Act.54: The End of l'Cie.






晴れた世界を一人で歩く。一通り患者を見、ある程度の治療を終えた。戦いが終わって半日以上が経っていた。
無数に散ったたくさんの瓦礫、その破片を蹴って、ナツメは彼女には珍しいことに、周囲を見遣りながらゆっくりと足を進める。
まるで散歩のような歩調。積み上がった死体の間を進み、ナツメはただ一点を目指している。

魔導院を出て、冷たい風に肌をさらしながら、ナツメはきょろきょろと視線をやった。
道の脇に、一人の男を見つけた。ほっと口から息が漏れた。

倒れ伏す男の背を覆うマントは、たくさん血を吸ったのだろう、陽の光の下にあっては黒く変色して見えた。ナツメの知るそれは、血より明るい赤だったはずなのに。

ナツメは、黒ずんだ煉瓦の遊歩道に腰を下ろし、どこか穏やかな気もする彼の寝顔に手を伸ばす。

「死体ってどうしてこう冷たいのかな。ねえ、思わない?もともと生きてないどんな物より、ずっと冷たくなるよねぇ……」

硬く閉じたまぶたに触れて、ナツメは彼に問いかけた。答えはなかった。白い髪にも血が絡み、固まって、解けない。どこまでも温度のない気配があった。空っぽの容れ物という感じがした。
けれど彼が最後に、体温を残して消えていったことを知っている。

「謝らないと。あれは、ひどい言い方だった」

ひどいことを言った。

――大事な人を守る機会があるって知ってて、危険だからやめろって言われて、そうできた?

なんて。
あんなことを言わなくてもよかった。あれは彼を貫くための言葉だった。

「あんな場所本当にあったのか……今ではもうぜんぜん、わかんないけど。あんまり思い出せないし」

でも、彼が守ってくれようとしたのを知っている。
諦めてしまったほうが苦しくないから、ナツメにもそうさせようとしていただけだ。

「戦い、終わったよ。化物もルシも、もういない。……いらない、のかな」

コンコルディアからは、ソウリュウが眠りについて動かなくなったと連絡がきた。クリスタルになったわけではないとのことだったが、力尽き、王都を守るように壁になって死んでいったと。
今目の前の彼と同じ。

「でもあなたが助けた命が、まだたくさん朱雀にはある。今はもういらなくっても、ルシがいてくれたことには皆感謝してるみたいだね」

まだ死者は数え始めたばっかりで、計測中だ。それでも死体の数が、さっき六百を越えた。
四課も、終戦の時点では四十五名が在籍していたはずだったが、生存が確認できているのは七名だけだった。全員死んでもおかしくなかったと生き残った面々で言い合いながらも、本心からそう笑う気にはなれなかった。彼らに対して、ろくな仲間意識もなかったナツメが言うのだから、他の面々にとってはもっとつらいに違いない。

でも、どれだけ死んでも、今は救われたと思っていなければならないと思った。そう信じ、多少なりとも受け入れて、前に進む努力をする必要があった。だって戦いは終わったばっかりで、生き残った人間には生きているからこその責任がある。
まだ落ち込む時間はない。ナツメだって、生きている人間の看護のいとまを縫ってここにいる。死んだ人間にこだわる余裕ができるのはいつだろう。

魔導院にいると、聞こえてくるのは不思議と未来のことばかりだった。次は誰を治療するか。どこに避難用のテントを設営するか。食糧はいつ配るべきか。次、次、次。
悪いことじゃないとわかっている。ナツメも同じく、次のことを考えている。けれど不思議なくらいに“間違っている”とも思った。そして、間違っているからといって、進まないなんて選択はできないとも。

「だけどね。あなたを探しに来たかった。私が今も生きてるのは……それで、みんなが生きてるのは、ぜんぶ……ぜんぶ、あなたたちの……」

彼らはルシだ。でもそれ以前に、朱雀の人間だ。ナツメとは違って、純粋な朱雀人。
国を、民を、仲間を、友人を、愛する誰かを守るためにルシになる道を選んだ。だからナツメのことも助けようとしてくれた。ナツメも、守るものの一部として見てくれた。
無条件に受け入れられて守られるという経験は、ナツメにとってはとくべつなものだった。

「あなたが守りたかった時を起点にしてのループは、なかった。どうしてって、思うよね」

百年前のことは何も知らない。いつかたどり着いて、彼から直截聞くまでわかるまい。でも、仲間を救えたのはレムとマキナで、彼ではなかった。
取り残されずに済んだのはあの子どもたちだけだった。

シュユではなかった。
ナツメでもクラサメでも、なかった。

「あのね。私もね、こんなことになる前に。五年前、一番大切な人たちが死んだときに、ルシの力が欲しかったわ」

別に後悔してるわけじゃない。それとは全く別の問題だ。
けれどあのときルシだったら、同じことができたのなら?そしたら人生がここまで狂うことはなかった。

勘違いは、しないでほしい。本当に後悔なんてない。間違っていないと胸を張れる。でも、ただ、そう思わずにはいられなかった。

「あの時に、力がほしかった……一番現実を変えたかったのはあの時だった」

それでも、それは無理だったのだ。
誰の作為か、運命が命じたことか、0組のあの子達でなければだめだったのか。
なんであれ、あのとき救われるのは無理だった。

冷たい風が強く吹き、湿った頬を乾かしていく。髪にへばりついた血を、ナツメは指先でそっと剥がす。
血と硝煙。崩れた瓦礫と、死体の山。腐る前に、どうにかしないと。墓は足りないだろうから、外に共同墓地を増やすことになるだろう。

「世界が繰り返しているなら、いつかの世界の途中でそれに気づいて、なんとかうまく……救えたらいいのにね。でも、そうなった先にあの子達がいるかってわからないじゃない。愛した人たちがみんな生きた未来があったとして、今愛してる人たちが……ちゃんとここにいるかって、わからないじゃない。だから、次の世界を目指そうなんて思えなかった」

ナツメはもう諦めてしまった。

「私が諦めるなんて、珍しいことだよね。でも諦めたの」

どうしようもないからじゃない。だってナツメには方法があったから。
あの子達が死んだら、きっと世界はまた一巡して繰り返すはずだったんだから。

ドクターの言葉を思い返す。あの子達が死んだら巻き戻す。それで繰り返すのだと言っていた。
だから、あの子達が死ねば、次の世界があったのだろうとナツメは思っている。でもそうはしなかった。

だってナツメは、今回クラサメを愛しているだけじゃなかった。あの子達も生きていてほしくなってしまった。
でも次の自分があの子達のことまで守るか、ナツメにはわからないから。

「あの子達にこれからも生きててほしいと思って、だから私も、愛した人たちを諦めたんだ……」

「……おーい!お前んなとこで何やってんだ、患者並んでんぞ!」

不意にナツメを呼ぶ声がした。振り返るとナギが、魔導院の入り口で手を振っている。

「……行かなきゃだ。ナギが呼んでる」

ナツメは立ち上がった。
それから、眠るようにして死んでいるシュユを振り返る。

彼の唇はほんのわずかに弧を描いているように見えた。
彼が、ルシになってでも守りたかった誰かに、賽の河原の、あの河を渡った先で出会えていることを願って。
ナツメは踵を返した。







それより少し、時は戻って。

人知れず、魔導院地下、霊廟にて――。
安置されたクリスタルが、信仰の対象、国民の拠り所だった水晶がただの灰色の石に成り果てたその朝、呪いが解けた。

呼吸を取り戻した彼女は、ふらりと崩折れて冷たい床に膝をついた。落ち葉を連ねたようなスカートが広がり、散らばったかけらの上に載っていた。
かけら。水晶の。
たくさんのルシのクリスタルが砕けてできた破片。

「……」

彼女は息をしている。生きている。
目を開いて、灰色に朽ちた石を見ていた。

「……?」

自分がいまどうなっているのか、理解するのに少し時間を要した。

彼女は永くを生きてきた。
五百年より昔からずっと。
そしてその生が、まさに途中、いつの時点であれ、一つの円環に乗っていることも知っていた。
それらはいつも毎回少しずつ違ったが、おおむね同じ道を辿り、同じ結果を生んでいた。

だから驚いた。
いつもの自分はクリスタルになると、そのまま円環の終わりを向かえ、同地点の始まりに立つことになった。それが今回は違って、石の前に座り込んでいる。

周囲には大量のクリスタルの破片が落ちていた。それが、自分以外のルシのものだとすぐにわかった。
クリスタルになってから時間が経っていると、人間に戻るときに砕けてしまうのか。そもそもクリスタルが人間に戻るなんてことがあり得るとは知らなかった。

見れば、小刀が落ちている。ずっと大切にしてきた、あの人の遺品。
ずっと大切だった。嘘じゃない。でもルシになって、感情が抜け落ちてずっと、大切である理由も、あの人のことも、“想う”ことはできなかった。

ただ、大切にしていたことを忘れたくなかった。人を好きになったこと、愛したこと、愛されたこと、失ったこと。それでどれだけ、自分の心が引き裂かれたのかも。
忘れてしまったら意味も失くすと思ったし、死より深くにある喪失は忘却で、その暗い湖水に沈んだらもうきっと何も戻ってこないと思った。

何度繰り返す中でも、彼女は同じことをした。
彼女の心は、枯渇していた。だから壊れることもなかった。
数百、数千、いずれは億を数えたその試行の中にあって、変わらず正気であり続けた。もう一人のルシよりずっと強く、ずっと永く。

それで、いま。
呪いが解けて、奪われた想いが戻ってきて、乾ききって痛みもなかった心が呼吸を始める。
血が巡り、熱を持ち、豊かな色が埋め尽くす。

だから、その小刀を、見るだけで、彼女は

「ああああ……あああああああ……」

彼女は。

いまや、

思い出してしまえる。

繰り返しの原点、それよりずっと前のこと。
愛した人の顔でも声でも肌でもにおいでもなく、もっと相対的なもの。

彼女がいて、彼がいた。
そのときの空気を、十センチの距離を。木のにおいがして、たくさんの葉が切り取った陽光のなかにいたことを。
愛情の正体、根源にあるもの、命が歓喜していた一瞬一瞬の重なりを。

思い出してしまえた。

更に、それらが今もうここにはなくて、でも彼女の中にはちゃんと残っていることを知らしめて、現実との温度の乖離がおそろしく正確に彼女を曝し、露わにした。

「……流れの……疾きこと……だな」

そう。

川の。

流れの疾きに飲み込まれれば、もうどうにもならないものだ。一瞬で終わりに向かっていく命、ほんの刹那に何ができるか。
流れないように懸命に互いを掴んで、抱きしめて、絶対に離れないと誓う。岩に叩きつけられて死ぬと知っていても、あるいは窒息するのだとしても、それが終わった後でさえ、こうして抱き合っていたいと願っている。
命とは、そういうものなのだ。

「川に……飲まれるようなものだ。流れの疾きに飲み込まれ、流されていく。離れないように懸命に掴み、抱きしめても、とうとう最後にはその手が離れてしまう」

願っていたって、叶わないことはある。
彼女にはそうだった。彼女は手を離して、彼が流されていくのを見送った。

どうしようもなかったことだった。そのまま時が過ぎ、命の自由を失って、彼女は朱き石の、その神の道具になった。
それが今、彼女は取り戻してしまった。愛しい人の死んだ世界で、自分しか彼を覚えていない、そういう世界で、命の自由を。

しばらく考えた。それは間違いなかった。
でも結局、必要と不必要を並べ、数えて、決めてしまった。

習慣として手入れを欠かさなかった小刀は、鞘から抜くと白銀を光らせた。そこに映った自分の顔は青白く見えた。
服の襟元を開き、彼女は切っ先を肌にあてがう。

「……ふ……ふふ」

多くを奪った。でもそれは、もっと多くを奪われたからだった。
まるで世界に復讐するような気持ちで、彼女はそこに座り込んでいる。

冷たい先端がゆっくりと肌を裂き、肋骨の間を滑って、肺と心臓に達した。焼きごてでも押し当てられるみたいな痛みの中にあってさえ、涼しい顔のまま。深々奥へ刺さっていく刃を、彼女は静かな目で見ていた。
痛みなどいまさら、慌てふためくものではない。彼女は人間にはおよそ不可能な行動をとった。ためらいなく小刀を抜き取ったのである。途端に熱い液体が噴き出して、代わりに身体がすうっと冷たくなっていく。支えていられない身体がぐらりと傾いた。

靴音がした。気配を感じたのだろう、走ってきたらしく荒い息が聞こえる。
ゆっくりそちらを見ると、知った女が霊廟の入り口から彼女を見ていた。わなわな震える唇を、彼女は逆さまに見つめた。

「……お前は、よく抗ったよ」

「何してんのよ!!何でっ、もうルシじゃないのに、こんな……!!」

「お前にも。わかるときがくる。善でも悪でもない、ただもう満ち足りたのだと思う日がきっと。ここが終着点だと、わかるときが」

「そんなばかな理由で、拾った命を、まだここから何かを得ることだってきっとできるのに……!!」

「それができないんだ。わかっているだろう?」

おまえは濁流に飲まれた。一度そうなってしまったら、もう元には戻れない。
一生。

愛して愛して守ってきたものを失って、あっさり見限って、次の何かを拾おうともう一度果敢に挑むことなんてできるわけがないって、おまえ、よくわかっているだろう。

女の目がぎゅっと、痛がるみたいに細められ、彼女を見ていた。
倒れ伏したまま、彼女は女に笑いかける。

「あれから幾星霜……私はけれど、思い出せた。愛情がたしかにあったこと、まだここに残っていることを……仮初なんかでは、なかったよ……」

意思とは無関係に、血が口から溢れ出す。声が声にならなくなっていく。

女の顔が、霞んで見えない。でもそんな悲しそうにするな。私はずっとあそこにいたのだから。
これは、戻るだけ。そして、その先に初めて進むだけだ。

末路の先のことなんて考えたこともなかった。
でも道があったから、彼女はただ、進む。

「……だけど、死んだら終わりだよ……」

それは違う。わかってないな。
まだ意味はあって、続いていて、だからこそ私は六億の果てまで生きたのだ。

そう言いたいのに、もう言葉にならなかった。




セツナは笑い、全ての戦いが終わった後で、静かに息を引き取った。
ナツメはそれをただ見ていた。

命を掴む者があれば、失う者も、自ら捨てる者もいる。
命が等価値で無価値であるなら、ナツメの感じるこの途方もない寂しさはどうしよう。

血の海に足を投げ出し、ナツメはしばし彼女が冷え切っていくのを見ていた。
戦いの終わり、これからは人の物語。死を忘れない世界が、いずれ次の春を迎える。

「じゃあ、私は、それを見てこよう。生きて、その先を」

ナツメはセツナの死体に言った。傍らに落ちた、小さな石を拾い上げる。

「待っててくれるでしょう?」

あの河の岸で、きっと。

つぶやいて去るナツメの手から、その小石が零れ落ちた。
輝石と呼ばれるその結晶は、セツナの記憶を閉じ込めたまま血の海に転がり、ずっときらきら輝いていたのだった。





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