Act.51-a:Orpheus.





どうしてこんなに苦しまなきゃならないのと、何度も殺した女の血にまみれて問う。
身体にはそのたび痛みが走り、激痛に悶え、悲鳴を堪えた。

どうしてこんなに苦しまなきゃならないの。
ねえ。
どうして?

――「あなたは、なにものでもないつまらぬ人の身の上でありながら、世界に作用したいと願ったのですから、人の身にはあり得ないほどの痛みを受けなければならないのです」

痛みを負いながらも、その石にそう言われてしまえばもうどうしようもない気がして。
ぬるりと手の中で滑った剣を持ち直した。

喉の奥は血の味で満ちていた。






目が覚めて、私は身体を起こした。すると彼女が、「まだ、だめ」と穏やかな声音で私の頭をおさえ、彼女の膝に押し戻した。川べり、雪の上、座り込んだ彼女の腰からは落ち葉のように重なったスカートが広がって、私はその上に横たわっている。
石を積む音がする。かつ、かつ、軽い音が何度も鳴る。誰かが、石を積んでいる。

柔らかく、温かく、彼女のほっそりとした手が私の額を往復し、前髪を撫でる。「子守唄を歌ってやろうか」なんて、どこか甘い声で言う。

「さいのはらー……かたすくに、……よもつのかみが、……ふりむくなと」

「……なあに、そのうた」

「子守唄だよ。もどりみちのうた」

「ほんとう?聞いたことないよ」

優しげな音の根っこに、比類しがたき愛情を感じている。彼女は身をかがめ、私の額に口吻けをした。甘さなどない、当然の行為のような気配で為されたので、私はただ目を細めた。彼女の赤い目もまた、穏やかに細められた。

「ああ、帰ってきた。じゃあ、食事にしよう」

ざわりざわりと風が裂けるような不思議な音がしたとき、聞き慣れた足音を聞いた。私は今度こそゆっくり身体を起こす。彼女が立ち上がり、私を抱き上げるようにして助け起こした。幼子にするような仕草だった。
彼は、積まれた石を器用に避けて、私たちのほうへ歩いてくる。見れば、何十もの石の塔があった。二つか三つしか積まれていないものもあれば、五つ以上積まれているものもある。塔はいったいいくつあるだろう。五十じゃきかないだろうか。霧の奥にもありそうだから、もっとあるのかもしれない。

「なんだ、眠っていたのか」

「お前が遅いから、■■■も眠くなってしまったんだ」

「それは悪かったな」

戻ってきた男もまた落ち着いた声音で私と彼女を見ていた。彼もまた赤い目をしていた。ぼんやり光るようなその色を見つめていると、彼が笑った。

「どうした?まだ眠いのか?」

「……ううん。もう大丈夫だよ」

「食ったらまた寝るといい。ここに怖いやつは、来ないから」

彼がくしゃりと私の頭を柔らかく撫でた。安堵する体温に溶けそうになりながら、私は彼に手をひかれ、雪の積もった川辺を歩いて奥の小屋に入った。開け放たれた戸からはずっとぬるい風が流れ込んでいる。
彼に導かれるまま、私は樫のベンチに座り、テーブルに手をおいた。すぐに彼女が料理を並べ、私の手にフォークとスプーンを握らせる。目の前には、スープと、割れた柘榴の実があった。

そして、私はスープ皿にスプーンを差し入れ、水面を揺らし、すくい上げ、スプーンを口元へ。
運んで、口に入れて、直後、喉が締まって吐き出した。

「うぇッ、げほ、う、げほ……ッ」

「ああ、いけない」

「落ち着け、ゆっくり飲み込むんだ」

彼女が柔らかな乾布で私の口元を拭い、彼が優しく抱き寄せ背を撫でた。
スープはひどい味というわけでもなく、砂を食むような食感なわけでもなく、ただただ私の身体はこれを受け付けない、そういう感じがした。それをなんとか伝えようと思うのに、彼らの優しい赤い目が穏やかに首を横に振る。

「飲まないとお前は消えてしまうんだよ」

「でも飲めばお前はずっとここにいられるようになるんだ」

「ここにお前を傷つけるものは何もないのだから、ここで休めばいいんだよ」

私を挟んで、両隣に座り、二人が優しく言う。
そして背中にも誰かが触れた。

「河の先には悪魔がいる」

「河の中には鬼がいる」

「ここを出たら守れないんだ」

「我らの系譜、最後の愛し子」

たくさん声がする。赤い目がいくつも、私を取り囲んで心配そうに、愛している。まるでそう××と一緒にいたころみたい愛している彼があんな怖いマスクをつける前のこと愛しているまだ私が子供でいられたころだ愛している子供でいるという嘘を演技を許されていたころに愛しているあのころにとてもよく似て愛して、似ている、愛している愛している愛している。
過剰に流れ込む濁流のようなその言葉を前に、私は何も考えることができない。

ただ、愛されている。ここにいれば安心だと彼らは言う。

愛されているのだから、私は望まれたとおりにしなければ。
愛してもらっているのだから。価値のない私を。
望まれた通りに。かんぺきな。完璧な拾い子。いい子。手のかからない。成績の優秀な。拾い子にならなければ。
そしていま、このスープを飲む。

私はけんめいに、スプーンでスープをすくい直した。
もう一度、もう一度。口に運んで、口に入れて、当然のように嗚咽混じりに吐き出して。それを何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返した頃。
ゆっくりと声が、聞こえはじめる。

“「……んな……ふざけないで……許さない……」”

何度も何度も何度も何度も、スプーンを動かす。
でも、喉が拒絶する。嗚咽。嘔吐感。

私の喉の奥から、声がする。

“「ふざけないでよ、そんなところで一人だけ楽になろうなんて許さない、許さないから……!!」”

その声に愛はない。穏やかさなどかけらもなく、恨みがましさのようなものだけがあった。正しく生きることができなかった愚かな拾い子の、怒りを孕んだその声。

それでも私は、その声を確かに聞き、そして一瞬だけ止んだ愛の言葉の隙間を縫って、手を止めた。

「……ごめん」

「どうして謝る、■■■……?」

「謝らなくていい。ゆっくり、それを飲んで」

「できないの。行かなきゃ。こんなことしてる場合じゃないから」

私がそう言って立ち上がると、ざあっと開けるようにたくさんあった赤い目が消えた。気配は両隣の二人だけ。
彼女が一緒に立ち上がって、私を抱きしめ、だめだと言う。

「行ったらもう戻ってこられない、ずっと苦しいままになる。だから……」

「行ってはいけない、お前はここにいるべきだ」

二人は私を懸命に押しとどめようとする。腕には暖かさだけがあり、少なくとも私を無理に押さえつけようとはしていなかった。
しないだけか、それともできないのか。私にはわからない。
わかるのは、一つだけ。
彼らは誰でもない。私が見過ごしてきた、失ってきたたくさんの誰かだ。

「シュユ、セツナ。ルシになる前のことを、覚えている?」

セツナに抱きしめられたまま、シュユの肩に顔を載せて問うた。二人はじっと、かつての感情のなさで私を見つめた。

「救いたかった人たちが脅かされているとき、それを救えそうでも、無理だから諦めてって言えた?苦しむだけだからやめろって言われて、そうできた?」

たとえどんな理由があったって、それはできなかった。
ルシになったっていいと思ったんだ。いつか心を殺されて、ただクリスタルの道具に成り果てると知っていても、それでもいいと。

「あなたたちも、私と同じだったんでしょう?どうなってもいいと思ったんだよね。奪われそうな命を今助けられるなら、他にはなにも、いらないって」

息を飲む音が耳元で鳴った。二人の手が解ける。私はシュユの顔を見上げた。

「あなたにもっと、昔の話を聞きたかった。昔の0組のことも。……でも今は聞かないでおく。また、きっといつか、ここに来るから」

小屋を出る。そして、その河原にはいくつもいくつも石が……もはや百も千もあろうかという数、転がっていることに気がついた。
私はそのさなかを走り抜け、木で作られたボートを真っ赤な河へ下ろし、そこに乗り込んだ。
振り返るもそこには誰もおらず、ただ朽ちた小屋があるだけだった。


行かなくては。
喉には血の味だけが残り、私は下流へと漕ぎ出した。






流れなどないようなゆったりとした河の、どことなく粘着くような重さをオールで切って、私は懸命に進んでいく。その作業に慣れてくる頃、ようやく建物らしきものが見えてきた。河に半分突き出た形の陸地なんとかボートを停めると、見覚えのある町並みがすぐ近くに見えた。そこを目指して歩き始めると、獣道はだんだん舗装された石畳になっていった。変わらない鉄錆のにおいに吐き気を覚えたが、私はただただ足を進める。

魔導院の麓の街に、そこはよく似ていた。

魔導院に向かう道とそっくり同じ道順を進むうち、不意に遠くから耳慣れぬ音が鳴った。石がばらばらと落ちて、互いを擦り合うような音だ。はっと気づいて、耳を澄ませてその音を拾ってみると、足音が混ざっていることに気がついた。
誰かが石を崩して回っているような、そんな音だ。それに不吉なものを感じ、私はなぜか焦りを覚えてその音のほうへ足を進めた。

そうしてしばらく歩いていると、その足音が突然全く聞こえなくなって、ほぼ同時に黒い影を遠くに見つけた。私はそれを見た瞬間、どうしてかわからないが、ああ見つけたとこれまでにないほどの安堵を覚え、慌てて走り出した。
石畳にぐったりと倒れ込んでいるその影は十二あって、一番手前に倒れていたのを助け起こすと、彼女は白い顔にいくつも傷を作っていた。苦悶の表情を浮かべながら彼女は私を見つめ返し、ひゅー、ひゅー、と掠れた息を吐いていた。

「あ……■■■……ふく、たいちょ……」

「喋らないで!!助けるから、動かないで……っ」

「あったかい……」

う、と眉根を寄せ、彼女は私の腹に顔を押し付けるようにしてごろりと転がった。直後、不快そうに身を捩って、むずがる仕草。まとめた髪が髪留めに絡まって痛むらしい。私はとっさにそれを外してやった。

とたん、穏やかな表情になった彼女は、ありがとうと呟いた。

そしてごろんと、重たい頭が膝を落ちていった。

「あっ……」

そのまま彼女は動かなくなった。

「デュース!デュースだめ、起きて!絶対助けるからっ……!」

慌てて触れた瞬間、その冷たさに私は悲鳴を上げた。
どうして。たったいま、この瞬間まで、彼女は生者の温度をもっていたはずだったのに。
もうずっとまえから死んでいたような、氷みたいな冷たい肌。

冷たい血が私を濡らす。呆然と立ち上がり、生存者はいないかと、十一の影に触れた。でもそのどれもがひどく冷え、冷たくなっていて、私は何度も悲鳴を上げた。死体なんていまさら恐れるものでもないのにどうしてか、とても怖かった。

どうしてこの子達が死ななきゃならないのか、わからない。この冷たい死んだ熱が、もうわからなくて、わからなくて、わからない。
でも助けてくれとは言わなかった。だって誰もいなかったしそれに、この子達を救える誰かがこの世界にいたのなら六億分の命を捧げる必要もなかったように思うから。

彼らの真ん中で、ぐったり崩れ落ちて動けなくなる。そのときふと、また足音を聞いた。さっき石を崩していた、あの音だと思った。

振り返ると女が立っていた。彼らの死体の向こうに、白い女。
その女は肌がいやに青白く、金色の髪をしていて、手に長い何かを持っていた。青く透き通る不思議な剣だった。私はその剣に見覚えがあるような、しかしてそれには、真っ赤ななにかがべっとりとついて――血だった。

血だ。死体の群れの向こうに、血のついた剣を持つ女。

「……おまえが、やったの?」

私が呆然としたまま問うも、女は何を答えることもなくそこに立っていた。剣をまっすぐ私に向ける。

「そして、私も殺すつもりなの?」

「おまえこそ、どういうつもりなの」

女は答える言葉もないと言わんばかりに、つかつかと歩み寄って私を見下ろした。そして剣の先端を私の首に押し付けて舌打ちをする。

「どうしてここにいるの」

「あんなに何度も殺して、大変だったのに」

「六億ぶんも殺してそれでようやくここにいられるのに」

「……なのにどうして、こんなところにいるのよ!!こんなっ、知らない子供たちのことなんか、どうだってよかったはずでしょう!!」

女は激昂し、叫んだ。
私は気がついた。
この女が誰であり、何を殺してきたのか。

「……それで?この子達を、殺したのかって聞いてるのよ」

「まさか。そんな暇も余力も、私にはないもの。こいつらはどのみち、ここで死ぬのよ。いつもそうだったわ。私が何もしなくても、結果は一緒」

そう言って私を睨む女の後ろには、白い人間が何人も積み重なっていた。それらは全員白い肌をして、白金の髪を持ち、ぐったりと倒れ伏していた。肌も、髪も、赤黒い血で染まっていて、こうして見るまで判別がつかなかったけれど。

全てが、私だった。
私の死体を積み上げて、女はそこに立っていた。

「六億回、殺したの?」

「六億回、殺したよ」

その死体は、どこか未完成に見えた。血を詰めた白い人形に、いくつも穴を開けて作ったみたいだった。
そこに私がいないのだから、きっとすべてただの抜け殻なのだろうと思った。

「私だけはお前が殺したんだね。毎回の私をお前が、最初の私が、殺すしかなかったね」

「そうだよ。そうしてできたのが、最後の私でお前なんだ」

六億の果てに見る世界は、海も空もひどく赤く、死体が積み上げられていた。

「繰り返す魂は、この先の、女神への門を通ってまたあの世界に帰っていく。でも私は、最初の私がここで殺してしまうから、戻れない。最初の数百回は仕留め損ねたこともあったけど、もうずっと、殺してる」

こんな日のために私は、彼女は、■■■という人間は戦ってきたのだろうか。殺し続けてきたのだろうか?
こんな朝を迎えるために?

彼を何度も、見送りながら?

「……、」

私にはわからなかった。
いつもわからない。わからないことばっかりだ。

私は立ち上がり、手を伸ばして、剣を奪った。彼女がじっと、抵抗もせず私を見ている。

「……あのね。クラサメが、何度もここを通るんだよ」

「うん……」

「そのたび、怒るの。クラサメは、現し世では覚えて無くても、魂でちゃんと私を覚えてる。毎回私が世界が始まる前に私を殺しておくんだから、最初の数百回以降ちゃんと会ったことはないはずなのに、もう他の人は誰も私を覚えていないのに……でもいつも私に怒って、ここに一緒に残ろうとするの。私を止めようとする。あの人から奪った剣をそうやって取り戻そうとする」

「うん……だろうね」

私はその刃を見つめ、ゆっくりと、彼女の心臓部にあてがった。それから静かに、鎖骨の下を、肋骨の上を、斜めにまっすぐ差し入れる。
柔らかい肉だけの感覚がある。心臓を裂き、肺の膨らみを貫く。

自分を裏切る、裏切り者の刃。
彼女はそれを見下ろしながら、言葉を続ける。

「自分を殺すのは別にもう苦しくないのに、それでも怒るの。私はそれを毎回、努力してやり過ごす。こんなところに留まることは普通できないから、結局彼は最後にはあの扉の向こうへ戻るけど、騙したこともあるわ。何度もよ。それが、どれだけ苦しいかわかるでしょう?」

耳元で静かに、起伏ない声で彼女が言う。その声には生気がなく、淡々としていた。まるで死に瀕した病人のようであった。
最後に死ぬべきは自分だと知っていたらしい彼女は、深く刺さる刃を支柱にするようにぐったりと倒れ込み、微笑みを湛え、私にその身体を預けてきた。

苦しいか。そうか。
“自分”が苦しいことが、そんなに大事か。
クラサメでなくて。

クラサメが止めようとするのは当然だ。これは歪んだ行為だから。
でも結局止められないのも当然なのかもしれない。私の人生のいろいろな過ちを、彼が正すことができないのは、それら全て私が私のためにしていることだから。
クラサメのための行為なら、彼は止められる。でも。

色のない瞳を見つめて、私は唇を開いた。

「違うと思うんだよ」

「……」

「私の命なんてさあ、そりゃ大した価値はなくてさ。そんなのが六億回ぶん積み上がったってたかがしれてて。それでも、使いみちだって価値だって、決めるのは私だったんだと思うの」

涙が延々、零れ落ちる。私は抱き留めた彼女の身体から剣を抜き、放り捨てた。その身体からは、ひどく熱い血が噴き出した。
真っ赤なそれをすくい上げると、私は立ち上がり、傍らに倒れ伏すトレイの傷にそっとかけた。
血は混ざり合い、光を零してその傷を塞いでいった。

「私、たぶん、最初から……助けたかったんじゃない。“助かりたかった”んだ。六億回死んでも、その果てに見る世界で救われたかったんだよ。じゃなきゃおかしいでしょう?クラサメを助けたかったならさ、ねえ、なんで」

地面に臥した彼女の目が、ゆっくりと見開かれていく。

「なんで、六億回も。彼が死んでいくところを“ただ”見てたの?」

その目に恐慌が浮かび、息が少しずつ荒くなった。それに従って、地面に横たわるその身体、その胸からこぼれ落ちる血が増えていく。

「こんなの、繰り返しクラサメが死ぬことを前提にしてるじゃない。最後に救えればそれまで何度死んでもいいって言うの?そんなのの、どこが愛なの?クラサメがどうして毎回私を止めようとしたか、今でもわからない?何回も彼は、私のために戦おうとしてくれていたのに。愛されてた、のに」

私は何を言ってるんだろう。そんなこと、もう何度も言われて、それで無視してきたことじゃないか。
クラサメがどう思ったっていい、それでも生きていてくれればいい。自分のためだけのそんな理屈を貫いて、あんなの、どこが愛だったんだろう?

本当に愛していたんなら、一回だって、彼が死ぬのを看過してはならなかった。
何億を数えようと、私は毎回、立ち向かうべきだった。

「六億回死んで、その、六億の果てに見る世界に残った私が……やっと、それを理解したんだ。それを理解するために、私は六億回も間違い続けてたんだ」

六億分の命が、彼らを繋ぐ。光はいくつもいくつも零れ、彼らの命をつなぎとめる。もうとっくにここにはなかったはずの熱は、私の手の中で小さな燻りになった。

クリスタルがただの石ころに成り果てても、過去の私が何と言おうと関係ないよ。私は、私の命を使ってルシになったんだから。
使命だって、決めるのは私なんだから。

「私が助かるために、この子たちだって必要だよ。クラサメにも私にも、この子たちがいてくれなきゃだめなの。私も彼も、もう誰のことも失えないよ」

血が噴き出して、まさに死にゆくさなか。最後の抵抗とばかりに、血溜まりの中を這って子どもたちの方へ近づいてくる。
彼女の爪が裏返り、パキンと割れた。吐き出した血で顔が見る影もなく汚れる。泥土に塗れ、汚れ果てて、それでも目だけは爛々と輝いている。
そんな彼女が、こんな私に言う。

「そんなことのために始めた戦いじゃないでしょう」

「最初は違ったかもしれないね」

「全員は救えないわ。それでも、一人を救いたくて、六億回以上死んで、ルシにまでしてやったのに」

「そうだよ。私はうんざりするほど自分勝手で、自分のことを守りたいの。六億回ぶんの私を裏切っても、彼が生きていることが、あの子達が生きていることが、私が守られてるってことなの」

最初から。
クラサメの手を取ったときから、彼を失ったときから、初めて死んだ赤い夜から。
ずっと、自分勝手なままだ。変わらず救いがたい、卑怯で卑劣で矮小な、しょせん路地裏の安い孤児。

「だから、命をかけて、全員守るよ。大丈夫。苦しかったことは、それでも無駄にしないから」

だから安心して死んでいい。
私の声が地面に落ちて、同時、横たわる彼女もゆっくりまぶたを閉じた。死体はすぐにどす黒く変色して、人間のものとは思えない醜悪な肉塊に変わったように見えた。

これがなんだったのかはわからない。まるきり私であったのか、私が産み落としてしまったただひとつの執着心の成れの果てか。
なんにせよ、私がいなければ生まれなかった化物だ。私の中に棲んでいた、息をしていた、化物。
今はもういない。



不意に背後で石畳を踏みしめる音が二人分聞こえた。
振り返る。

彼は不安げに私たちを見遣り、彼女は真剣な顔でゆっくり頷く。

一緒に帰ろう、そう言っているのだとわかった。
私はまぶたを閉じた。







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