Act.50





赤い空がどんどん近くなって、最後。
万魔殿とホシヒメが呼んだその宮殿の目の前に降り立った時、その生ぬるい空気に彼らは吐き気を禁じ得なかった。振り返った先で、運んできてくれたホシヒメが空を駆けながら腐り果てていった。何が起きているのか混乱する0組だったが、トレイがはっとした顔で「シ骸ですね」と呟いたことで事態を察した。

「えっ、あっ、クリスタルの命令じゃないから……!?」

「むしろ、クリスタルに反抗したってことなんじゃないか?」

「ああ……だからナツメが、あんなに繰り返し聞いてたんだ」

“いいのね”。

あなたの守るべき者でもない、全くもって無関係の朱雀の人間を運んでシ骸になっても。
いいのね?と。

そういうことだったのだ。シ骸になるとわかっていたから、行くなら朱雀のルシであろうと、ナツメはそう思っていた。

「……いやシュユ卿ならシ骸になってもいいって判断はひどくない!?」

「まあひどいけど、実際甲形ルシかホシヒメでもないと運べなかったんだろう。だって、自分でできるならナツメは無言で僕たち運んで無言でシ骸になってたと思うんだよな。そうなったらクラサメ隊長に説明できる?」

「……」

「……エース、その言い方はずっこいな。誰もやりたくないよそんなこと」

その図を想像してしまって、彼らは一瞬沈黙した。クラサメがそれになんと言うかはわからないが、――案外「そうか」とだけ言って、自分たちの前では一切取り乱さないような気もしたが、万が一にも泣いたりしたらどうすればいいのだろう。

「……ハンカチの用意なら、ありますよ……」

「あたしも……この間セブンが無理やり持たせたのを、まだ持ってるぜ……」

「お前それ半年前……」

セブンが苦く笑ったことで、少しだけ場が和んだ。万魔殿という奇妙な宮殿を前にして、笑うだけの余力があれば大丈夫なのかもしれない。
そう思って、彼らが万魔殿に向き直った、そのときだった。

ふわりと紫煙が立ち上り、香った。視界の先、おそらくは万魔殿の入り口であろう二又に別れた道のわかれめに、見覚えのある女性が立っているのである。
一瞬言葉を失って、それから復活しながらばらばらに彼女の名を呼ぶ時、彼女の前ではつねにそうである通りに、彼らは個であるという意識が強く立った。彼女とは、全員が、母と子としての一対一の関係を持っている。
0組としてではなく、エースとマザーであり、クイーンとマザーなのだ。セブンとマザーで、キングとマザーで、トレイもデュースもシンクも、ともあれみんなそれぞれに。
だから彼女は、0組にとって何より特別なのかもしれなかった。

「……ああ。来たのね」

であるから、だから、その声が。彼らにとっては喩えようもなく冷たい声音であったこと。まるで赤の他人に対して彼女がそうであるように。
マザー、そう呼ぶケイトの声が呆然と落ちていった。

アレシアは意にも介さないといった様子で、冴え冴えとした緑の目を動かし、視線をさっと滑らせた。煙管を下げ、平淡な声音で続ける。

「最後だけは、自分で選んだ。……それでいいわ」

まるで言い聞かせるように、彼女はゆっくり頷いた。煙管を口元にやり、吸って、ふっと吐き出す。その紫煙が細くたなびき、まるで羽を持つ動物みたいに0組の間をすり抜けていった。

「あなたたちは、自分で選んだ。ここに来ること、アギトになること。選んで選んで積み重ねてみても、人は何も選ぶことができない。あなたたちは、これまでも何も選んでこなかった。……最後だけは、自分たちで選びなさい」

その煙はゆらゆらと動いて彼らの後ろを通り過ぎ、また万魔殿の入り口を目指す。ついつい彼らは目で追ってしまい、やっと向き直った頃にはそこには誰もいなかった。

「マザー!?」

「一体どこに……いや、そもそもどうしてここに?」

まさか夢だったかと思った彼らだが、十二人全員が同じ夢を見るわけもないし、アレシアはもともと不思議な人間なので、突然現れて消えたとしてもおかしな話ではない。もちろん場所が万魔殿なんてわけのわからない場所でさえなければ、だが。

彼らはしばし見つめ合ったり、アレシアを探すべきかどうかなど話し合ったりしていたが、キングが「だが、時間が無いんだぞ。朱雀がいつまでもつかわからん」と渋面で言ったのでそれらを慌てて切り上げた。

「とりあえず、行こう。何にしても、それしかできることはないんだ」

「でも、しょっぱなから道が二つに分かれてるよ〜?これ、どうする?」

ジャックがエースに異を唱えた通り、万魔殿は入り口からして二つあった。それらは宮殿の左右離れた場所にあり、どちらから入るべきか彼らは遠目に既に悩んだ。
なんせこの宮殿ときたら、こうして眺めているだけでもどこからが二階か三階かもわからない歪な装飾が延々続くので頭が痛くなるし、てっぺんは雲に吸い込まれてしまっていてどこにあるか全く見えないなんて有り様なのだ。もし片方の道しかシドに追いつけなかったら?

「……ですが、入り口の造りは左右ともほぼおなじです。他にも判断材料が全くありません……」

「じゃあ、二手に別れるしかないんじゃないー?それで、行き止まった方が引き返して、追っかければいいんだよ〜」

シンクがいつもどおり、ゆったりとした口調で言った。それが最善の策かは決めかねるところであったが、少なくとも次善以上の策ではあった。
0組内でのバランスを考え、彼らはそこで二手に別れた。必ず再会することを互いに言い含めてのことだ。

彼らには知る由もなかったことだけれど、万魔殿とは常に選択を迫られる戦場であった。自分たちで選び、別れ、先に進まねばならない場所。そして、選択を誤れば死ぬことにもなる。
彼らはそうして、知らず知らず、最後の戦いを始めた。如何なる戦いでもアレシアの加護によって死を免れる0組は恐れを知らず、飛び込んでいった。
挑むため、勝つための戦いであった。








0組が、朱雀を救うべく進撃を始めたそのとき。
一方の魔導院では、徹底的な抗戦がなおも続いていた。

『ああっくそ!!死んだ、回収部隊が死にやがった……ッ畜生!!』

「さっさと統合しなさい!あんたまで死ぬでしょうが!」

『だからお前に心配されっと気味悪ぃんだよ!』

COMMの向こうで四課の同僚の怒鳴り声が鳴っている。ナツメはそれに雑な舌打ちを返しながら、近くの下男に迫るルルサスをアラウド魔法で吹き飛ばした。
闘技場の裏手は特に敵が多くて、候補生の撤退がなかなか進まない。ウォール魔法で作った壁はあるが、所詮元がウォール魔法。普通に歩いて通り抜ける事はできてしまうが、ルルサスが瞬間移動で壁を超えることは防げる。

つまり、その切れ目で一度ルルサスが止まる。そこを前線のマークにして、破られたらナツメやシュユが遊撃として救援に向かうことでなんとか戦線を維持している。


続けて剣を振りかぶったルルサスをもう一度アラウドで散らし、さすがに連発に疲れて肩で息をした、その瞬間だ。
ブブ、と、白虎の魔導アーマーにも似た振動音がして、ナツメのすぐ背後にルルサスが迫る。ああこの転移魔法が本当に厄介だと怒りを覚えながら、ナツメはせめて切られるなら致命傷を避けねばと身体を捩った……そして同時。

彼方から駆け寄る低い靴音がして、直後、ルルサスの振り下ろされた剣を横から飛来した黒い影が弾き飛ばす。はっとして振り向くとクラサメが立っていて、彼は着地姿勢から一瞬で追撃の構えに移り、即座にルルサスの心臓部を美しい氷剣で刺し貫いた。
傾いて、ぐしゃりと崩れたその死体に、ナツメが助けたばかりの下男が駆け寄ってファントマを抜き取る。とりあえずこの地点は前線維持できたかと息を吐いたナツメの腕をクラサメが掴んだ。

「何でここにいる。少し休めと言っただろう」

「だから、休んでたのよ。今戻ってきたところ」

「まださほど経ってない。お前が崩れたらまずいだろう」

「ちゃんと寝たよ、大丈夫。それに今崩れるつもりはないから」

既に息も絶え絶えの白虎を攻め落とすだけならいざしらず、こんな泥沼の戦いで身内びいきはできない。たぶんクラサメは、ナツメが戦っているのすら嫌なのだろうけど。

「早く全員倒して、あの子達が戻ってくるまでに、魔導院を綺麗にしよう」

「さすがに掃除は終わらないかもな」

「大丈夫、四課は血の後始末には慣れてる」

皮肉を笑って言いながら、迫り来るルルサスをクラサメが一撃のもとに葬った。ナツメは後退って生け垣に登り周囲を見下ろす。そして範囲内にいる味方にCOMMで退避命令を出しながら、詠唱を始める。

クラサメ、ちょっとの間、よろしくね。

わかっている。

無言の裡に請け合って、ナツメは長い詠唱を可能な限り縮めて唱えた。最大出力に拘る必要はない、とりあえずこの一帯のルルサスを消し飛ばせれば、後は任せても大丈夫だろう。
暫時の沈黙、世界から音が消えた。完全な集中で、ナツメには珍しく一切の無防備になって、星を招来する。

「クラサメ、とその他、下がって!!」

クラサメと下男、それにちらほらといた四課がすぐさま退くのを横目に見ながら、溜め込んだ魔力を解放した。
メテオ魔法。通常候補生が落とせる星は数えるほどだが、ルシの魔力で行うならその数は倍以上に増え、だからこそ範囲内における被弾率も上がっていく。

空を焼いて降る光が、いくつもいくつも地面に突き刺さる。石畳が剥がれて消し飛ぶのが辛うじて見えた。
その光が地面でクラッシュして消えた後には、焼け焦げたたくさんの歯車と、死に絶えたルルサスの死体が群れとなっていた。

「早く、抜き取って」

「お、おう!」

ナツメがぐいと顎で示すと、下男は転び出るように飛び出して、死屍累々のルルサスからファントマをざかざか引き抜いていく。さすが、これを専門にしているだけあって手慣れている。

「よし、じゃあこっちはもう大丈夫よね?」

「えええ行くなよ守って」

「甘えんなバカ」

下男が慌てた様子で首を横に振るのを睥睨しつつナツメは言ったが、下男に戦闘能力はほぼないので放っておいたら危険なのも確かだ。

「……じゃあ、向こうの部隊に混ざって。カバーする範囲は広がるけどしょうがない」

「うう、何で戦争終わってからのが戦争が激化するんだよ」

「あ、忘れないでよね。深追い禁止、戦線守れないって判断ができたらすぐ呼んで」

「その点四課は優秀だから安心しろ。あとルシ様よ、その他呼ばわりやめてくれよなあ」

下男は笑って言い、ファントマを集め終えると走り出した。四課は“戦わない”ことが上手い。
この状況下では、それは単純な戦闘能力の低さとして響く。だからこそ、本領をきっちり発揮して、撤退だけは巧くこなしてもらわなければ。

それじゃあ次は南方へ、そう短い会話をして走り出そうとした時だ。不意にナツメのCOMMを着信が鳴らす。

『……おい、聞こえるかー?』

「ナギ」

『お、よかった無事そう。悪ぃんだけど、ちょっと作戦室に顔出してくんねえ?』

「なんでよ、忙しいのに」

クラサメと小走りになって途中ルルサスを倒しながら、ナツメはナギとの会話を続ける。

『いやさ、白虎から通信あって』

「はあ……はあ?」

『そんでな、黒い服着たルシ出せとしか言わねぇのな』

「はああ……?」

『ちょうどそのへんにいたシュユ卿を通話口に立たせてみたんだが、ろくに会話が成立しなくて』

「でしょうよ……」

『で、どうも向こうに聞いたら、シュユ卿なら名前知ってるしそれならシュユ卿出せって言うわボケ、いいからあの“諜報員ルシ”連れてこいって言うんだなこれが』

「おっふ」

それだけで通話をかけてきたのが誰なのかわかった。ナツメはケーキを食べたら苦くてしょっぱくてすっぱかったみたいな顔をして黙り込む。

『……なんで向こうの准将がお前の正体知ってんのかについては後で聞くからな』

「……」

『とりあえずすぐ作戦室』

ナギは短くそう言って通話を切り上げた。ナツメは一瞬悩んだが―だってどうせその准将が何か得をもたらしてくれるとは思えないし―、でも行かないとたぶんナギが怖い。ナギは表面上で何を言おうが、あれで心の中は名前どおり常に凪いでいて、最善手を探し続ける怖いやつだ。だから、ナツメはナギの命令には基本的に逆らわない。
けれど今前線を離れて大丈夫だろうか。迷ってクラサメの背に声をかけ、作戦室に呼ばれてるんだけど行っても平気か聞いた。内心、今は駄目だ前線が維持できないと言ってくれることを期待して。

「そうか、すぐ行け」

「……何でそんなあっさり」

「お前が前線にいないほうが私は全力で戦える」

「さすがにひどくない!?」

ナツメが翻訳すれば、これは「問題ないから任せて行って来い」ということなのだとはわかっている。伊達に付き合いは長くない。
のでぶつぶつ言いながらもナツメはふっと短く嘆息し、すぐ戻ることを勝手に言い置いて魔導院目指して走り出した。



ったくなんなんだよ、何で突然連絡なんて。しかも私を指名して。
頭の片隅でなんとなく毒づきながらも、ナツメはついでに死にかけの候補生をピックアップして走る。各所に小さなベースを築いている4組と7組の候補生にそれを預けて、数分後には魔導院にたどり着いた。

ホールに入って、また血に汚れてしまった服の裾をしきりに払い、ナツメは作戦室に入る。と、ルシの入室にいち早く気付いた軍令部長がヒッと短い悲鳴を上げた。

「うるっせえハゲ、外で的になるくらいしろよ……」

「ナツメお前、いろいろと見合わない暴言吐くな!ほっといていいからこっち来い!」

ナギの手招きに従って、ナツメは作戦室に備え付けられた通信具へ近づいた。他国との通信手段として、これだけは戦時中だろうが必ず残してある。
それを使って、白虎から連絡がきているのだ。ナツメはナギから受話器を受取り、壁に備え付けられた通信機の前に立って、部屋の入り口に背を向けるようにして壁に凭れた。そして、一瞬躊躇いながら、受話器を耳に当てる。

「……はい。黒いルシですけど」

『ああーっ良かった!副隊長っすね!!?』

「だ、誰!?」

思っていた声と違ったので、ナツメは面食らってついそう問い返してしまう。
あっけらかんとした声が、ナツメの動揺など意にも介さぬ様子で答える。

『従卒のアリアっすよ。お久しぶりで』

「え、ああ……あれ?何で終戦後も白虎にいるのあなた」

『あれ、聞いてないっすか?准将のちんちくりんを置いていけねぇんですよ。支えてやんないとすぐ折れちまいそうなんで』

「ええ……?」

何を言っているんだろう、この娘は。
ナツメは懸命に、ろくに話したこともない従卒の姿を思い浮かべる。茶色の短い髪をした、まだ幼気さの残る少女だったように思う。
カトルは今いくつくらいだったろうかと、四課で叩き込まれた割にちゃんと覚えていないデータをあさるが、どう考えてもクラサメと同年代かいっそ更に上である。恐ろしい想像が駆け巡り、この戦いが終わり次第0組連れて白虎急行だろうかとすら一瞬悩んだ。
が、その後も続く彼女の軽妙な声音に、そんな懸念(という名の疑惑)も解けていった。

『いやーもうマジ信じられないっすよ。黒い服を着たルシを出せなんつって一体誰に繋がるっつうのか。9組のヤツがシュユ卿出してきたときは笑うかと思ったけど。ともかく、私が話さないと無理かと思ったんすけど、案外うまくいっちゃったみたいすね。いやーもう、そもそも誰と話したいのか。私にも黒い服のルシだとしか言わねんですもん』

「ええと、もう一人のルシっていったら私でしょう?」

『そりゃあそうですけど、副隊長が四課出身だとか、そもそもルシが副隊長だとか、朱雀が公言してることじゃねーでしょ?私よく知りませんけど。だから私が、それは0組の副隊長、だなんて言ったらまずいかと思いまして』

こんな怒涛のマシンガントークでべらべら喋る少女が、なかなか考えてくれているのに少し驚いた。敵地に捕らえられて情報を吐かずにいるのは優秀だ。拷問されている気配等はないとしても。そう思った時、己が一度として彼女の安否など案じたことがないことを思い出し、不意に少しばかり胸が痛んだ。ような、気がした。
考え込むナツメなど知らぬアリアが、そんなわけで准将に代わりやすねーと軽快に言って直後、彼女の声は止み、代わりに一瞬の沈黙が会話を占めた。

「……」

『……』

「何の用なの」

『おお。お前か』

「あんたが呼んだんだろうが……っていうか名前教えてあるでしょう、名前で呼び出せよ」

『すまん、忘れた。それで、少し聞きたいことがあるんだが』

カトルは珍しく真面目な声で、そう前置いた。名前を忘れられたことは、まあ別にいいか。

『つい数十分前から奇妙な化物が皇国各地に出没し、人間と見るとお構いなしに襲っているとの報告があった。そして十分ほど前、イングラムにまで現れた。……お前、この事態が来るとわかっていたな?だから私を生かしたんだろう?』

「ええ、まあ、そこそこ」

『……もう少し助言等があってもよかったのではないか。どうせ、壁は多いほうがいいという程度の考えなのだろう?』

「本当にこうなるか確信がなかったもので」

『だが、お前たちがなんだかんだと生きているところを見るに、対策はあるんだな?あの化け物たちはどうやって倒せばいい』

「……そうね。まあ、機密がどうのという話は、今はやめておこう。こんな事態だしね」

それでがたがた言うなら、ナギに数時間前宣言したとおり誰のことも殺してやろう。
ナツメは一人頷いて、カトルに話すことにした。ルシの権限がある今こそ機密違反も許されよう。

それに。
助けてやりたいと思うわけではないが、ひとつカトルに聞きたいことがあった。

「死体から採取できる素材があることを、知っているよね」

『……それは』

「白虎では、たしか客体枢密硬化結晶とか、長ったらしく呼んでたわね。蒼龍じゃマガツヒだったかな」

『お前……どうしてそれを』

「あんたが呼んだんじゃない、諜報員のルシを。それならこれくらい知っていて当たり前よ」

『……それもそうか』

「ともかく、朱雀ではあの結晶を使って魔法を強化してきた。蒼龍はあれを竜に食わせるらしいわね。白虎も大きな機械には使ってるでしょう?あなたが乗っていたガブリエルとか」

『む……』

否定も肯定もしないカトルに、ナツメはふっと笑った。沈黙は金、雄弁は銀。
けれどナツメは、クラサメ以外なら金も銀にも価値がないと思っているので、迂遠だなという感想しか出てこない。

「ともかく、あれを取り出す機構はどのペリシティリウムも持っているはず。あの化物も、殺し次第それを取り出して。それで一応、倒せるはずだから」

『……死体を載せて使う器具だ』

「だから?」

『つまり……研究所にしかないうえ、医療用の処置台に完全に接着されており、取り外せないし電源が……』

「知るか、なんとかしろボケ」

『む……』

そこまで考えてやるほどの暇はない。別に、彼が死んだとしても、死ぬならそれで仕方ないと思っている。ナツメの守りたいもののなかに白虎の人間は一人もいないのだ。カトルを生かしたのは、彼が言ったとおり、壁を一枚でも増やすためだった。他意はない。

それより、聞かないとならないことがある。

「ねえ……今、そっちにマキナは……その、白虎のルシはいる?」

『……いいや。いない。白虎を守ることもせず、……というかあの戦争が終結する前から、実はずっと姿が見えない』

「そう……わかった。ありがとう」

マキナは今白虎にいない。
じゃあどこにいるんだろう?こっちに戻ってきているんだろうか?この真っ暗な朝が来てずっと、クリスタルを通じて呼んでいるのだが、全く応答がない。それどころか、ルシはルシの居場所をうっすらとだが把握できるのに、今はまったくわからないのだ。
困り果ててため息をついたのだが、カトルはそれを違う意味で受け取ったらしい。

『……よほど戦況が逼迫しているのか?』

「それは……まあ、しょうがないでしょう。なんとか努力はするけどね」

『我々も、そのつもりだ』

「はっ、そうね。せっかく殺さないでおいたんだから、せいぜいがんばって。朱雀に来ないようちょっとは散らしといてよね」

ナツメは努めて明るく言った。それは本音でもあったし、生かしておいたのはそう悪手でもなかったなと安堵したがために出た言葉でもあった。白虎が早々に落ちれば、当然その分のルルサスは他のペリシティリウムに向かったろうから。
けれどカトルは、あの明朗な話し方で、「そうだな」と言った。

『お前を守ることにも繋がるのなら、最大限のことをしよう』

「あ?口説いてんの?」

毎度の冗談をナツメが言うと、カトルは声を立てて笑った。

『ああ、そうだ』

「そんなら生き延びることね」

『む?口説かれてやるとでも?』

「いいや、死にたくなるぐらいこっぴどく振ってやるから」

そう言って嘲笑った時だ。
さあもう聞きたいこともないし、別に死ぬ前に言い交わすべき言葉などこいつとの間にはないのだし通信を切ろうか。ナツメはそう思っていたし、これからまさにしようと思っていたのだが。

「ナツメーお前背後にクラサメさんいるの気づいてるー?」

「今知ったわありがとう遅い死ね」

「……ナツメ?」

クラサメが、極めていつもどおりの声で名前を呼んだ。だが何度も言うように付き合いの長さは伊達ではなく、含まれた絶対零度の響きに気づかないナツメではなかった。ナツメはとっさに通信を叩き切りながら振り返る。

「違うっていくらなんでもあれとそういうのは無いって」

「私は何も言っていない」

「言いたいことが私にわからないとでも!?」

「わかったことが一度でもあるのかお前」

「そっ……それは……」

ナツメは考えた。
だいたいのことがわかっていたけれどそれでも自分勝手な行動を続けましたと正直に言うのがいいのか。
それとも、ナツメよくわかんない!とアホなふりをするのがいいのか。

数秒考えて、それで結局、

「すみませんでした」

と頭を下げる。頭上でため息が落ちたのを聞いて、叱責を覚悟しつつ、それでも雷は落ちなかった。
おそるおそる顔を上げると、クラサメは呆れた顔をしていた。

「別に疑ってはない」

「は、はい……」

「だがそういうのが面白いわけじゃない。わかるな?」

「はい」

でも。
クラサメの言いたいこと。最近、ようやくちゃんと意味がわかってきたような気がする。
昔は、でも仕方がないことじゃないか?なんて思ってた。その“仕方がない”を懸命に溶かして、努力して言葉にすべきなのだと。

ナツメはクラサメの滔々とした言いざまに静かに頷いて、受話器をナギに渡した。
大丈夫だ。頭の中はすっきりしている。次にしたいこともちゃんとわかっている。

「クラサメ、頼みがあるんだけど」

決してノーとは言われまい、そう思いながら。
マキナを助けたい、そう言おうとした時だ。

「……あっ……?」

ナツメはどくりと、心臓のもっと奥の、身体よりずっと深いところでの鼓動を聞いた。

はっと足元を見る。クリスタルがおかしいのだとすぐに分かった。
めまいがする。まるで世界の上下が入れ替わったみたいな感覚に吐きそうになる。

「おい、どうした?」

胸元を押さえてふらつき、テーブルに手をついたナツメをクラサメが支えようとした。ナツメはそれを固辞し、大丈夫と繰り返す。
いや、違う、大丈夫じゃない。全然大丈夫なんかじゃなかった。

「私じゃない……これは……」

ナツメの脳裏をぐるぐると一滴の熱湯が駆け巡っているみたいで、ずきずきと痛む。
はっとして作戦室の入り口を見つめる。その先にあるホールの大玄関を。その先の先の先の先、魔導院の外、ナツメの敷いた最前線、まっすぐ南におりたほんの一箇所を。

「シュユ……?」

ナツメは体勢を戻すいとまもなく、慌てて作戦室を飛び出した。転びそうになりながら階段を駆け下り、ホールを突っ切って、折れた朱雀像の隣を走り抜けて。
後ろからクラサメの呼ぶ声がする。ナギの声も聞こえる。でも振り返ることが、足を止めることができない。
もっと早く、ああこれじゃ遅い、間に合わない。

いやもうとっくに、私は間に合っていない――。

「シュユ!!!」

ナツメは、たどり着いて叫んだ。赤い霧雨の向こう、黒い空の中に、浮かび上がる人影らしきものを見た。全身を覆う真っ黒な鎧らしきものを着用し、一切皮膚が見えない。何者なのか全くわからなかった。
その真下に、0組のそれより深い朱のマントを結んだ男が、倒れていた。

「シュユ卿……そんな、馬鹿なことが……」

ナツメが呆然と呟いた時だった。上空の人影が瞬時にナツメの眼前に迫る。反応が全く間に合わず、真正面から至近距離で覗き込まれ、ナツメはあっと目を見開いた。

黒かった。
否、闇だった。

目が本来あるはずの場所さえ、まるでエメラルドみたいな透き通った大きな水晶体が覆い隠している。
その奥に、目があるはずだ。透明なのだから、目があることぐらいはナツメにも見えるはずだった。
でもそこには、なにもなかった。あったのは、夜の海を思わせるような、果てのない闇。どこまで進んでもきっと何も見つからないとナツメに確信させるほどの闇だけがあった。

――お前もまた、練ったのか。

声はなかった。ただその言葉は、文字を読み上げるときみたいに、頭のなかに音もなく入ってきた。

これは誰だ?何者なのだ?
ルルサスなのか?

ナツメが何を言うこともできず目を見開いて硬直するのを、その人影は全く放置して踵を返した。石畳を叩くかかとが見えるのに、音がひとつもしなくて、耳がおかしくなったかとすら思った。
そしてようやくナツメがまばたきをしたときには、もうそこには誰もいなかった。

ただ、シュユが倒れ伏しているだけだ。

はっと我にかえったナツメは慌てて彼に駆け寄り、膝をつく。

「シュユ卿!」

ナツメが彼を揺さぶった、その時だ。
赤い光が、彼の身体の中から、彼を貫くみたいに広がって、視界を遮る。立ち上がろうとして、足がもつれ、ナツメは尻餅をつく。強い光が網膜を焼いて、ナツメは慌てて目を押さえて蹲る。

ようやっと光が収まって目を開いた時。シュユは、地面に倒れ伏したその体勢のまま、クリスタルに昇華されてしまっていた。
透き通るその美しい氷像に、ナツメは悲鳴を上げそうになった。

シュユの目は大きく見開かれたまま、虚空を睨んでいる。憎しみや怒りといったものがその顔にありありと浮かんでいた。彼が最期の瞬間まで懸命に戦おうとしていたからだとすぐわかった。
戦ったのだ。クリスタルのために、朱雀のために。この朱いマントのために。

この時初めて、ナツメは後悔をした。
もっとシュユの過去を聞けばよかったと思った。この朱いマントの意味も、かつて彼が共に戦ったのだろう昔の0組のことも。

「ナツメ!!おい、どうしたんだ!?」

シュユのクリスタルの傍らに座り込んだままのナツメに追いついたクラサメが、そう聞きながらナツメの肩を掴む。あの光は見えていたのだろう、状況は把握しているようで、彼はゆっくり視線を上げながら「シュユ卿」と小さく呟いた。

「クリスタルになったの」

「ああ……昇華だな」

「違う。こんなの、違う。昇華なんて呼ぶのは違う、絶対間違ってる……」

ナツメは繰り返しつむりを振って、クラサメのほんの一言を懸命に否定しようとした。言葉尻を弄ったって、それで何が変わるわけでもないとわかっていたのに。

これは間違いなく、死だ。
終わったということ。ただ記憶のあるだけの、死だ。美しく修辞したところで本質は変わらない。

何者にも昇華してなど、いない。


ルシというものをよく知らない、一般の候補生たちは、ルシとなって最後にはクリスタルと化すことを最高の栄誉だと思っている。だから敬意を込めて、クリスタルになることを昇華と呼ぶ。
でも違うのだ。ナツメにはもうわかっている。
クリスタルになることを望むルシなんて、きっとこの世にはいないのだと。もし仮にそんな世迷い言をぬかすルシがいたとしたって、それまでの慣習や歴史にそう思わされているだけで、絶対に本心ではない。

そう思いながら、でもクラサメにこの気持をどう伝えればいいかわからないと、戸惑いながら顔を上げたときだった。

赤い光が、空を駆けていくのを見た。あけすけに黒い闇を赤く覆ったみたいな奇妙な空を、それよりずっと明るい、星みたいな光が。クラサメもまたその光を見て、目を見開き唖然とする。

「……おい、私の目がおかしいのでなかったら……魔法局から、飛び出してきたように見えたが……あれは」

「れ……レム……?」

「嘘だろう流れ星にしか見えなかったぞ!」

「で、でも、あれは魔法局の塔だし、あの階に運んだし、それに……ああ、うん、レムだと思う」

ルシはルシ同士の存在を感知、認識できる。目の前に現れなくても。気配とかそういったものじゃなくて、単純に“わかる”のだ。だから、わかってしまった。

「シュユ卿がいなくなった代わりに、レムがルシになった……」

「なぜそんな、……いや、そうか。そうなのか」

複雑な話ではない。
レムは優しく、献身的で、こんな惨状の魔導院で冷静を保てるほど大人ではない。
否、たぶんクラサメでも、今クリスタルから“ルシに選んでやる”と言われたら、二つ返事で受け入れてルシになるだろう。たとえルシになることを拒めるとしても、拒まない。

そして、不意に、ずっと見つからなかった存在がすぐ近くにいるということにも気がついた。星みたいな赤い光は滑空して落ちていき、街の最中へすっと消えた。その地点を見つめ、ナツメは驚愕に震え上がる。

「マキナ……マキナがいる!すぐ近く、……レムが落ちていった辺りに、いるよ!」

「マキナが!?数々の命令違反は殴るだけじゃ済まさんぞ……」

「い、いや、マキナはもう命令違反どころか完全に国家反逆……いやまあ、もうそれはいいよ!それより、まずいかもしれない」

マキナはまだ白虎のルシで、レムのあの光が落ちていった先にいるのなら。

ナツメとホシヒメが理性で対話をしたようには、ならないかもしれない。あのとき、蒼龍にはまだルルサスが現れていなかったはずだ。さすがに己を眷属とするものに被害がある状況で、他ペリシティリウムを訪う余裕はないだろう。
対して、白虎は先程カトルから通信があったとおりだ。

「白虎にルルサスが現れて、国を襲ってるのに、白虎ルシのマキナがこんなところに留まれるっていうのが、もうおかしいの」

「……待て。待て、今、なんと……」

クラサメは元来の察しの良さのためだろう、僅かに青ざめて問うた。
ナツメはもうずっとまえから知っていて、でも誰にも言わなかった。

「マキナは、白虎のルシなのか……」

「……あの子は。とても、いっぱいいっぱいで。だから、仕方がなかったの」

「だがどんな事情があったってそんなこと、許されるべきことではない!白虎のあの新しいルシがマキナなら、あいつは、朱雀の国民を殺していたことになるんだぞ!?」

「そうだね。……そうだね」

戦時下だろうとなんだろうとその意味がわからない人間はいない。国家そのものに対する反逆行為は、一切の例外なく国賊である。即刻の処刑は当然として、それだけでは済まされない。
全ての国民に憎まれ、どんな卑劣な犯罪者よりも悪逆の徒として扱われ、全ての罪より重い罪を課されることになる。家族も恋人も友人も、彼と関わりのあった人間全てがその謗りを受けるような最悪の罪悪だ。ここが法治国家である以上、人道人倫における最大の罪をマキナは犯してしまっている。

たぶん、ナツメにはその重大性はわからない。理性で把握はできても、感情の部分での理解ができない。反逆という呼び方自体、そもそも国に守られている人間の感覚であるから。
人を守るために、国や法の概念が生まれたのだから、その概念に対する反逆は全ての人間を標的とした虐殺行為にほかならない。そう、理性ではわかっているけれど。

「でも。……仕方がなかった。あの子は力がないと何も守れないってわかってた。そんな力は、自分では得るべくもないことも。そして何も守れないってことが、死ぬより怖いってことも」

そういうことばかり、よくわかっていて。
でも一方では、それがどんな事態を招くかわかっていなかった。
だから仕方がない。マキナはレムを失くしたらもう何もないって思ったんだろう。何も持たない人間は、相手が人でも軍でも政府でも関係ない。

「……お前と同じだな」

「ルシだから?」

「お前が四課に入ったときと、同じだ」

クラサメが苦虫を噛み潰したような顔で言うので。ナツメは一瞬黙りこくり、目を見開いて。
それから、ぷっと吹き出した。

「おい、笑っている場合か」

「ごめんごめん。……そうだよね。同じだ」

同じくらい愚直で、歪曲していて、救いがない。
ルシだって四課だってもう戻れないってところばっかり同じ。傷つける人の規模が違うだけ。同じく、罪だ。

「とにかく、行くぞ。放っておけない」

「……そうだね。行こう」

シュユのクリスタルをそのままに、ナツメは先んじて走り出したクラサメの背を追った。光の落ちた先は暗い空に遠く霞み、もう見えなくなっていた。







長編分岐
×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -