Act.52






レムとマキナ、ナツメとクラサメが死線を演じた戦いから少し、時は戻って。


万魔殿、朱き空の暮。
互いの命を握りしめ、手放さないよう懸命にもがきながら、彼らは今審判の時を迎えている。

足が動かない。腕が持ち上がらない。呼吸のやり方を何度も何度も思い出し、丁寧に息を吐いて、吸ってを繰り返す。意識しないとそれすら難しいのだ。
血の臭いが鬱屈して混ざった空気はざらざらしていて、焼けた喉を通るたび鋭い痛みになった。それでも吸わずにいられないことが、むしろ命を縮めていると思った。

痛みも苦しみも、考えまいと彼らはただ前を向く。互いのことも視界に入れない。ただ前を、闇に浮く審判者を見上げて、広く取った足幅で立っている。確かめなくても互いが仇敵を睨んでいると信じた。

「生きて帰るぞ」

キングが低く、唸るように言った。

死んだって誰も気にゃあしないがね。だってこの世界じゃ、死んだら記憶も消えるんだ。
それでも、と彼らは口の端を上げて笑んだ。

「それでも隊長は、怒るだろうからな」

「クラサメの説教はマジ二度と勘弁だよねぇ」

「わたくしは一度も怒られたことがありませんので、わかりませんけど」

「あー、あと帰ってマキナ探して殴んなきゃあー。白虎のルシになってたとかちょろっと聞いたけど殴れば正気にもどるよねえー?」

「シンクに殴られたら正気より天に戻ってしまうかと思いますが」

「それから、レムさんのお見舞いにも行かないとですよ。副隊長がきっと治してくれています」

あの強く優しい先生に、二度と失った記憶など植え付けてはならない。愚かで弱く懸命な少年を連れ戻さねばならない。気高く最後まで戦うことを選んだ少女の無事を確かめねばならない。全身を覆うこのひどい傷は必死に優しさを演じる女に治してもらおう。
彼らのために、死ぬわけにはいかない。
そしてそれ以上に自分たちは、自分たちのために、生きねばならぬ。

『……愚かな』

審判者がシドの声で低く呻いた。侮蔑混じりの声に、サイスが笑った。

「やーい、羨ましいんだろう独居老人が」

血糊が焦げて煤けた鎌の切っ先は、鈍くも美しく光っていた。
彼らは武器を鋭く構え、めいめい戦闘態勢に入る。

「あたしらにゃ、笑えることに待ってる奴らがいるんだよ」

早く帰らないと、向こうが先にくたばっちまうかもしれねえだろ。
不敵に笑う彼らは、満身創痍の身体のどこからそんな胆力が湧いてくるのか、一瞬ののち審判者へと武器を高く掲げ襲いかかる。
彼らの最後の戦いの始まりだった。











まぶたが震え、動いては、まだ無理だと身体が悲鳴を上げている。
痛みというより、果てしないほどの倦怠感。指の一本を動かすのすら億劫だ。

躰にのしかかる何か、おそらくは一本の腕のように思うが、それがやたらと重たく感じる。長い長い夢を見ていたように思う。ほとんど一切を覚えていないので、倦怠感だけが重たい。
普段の目覚めの数十倍にもなりそうな時間をかけて、ようやく覚醒をする。そして、直後、目の前にある顔に気づいてあっと悲鳴をあげそうになった。

「クラ……サ、メ……?」

彼が目を閉じ、目の前に横たわっていたのだ。微かな呼吸音がなければ、ナツメも彼が生きているかどうかわからず錯乱していただろう。だから、そこはひとまず安堵した。

クラサメに声を掛けようとするも、喉の奥に何かが貼り付いているような不快感があって、ろくな声が出なかった。
一体なにが起きたのか、よくわからなかった。とても長い夢を見ていた気がした。どうしようもなく、悪い夢を。

目覚めるため、ナツメはゆっくり思い出せる断片を拾った。クラサメの手の体温を、ナギの軽妙な演説を、カトルとアリアからの通信を……それで、ああ、えっと、そうか。

「レム……マキ、ナ……!!」

ナツメは。
彼らのことを思い出して、懸命に身体を起こそうとした。
そして、全く力の入らない身体が崩れ、「ぐぇッ……」潰れた蛙のような声を出してしまった直後。

「おい……まだ動くな」

クラサメが目を覚まし、ナツメよりずっと短い時間で上半身を起こした。服やらがひどく焦げ、怪我をしているようではあったが、ひとまずは無事みたいだった。
そのことにほっと安堵するナツメを、クラサメが支えて起こしてくれる。
見れば、クラサメが運んでくれたのか、そこは魔導院の軒先のひとつであった。具体的な場所まではここからではわからないが、メインの建物の外縁部の一つ、雨除けの屋根の下。

「ねえ、なにが、何があったの……あれから、レムは?マキナは?どこに……あれ、でも、クリスタルになって……」

「落ち着け、私にもわからない。あの後、お前の応急手当をした後には、もう二人のクリスタルは消えていた。……いつ消えたのか、なぜ消えたのかは知らん」

「何で見てないのよ!」

「お前が死にかけていたからだろうが!?」

そりゃそうだ。
クラサメが自分を懸命に救ってくれたことはわかっているので、それ以上は言えずナツメは黙り込んだ。ケアル魔法で癒された跡が、血まみれの己の服に色濃く残っている。
彼の身体の傷がほとんど治癒していないことを見るに、彼がナツメの治療を優先したことがわかった。ナツメが手を伸ばして彼を治療しようとすれば、クラサメはそれを黙って受け入れる。しばし無言で、ナツメはケアル魔法を掛け続けた。

一通り治療を終えると、ナツメは己にもケアル魔法を掛け、体力の回復に努める。クラサメよりだいぶ遅れて、立ち上がった。
ナツメの傷も一応治療されてはいるが、深すぎたのか、痛みが残っている。痛覚の鈍いナツメでさえ焼けるような痛みと重たい鈍痛が交互にやってくるありさまで、これでは戦闘などできそうにない。

「……二人は……どうなったんだろう。どこに行ったんだろう」

「わからん。ただ、探すにしても……この状況ではな。……そんな顔をするなよ。私もまだ彼らを覚えているから、少なくとも生きてはいるんだ。まだ間に合う」

クラサメが妙に優しく、ナツメの手を一瞬だけ握り込んだ。こういうことをしない彼が、己を勇気づけるために行う最大限の譲歩であることをナツメは知っている。だからとにかく頷いて、大丈夫だと言った。

「そうだ。二人が無事なら、0組の教室に戻ってるかもしれないよね」

「ああ、可能性はあるな」

「行ってみようか」

クラサメの肩を借りて、ナツメは彼と二人で歩きだした。
魔導院のあちこちにたくさんの死体が山と積まれ、あの開戦の日よりずっとひどい光景だった。きっと、魔導院を出ても同じような景色がずっと続いているんだろう。
鬱屈とした気持ちになるのをさすがのナツメも抑えきれず、不安に苛まれながら歩いた。片足の感覚があまりなく、ゆっくりとではあったが、二人で確実な一歩を少しずつ進んでいった。

魔導院は半壊状態であった。ホールは虫の息の候補生や武官で溢れていた。動ける者は治療に駆けずり回っているようだ。痛覚が鈍いからナツメも動けているけれど、普通の神経だったらきっとここの仲間入りだなと思った。
二人はそれらに視線をやりつつも、0組の教室を目指す。一年近くもの間通いつめた教室は決して遠くはなかったはずなのに、足取りの重さに比例してどんどん遠ざかるような心地がした。
瓦礫を踏んでは転びかける身体を、クラサメが寸前に支えてくれる。言葉少なに大丈夫かと問われ、ナツメは軽く頷いた。大丈夫だ。ちゃんと生きている。
一瞬後には爆発四散しているかもしれない命でも、今は生きている。それだけを懸命に噛み締め、できるだけ何も考えず、歩くしかないのだ。



そして歩む、道すがら。

それは突然にやってきた。


最初は違和感だった。それが戸惑いに化けて、それから、意味がわかった。

刹那の果ての、須臾の隙間を縫うみたいに、ほんとうに突然のことだ。


「……?」


唐突に、ふっと光が差した。ずっと篝火の赤い灯りに頼っていたから、その光はいっそ強烈に網膜を刺激し、ナツメはついとっさに目を閉じる。
ゆっくり目を開けて、光に馴らして。痛む首を無理にでも動かして、顔を上げる。

崩れた天井の間から、空が見える。あ、と声を上げた。ホールで休んでいた、死にかけにも見えた候補生や武官、訓練生たちが、不意にわっと声を上げた。

空はあった。ずっとあったが、でもあの遠近感のわからない、どこまでも続くようで果てがすぐそこにあるような、圧迫感のある黒い空が割れている。消えていく。

差し込むのは光だ。
やわらかな青、白、ほのかな橙。それだけで構成される、鮮烈に穏やかな冬の朝の光。

見慣れたはずの、いつものその冷たい空気が、どれほど人を癒やすことか。

「……ああ……ああ、クラサメ、」

「ああ……そうだ、そうだよ……」

「あの子たちが、きっと……」

「そうだな……」

うまく言葉にならなかった。相手の言いたいことはぜんぶぜんぶわかっていて、自分の言いたいこともぜんぶわかってくれていると思うのに、それらすべて言葉にして詳らかにしたい、そんな衝動に駆られていた。
救われたのだとわかった。もうどこにもルルサスがいないことも、空も海も元の青色に戻っていることも、見えなくたってぜんぶわかった。

ナツメとクラサメは、視線を交え、頷いて。
それからまた、懸命に0組を目指した。
足の痛みも呼吸の重さも何一つ変わっちゃいないのに、進もうとする気力がまるで違った。

ホールを進み、0組へ繋がる廊下は壁に凭れながら歩いた。途中何度も動けなくなった。たいていはナツメのせいだった。呼吸が荒くなって、喉の奥に血の味を感じた。繰り返し繰り返し、それでも前に進み続けた。

それで、ようやくドアを押し開いたときだ。
瞬間、それまでにないほど強い光が差した。腕で顔をかばいながら顔を上げると、0組教室の高い天井がほとんど吹き飛んでいるのがわかった。

ああこれじゃあもう外と変わらないじゃない。ナツメはぐったりしながら、内心で舌打ちをした。ここまで壊れてしまっては補修も難しいなと思ったのだ。

これから授業をどうしようかと、無事な空き教室なんてどれくらい存在するのかと、そんなことを考えて。

そして強い風が吹いて。

とっくに潰れた嗅覚が、改めて渋い硝煙のにおいを嗅いで。

ゆっくりと視線を下ろして。

霞んだ視力を、何度も瞬きで取り戻そうとして。

彼らがそこにいることに気がついた。



言葉もなく、クラサメがナツメを引きずって、彼らの傍らへ至る。

彼らの存在に気がついたときにもう、嫌な予感はしていた。それでも信じたくなくて、理解したくなくて、懸命に傍に来たのに。

そこでナツメは、己の足から力が抜けるのを感じた。そして、声もなく床に崩れ落ちてしまう。

「……おまえ……たち……」

傍らで、やはり動けなかったクラサメが呆然とした声を出した。ナツメですら聞いたこともないくらい憔悴しきった、絶望した声音に聞こえた。
光の中、風を受けて赤い旗がはためいている。十二枚のマントを結んで作ったものであることがすぐわかった。ところどころ焼け焦げ、穴が空いている。彼らの戦いがどれだけ過酷だったか、それを見るだけで想像がつくくらいに。
そしてその旗の下に、彼らはいた。
全員一様に深く俯き、動かない。誰かの髪がはらはらと、風を纏って揺れる。

彼らは動かない。
温度のなさが、目に見えるような気がした。
ナツメはすがるように手を伸ばし、エースの頬に触れた。冷たさに発狂するかとさえ思った。慌てて手を引いて、ナツメは床に倒れ込む。

すぐ近くでクラサメが叫んだ気がした。ナツメは息ができなくなって、唇が震えるのを感じて、ただ冷たい床に足を投げ出していた。

クラサメが彼らの名前を呼んでいる。彼らに手荒く掴みかかり、起きろと言っている。もうわかっているのに、彼はその行為をやめられない。
わざわざ瞳孔や脈を調べなくても見るだけでわかる。クラサメは死体を見すぎている。ナツメは見慣れすぎている。遠目に見るだけでも生きているか死んでいるかぐらいはわかってしまうのだ。これだけ近くにいればなおさらだ。


ああ、とナツメは息を吐いた。
結局すべてうまくいくなんてことはありえなくて。
私たちはまた、こうなってしまうのか。

私たちばかりが取り残されて、みんな去っていってしまうのか。
あなたたちでさえ、私たちを、そういう未来に置き去りにするのか。私たちがただひたすら恐れ、忌避しつづけてきた未来に。
これだから怖かったのに、そう思った。私たちがあなたたちに優しくできなかったのも、あなたたちが通り過ぎた後、私たちがどれほど恐慌するか、それが怖かったからだった。
吐き気がするくらい情けのない理由だった。

呆然として、目の前が真っ暗になった。
そのときだった。ナツメはなんとか立ち上がろうとして、その異変に気がついた。
直後、血を吐く。

「が、はっ……?」

夥しい量だ。血の味なんてものではない、脳髄まで血に浸されているような痛烈な死の気配がする。目の前がちかちかと明滅していた。ひどく寒い。汗が噴き出して止まらない。
痛みは、ない。だからどうしてこんなに身体が熱く、寒いのか理解できなかった。膝をついた床の固さが感じられない。
そして頭は果てなく冷静に、ケアル魔法などもう意味をなさないのだと考えていた。もう身体の内臓のひとつひとつが、筋繊維の一本ずつが、身体を正しく支えることを諦めているのだと。
分水嶺ぎりぎりをさまよっていた臨界点が、閾値を越え、ナツメはもうどうにもならない。

「ナツメ……?おい、ナツメ!!」

気がついたクラサメがはっとした顔で立ち上がり、駆け寄ってくる。助け起こされるも、彼の温度すら感じられない。世界から色が抜け落ちていくのをまざまざ感じていた。

「ナツメ……おい、だめだ、頼むから……ナツメ……ッ」

お前までどこにいくつもりだ、死ぬな、死ぬんじゃない。
繰り返して揺らしてくる彼の腕の中、ナツメは荒い息を吐く。熱と色が消えた世界から今度は音が消えていった。
辛うじて繰り返す呼吸の一つ一つが、死へと己を運んでいく。

いかなルシであれ、器は人間のものだ。どこまで魔力を備えても、生命として持つちからには限界がある。
致命傷を負い、なんとか傷を塞いでも、失くした血は戻らない。そしていま、更に失った。

目の奥に光がある。明滅する赤い色の光。誰かが呼んでいるのだとわかった。
けれどどこにも行きたくないと望んだ。駄目だ。まだ、駄目だ。
私まで彼を置いていけない。冷たい世界に、氷の奥に、マスクの裏に置いていけない。置いていってほしくなかったなら、置いていってはいけなかった。後悔しても遅いなら、これ以上彼を傷つけない方法を探す権利が私は欲しい。
そんなことを初めて、ほんとうに初めて思って、ああもうここには自分とクラサメしかいないんだということも知って、それで、



それで。

息が止まっていることに気がついて。

視界は血の飛沫に染められ、霞んで黒くなっていった。







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