ジルちゃんへ。
ちょっとでかけてきます。夕飯までには戻ります。間に合わなくてもご飯は食べるのでとっといてください。


「……」
「どうした」
「ルカが腹立つメール送ってきた」
「……まあ、たしかに、いらっとするな」
「最後の一文なに?っていうか、何なの?どこに行ったのあの馬鹿は」
「さあ。私に聞かれても」
「あーむかつくわ。ほっときましょ」

ジルはため息とともにコミュニケーターをしまいこんだ。
始業のベルが、遠くで鳴った。








公共交通期間にあたるものは全て危険だと彼は言う。

「いや何言ってるんです、生活できませんよ」
「ともかく、使わないほうがいい」
「陰謀論者だったなこれ?」
「残念ながらこれは理論じゃない。事実でなければ幸いだが、事実であるからといって不幸なわけではない。不幸なのは愚かなことだ」
「煙に巻く姿勢は腹が立つんですよ、私だって人間ですからね」
「わからないというのは別に悪いことじゃない。これから理解すればいい。そのつもりがあるんなら」
「……まだ考えてませんがね」

シド・レインズという名前の長躯の男は、ルカを意気揚々振り回している。言葉の意味もわからないし、どこに行くのかも知らされないし、ルカの意思などまるきり無視だし、無い無い尽くしの平日午後。

教師側のデータベースにしれっとログインした男は、あっという間に一年生の少女の経歴を洗い出してしまった。その技術は正義のためだけに使ってくれよ、ルカは妙にどきどきしている。これを理由に恋にでも落ちてしまったらどうしよう、吊橋効果って言葉もあるし……荒唐無稽なことを考えながら、ルカはシドを追った。本心では全く心配していない。
ジルやヤーグとは違って、この男は掌握できない。されてもくれない。それだけの話だ。ルカは踊らされないようにだけ、それだけ考えていればいい。

だって、これは全てジルとヤーグのためだ。二人を守らなければ。よくわからない反PSICOMグループからも、この得体の知れない男からも。
それができるのは今自分だけだ。妙に無感動にヒロイックなことを考えながら、ルカは浅くため息を吐いた。

「それで、どこに向かうんですー?」
「レイダ・カーライルのコミュニケーターをハッキングした。ポジショニングシステムで、どこにいるかはわかる」
「犯罪ですよ……」
「軽犯罪だ」
「軽いか重いかで犯罪を測るようになったらおしまいだって、もう軍人としても人間としてもおしまいなんだって」

レンタルのエアバイクと、あとは徒歩。それで移動するという。ルカはぞんざいに投げられたヘルメットを危なげなく受け取る。
エアバイクに跨った彼が、ぐい、と顎で自分の後ろを示す。乗れというのだ。なんとなく嫌で躊躇った。

「もう一台借りてもいいんじゃあ」
「だめだ。いいから乗れ」
「うう……」

仕方なく乗って、シドに掴まると、硬い筋肉の感触が伝わった。うわ、鍛えてんなあ。これはおそらくヤーグをも凌ぐ。ルカなどは言わずもがなである。

「陰気なインテリ眼鏡っぽいのに」
「何が言いたい」
「いろいろ不一致な人だなあと、思ってるだけです」

イメージと実態が違うなんてこと、よくあることだとわかっているのに。あんなに優美なジルが実はとんでもない皮肉屋だったときは可愛いなあと思って撫で回したし、あんなに真面目なヤーグが瓜科の野菜を嫌っていることを知ったときは可愛いなあと思いつつ自分の皿のすべての瓜科野菜を彼の皿に放り込んだもんだった。ジルにもヤーグにも睨まれた。ともかく、影の形と実像が実はイコールじゃないなんてことはよくあったのに、シドにはただただ違和感を覚えるのだ。
誰にでも表と裏がある。でもシドには、更にその奥になにかがある。そしてそれを暴いても、まだすべてではない、そんな気がするのだ。どこまで知っても、彼のすべてなどわからないような気がした。
果てがないことは、怖い。沈んだ先でどのみち呼吸ができないとしても、ルカはそこを果てと知りたいと思った。

タンデムステップに足を掛け、バイクに乗ると、慣れた手付きでシドがエンジンを掛けた。バイクなんてほとんど乗ったことのないルカだから、多分自力ではエンジンを掛けることさえできない。
空中に浮き上がり、足元が一瞬おぼつかなくなる。バイクはシドが操るので、ルカは上空からエデンの街並みを見るくらいしかすることがない。

「うわ……やっぱエデンって広……」

バイクのモーター音に独り言すら飲み込まれた。昼過ぎのエデンは遠目にも華やぎ、至るところに人が見える。こんな光景は一度も見たことがなかった。
僅かな感動も一瞬のこと。「うわ、」言う間もなくハイスピードに呑まれて、ルカは慌ててシドにしがみついた。

道路を走るならば信号やスピードの制御がいるが、エアバイクならばいずれも不要だ。運転は自動制御もかかっているし、衝突の危険がないため、かなり自由に動かせる。その点を気に入っているのだと、バイクを降りてから聞いた。

「それは法定速度ギリギリで突っ走ったことへの言い訳ですか……?」
「君の乱れきった髪を見たら、少し罪悪感が」
「つくならもうちょいまともな嘘をつけーい。笑ってんじゃない」

視界を塞ぐほどボサボサの髪を前に、シドが笑いをこらえている。本心から笑っているのなら許そうと内心思いながら、髪を雑に整えた。邪魔にならなければいい。

髪が視界を遮らなくなると、そこが見覚えのない寂れた小さいビルや倉庫ばかりの細い通りであること、湿気が多いこと、それからほとんど人の気配がないことに気付く。視界を構成しているのは、シドと空の青さと、あとは素っ気のないコンクリートの灰色だけ。

「どこですか、ここ」
「ここがどこかは、今はいい。目的地がわかっていれば」

バイクを停めて、シドが歩き出す。ルカは不安に駆られながら、その後を追うしかない。ここがどこだかも知らないのだ。従う以外の道がない。

シドは迷いなく歩き、灰色のビルの前で止まった。ひと気はないし、廃ビルに見える。ところどころ割れている窓を数えてみる。窓のない階が隠れていなければ、四階建て。鉄製の重たいドアを開けようと押したが、どうも開かないらしい。

「まあ、そういうこともあるか。どうしたものかな」
「窓割れてんだし、もっと割ってそこから入っちゃえばよくないです?……あれ、これは」

注意して見れば、通りの出口へ向かう一つ目の窓の鍵だけ、他の窓とは違う方向に捻れている。つまりは鍵が開いている。
窓はヒビが入っていたが、それなりの大きさで、開ければ人一人くらい簡単に通れそうに見えた。

「先輩、ここだ。ここから出入りしてるんですよ」
「ふむ、そうだな」

少し建て付けが悪くなっているような感じがあったが、ちゃんと開いた。シドが入り込むのを、ルカも追う。窓をすり抜け着地すると、足元でパキパキとガラスの破片の割れる音がした。

「ひどい有様ですね……エデンにこんなところがあるなんて」
「ここはエデンの外れだからな。ここだけじゃない、エデンも中心を離れてしまえばこんなものだ」
「あんなにきれいだったのに、ちょっと幻滅。放っておくから、危ないことできちゃうんでしょう?」
「必要悪なんだろう」

事も無げな言い方は、こんなところまで出張してくる義侠心の過激さに相反して、不自然だとルカでさえ思った。シドはふっと笑い、廊下を歩いていく。ビルの造りがどうなっているかなどルカは知らないが、一般的に端に階段を作るものなのだそうだ。

「なぜそんなことも知らないんだ。建築法の一つだぞ」
「そんなこと言われてもなあ」
「知らずにいていいことなんて、この世には一つもないよ」
「ファルシと真反対のこと言うんですね」

ルカが言うと、シドは足を止めて振り返る。その目はガラス玉のように感情がなく、けれどルカを深淵まで見通しているようだった。

「ファルシは、何も知らずに生かされていろなんて言っていない」
「……」
「そんなこと考えるのは、ファルシに叛意のある者だけだ。違うかな」
「あなたと全く意見が合わないのであれば、私はもうとっくに逃げ出してるんじゃないですか。そのへんの兵にあなたを突き出して」
「……君はいい拾い物だ」
「それ褒めてます?」
「最上級に」
「そですか。ならいーです」

たぶん、褒められるほうが危険だ。この男には。役立たずの愚者として捨て置かれたほうがよほどましなのではないか。ルカの勘がそう言っていたが、今から逃げることもできなさそうだった。

足音を殺して、階段を登り、上階へ向かった。窓のある廊下と、誘導灯がついている階段はなんとか歩けるが、部屋に入ったら電気がなければほとんど視界がないだろう。真っ暗な二階に人の気配はなく、無言のハンドサインでルカが上階を示すとシドは頷いた。
二人で階段をもう一つ、三階に至ってようやく話し声が聞こえてくる。

「聞こえますか?」
「ああ。二人……いや、三人だな」

二人で足音ばかりか息まで殺し、静かに廊下を進んでいく。シドが前を、ルカが後ろを警戒する。
人間を制圧する訓練など、ほとんど受けていない。ルカは緊張して荒くなる息を必死に鎮めなければならなかった。ひどい騒ぎにならなければいいのだが。
しかしこの男、よくも下級生と組んでこんなことしようと思ったよな。命を預けるには不足だと思うのが、たぶん自然なのに。ルカがそう、意識を逸らしたときだ。部屋の中から声が聞こえてきた。
中を覗き込むと、数名が話し込んでいるのが見える。大きなデスクトップパソコンが何台か並んでおり、処理能力を必要とする作業をここで行っているのだとすぐにわかった。

「……でも、一人も殺せなかったなんてな」
「大した威力じゃなかったんだろ?試金石に働きを期待するなよ」
「そうはいっても、一応リスクはあったじゃないか。軍の動きを見るだけになっちまったのは、やっぱり惜しいよ」
「一人、怪我した生徒がいただけだったんだろ。それも大した怪我じゃないらしいじゃないか。もうちょっと良い結果になると思ってたぜ」

すべて男の声で、ルカのことを話しているのだとすぐにわかった。彼らが下手人ということで間違いなさそうに思えた。
部屋の入り口の手前で息を潜めたシドが、手を床と並行に動かし中を指差す。PSICOM式の、制圧を意味するサインだった。

従うかどうか、ほんの一瞬迷った。それでもシドが先に踏み込むと、迷いはなくなった。一人で三人を同時に制圧することはできない。敵が武装していれば、シドが死ぬ。
シドに続けて突入し、シドが左手の一人を昏倒させるのを音と気配で感じながら、奥の男の喉を突いて続けざまに側頭部を殴打、気絶させる。その間に、シドがもうひとりを狙った。彼の深い踏み込みに担保されるかのような重たいアッパーが腹部に入り、男は潰れるような声を一瞬上げ、床に落ちて動かなくなった。内臓が無事か怪しい。

「何事!?」

ばたばたと駆ける音がして、部屋の奥のドアが開き、そして彼女が現れた。ルカにも見覚えがある、一年生の女子であった。その後ろには、老若男女関係なしに数名が続いている。

「あんたたちっ、学校の……!!」
「やはりな。わざわざ士官学校を狙ったのは、内部に協力者がいたからだった」
「ぐぅッ……!」

彼女は顔に青筋を立てて、シドとルカを睨んだ。後ろから出てきた数名もまた事態を理解したらしい。「レイダ、やっちまおう!」そう叫んだ。

「たかが士官“候補生”だ!」
「そうね……!地の利はこちらにある!」

レイダと呼ばれた後輩は、さっと視線を巡らせ、近くの机にあった空き瓶を手に取り、投げた。ルカは自分たちを狙ったものかと思ったが、違った。瓶はまっすぐ、天井の電灯を目指していた。
バリン、ガラスの割れる音とともに、灯りが消える。視界は突然真っ暗になり、何も見えなくなった。そしてすぐ、駆け寄る足音。ルカはたじろぎ、そして、近づいてきた男の顔面を殴った。

「あれっ?」

自分で声が出た。なぜだかはわからないが、どこに頭があるのか、感覚で読み取っていた。それからさっと腰をかがめると、つられて落ちる前の髪を、横薙ぎに放たれた誰かの攻撃が掠める。

わかる。ルカは、“どこに今誰がいて、どう動いているのか、コンマごとにすべて把握できている”。
ならばどうしていいかも、わかる。

背後の女に肘鉄を入れ僅かにつんのめるその側頭部を殴る。その先にいる男に掌底を叩き込み蹴り上げた踵を首に打ち入れる。体勢が崩れるが後ろに落ちる寸前に手を付けばその体の上を誰かが殴った。
すべてがわかっている。空を切ったその誰かの腕にしがみつき、ルカは己の体を回してその誰かをぶん投げた。床の上を滑る音と悲鳴。そして最後、床を蹴って残った一人に肉薄し、腹に一撃、それからやはり側頭部に重い一撃を。

「はっ、 はっ、 はっ、……ふ……」

息が荒い。自分は今、何をした?
制圧した。一人で?どうしてすべての動きがわかったのだ?わからない。

混乱する背後で、シドが動く気配がした。振り返ると、「素晴らしいな」と声が掛けられた。

「では……とりあえず、灯りをつけよう。“ファイア”」

ボウッと炎が周りを照らし出す。ルカは驚き、目を剥いた。演習でギア魔法を使ったことはあったが、それらは軍人の武器であり、そうでない者は行使が許されず、使用のために指に装着するチップも与えられない。たとえ優秀であってもだ。それがどうして。

「どうして、魔法を……」
「はは、まあ、気にするな」
「気にするなって……」

彼は荒い呼吸を収めようとするルカにもう目もくれず、別の電灯のスイッチを探している。ほどなくして見つけ、部屋が明るく照らされた。
足元に倒れている人間はほとんどが気絶していた。唯一、痛みに悶絶しながらも意識があるのは、レイダだけであった。

「さて、どうしたものか」

シドはパソコンを起動し、何やら調べるつもりのようだった。ルカはおそらくそちらの助けにはならないだろうと自分を判断し、足元にいるレイダに話を聞くことにした。

「ちょっと、ねえ」
「っぐ……ぐう……ッ」
「なんでこんなことしてるの。士官学校なんか襲ったってなんにもならないし、そもそも何考えてるわけ?反聖府団体、だっけ?そんなことしたって、なんにもならないんじゃないの?よく、わかんないけどさ……」
「……っお……おまえ、なんかに……わかるわけない……聖府のファルシは……面倒な人間を、すぐに“消す”……!わかるわけないっ、ある日突然家族が殺されてファルシが入れ替わってたときの気持ちなんて……ッ」
「……は?」
「わたしたちを潰したって、無駄だ!“あの人”が……“あの人”がまた、やり方を教えてくれる!そうすれば――……」

レイダが端の切れた口でなにかを、おそらくルカたちを嘲弄してやろうと、言おうとした。
そのときだった。ルカの背後で、鈍く重い音がした。

えっ、と声を上げながら振り返ると、シドがデスクトップの本体である筐体をこじ開け、破壊し、床に投げ落としていた。

「せ、先輩?」
「破壊しなければな。またこんな愚行を繰り返すだろう」
「なっ、……そんな、でも、現場保存とか、そういうことは……!?」
「それではいけない」

シドはどこか艶然と微笑み、筐体すべてをあっという間に壊してしまった。レイダがやめろと呻く中で。

「君たちで全員か?」
「よくも……よくもッ……!」
「この程度の規模では、パソコン数台がせいぜいだろうな。しばらくは活動できまい。……まあ、それ以前に、君たちは逮捕されるから関係ないわけだが」
「こ、殺してやる……!!」
「ああ、できるといいな。“面倒な人間は消す”ファルシから逃れたらぜひそうしてみてくれ。歓迎しよう」

彼は場にふさわしくない笑顔でにこりと笑い、またファイア魔法を唱えた。炎を床に落ちたパソコンに向けて彼が放つと、燃える素材ではないはずなのになぜかよく燃えた。すべてのパソコンに火がついたのを確認した彼は、すぐさまルカの腕を引く。「行くぞ」強引だ。ルカは全く、それに抗えない。

階段を降り、もと来た道を戻って、倉庫街へ出る。夕日が差し、工業地帯を赤く染めている。
ルカは混乱しながらも考えていた。おかしい、こんなことはおかしい。“彼の行動は全く、矛盾していた”。

「先輩、放してくださいっ……放して!」

歩くうちに疑念が形になって、ようやっと腕を振り払う勇気が出た。シドはちらりとこちらに視線をやったまま、沈黙している。

「お、おかしいでしょ。なんでパソコン壊したの?なんか、そう、計画書とか、そういうものが見つからないとあの人達立件できないじゃない……!」
「問題ない。軍の調査報告では、爆弾から皮脂と繊維が検出されている。少し調べれば行き当たるだろうさ」
「そうじゃなくて!だとしても、あなたが壊す理由は一つもないよ!それじゃまるで、」

まるで、自分が疑われないように隠蔽してるみたいじゃない。

そう口に出してぞっとした。レイダは“あの人”がどうとか、言っていなかったか?

「……“あの人がまた、やり方を教えてくれる?”」
「……」
「先輩……先輩は……反ファルシ主義者ですよね。反PSICOM主義者とも、反聖府主義者とも言えます。でも……PSICOMを警戒してるだけで、自分では何もしてない」

そもそも、それが違和感なのだ。
公共の交通機関さえ使用を拒否するほど現体制に警戒心を抱いている人間が、何もせず、日々を安穏と過ごせるものなのか?

それよりは、自分が矢面に立たなくても……なにか、対策を講じるべく、誰かを扇動するぐらいのことは、するんじゃないのか……?

「まあ、気付かれることまでは想定の範囲内だよ。その程度には賢くいてもらわないと困る」
「……やっぱり……先輩が唆したんですか。それで、その証拠が残っていないかを確認するために、今日、来たんですね?」
「そうだな」
「私を連れてきたのは、なんでですか」
「それに答える前に、一つ疑問に答えてもらおう」

体ごと振り向いたシドは、ルカに拳銃を向けていた。

「君は、何者だ?」




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