなくても同じなのに。
産みたいのか。守りたいのか?どうせ無理だと、もうわかっているのに。

「怖いな……」

クラサメが傍にいればと思わないわけじゃない。そうしたら、きっとこんなに辛くはなかったはずだ。
けれどいないから。ナツメを知るクラサメは、ナツメを守ろうとしてくれる彼は今はいないから。
暗い世界、狭間の中央、左右どちらに振れても気が狂いそうなちょうど中間を歩いている。

それでも、何度だって、ナツメは己に問う。
クラサメの子を産むことを、あるいは消すことを、お前は己に許せるのかと。

一度、そんな独り言をつぶやいた時には、ナギにさんざ怒られた。
クラサメさんがお前を思い出すかどうかなんて知らねぇよ、だがな。

「お前のどうしようもねえ人生からクラサメさんすらいなくなって、それでもどこかに価値があるとすれば、もう腹のガキだけだろ。お前はそれをむざむざ捨てようとしてる。くだらない感傷のためにな」

冷たくも熱を持った言葉だった。侮蔑と怒りが涌いていた。
けれどたとい問題なくこの世に生まれたってきっと幸せにはなれない子だ。そう言ったら、なおさら鋭い言葉が投げられた。

「お前がそうだったからそう思うのか?母親は屑で、父親は顔も知らないからか」

言葉もないナツメに、ナギは笑った。バカにしたような笑みだった。

「でもお前にはクラサメさんがいたじゃねぇか。クラサメさんが愛して守って、信じてくれてたじゃねえか。お前が必死に生き延びたのは、お前の人生が結局、かけがえのないものだったからじゃねえのか。……誰だってそうだぜ。苦しいんなら、苦しむ価値があるってことだ。お前が今苦しんでるのは、その腹のにそれだけの価値があるからだ。悩んでるのだって、同じ理由だろうが。無価値と思ったらお前は泣きも喚きもしねえで己の腹を裂く女だろ。お前がそうしないってことは、結局、全部わかってるってことだろ……」

窓の木枠がヒュウヒュウと嫌な音を立てている。ナツメは立て付けの悪くなったそれを叩いて元に戻した。

その時だ。ふいにドアから小さな物音がした。振り返って見れば、ドアの下に封筒が落ちている。手紙だ。郵便受けに入っていたらしい。
ナツメはそろそろとそれに近づいて、拾い上げてみる。誰が己に手紙など……?ナツメは警戒しながら、丁寧に検分する。特に仕掛けはなさそうだった。

裏返して、宛名だけしかないことを確かめ、中から紙を取り出してみる。折れ目の一切ない、真っ白な小さな手紙。
そこには小さく、短い言葉が書かれていた。

「……クラサメ……」

彼の名前だけ印象が強烈で、それが目を引いて言葉がうまく頭に入らない。
それでも、しずかに、ナツメは一文字一文字に視線を落とし、頭の中で直列につなげ、意味を探り言葉にする。
たった一文。それを読むだけのために、そんな努力が要った。

「クラサメの記憶を戻して欲しかったら、コルシの洞窟へひとりで来い……?」

それでもようやく理解した、文面。記憶を戻して欲しかったら?それはつまり……この手紙の差出人は、何かを知っているのか?あるいは何かをした?
ナツメは己の唇が戦慄くのを感じ、強く紙を握りしめた。端がよれ、手汗を吸って少し破れた。

どうしたらいいかわからなかった。そうだ、ずっとわからなかった。あの朝からずっと、この一ヶ月。クラサメに結婚なんて話を持ち出された朝からずっと、ナツメには何もわからなかった。

けれど今はわかる。答えの無い問いで一杯の心に、明確な答えを持つ問いが突きつけられたのだ。そういうときのナツメは絶対に迷わない。
手紙は手から離れ、空気抵抗を受けて一瞬だけ舞い、ゆっくりと冷たい床に落ちていった。もうそれには目もくれず、ナツメは上着を羽織って部屋を飛び出した。





森の最奥にあるコルシの洞窟は、魔導院から南に位置し、おそらく魔導院に最も近い洞窟だと言えた。
レッサークァールの群れが住み着いており、魔法なしで入り込むにはナツメには危険な場所である。体調が悪ければ尚更。

「……銃弾足りるか……?」

一応、丸腰ではない。四課から勝手に持ちだした白虎の散弾銃と弾がある。動体視力に自信はないし、若干の嘔吐感が残っているけれど大丈夫。自分はそういう人間だから。ナツメは死にかけている時ほど強い。
当然皮肉だ。生き残った時に毎度死にかけているのは、実力が足りないことの証明だ。笑えない。

……おかしい。
違和感は、洞窟に入る前からあった。
ナツメは目を細めながら、洞窟の中に足を踏み入れた。暗くて、湿気が強くて……そして魔物の気配が欠片もない。どうしてだかはわからないが、クァールはいないのだろうか?何かあった?クァールとまともに戦える人間なんて、朱雀にはもう候補生くらいしかいないはずだ。だから、もしかしたら逆に困ったことになったのかもしれない。クァールが駆逐されたなら、それだけ強い何かがこの洞窟の奥で待ち構えているかもしれない。

「それがあの手紙の差出人……?」

おそらくはそういうことなんだろう。ナツメはゆっくり、注意深く奥へ進んでいった。ほとんど一本道の、狭い洞窟だ。ナツメはすぐに最奥付近へ辿り着く。
かなり暗くて、ナツメは灯りを持ってこなかったことを後悔した。

しかし、唐突。
きらりと光が闇の奥で煌めいて、ナツメの世界を彩るみたいに炎が次々壁際に灯っていく。灯りがついてようやく気がついた……大量の松明が壁に取り付けられている。
おかしい。笑えない。こんなものが、森の外れの洞窟にあるはずがない。几帳面に等間隔で煌々と灯る火にはいっそ恐怖のみが宿る。ナツメを呼び出した誰かが、こんな手の込んだことをした。
ただ、ナツメに会うためだけに?

「やったぁ、まさかほんとに来てくれるなんてねぇぇ?」

予想していた以上に深く敵の本陣近くに入り込んでしまった。そう気付いた瞬間、女の声が耳朶を揺らした。
とっさに振り返る。振り返ってから、知った声であったこともそれが知人であることにも気がついた。

「……どうして?」

声になってしまえば、間抜けな問いにも聞こえた。
何が聞きたいのだ、己は。どうして私を?どうして彼を?どうしておまえが?どうしてこんなことを?どれが聞きたいんだ。

「後家……」

「エステルちゃんもしくはエスティちゃんって呼べっつってんだろうがぁぁ!」

「嫌よ」

「うっ……うう、そんならアタシは、アタシはあんたのことナツメっちって呼んでやるからぁ……!!」

「歳に似合わないことすんな嫁き遅れ」

「あんたと歳変わんないでしょおおお!!」

地団駄を踏んで悔しがるエステルはいつもの調子で、一人で大騒ぎしていた。いつもの彼女だった。ナツメの知る限り、変わらない。
長い黒髪、青い目、ナツメより高い身長。見た目にはどこの出身か全く想像もつかない。

名前はエステル、……エステル・シルマニー。蒼龍人らしく長ったらしい名前があったはずだが、というか長身の彼女にはそれぐらいしか蒼龍人の名残はないのだが、ナツメは知らない。多分聞いたことがないのだろう。

「あるわよおおおお何度も何度も名乗ってるわよおおお!!」

「知らんな」

「そんな言い分が通るわけないでしょぉ……もういいからエスティちゃんって呼んで……おねがい……」

「嫌よ」

「きいいいいいいいいい!!」

ナツメは銃を掲げるでもなく、ゆっくり歩いてエステルに近づく。彼女はたっぷりとした、妙に艶のある黒髪を揺らして取り乱していたが、ナツメの双眸を捉える青い目には何ら動揺が見受けられない。スリ師が獲物に対してするみたいに、ナツメから一瞬も視線を離さないのだから気が抜けない。

「一体どこにいたのよ?ナギが血眼で探してた」

「そうでしょおねえ……四課としては、アタシは用済みだもん。アタシだけじゃない、一族の人間ぜんぶ殺すつもりなんでしょーねえ」

「は?ナギにそこまでさせるなんて、一体何で……」

「そうよねぇ、そこから話さないと面白くないんだわぁ」

ナツメの言葉を途中で切って彼女は長い睫毛を臥せ、壊れた人形が揺らされてるみたいにかくかく首を揺らして笑った。人間じゃないみたいだった。
ナツメは彼女を初めて、少しだけ怖いと思った。なんだ?頭が狂ってる?いや彼女が狂っているのは昔からだが、この痛烈な違和感は何だ?

「アタシは蒼龍出身なのよねぇ。もともとあの国には……蒼龍には、青龍クリスタルがあって、青龍という国だった。知ってるわよねえ、それくらい」

エステルはナツメから一切視線をそらさないままで、洞窟最奥、手近な岩に腰掛けた。その仕草に一切合切不審なところはなく、それが余計に不審だった。

「そして、これも調べれば簡単にわかることだけど。青龍クリスタルが死んで、新たに蒼龍クリスタルが鎮座するまで、実に十年もの月日があったわぁ。見てきたわけじゃあないけれど、それだけあれば人々は大いに惑うのよねぇ。そして時代は、いいえ青龍だった国は、救いを求めた。乱れきった治安から守ってくれるような生贄を欲しがったのも当然かもしれないわぁ」

「……話長くない?いつ終わるの?」

「疲れるの早くない!?っていうか長い話にも付き合ってもらうわよぉ、手紙ちゃんと読んだのぉ?アタシを今怒らせてどーすんのよ」

一瞬苛ついたが、それも道理だった。
手紙にはクラサメの名前があったのだ、彼の記憶がどうのと書いて寄越したのはこの女だ。
短気を起こしている場合じゃない。ナツメは重たい散弾銃の銃口を地面に下ろし、警戒したまま後家を見る。

「治安が乱れると、最初に被害に遭うのは女子供だったわぁ。けれど女がいなくなったら、子供が生まれなくなって国も終わってしまうでしょお。……アタシたちの一族はね、小さな娼館から始まったわぁ……梅毒が頭に回った頭のおかしくなった遊女が言い始めたのよ。アタシたちは神様なんだって……あの男どもから世界を救うのはアタシたちなんだって。彼女はそれを本気で信じ、その本気が伝わったからかみんなそれを信じてしまった。その結果、遊女たちは聖女と呼ばれるようになったわ」

「みんなして梅毒に羅患してたわけ?どこをどうしたら娼婦が聖女になるのよ……」

「いつだって男の欲望を受け入れる女は聖女でしょぉー?そういうわけで、アタシたちはね、男たちを征服して取り込むんだって教義を信じた。何度も孕んで、教義を信じる子供を産むんだって。そしたらその子供たちが同じようにして、更にアタシたちの血を継ぐ子供たちを産むだろうって。その繰り返し。そうやってアタシたちは一気に増えたけれど、でもクリスタルのいなかった十年は宗教が花開くには短か過ぎたのかもねぇ。蒼龍クリスタルができて……王族が治安回復に乗り出した。とたんアタシたちは聖女から汚れた売女になった。それでも野望を捨てなかった当時の当主はメンタル強いわよねぇ……」

エステルはしみじみ言って、苦く笑った。彼女が何を考えているのか、未だナツメにはわからない。

「ともかく、それでも一族は生き続けたわぁ。妄想は妄執になり、いつしか呪いになったわぁ。クリスタルが倒れる日はきっとまた来ると知っていた。だから、その日に生き残っている当主の元に、神託が降りるよう神に祈り、呪い続けた。男たちを殺し、貪りながら、アタシたちは血脈を繋いできた。そして今、その時がきたわぁ」

「……だから、それが私に何の意味があるのよ?」

「まだわからないのねえ、壊滅的に察しが悪いわあ……」

「殴るわよ」

「んぐっ……」

エステルは初対面時にナツメにタコ殴りにされたのが効いているらしく、殴ると言われると黙る。五回に四回は実際に殴るのがいいのだろう。こいつはいつも冗談が過ぎるので、最近は出会い頭に殴るようにしてもいる。
けれど今回は、冗談では済まされなさそうだ。
エステルは一度強く瞑った目をゆっくり開いた。

「アタシと寝ると、みんな死ぬ。……まぁアタシに殺意がなければ七割ってところだけどねぇ。そこには毒が根底にあるわぁ。梅毒の親から生まれた子がまたいろんな手段で毒を得て、子供を産む。身体にどんどん毒が貯まる。最終的に毒の見本市になった。それがアタシ。もう何代も、毒に満ちた生き物として生きてるの。おかげさまで、たぶんアタシの人生はそろそろ限界ねぇ。致死量超えちゃうわあ」

「それじゃ……あんただけ、当主なのに子供を持たずに?」

「そこが大きな問題点なのよぉ」

ふと気付いた疑問点に、エステルは目を爛々と輝かせて食いついた。星を閉じ込めたみたいにきらきらとして少女じみた瞳。少女なんて純真無垢なものから明らかに対極なところにいる女のくせに。

「アタシたちは平均して2.8人の子供を産み続けてきたわぁ!みんなせいぜい二十歳で死んじゃうから早く産まないといけなくって初潮を迎えたら次の月には客を取って、誰でもいいから孕むのを待つのよぉ!まぁでもやっぱり稚すぎる身体じゃ耐えられないことが多いからぁ、客を取るって言っても十五ぐらいまでは月に一人程度だけどねぇ、そうそれで、神託の話に戻るんだけどお!つまりクリスタルが滅ぶときアタシたちにそうやって神託が降りるっていうわけ!!」

「いや……任意のタイミングで妊娠するっての?」

「そりゃそうよお!!大体、アタシたちみたいな生き物に降りる神託なんて、決まってるじゃない」

エステルは首を傾げて笑う。にたにたと吊り上がる唇は下弦の月を描くように薄く開いて、今にも裂けていきそうに歪む。

「当ッ然!神託と言ったら処女懐胎だわぁ!」

「今までの話に処女一人でも出てきた!?」

「人間生まれたときは童貞だし処女でしょお!!」

「何の話なのよだから!?」

そう問い返してから、違和感はまた襲い来た。
処女。いやそんなことじゃなくて。

……懐胎?
クリスタルが滅ぶときに?
タイミングを合わせて?

酷似している。ナツメの、今の状況に。
嫌な予感と、冷たい汗がうなじをつたった気配がした。

「だからぁ、“それ”が欲しいのよぉ」

「……は、」

「クリスタルが死んだその瞬間に宿った赤子。運命の子。“それ”はあなたじゃない、アタシたちにこそ必要で、重要で、相応しい」

エステルの指はまっすぐナツメの下腹を指していた。
ナツメの思考は一瞬、完全に停止した。

暫時、沈黙。
その間エステルはただにやにやと笑っていた。ナツメは、考えている。止まってしまったものを無理にでも動かして、本能に全部委ねて。

「でも、あんたの一族の血なんて、一滴も入ってないでしょ」、手元の銃を確かめながら、ナツメは言う。

エステルはくっと笑みを深めて、肩を竦めた。

「そぉんなことはどうでもいいわぁ?血じゃなく思想でつながるのがシルマニー家よぉう、もちろん血も大切だけどぉ思想さえ重なるのなら全てシルマニーを名乗る権利があるわぁ?なんたって娼婦の守護神だもの、懐は深いわよぉう」

「……そのために。一族のためにクラサメに危害を加えたということね?」

ナツメは考えを放棄した。どうにも、ナツメの思考の埒外にある話のようだし、ただでさえ頭はパンクしそうなのだ。
それでも、エステルはわかっていなかったな、と残された僅かな余地で思う。こんな長話いらなかった。

「まあ、本当は最初の目的はナツメ、あんただったんだけどねぇ?階段から落ちればいくらなんでも子は流れるし、記憶をふっ飛ばしちゃえば流れていくのを奪えるかなって、思ったんだけどぉ」

どんな理由があるとか、事情がどうのとか、そういうの。
ナツメにはなにひとつ、最初から、全く関係ないから。

疑問だったので聞きはしたけど、そんなわけなので、もっと端的に話してくれてもよかったのだ。胎児未満の子供を奪いたかったんです、お家のためです。それだけでナツメは納得してやった。

それだけで、ちゃんと、殺意を向けてやったのに。

「えっ、ちょっ」

慌てた声のエステルなど放置して、ナツメは無言で銃を向け、襲いかかった。
立ち回りの精度はナツメのがまだ上であろうと目算はついた。きちんと狙いをつけて撃った弾丸は、彼女に当たるはずだった。
されど、ウォール魔法めいた何かが障壁となって、弾は弾かれ岩壁に叩きつけられることになる。

「……ッ」

あれはウォールではない。何だ?ナツメの知っている魔法ではない。
そもそも、もう魔法は死んだ。あの赤い夜が明けた時にクリスタルはただの石ころと化して、魔力という世界が与えた恩恵は完全に消えてしまったのだ。もう魔法は使えない。元ルシであるナツメでさえも。

「なにしてんのよう!?アタシが死んだら記憶戻らないわよ!!」

「それは殺さない理由にならねーよ」

「なんで唐突にガラ悪いのよぉ!?も、もぉいい、だから子供さえ渡せば記憶も戻すしアタシも目の前から消えてやるわよぉぉ!?」

「……後家ってほんと、馬鹿だよねえ……」

座っていた岩の影に滑り込んで隠れ、ぎゃあぎゃあと喚く後家。ナツメはそれに呆れ、苦笑した。

なんて馬鹿な女だろう。
もしかしたら私と、同じくらい。

ナツメは愚かな女である。極めて愚かだった。してはならないことを延々した。奪い、傷つけ、殺してきた。
だからナツメは幸せに生きていくことなどできない。罪悪感など存在しなくても、因果がナツメを許さないだろうと思った。幸せを感じるたび、ナツメにもたらされるのはただひたすらな“違和感”だ。ミリテスの冬を忘れさせるようなその温かさに心を許せば、きっとその瞬間に奪い去られてナツメは身を切られるより辛い思いをするのだと思っていた。

けれどクラサメが、己に何を望んでいるのか、それがわからないような女ではなかった。

「クラサメは優しくて、愛情深い。私に“まとも”であることを何より望んでる。“この子”をあんたなんかに渡して自分だけ元に戻ろうとするのは、私の感覚でも“まともな親”じゃない」

わかってはいた。ずっと。
だからこそ、うまくいかないことばかりなんだろうが。

「きっと一生かかってもそんなものにはなれやしない。手すら届かないでしょう、幻想に過ぎないんでしょう」

あるいは、ナツメでなくとも。
はっきりとした正解を持たないその憧憬にたどり着くことは、誰しもにとったって難しいのかもしれないが。

「でも私はクラサメを愛してるから、挑まなきゃ」

クラサメに思い出してもらえなくっても。

このとき初めて、まともな親になりたいと、ナツメは思った。
祈って願いが叶うことはないと知っているから、ちゃんと引き金を引く。

「あんたを殺すよ。エステル・ドゥルジ・ネス・シルマニー」



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