Act.53






それから、いくばくの時間があったような、それともすべてはただひとたびの瞬きの間であったか、あるいは河原に積む石のように、積み重ねた一瞬の集まりであったのか。
何一つ、確かなことはわからない。ただ、夜闇にも似た静かな暗がりの中、私は座り込み動けない。
動かそうとするのに力がどこにも入らないのだ。脱力感ともまた違う重たさに私は驚いたが、眉一つ動かすことはできない。

けれど、動かない目が己の手や足を捉え続けているので蹲っていることはわかる。そしてふと、それらが透き通っていることに気が付き、私は己がクリスタルになっていることを知った。

他には何も見えない。ただ、気配だけがある。
すると突然、私の意識はクリスタルの身体からすうっと抜け出て、気配を追った。

すぐ目の前には誰かの背中がある。音もなく振り返って、二人はこちらを見る。

――「これは、そういうものがたりだ。お前がどんなに嫌がっても」

彼女が言う。傍らの彼が肩を竦め、

――「何かを守りたいと強く願えば、叶うのは必定だ。人の力とはそういうものだ。もう諦めるか」

そう言った。二人もまた、身体を抜け出た後で、魂だけを携えそこに立っているのだとわかった。

……でももうどうしようもないじゃない。もう取り戻せないじゃない。

私が、子供みたいに拗ねて言った言葉尻を、彼女のほうが笑い飛ばした。

――「なんだ、もう忘れてしまったのか?己がルシとして得た力を。それは、魔力なんてものではないし、当然ながら魔法でもない。それは“奇跡を起こす力”だ。お前は奇跡を望んだんだろう?」

私は意味がわからなくて、黙り込む。彼女の言葉の意味も、セツナの語るその真意も。
ルシになった直後、降り注いだ光の雨は確かに奇跡を連れてきた。しかし、望んだ奇跡はあれで打ち止めなのだろうか……。
そもそも救われることが目的で望んだのことならば、まだ奇跡は終わっていないのでは?

ルシになったのには、“失う代わりに手に入れる”という力を手に入れたのには、もっとちゃんと理由があるのかもしれない。

――「気がついたか?」

……でも、どうしたらいいんだろう。この力の使い方なんて、私にはわからない。

――「それも思い出すがいい。ルシは必ず、ヴィジョンを見る。それは普通、ルシになる瞬間だが、お前は覚えがあるか?」

……わからない。

――「ヴィジョンは、使命だ。そのルシが存在意義を持ったときにはじめて、与えられる。ふつう、ルシになった瞬間に得られるものだがな。ではクリスタルに選ばれたわけではない、本来ならばいなくてもよかったお前の存在意義とは、なんだ?」

彼女の言葉に、私は考え込んでしまった。
存在意義。誰かに求められる、命の価値。
考えたこともなかった。そんなもの考えなくたってよかったから。目の前にはいつも道があり、それしかないと信じ込み、ただひたすらに進んできた。

ルシの力で道を作ることはできるのか。そう考えたとき、足元にはあの石が転がっていた。
あの河原で、同じ光景を見た。赤い河のかたわらで。ふいにその石が透き通り、赤い水晶片に姿を変えていることに気づく。
あれはなんだった?あの場所はなんだ?それから私は、河を進んで、その先で……誰に会った?何を、した?

――「結果はわからない。救われるのかどうかなんてまったくわからない。だが止めないぞ。お前の言うとおりだからな」

彼が言う。その赤い目を見つめ、私は頷いた。

ああ、それから。
踵を返す寸前に、彼は振り返って私を見た。

――「あの川べりで、待っている。いつか、昔の0組の話をしてやろう」

彼がそう言って、彼女も頷いて、色のない世界が戻ってくる。何も見えない、感じない世界。水晶の中。
私が足元を見つめると、長い剣が落ちていた。それは青く透明で、何度も見たことのある剣のような気がした。

さあ、やろう。
私はその剣を懸命に高く持ち、切っ先を心臓に向けた。
悲鳴も上がらぬほど痛烈な痛みが、命の在り処を明らかにしてくれるような気がしていた。









そして、透き通り果てを目指す光を遮って、ナツメは息をした。
妙に健やかな呼吸だった。久しぶりの、正しい呼吸。荒くも小さくもない、ごく普通の、何の意識もいらないただの呼吸だ。

直後、耳元で聞きなれた声がした。

「ナツメ!!ナツメッ、……!!」

まぶたが動く。
目を開いて、幾度かの瞬きをすると、自分が動けることに気がついた。目の前にはクラサメの顔があり、ひどく青ざめてこちらを見ていた。
どうしたの、と掠れた声で聞く。

「お前……ッいま、クリスタルに……!!」

「あれ、生きてるの私……」

「そうじゃないなら、あんな石破壊してやる……!!」

そう言って、彼がナツメを強く抱きしめる。彼がクリスタルへの反逆を意味する発言をしたのはたぶんこれが初めてで、ナツメは驚いたが、そんなこと口にする暇もなかった。
お前までいなくなるのかと思った。彼が、憔悴しきった声で言う。耳元の声音は、ひどく湿っていた。動揺させたのだと思った。

「大丈夫だよ。ぜんぶ、きっと大丈夫」

何もわからない。でも大丈夫だ。
大丈夫。ナツメの世界は、大丈夫。

跳ねる靴音、駆け込む足。はっと顔を上げると、開いたままの教室のドアをすり抜けて、彼らが教室に飛び込んできたのが見えた。
レムとマキナだ。

「た……隊長、副隊長……?みんな……は……?」

マキナが呆然とした顔で、ふらふらと前に進み出てくる。クラサメたちに気づいて、それから、その後ろで動かない0組を見て、わなわなと震えるのがナツメにも見えた。

どうして、という声があった。

「どうして……俺は……」

一瞬、時間が止まったような気がした。

慟哭。咆哮にも似た絶叫。
マキナは崩れ落ち、叫ぶように泣いた。その傍らで立ち尽くすレムも、口元を抑え嗚咽を漏らしている。ナツメとクラサメが感じたものと同じだと思った。
一緒にいた。その眩しさに焦がれ、卑屈にもなって、どうして自分はそうなれなかったのかなと己を呪いもした。
裏返せば、もっと一緒にいたかった、ただそれだけの思いなのかもしれない。

どうして俺は。マキナがそう繰り返す。
どうして私は。ナツメも同じことを思う。

マキナを助け起こそうと思ったのか、歩み寄ろうとしたクラサメの手を掴んでナツメは彼を止めた。大丈夫だと、彼に伝えるために。
ナツメは知っている。己のルシとしての力の最果てをちゃんと見た。力の中身、理由。最後の使いみち。ヴィジョン。使命の行方。

突き立てた刃、流れた血。古来より血には当人の力が宿るという。それなら、きっとルシの力は、六億を数えたナツメの命は注がれたから。

だから。

「……っる、っせーな……」

苛立ちの色をしたその声は、あの、魔導院に最初に差した陽の光にとてもよく似ていた。
まるで天啓だと思った。

「あー……はは、超痛いんだけどお……」

「ほとんど死に体なんだから……しょうがねえよ」

ナツメはそのとき、クラサメの眦から細く水滴が光ったのを見た。そして己の目から、ぼろぼろと、熱い液体が零れていることにも気づいていた。
止める手立てもなく、止める気力もなく、ただナツメはその光を見ていた。

「ああ……でも、大丈夫ですね……」

「よーし、じゃあ、点呼……!」

息も絶え絶えの、上ずった声がそう告げて。

「オウ、生きてんぜ……」

ナインが。

「わたくしも、無事とは、言い難いですが……」

クイーンが。

「僕も、アハハ」

ジャックが。

「アタシも……生きてるう」

ケイトが。

「ったく、せっかく寝てたのによ……」

サイスが。

「ああ……起き上がれないな」

キングが。

「身体ばっきばきー……」

シンクが。

「情けないな、オレたち」

エイトが。

「鍛え直さないとですねえ……」

トレイが。

「今はそんなこと考えたくないな」

セブンが。

「……ふふ、まず治さないとですね……」

デュースが。

「僕は……僕らは……」

エースが。

「生きている」

生きて、声を上げた。

「あ……ああ……」

ナツメは、すぐ傍で、クラサメの喉が震えるのを感じた。
そして一瞬の後、マキナが転げるように駆け下りて、彼らに駆け寄るのを見た。数拍遅れて、レムもそれに続く。

わっと上がった声は、ただ感情の色を伝えるのみで、会話にもならない。ただひたすら、お互いが生きていることをもっともっと確かめていたかったので。
ナツメはクラサメの手を離さず、クラサメもまたナツメから離れようとしなかった。



そうしてしばらく、彼らが少し落ち着きを取り戻したのを見て、ナツメが救護を呼ぶと言ったときである。
デュースがふと顔を上げ、しばし考え込むような目をした後、己の髪留めに手を伸ばしながらナツメを見た。

「あの、副隊長……これ、ありがとうございました」

言われた意味を一瞬考え、悩んでから、ナツメはふっと笑い。

「どういたしまして」

と言った。







あの世界が本当にあったことなのか、それともただのヴィジョンだったのか、あるいは予知夢の類だったのか。
ナツメにはわからないが、少なくともナツメが数億回を繰り返したこと、最初のナツメがそれ以降のナツメを殺して積み上げていたこと、その死と引き換えにナツメがようやく十二人をよび戻せたこと。
それからあの二人が、先達のルシ二人がナツメを導き助けてくれたことだけは確かであろうと、そう思った。


――こうして。


こうして一年に渡る戦いが終わった。
これからまた、いかにして失ったものを取り戻すか、そういう戦いが始まるのであろうが、今だけは彼らは守り抜いた命を抱きしめて泣き笑う。



たくさん死んで、生き延びたのは世界中探してもほんの僅かかもしれない。
この奇跡を掴むために、どれほどの犠牲があったか。もう考えたくもないことだ。


それでも掴んだ。

果てなき旅路の果ての果て、確かに、掴んだぞ。
ナツメは死した己の亡骸を思って、そう言った。






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