どんなに大きな事件であろうと、時間はゆっくり、しかし確実にその鋭利さを削り取っていく。喉元過ぎればというヤツでもあるし、風化と呼ぶこともできるだろう。受ける印象はまるで違う言葉だが、渦中の人間にとってありがたいことなのは確かだ。

そうして、ルカは日常に復帰して久しく、校内で遠巻きに指を指されることもなくなったし、一時的に共通項ができた寮長とも世間話のネタが尽きた。医務室のあの軍医も、傷痕ももうじき消えるだろうと言っていた。与えられた塗り薬の独特な臭いともやっとおさらばできる。

ルカにとっては、そんなもの。出てくる感想はそんな程度だ。当事者でありながら怒りが持続しないところはルカの長所かもしれないし、短所かもしれない。傷はあっても痛みが無いことが、なおさらそんな無関心さを助長させていた。

が、誰もがそうあるわけではない。事件に関して、憤懣やるかたない者も依然として存在していた。


寮の談話室、ルカとジルとヤーグの三人のみの空間。寮長も前は顔を出していたのだが、思えばルカたちがこの三人で固まることが増えた頃から彼が談話室を使用する頻度は減っている気がする。寮長の面の皮を思うに遠慮だとか気が引けるだとかそういった事情は一切なさそうだが、やはりこのかしましさが苦手なのだろうか。女三人で姦しい。一人は男なので、ヤーグが気にするだろうと思い、ルカはこれを話題にはしていない。

「ルカ、軍に申し立てなさい」

「……ってなんでそうなる?」

「だって聴取のためとか言って突然連れ去られて以降なんの進捗も報告されないのよ!?仮にも“被害者”に対してあまりにもあんまりでしょう!?」

「うーん、そりゃ字面にするとそういうことになるんだろうけど……」

今日も今日とて、ルカは課題を、ジルは予習を、ヤーグは復習をこなしながら、なんだかんだと会話に興じている。互いの手の中にある勉強セットの中身はそのときどきによって違うが、結果はいつも同じである。ジルとヤーグは話しながらでも作業を終わらせ、ルカは若干片付け終わらない。

「でもさあ、士官候補生じゃあ準軍人っていうかさ?そのへん気を遣ってもらえるはずもないなっていうか?ぶっちゃけあの七面倒臭い聴取の時点でそれぐらいは覚悟してたっていうか?」

「そんなの許されるはずないでしょうが!準軍人ってことは逆に言えば軍人じゃないのよ、あんたは情報を求める権利があるし向こうは教える義務があるでしょう」

「んんー、それはたしかにその通りだろうけどそこまで考えてくれないんだろうねぇ。いずれ軍人になることを思うと、強く出れないじゃーん」

「それもおかしな話よ。だって候補生ってだけで、卒業したら全員軍人にならなきゃいけないってわけじゃないのよ。あんただって私と比較される場所にいるからバカに見えるだけで、実際外に出たらそこそこ賢い人間として生きていけるんだろうし」

「ジルちゃん、君は私を慰めたいのかい?追い詰めたいのかい?」

ジルの言い方こそあまりにもあんまりだったが、ジルとしてはただ事実を述べただけなのだろうとわかるくらいには深い付き合いだ。

「あんたはまだどこへでも行けるのに、それをまるで所有物のように扱うのは許されるべきじゃないし、あんたが許すべきでもないわ。清廉潔白であれとは言わないけれど腹が立つ!」

「……そうだねぇ」

彼女の中で怒りが怒りに拍車をかけているのが目に見えてわかる。ジルは怒りで我を忘れがちな人間だと、それも付き合いの中で知っている。それに加えて内弁慶。というか、他人に本音を話すことに抵抗があるらしく、結果として怒りの発散は仲間内で行われることが多い。

ルカもヤーグもそのあたりはさすがにそろそろ手慣れてきているから、彼女の怒りが放出されるときは否定せず受け入れる。彼女がそのままの勢いでルカたちをサンドバッグにすることはないし、ジルが憤慨するのは今回そうであるようにルカのためであったりすることが多いというのもある。
そしてそれ以上に、彼女のことが好きだからだろう。身内でしか感情の発露を許されないと思っている彼女が、可愛いからだ。

「納得がいかないのよ!軍が軍としてすべきことを貫かないのも、まだ何も見つけていないのも何もかもが……!少なくともその過程で傷付けた一般人に対して誠意や配慮が欠けているところが許せないわ!」

「うんうん、ジルはいつも優しいねぇ」

「喧嘩売ってんの?買うわよ?」

ジルの怒りはいつだって率直で、ルカには茶化すぐらいしかやることがない。ジルの心にはきちんと法があるから、理路整然として反論もなにもないのだ。

「……あんたって馬鹿は。ルカは、……ルカは、自分を憐れまない」

そういうところが、私は好きだわ。
ジルは睨むように言った。複雑なんだろうと思った。

「失礼、ナバート君はいるか」

と、外からドアを押し開け、教官の一人が顔を出す。その瞬間しれっと怒りを顔から消し去るジルを見て内心舌を巻いた。こういうところは本当にソツがないというか。

「休日にすまないな、ナバート君、君に手紙が来ていたんでね」

「あら、それはわざわざありがとうございます」

ジルはにこにことその手紙を受取り、教官が去るまで手紙には目も向けなかった。教官が去ったところで、ルカが「誰から?」と問うと、ジルはそっけなく、「ただのダイレクトメールよ」だなんて言う。
そのくせ、先程までの怒りはしゅんと枯れ、彼女は何を言うこともなく踵を返し談話室を出ていってしまう。

「……親かな」

「たぶんな」

追わないほうがジルには有り難いだろうと察すのも、やはり付き合いゆえか。一年という期間を長いと思うか短いと思うかはさておいて、朝から晩まで顔を突き合わせていれば細かい機微にも視線がいくようになるのだ。どうも親と不仲であるらしいジルは、親の存在がこの共同生活に関わりを持つと途端に威勢をなくし、じっと黙りこくって耐えようとしているみたいだった。だから、ルカはそれを追わない。

一方のヤーグはといえば、もともとジルの事情には無関心だ。それは事実かもしれないし、彼なりの配慮の現れかもしれないし、彼が持ち得る唯一の器用さかもしれない。
ルカには最初薄情に見えたそれも、大人の処世術であるということを知った。そしてそのうち、ヤーグのやり方がジルにとってはむしろ助かるのだと経験で知ってからは、ルカもそれに倣うようにしている。

自分の問題は自分の問題として、置いておきたいこともあるだろう。

「それにしても、お前はそれでいいのか」

「ん?何が?」

「ジルが言っていたことだ。被害を被ったのはお前なんだから、ジルの言うとおり抗議したっていいだろう」

「んんー、でもぶっちゃけそれほど関心無いっていうか」

「あれだけ大怪我したのに、お前は本当に女か?そこは怒り狂ってもいいところだろ」

ヤーグはジルに対しては何も言わない。それはもう、本当に何も言わない。今回の一件などまさにそうだ。ジルが怒り出すときゅっと真一文字に口を引き結び、ただただ黙りこくっている。触らぬ神に祟りなしと言いたげだ。
だが相手がルカだけなら、彼も内心思うところはあるらしい。ルカは踏み込まれて困るところなどないからかもしれない。

「そうねー、そこは怒っていいポイントかもねぇ。でもなぁ、それこそジルが怪我したんならてめぇ乙女の柔肌をなんだと思ってやがるってなモンだけどさぁ、私だからね」

「……嫌な片付け方だな」

「そういう可愛いのは全部ジルに任せてるからなー」

そう言って雑に笑うと、ヤーグが苦い顔をした。先日離席した隙に彼のコーヒーをとんでもなく濃いものと交換していたときも、こんな顔になっていた。っていうかアレは色で気づけよと思う。

「キャラの担当分けで済まされる話ではないだろ」

「あー、違うよ。キャラ分けじゃなくって、私の中でってことよ」

ジルは美人だ。それも、どこにでもいるレベルではない。学校に一人はいる、職場に一人はいる美人とは違う。誰だって、彼女を見れば、こんな美人今まで見たことがないと感嘆のため息を漏らす。ルカだって初めて見た時は見とれた。いや、今でもたまに見とれる。

そんな彼女がこれだけ近くにいると、たいていルカは揶揄の対象になる。曰く美女と野獣だのなんだの。それについてもルカがあれこれ言うより早く、ジルが僅かに皮肉めいた微笑みで黙殺してしまうから、特に思うところはないが、ジルとヤーグが常々苦い顔をしているのもわかっている。

「なんていうかなぁ、ジルが美人だってことに拗ねてるとかじゃなくて。ジルが美人なのは自然の摂理の結果っていうか、何も悪いことじゃないから。ジルの顔好きだしね。そうじゃなくって、私はただ、恋人がいるんでもないしガチガチの戦闘職目指しちゃってるし、そういうところに重きを置いてないってだけなんだよ。自分の傷はそんなに痛くないってこともあるじゃん?」

「自分の傷が痛くないなんてことがあるか」

「比喩だからそこだけ拾わないでよ、もう。ジルとかヤーグが傷ついたんなら怒れるんだけどね、コトが私ってなるとなんとも。日常に支障ないし、そもそも怒るべきところは二人がきっちり突いてくれちゃうから。二人が代わりに、正当に怒ってくれるから……うーんと、だからとにかく、私は平気なの」

結局言葉にしたいのは最後の一言だけ。私は平気、大丈夫。それだけ言うのに、こんなに言葉を尽くすなんてちょっと笑えるなぁと思った。
ジルもヤーグも、言葉がいつも的確だ。言いたいことを一言一閃、鋭く放って締めてしまう。それがルカには難しいから、真面目な話のときばかりルカは多弁になる。

「なら、私たちがお前の傷を痛がるのは仕方ないだろうが」

「……たーはは」

的確すぎて、返す言葉に困って、多弁ですらいられないときも稀にあったりする。
ありがたがってごめんね、とだけ言っておいた。ヤーグはため息しかくれなかった。





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