この季節にしては妙に乾燥した、五月の朝のことであった。その日もルカは寝坊しかけ、すんでのところでジルが起こしたおかげでなんとか遅刻は免れる時間に目を覚ました。

「うーん……今日もねむーい……」

「夜寝ないからでしょうよ。一体何時まで起きていたのよ?」

「えーと……記憶にございません?」

そう答えるのが正解かと首をかしげれば、ジルは深いため息をついた。早寝早起きとはいかないまでも、睡眠時間を確保しないと肌が荒れるという女性らしい言い分の彼女には信じられない行動なのだろう。
ルカはジルと朝食をとり、待っていたヤーグとともに三人連れ立って教室へ向かうべく寮を出た。このとき、すでにホームルームの十分前だった。
そして少し歩いたところで、ルカは一限で使う教本を一冊自室に忘れてきたことに気づいた。

「やっば、今日忘れたら面倒なことになる……バンダムちゃんマジで怒る」

「とってこい。走れば間に合うだろう」

「うん!二人は先に行ってて、そんでもって間に合わなかったらごまかしといて」

「やぁよ面倒くさい」

あっさり否定される声を背中で聞きながら、ルカは走りだした。あと十五分しかない、急がなければ。ルカたちの所属するラストエデン寮は学校のはずれにあって、ルカの教室までは歩いて十分以上かかる。半分程度にまで足を進めていたから、単純に考えても歩いていてはぎりぎりだ。

寮の正面扉の鍵を開け階段を駆け上ったルカは、飛び込んだ自室の机の上から教科書を取り上げ、そのまま踵を返す。寮の玄関は最後に出る人間が鍵をかけなければならないので、さきほどかけて、開けたものをもう一度かけた。それから、振り返りもせず走りだす。

ルカは後ろを振り返らなかった。だから、どうしてそうなったのかはわからなかった。けれども、空気が一瞬ぴんと張る感覚を味わった。
それは妙な気配だった。妙に覚えのある気配でもあった。ルカはとうとう振り返る。そして、同時だった。

耳を劈く爆破音が先か、一瞬燃え上がった赤い光が先か、それとも細かい瓦礫や金属のかけらが被弾したのが先かはわからなかった。あるいはすべてが同時だったかもしれない。とっさに学生鞄を胸と顔の前に翳し身を守ったが、代償のように足に釘と金属片が突き刺さっているのを見て、ゆっくりと地面に尻もちをつく。

「あ……あ……?」

鮮烈に目は一瞬赤く焼かれた。だからほんの数秒の記憶がルカからは飛んだ。はたと気付いて、混乱しているんだか正常なんだかわからない脳みそは稼働を始め、呆然と己の足を見下ろした。
胴は無事だ。見られるのだから、顔も無事だ。足やらだって、ケアル・ギアですぐ治療できる程度の損傷だ。でもそのためには、医務室に行かなければ。そして当然、立ち上がらなければ……。

そこまでわかったのに、ルカにはそれができそうになくて、ただ荒い息を吐くだけになる。自分の呼吸が大きすぎて、何も聞こえない。立てないし動けないしこれ以上なにもわからない。後ろに倒れることさえ、なぜかできなかった。全身の筋肉が硬直しているかのようだった。
ただひたすら呆けたルカが見つめる先、もうもうと煙が上がっているのは寮の入り口よりずっとこちら側だ。外から外壁を爆破されたのが見えた。ただ、それだけ。理由も意味も、これからどうなるのかも、なにもかもがわからなかった。

「おい、急げ!」

「逃げろ!!」

から回る脳に反し、少しずつ落ち着きはじめた呼吸音の合間を縫ってそんな声が聞こえてきたので、ルカの脳内からとりあえず何がしかの事故という可能性は完全に消えた。これは、故意にやられたのだ。自分を狙った?否、己にそこまでの価値はないはずだ。というか普通の人間にはそんなもの無い。
ということは。

「学校が……?」

わからない。わからないし、考えられる気もしない。緊張が解けてくると今度は上半身を起こしていることさえ辛くて、ルカはゆっくりと身体を後ろに倒す。少しだけ呼吸が楽になる。ぱたぱたと、足音が近づいてきた。その誰かは、ルカを一度見下ろすとまず爆破され崩れた外壁の確認に向かった。視界が霞み、よく見えない。

「起きられるか。……無理そうだな」

隣に膝をついて見下ろしてきたのは、よくよく見れば知った顔であった。

「医務室へ連れて行く。もう安心していい」

涼し気な黒髪と、ヤーグにも勝る体躯。ルカは面識はあれども親交がないが、確か寮の寮長だ。生活の時間が合わないのか、共同の区画でたまに出くわすぐらいだった。ので、当然のように名前すら覚えていない。
彼が抱えたままのバッグごとルカを抱き上げ、足には痛みが走る。と同時、足音が二つ連なって駆け込んできた。

「ルカ!!」

声はジルのものだ。寮長が振り返ったのでルカにもその足音の主がわかる。やはり、ジルとヤーグであった。途中で爆発音を聞いて戻ってきたのだろう。

「大丈夫だから……」

「大丈夫には見えないわよ……!いったい何が、どうしてこんな……!」

「すぐ医務室へ連れて行く。君たちは急いで教官たちに連絡を。直轄の警備軍と、PSICOM両軍に連絡することになるだろう」

寮長が淡々と告げると、ジルとヤーグは見事に両方目を剥いた。

「っな……それなら、私達が医務室に行きます!ヤーグ!あんたがルカを、」

「ああ。寮長、私が……」

「……そうか。そうだな、そちらのほうがいいか」

寮長はそれだけ言ってルカをヤーグに渡す。視線が少し低くなる。ルカは痛みに耐えながら、その僅かな衝撃に耐える。
ルカの血が腕についたのを気にするでもなく寮長は踵を返した。ルカはそれを見送りながら、必死に彼の名前を思い出そうとして、結局思いつかず、「あの、先輩!」と呼んだ。

「先輩、ありがとう」

「……ああ。気にするな。それより急いだほうがいい、神経に傷がついていたらことだ」

ヤーグがそれを聞いて、ルカを抱えて医務室へ向かって歩き出す。腹の上に乗っていた鞄をジルが取り上げて、刺さった釘や破片が落ちないよう上向けて持っていた。なにやら、二人の顔が以上に暗い。というより、緊迫している?

「どしたの……?顔こっわいぞー……?」

「当たり前だ馬鹿。……無事でよかった」

「無事じゃないでしょう。治ったって怪我は怪我よ。……それに、爆破……よね、あれは」

ジルが今見たものがまだ信じられないと言いたげに言葉尻を濁らせた。それも当然で、訓練でも戦闘でもなんでもなく、いつもの朝の一瞬を切り取って突然に爆発が起きるなんてのはありえないことだ。この平和なコクーンでは、とてもとても。

「意味分かんないんですけど」

ため息を吐いて、ルカぐったりと身体から力を抜いた。足の痛みは呼吸の度に痛覚を苛んで、いっそ意識を失いたいくらいに辛い。
ジルの嫋やかな白い指が、一瞬だけ視界を覆った。その優しげな意識に、ほんのひとときだけ痛みが遠のく。

「あーう……ごめんねぇ、授業……」

「ああ……別に構わない。治ったら、あとで鍛錬には付き合え」

「了解いたした……」

ヤーグの優しさに、ルカは薄く微笑んだ。
ルカのまぶたの裏には、爆発の瞬間燃え上がった鮮烈な赤が焼き付いていた。それをごまかすように目を強く閉じているうちに、三人は医務室にたどり着く。

ジルが扉を開けると、中にいた軍医はルカの足から垂れる血に驚いたように椅子を倒して立ち上がり、事情を聞く間もなく慌てて診察台へ寝かせる。ここが士官学校であったことが唯一の救いだった。普段から演習などで怪我人が多いため、士官学校には退役後ではあるが必ず軍医が赴任させられる。軍医は、当然ながら爆弾の破片による裂傷なども見慣れている。のでルカの傷を軽く検分したのち、医務室の端にあった端末を何やら操作して、机の端に置かれていた軍用のコミュニケーターでルカの足の写真を何枚か撮影してから処置を開始する。
突然のことに驚愕してこそいたが、処置に関しては危なげなく、手袋をした手に持つピンセットで破片を傷から引き抜いていく。そのたびぞっとするほど強い痛みが強く走った。

「何があったのかは知らんがね、これは自然に治すのは無理だ」

「無理ですか、いた、痛い、いたああああああああ!痛い痛い痛い!!」

「裂けてるからね。縫うか、ケアルで一気にやるかだが……ケアルの使用許可さえ降りればね。まぁ降りると思うが」

淡々と告げながら、ルカが時々痛みに呻くのを完全に無視して軍医は処置を進める。ルカもジルもヤーグも知らなかったがこの軍医、警備軍の最前線にて軍医を四十年務め上げたベテランであり、彼にとってはルカの今の怪我はそう慌てるに値しない。麻酔をかけるにも値しない。

「先生もうちょっと優しくとか!できませんかあいだぁぁぁ……!」

「戦場に優しさなんていらないよな?」

「おかしいよね!ここ戦場じゃないよね!?ってあああ痛い痛いいたいいいいいいい!!てめっ聞いてんのかぁぁぁぁ!!」

「人生は戦場だからなぁ」

「議論のすり替え!議論のすり替え!!あんたの脳にはかにみそでも詰まってんのかッ!!?」

「……私、医務室のお世話になるような怪我だけはしないようにするわ」

「私も……」

ジルとヤーグがルカの苦痛を教訓に変えるのを睨みながら、ルカは必死に耐えた。耐えて耐えて耐えて、結局すべての破片を抜き取るのには二十分かかった。
と、最後の破片が抜けたのとほぼ同時、さきほど軍医が何かの作業をしていた部屋の隅の端末がピピピと音を立てる。と、軍医はヤーグに顎で端末を確認しろと命令した。

「あー、第一回復魔法許可……第二回復魔法不可……第三かい、」

「そこまで読まんでいい」

「あ、はい」

「つまりケアル・ギアまでは使用が許可されるんですね。よかった、それならすぐ治るわ」

ヤーグに視線もやらずに声を飛ばした軍医は、右手の手袋を外して指先に装着された何かを擦った。その瞬間緑の光がルカの下半身を中心に視界を満たし、そしてゆっくりと光が消えていくのにしたがって痛みもまた消えていく。気がついた頃には傷も姿を消し、残ったのは制服の裂け目と染み込んだ血痕だけであった。

「あ、痛くない……」

「治ったろ。さて、そんじゃ話を聞かなきゃな。教員室に行こうかね」

軍医がそう言って立ち上がり医務室の出口に向かうので、ルカたちは顔を見合わせ教室に今からでも行くべきかと思ったが、軍医が振り返り「なにしとる」と振り返ったのでそうもいかなくなった。

「お前たちも来るんだよ。俺だけ行ってどうしろというのかね」

「さっきから思ってたけど先生言葉少ないよ!わっかんないでしょうがそんなん!」

「おっさんというのはそういうもんだから。というわけでほら、歩けるんだし急ぎなさい。君は寮生だったね」

軍医はルカたちの顔を順繰りに見た。そして一瞬ためらった後にもう一度口を開く。

「学校が狙われたなら、これはテロだ。間違ってもただの怪我じゃ済まないよ」

ルカは目を見開き、僅かに後ずさる。まさかそんな、そんな大事が自分の身に振りかかるなど。そして同時に、ジルとヤーグがひどく深刻そうな顔をしていた理由も理解した。

困惑する脳裏に、一人の男がちらついている。
それはそんな大事の最中、自分を最初に助けに来てくれた男だった。

「もう、寮長が、報告には行ってくれてるはずです」

ジルがそう言うと、ルカもヤーグも頷いた。彼は教員室に報告に行くと言っていたから、そろそろ……。おそらく全員一致で同じことを考えた、その瞬間であった。

『……全生徒に通達。本日、一・ニ限は休講、教室にて待機のこと。理由なく教室を出ることは禁止する……繰り返す、全生徒に通達……』

至る所に設置されたスピーカーから、空気を震わせて音がする。放送する声は、どこか緊張しているようにも聞こえた。

「さっきのところに戻ろうか。たぶん、先生たちもそこにいるはずだよ」

つまりは、職員たちが授業どころではないということのはずだ。教員室にそんな情報が持ち込まれれば、すぐさま現場の確認と通報が行われるのは必至。であれば向かうべきは、寮の出入口のすぐ、校舎の真裏。ルカが怪我を負った場所。

ルカが目的地を言い切ると、軍医は「ふむ」と医務室を出て行く。後ろをついて歩けば、間違いなくラストエデン寮への道のりだった。






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