Act.28
クラサメとカヅサの二人と別れ、四課へ降りたナツメは、最奥の資料室に入り込んでいた。
役職持ちでさえ申請なしに入ることが許されない場所に無許可で乗り込んだのは、どうせならついでに犯せる罪は犯しておこうと思ったからだ。これ以上罰されることはないとわかっていた。
普段なら犯せない危険にあえて踏み込んだナツメであったが、しかし。
「……やっぱり、詳細はわからないよね」
四天王が、クラサメ一人を残して全員殺されたあの事件。
事後の調査を行ったのは四課であったと、四課に入ってから聞いた。あれも内務調査の範疇だったのだが、ナギに聞く限りでは、一面の焼け野原が広がるだけで何も見つけられなかったという。
それをまるきり信じるナツメでもないが、四課の初任務で白虎へ向かう途中に現場を調べた限りではナギが言う以上の成果は得られなかった。爪先がぐっと、両手に抱えた大きなファイルに食い込む。
「……ああ、もう」
もう、どうしていいかわからない。
四課に入った時、これで全て見ることができると思った。そしてすぐ、甘かったと思い知った。記録を見るにも許可が要って、規則違反は命取りだと言われずとも空気で察した。
信用されればあるいはと思った。それでもやはり、焼かれた過去の己の姿は届かない深みで霞んで消えた。所詮一人の諜報員に過ぎないナツメにとって、真実を知ることは一つだって簡単ではなかった。
「もう無理なのかなぁ……」
諦めたくなったことは、何度もあった。と思う。今となっては、それも含めて覚悟だけれども。
真実を知ることができたって、何も戻っては来ない。そんな綺麗事を何度思ったか知れない。何度言われたかも、わからない。
それでもこの受け入れられなさが、息を止めるような閉塞感が駆り立てるから、ナツメは足を止められない。
いつもこうなってしまうのだと、ナツメは唇を強く噛んだ。ナツメはいつも、そうやって自分自身に追い詰められている。ナツメを暗闇へ押しやり続けるのは、あの赤。五年前の事件でナツメが唯一覚えている、燃え盛る炎の赤。
「いや、今更。もう何も諦めることなんて……どうせできないんだから。もうここが限界だから」
そもどんなに焦ったって、ナツメには時間がない。これ以上調べるのは、全てが終わった後になるだろう。
もちろんそれまで己が生きていればだが……と、ナツメが苦笑して資料を戻したその時であった。走る靴音、そしてそれに続いて叩きつけるように開かれる資料室のドア。
先ほど丁寧にピッキングしたナツメの努力など灰燼に帰す乱暴さで鍵を壊したのは、ナギであった。
「て、てめ、なに、し、」
「あーあ、ドアは自分で直しなさいよね……」
息を切らせたナギに呆れたように言い放つと、ナギは怒りでか眦をかっと吊り上げた。
「ナツメ!!お前、何しやがった……!」
「何したか、はわかってるでしょうよ。質問くらい簡潔に済ませてよね」
「なんッ……、何なのお前!?何考えてんのかもうわかんねぇよ俺でももうわかんねぇんだよ!何なんだよお前はッ!!」
「いまさら……いまさら、そんなこと言わないでよ。こういうことを危惧したから、私を四課に閉じ込めたくせに」
半狂乱に喚くナギから視線を逸らしたナツメは口角を上げ、すぐ近くの壁に凭れた。なんだか少し泣きたくなった。結局、ナギに対してはいつもこうなる。
いつもこうやって、ナギに甘えている。ナギなら許してくれるとどこかで悟っているからだ。いつだってそうだった。
これから始まる全てが終わるまで、ナギは怒るだろう。それはもう怒り狂うだろう。でも結局最後にはナツメを許すのだ。たとえナツメを忘れてしまったとしても。
ナツメがナツメだから。ナギよりどこか壊れた、“可哀想”な女であるがゆえに。
でもそんなの、ナツメには関係の無い話である。
「私ね、ずっと無力だった。あの事件のことを調べるために四課に落ちたとか、それはもちろん嘘じゃないけど、結局矢面に立てないから選んだ場所だったと思う。あの人の近くにいることは……嬉しい反面で、怖いから。そんな幸せは私みたいなのには不釣り合いで、あの人にいつかそれがバレるのが怖い。私なんかじゃ不足だって、知られるのが……怖いから。だから、私は逃げたんだと思う。ここはいつも逃げ場だった。薄暗くて、いる人間全員汚くて、最低だった。だから落ち着いた……」
「……そうだな」
「綺麗なものって怖いよね。思い出とか、あこがれとか。その近くにいるのが怖すぎて、いつも逃げちゃう。でも……それでも、そういうものには綺麗なまま、そこにあってほしい」
例えば、いつか自分が消えてしまっても。
「ナギだって、そうでしょ?」
ナツメにとってのクラサメが、その“綺麗なもの”であるように。ナギにだって、あるのだ。守りたくて仕方のないものが。
例えばそれは0組で、9組の馬鹿共で、魔導院で、朱雀そのものである。ナギはナツメよりずっとずっと優しいから。
「あの時は無力だった。意気地なしだった。それはきっといまも変わらない。でも」
魔法の腕なんて、魔力がみそっかすでは散々と言ってもまだ過大評価で、戦い方もわかっていなかった。したことといえば、四課でなら何かつかめるはずだなんて甘い展望に飛びついて心配をかけただけ。
ナツメだって、自分がそんな道を選べばクラサメが悲しむことぐらいわかっていた。それでも、そうする以外思いつかなかった。
「今はできることがあるの」
しっかりと真正面からナギを見つめ返すナツメの眼に気圧されたように、彼はたじろぎ、うつむいた。
「わかってる。俺だってわかってるよ。俺たちの小狡いところは、そうやって誰かを理由にして自分が汚れて、それをまるで尊い自己犠牲だって思い込んで気持ちよくなるところなんだってな。そうだな……ああ、そうだろうよ。でも、それでも……あんな方法だけはとってほしくなかった」
「ごめんね、あんたの名前を穢して。仲間を売り飛ばしたみたいにしちゃって」
「全くだ。……壮大な自殺だな、全く……クラサメさんがいなくなるからって、ついていくためだけにこんなことするなんて……」
ナギは片手で顔を覆った。もう一方の手に握られたくしゃくしゃの書類は自分が書いたものだとナツメにはすぐにわかった。
五年。クラサメと離れて五年。ナギと知り合って、五年。親しくなって五年だ。ナギの筆跡を真似ることは難しくないし、ある程度信頼性のある書類ならあえて疑われなどしない。
対白虎専門諜報員ナツメ。数度に渡る長期潜入の結果、敵と通じた可能性あり。
ただそれだけの書類が、疑われるはずがない。
「……でもあんたはわかってないわね」
「ん?」
「なんでもない」
ナツメはにっこりと微笑んだ。何が壮大な自殺か。ついていくためだけだなんて、誰が言った?
ただ、ナツメにはできることがあって、だからそれを為すのだ。
おそらく二面に朱雀軍は展開される。対白虎の北方で一つ、対朱雀の東方で一つ。クラサメのいるほうに配属されるかどうかは運だがしかし、これでナギがなんとかしてくれる。己が他人より秀でていることがあるとするならば、それはたぶんこの青年が絶対的に味方でいてくれるというところである。
ナツメは、戦えない。弱い。戦闘できるだけの力がない。みんなそう思っているし、ほとんど事実だ。
でもできることは、あるのだ。
死ぬかもしれない。
それでもナツメは。少なくとも、今回初めて、ナツメは。
「勝ってみせるよ」
勝つために、戦いを挑むのだ。きっと、生涯二度目。白虎から逃げたあの日と、そして今。
違うのは、あの日のナツメに守りたいものは何一つなかったということ。
最短経路で突っ走って、朱雀を勝利に導くのだ。
ルシが動き出す前に、ナツメが全てを終わらせる。それが、ナツメの勝利の必須条件であった。
墓地は静かだった。
扉を直すナギを放って出てきたナツメだが、風のない中で注ぐ陽光の強さに早くも地下を出たことを後悔していた。夕暮れが一番、陽の光が強い。
「なにこれ、暑すぎる……」
白虎で生まれ育ったナツメにとっては、夏の朱雀は正直悪夢と言って差し支えない。それぐらいに、ナツメは暑さを嫌っている。
飲み物は温かいものが好きだし、寒い日に暖炉の傍に座り込むのは心地いいと思える。けれども肌を焼くような熱気だけは、どうにも受け入れがたいものであった。
「だめ……だめ、この服だめ……脱ぎたい、でも脱げないし……」
四課の武官服は、とにかく黒い。そもそも四課は基本的に隠密行動だというのになぜ特製の武官服があるのか。昔ナギに聞いた話では、元々四課及び9組が懲罰部隊として誕生したことが由来だという。つまり、要注意人物という意味だったのだと。
それが今や八席の一つに数えられる勢力として成長したのには先人たちの涙ぐましい努力と一大スペクタクルがあったとのことだが、興味が無いのでそれはいいとして。
未だにその武官服が四課に残っているのは、結局のところ、デコイとしての役割があるかららしい。正式な四課武官であり、特に“外での仕事を専門とする”人間がこれを魔導院で着る。そうすることによって、内務調査を専門とする四課から目を逸らす意味があるのだとか。ナギなどがそれにあたり、彼らは大抵9組か通常の武官の服を着ている。
そんなわけで、外務調査が主な仕事になるナツメは武官としての地位を受けた以上この服を脱げないのである。
「……でももう今さらか、もう着替えてもいいのか、ああでも何を着ればいいのか……」
何を隠そう、ナギが呆れ返るほどに服を持っていない。制服を着るのはなんだか気恥ずかしいし、打つ手なし。
それに今となってはもう、一度自室に戻って墓地に再度やってくる体力がないのでそれもパス。となれば、とにかく今耐えるしかない。
もう倒れそうだけれど。
「あなたたちには感謝してるけど、これだけは本当つらいな……墓地の場所部屋に移しちゃだめかなぁ……」
ナツメの部屋にもそれくらいのスペースはあると考えるのに十秒。近隣住人がどう思うかは考えるまでに三十秒かかった。だいぶ暑さにやられている。
「あ、そういえば……」
身辺整理をしなくてはならないな、とふいに思い至った。死ぬ予定はなくとも、可能性を否定できるほどナツメに自信があるわけもなく。
クロゼットの遺品箱はどうやって保管したものか悩みつつ、こんな生き方でも死ぬとなったら案外面倒くさいものだなと自嘲した。
ゆっくりと膝をつく、目の前に並ぶ三つの墓石。誰もいない共同墓地、陽の差す午後に目を閉じた。
ナツメには、彼らが誰なのかわからない。どうやって愛し、愛されたのか、何一つ。
それでも何度もここに足を運ぶのは、それをやめたら何もなかったことになりそうで怖いからだ。救われたことも、守られたことも、置いて行かれたことも全部。来し方行く末、全てが。
ナツメの生涯すべて、あの過去のためにある。過去を守るために、生きている。
ゆっくりと目を閉じた瞬間であった。ふいに、冷たい風が一陣吹いた。
反射的に目を開いて、振り返るとそこには。
「……セツナ卿?」
あまりのことに、ナツメは慌てて立ち上がる。
金にも銀にも光る髪は夕陽を浴びて燃えるように輝き、僅かに焦点のずれた黄緑色の瞳はぼうっとナツメを通り過ぎていた。白すぎる肌といい今にも宙を浮かびそうな身のこなしといい、普段まるで人前に出ないくせにほとんどの人間が彼女を知っている理由がわかろうというものだ。無色透明な存在感はあまりに強烈で、一目見たら忘れられそうもない。ナツメも彼女のことは遠目に見たことがあるくらいだったが、それでも彼女の存在は知っていた。
国の全ての人間が知っているだろう。セツナという名のこのルシは、存在を疑われる程人前に出ないこと……そして今やこの国でもっとも長く生きた存在で、院長よりももしかしたら強い発言権を持っているということを。
ナツメに呼びかけられた彼女は、感情の篭もらない目をじっとナツメの相貌へと注いだ。誰に対しても興味関心のない彼女と目が合うなんてナツメには到底信じがたいことで、戸惑う。ナツメがどう反応すべきか迷っていると、セツナは足を進めナツメの目の前にまで立った。
「……何か、墓地に用が……?」
「お前は、あれに呑まれていない。……お前がどうなるかは、わからないな」
「はぁ……?」
セツナは突然まっすぐ手を伸ばしてナツメの肩に触れると、じっと目を細めた。意味がわからない。ナツメが目を白黒させていると、突然、墓地の入り口の門が開いて黒衣が風に揺れるのが見えた。クラサメがいた。
けれどセツナはそんなことどうでもいいのか、ナツメから目をそらさない。
「川に……飲まれるようなものだ。流れの疾きに飲み込まれ、流されていく。離れないように懸命に掴み、抱きしめても、とうとう最後にはその手が離れてしまう」
その声に、感情が混じっているような気がしたのは、ナツメの気のせいだろうか。ただの勘違い、あるいは無意識化の希望に過ぎなかっただろうか。
なんにせよ、彼女は唇を動かした。
「これは、そういうものがたりだ」
おそらくは、ナツメに何かを伝えるために。
その意味を、ナツメはまだ知らない。
セツナが振り返りもせず去った後の墓地、クラサメが慌てた様子で段差の一番上からナツメのもとへ降りてきた。妙に心配しているのでどうしたのかと思えば、彼は「暑さが」と口を開く。
「この暑さなのに、墓地に行くのを見たと0組が言っていた。……それで来てみれば、なぜかセツナ卿に絡まれていたのでな」
「絡まれちゃいないと思うけど……まぁなんか、いつもどおり意味わかんなかったわね。……そっか、私が倒れるかもって心配してくれたんだ?」
首を傾げて下からクラサメの顔を覗き込むと、彼はむっと目を細めた。
「悪いか」
「ううん。……うれし」
不意に一瞬だけ、指先が絡まった。手袋越しでも、一秒にも満たなくても、じわりと体温が伝わった。
その温度があれば、なんだってできると思った。今までもこれからも、変わらずに。
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