Act.31







音がしなかった。痛みは、いつも以上に存在しなかった。
鼓膜は両方、たぶん内側から破裂している。
……潰れているのは鼓膜だけ?感覚がないのは身体の、どこからどこまで?

ゆっくりと視線を傾ければ、ナツメの身体の中心を地面に縫い付けるのは、もう動かないジャマーの片腕だった。そこから下、胴体と足のほとんどを押しつぶしてもいた。
腕はロケットランチャーを弾かれた時に折れたようで、力が入らなかった。

「……ひゅー、ふ、ひ……」

潰れた肺から潰れた音がひねり出すように外へ出た。声になど到底なり得ない、息としてもなり損なってはナツメに酸素を届けない。ごふ、と血が喉の奥から込み上げて、無意味な呼吸すら捻り潰して喉を内側からねっとり濡らした。
ナツメにはもう、いろんなものがよくわからない。色も、臭いも音もわからない。じゃあ目は見えている?今見ているものは、空?
あああ、でも、行かなくちゃ。行かなくちゃ……行かなくちゃ、駄目。
早く行かないといけないのに。心臓がうるさい。
心臓の音以外、何も聞こえない。

「ひ、ひゅ、ぅー……ぅ、ぅ」

這い出なくては。出なくては。行かなくては!!
ナツメの心は急いていて、だから彼女の周りの全てを吹き飛ばさんと炎が昇る。空を焼かんと、火柱になって。
制御が効かない炎だった。必要ないくらい、魔力を“食った”。ナツメには、何が起きているのかもよくわからないままだった。
ビッグブリッジの両軍橋頭堡までを覆う広すぎる戦場の、その真中にファイガ魔法が大穴を開ける。ナツメには知りようのないことだが、戦場のどこからも見えるほどに強大な炎だった。
動かない腕を動かそうとして、力が入らず、結局魔力を枯渇させながら炎が昇った。おかしい、自分の魔力ではこんな火力を放てないはずだ。そう思う間にも、炎は何度も空に向かって爆ぜる。

ああ、焼かれているのは、自分だ。

ナツメの命を焼いて世界に侵食するその炎を見つめながら、ナツメの頭は後悔していた。いくらナツメの頭が今極度に平静を失っているとしても、ナツメにとってその炎が命取りであることはわかる。
ナツメに炎を生む力があるなら、せめて身体にのしかかるこの残骸に当てるべきだった。せめてどかすことさえできれば、ナツメは動けるのに。

だって行かなければならない。
手が千切れても、足が裂けても。喉が焼けても、肺が潰れても……それでも、走らなければならなくて。なのに。でも視界が少しずつ掠れて、見えなくなっていった。血が溢れて、ナツメの喉を奥から焼いた。
痛みはなかった。しびれているような不思議な感触があるだけだった。身体は潰れていた。

生きたいのに。死ぬために、生きているのに。
あなたのために死ぬために、生きなければならない、のに。

「く、……ぁ……くら、さ……め……」

思えば最初から、ナツメにあったのはそれだけだった。クラサメのために、生きて死ぬ。そのために生きる。彼がナツメを救い出したあの日から、ナツメの世界はそれだけで完結していた。
それが希望だった。それは今も変わらない。そういう風に完成した世界の真ん中に生きている以上、ナツメの命の価値は変わらない。

変わらないのに、酸素が頭に必要なだけ届かなくて、意識が途絶えそうだった。できることがなくなっていく。
変わらないのに……ナツメがそれすら、最後の一筋の光さえ見失いかけた瞬間だった。

しかしナツメの世界に、今までなかった声が届く。ナツメが思い描きもしなかった声が。

「ナツメ!!」

「……?」

一瞬、空耳かと思った。
自分の名前を呼ぶ声がこんなところでするはずがない、そう思ったから。けれど。

「だめだ瓦礫が動かせない!ナイン、お前は!?」

「ちっ、無理だぞコラァ!!」

ケイトがナツメの名を読んで、エイトとナインがナツメを押しつぶすジャマーをどかそうと手を伸ばす。

「手じゃ無理だし、魔法じゃあナツメも危険だ……!一点突破で高威力で、狙いを定められるのは!?」

「……朱雀、しかありませんね……!」

セブンとクイーンが顔を見合わせ、その背後から最初に進み出たのはサイスだった。

「おい全員詠唱に入れ!吹き飛ばすぞ!!」

ナツメの焼けて煤けた指先が、空気の流れを感じ取った。それまでナツメの魔力が暴走して濁っていたのが、気配を裂くようにして誰かの魔力が研ぎ澄まされていく。
先ほどのナツメの炎が、連鎖して爆発を繰り返す地雷であったとしたら、これは研ぎ澄まされたエッジの先端に垂らされる血のようだ。刃を濡らすその瞬間、かすかに空気を震わすような。

ナツメが顔をゆっくり傾けた。赤いマントが風にはためくのが見える。そして、金色の鳥が羽を羽ばたかせた。
六人もの0組候補生が、同時に詠唱をする。世界にその名を轟かせる彼らが、ただ一人を救うためだけに研ぐ魔力の刃。

「いっけえええ……!」

ケイトが叫ぶ。魔力が金色の軌跡を描く。ナツメの見ているその目前を、金の鳥が貫いた。そして、浮遊感にもにた感覚がナツメを自由にする。

「あ……?」

圧迫感が消え、すかすかの肺を震わせて声は出た。酸素が少し増えて、脳の奥にも血が回り始める。思考は少しずつ冷静になる。
できることが、ひとつずつ増えていく。呼吸して、言葉を紡ぎ、指先が動いて、生きること……そして、戦うことができるように戻っていく。

「待って、動かないで!回復を……」

「……いい」

折れていない方のナツメの手が動き、先ほどまではジャマーが邪魔で届かなかった腰のバッグの口に差し込まれる。魔晶石を一つ引きずり出すと、うっすら白い光がナツメを満たした。そして次の瞬間にはナツメの身体が修復を始め、彼女はゆっくり上体を起こす。ケアルなら、自分で掛けるのが確実で早い。いくら相手が0組だったとしても。

「もう……大丈夫」

口元を濡らしていた血は乾きかけていた。袖口で乱暴に拭って、顔を上げる。
そこには、走ってきたのか肩で息をする0組がいた。全員もれなく少し焼けた顔で、それが妙に幼く見えた。

ナツメはゆっくり血が回りだした頭にくらくらしながら、彼らをじっと見つめる。そして、冷静になった頭は彼らの進軍ルートをすぐに思い浮かべた。左舷と右舷両方から白虎軍を叩く予定だったはずの彼らが、戦場のちょうど真ん中にあたるここにいるはずがない。ということは、おそらく。

「わざわざ……来てくれたの?こんなところまで……」

「そりゃ来るよ!アンタがこんなところまで一人で来てるなんて聞いたら……!」

「ああ、ナギのしわざか……ごめんね、騒がせて」

「そういう問題じゃありません!」

ケイトとクイーンが耳元で怒鳴った。その声に頭が一瞬ひどく揺れる。
呆然と顔を上げると、サイスが苛立った表情で目の前に立っていた。そして、彼女は鎌を振るい……。

「ボケ女がッ」

「んぐっ」

柄の部分で、ナツメの頭を横から殴打する。殺意を感じさせるほどではなくとも、害意は感じられる程度の力で。
ナツメがせっかく起こした身体をぐったり横向きに倒れさせたのを見て、セブンとエイトが、んなっ、と小さな悲鳴を上げた。

「おま、サイスお前、お前何やってる!?」

「殺す気かサイス!!副隊長、しっかりしてくれ!気を確かに持て!えーと頭を打ったときは動かさないんだったっけ……心臓より上か!?下か!?なぁエイトどっちだ!!」

「オレが知るわけ無いだろ!」

「ぐ、だ、大丈夫……セブン、平気だから離して……」

ナツメはよろめきながらも頭を手で支え、身体をもう一度立て直す。サイスは舌打ちしかねないほど凶悪な顔でナツメを見下ろしていた。

「このグズ。ジャマー相手に魔法なしで戦い挑むなんざ、どこの世界の常識だってアホのすることだ」

「そいつは知らなかったわね。それに……どんなにくだらなくても、勝算がなくても、戦わなきゃならないときはある」

「それでもっ……!あんたが、そんな死にかけてまで、この戦場に出撃する意味はあるの!?ほっときゃジャマーだって、アタシらが倒したのに!」

ナツメはじっと、同じ目線の高さにかがんだケイトの猫目を見つめた。そして、彼女の言葉を考える。
……たぶん、そういうことではなかった。放っておけば誰かがなんとかしてくれる、なんて、ナツメはそれを信用できない。
ジャマーは倒してくれたかもしれない。でも、その先を誰が代わってくれるのだろう。クラサメが生きる未来を掴むことすら、誰かが代わってくれるのだろうか?

「私は……これは、私の戦いだから。戦場は、関係ないのよ」

ナツメにとっては、それがどこか、なんて何の意味もないことだった。

彼らの戦いは、朱雀の勝利のためにある。ナツメはそれを知っている。
ナツメはきっと、同じ状況に置かれている彼らを助けないだろう。手が空いていて、できることがあれば、もしかしたらするかもしれない。だが、わざわざ目的から逸れてまで誰かを救わないのだ。
だから、彼らにとっては、ナツメも朱雀の一部なのだと今更理解する。朱雀を助けることとイコールで、彼らはナツメを助けに来た。

なんだか羨ましくなった。ナツメには、到底できないことだから。

ナツメもそうなりたかった。もうずっと昔のことだ。
森の奥底で息も絶え絶えに死にかけた子供を躊躇いなく救うくらい、優しい人間になりたかった。強い人間になりたかった。
もうずっと昔、ナツメは候補生になりたかった。誰かを救うために命をかけて、怪我も何もかも笑い飛ばして見せる、あの強い人たちになりたかった。
なれなかった。ナツメにはできなかった。ナツメは強くなれなかった。

クラサメやナギがどうして0組を大切にしているか、ナツメはもしかしたらわかっていなかったのかもしれない。今更思う。
朱雀を勝利に導く最後の鍵だからではない。彼らが思ったより人懐っこくて、9組なんてアングラな連中でも分かり合えたからでもないだろう。

彼らが、誰もがなりたいと思った理想だからだ。力があって、窮地にある誰しもを平然と救い出し、必ず全員で生還する。誰も見捨てないその強さを、強さとしてさえ扱わない、戦場でも高潔であり続けられる彼らは。
きっと誰もが、こうなりたかった。こうなりたいから、候補生になった。でもこうはなれないから、みんなどこかで折り合いをつけた。ナツメが今、自分のためだけに戦っているように、各々守れる範囲を自分で決めて。
それは1組にいたって、4組にいたって、9組にいたって、当然のように同じだった。
得られなかった美しい何かを守るために生きたいと、誰もが思ったからだった。

だから、

「ありがとうね。助かった。……報いる術も、時間もなさそうなのが……」

とても。

「残念だわ……」

だけど……。

「行かなくちゃなの」

今更、曲がれないのも事実で。立ち上がって、もう一度前を見ろと心が強く急いている。

「だろうと思ったよ」

心配そうに唇を震わせるケイトの向こうで、サイスだけがふんと鼻を鳴らした。

「ここで這いつくばってリタイアするようなら、あたしが殺してやろうかと思ったが……そんなはずないよなぁ?」

「そうねぇ……そんな体たらくを晒していたらどうぞ殺して。この一本が撓んだら、私にはいよいよ生きる価値がない」

張り詰めた糸がずっと遠くへつながっていて、ナツメはそこへ向かっていくのだ。嵐の中、突風に倒されそうになっても、それはいつも許されなかった。
諦めたくなったことは、何度もあった。でも、それもひっくるめて、今は覚悟だ。
もう、ナツメにとっては……全てが。






0組にとって、彼女がどういう存在なのか。
それはもしかしたら、ずっと測りかねている確かなコーズなのかもしれない。その中身を知りたいから、その中身が温かな色を持つかもしれないと思うから、こんなところまで走ってきたのかもしれない。
そして答えが簡単にはわからないから、助けにきたのかもしれない。

「おい、ジャマーが停止したぞ!?」

「何が起きているんだ、朱雀軍はもうここまで来たっていうのか!?」

「あ、あれ……!!朱だ!朱がい、るッ?」

白虎兵の声が耳に届くと同時、インビジ魔晶石を使って姿を消したナツメが、それはもうあっさりと現れた兵士たちを屠った。ただ見ていただけの0組にとっても、それは奇妙なショーだった。
白虎兵たちは、自分の身に何が起こっているのかも知らないまま、透明なナツメに膝を砕かれ喉を裂かれ脳天をぶち抜かれ死んでいく。0組が戸惑っている間に、地面を蹴る音は少しずつ小さくなっていった。

「ナツメ!!ナツメ、待ってよ!」

「オメェ何考えてんだコルァ!お前一人で行くなんざ危険過ぎるだろうが!」

サイスと何事か話しただけで先へ進もうとするナツメに納得出来ないケイトとナインは、慌てて彼女に声を掛ける。しかし、エイトとセブンが二人を止めた。小声で、止めても無駄だろうと呟きながら。
クイーンがすっと背筋を伸ばし、頭を何度か小さく横に振ってから深い息を吐く。

「しかし、承服できかねます。せめて、わたくしたちと一緒に……」

「平気よ。私は、いつも一人だから」

クイーンの問いかけにすら、返ってきたのは妙に冷たい言葉だけだった。
誰かを傷つけるための悪意ある言葉では決して無いのに、何故か心を針で刺されるような、かすかな寒気のする言葉だった。足を止めた0組は一瞬顔を見合わせる。一番先頭に立っていたサイスだけが、ナツメの過ぎ去った後を静かに見つめている。
それは行く末を案じるようにも、諦めているようにも思える視線だった。







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