Act.48-a





「起きろ」

頭上から声が降り、ナツメを現実に引き戻す。はっとして目を見開いて、ナツメは顔を上げた。
シュユ卿が、いつもどおりの冷めた目で、ナツメを見下ろしている。

「シュユ卿……」

ぽかんと口を開けて彼を見上げるナツメの、クリスタルに重ねた手を彼はじっと見た。さすがにルシでも朱雀的に不敬かと察し、慌てて手を離す。

「あー、あの……クリスタルってなんかちょっと熱いんですけど、これなんなの?なんか人肌の温度っていうか、気配がするっていうか、……」

言いながら、ナツメはクリスタルを見つめる。自分の口が紡ぐ通りのことを、頭の中でまた考える。

気配がする。そうだ。
先程、クリスタルに初めて触れた時も、命の気配を感じ取った。そしてこうも思った――ルシになった日に背中に貼り付いていた粘着く闇にそっくりだと。

ああでも今にして思えば、もしかしてあのときの闇、朱雀の闇と呼ばれている、未確認の。

「ちょっと……待って……」

思考の波が波及する最中で、ふわりと匂いがして、記憶が一瞬寸断される。これは知っている匂いだ。
クラサメの肌の匂い。世界で一番愛しい気配。ナツメはクリスタルにもう一度手を伸ばす。

「く……クラサメが、いる……気がするんだけど」

クリスタルの中にクラサメの気配をわずかながら感じる。それだけではない、なぜだろう、××も×××も××××もエミナもカヅサもナギも、ここにいる気がした。
どうして、と震えあがるナツメを見下ろし、シュユは暫し沈黙した後で、言葉少なに語りだす。

「世界が繰り返す中で、人間たちは皆死ぬ。死ぬと、命を、闇が喰う。あの闇は世界が始まった一なる瞬間に生まれ、今この時まで変化なく続いている」

「闇……世界は、六億回繰り返してるって、ドクターは言ってたわ」

「なら六億回、全員喰われたのだろう」

ぞんざいな口ぶりだった。六億回、ナツメは口の中でその言葉を転がすように唱える。

「あの闇は巻き戻っていないってこと……?ちょっと待ってシュユ卿、一つ気になることがあるんだけど。まずあなたは、記憶を保持しているのね?六億回の話をそんなにあっさり受け入れるんなら」

「完全ではないが。覚えていないこともある」

「繰り返してるんなら、起点はどこになるの?繰り返しなんていう、魔法なのかさえわからない外法の技があるとして」

シュユは暫し逡巡するような仕草をみせたが、僅かに顔を顰めて彼は答える。

「始まりは……最も遠いものは、百年前。だがふつうは、開戦の朝を指定しているらしい」

「そう、じゃあ繰り返しの時点はいじれるのね……?それなら、たとえば前回は?前回はいつだった?」

「開戦の時点だ。時代を遡ってまで巻き戻すのは、それだけ舞台に変更を及ぼしたいときに限られる。そしてここ数万回は、全て開戦の時点を起点としている。それが一番、アギトを産むのに効率がいいと算出したのだろう」

「開戦の……時点」

さっき、ナギと話したばっかりだ。
開戦のとき、ナツメはナギといた。その前には白虎にいて、急いで朱雀に戻ってきて。

「……変なこと、聞くけど……私のこと、知っていた?今まで一度でも見たことある?」

「……否。一度として」

「ルシになったこともない?」

「セツナの昇華後、朱雀にルシが生まれたことはあるが、一度としてお前ではなかったはずだ」

少しずつ、理解が及んできた。何が起きてきているのか、表層的なことだけだが。

開戦のタイミングが起点となって“今回の世界”が繰り返されているのなら。
それ以前のナツメがナギの記憶にもクラサメの記憶にも存在している以上、“前回の世界”にもいたはずなのだ。毎回百年前まで遡っていたらナツメがいないこともあり得るだろうが、今回に限ってはそれもない。ならば、その存在を隠したか消し飛ばしたかした“何か”があったのだ。

これがドクターの壮大な実験かなにかだとしたら、何か求める結果があるのだ。必然。そこに向かうべく試行を繰り返しているのなら、変化は喜ぶべきことのはず。ナツメがさっきまで見ていた世界の、“0組が強くなる”現象もきっとそのうちの一つ。
まさか特定結果が得られる確率を調べているわけもないので、世界はα世界線をベースとして繰り返すというより、α’=β世界線、β’=γ世界線、γ’=δ世界線……というふうに変化していくほうが自然なはず。
そしてその変化の果てにナツメはいる。

「……私、たぶん何回目かに気付いたんだと思うの。世界が繰り返してること。それで、どうにかして、いつかの世界で救われたいって、クリスタルに願ったの」

「クリスタルは元々、ただのからくりに過ぎぬ。望まれたように作用はするが、その石にに願っても、出来ることなど限られている」

「ルシにしてやるくらいしか思いつかなかったのね、きっと。それでもじゅうぶん奇跡だけど」

「その程度、奇跡でもなんでもないが」

シュユからしたら、たぶんその程度のこと。朱雀に何度かルシが生まれたことがあるというから、実際そうなんだろう。
けれどナツメのように凡庸な人間には、途方もないことだ。

「そういえば、あの男もルシだったことがあるぞ」

「あの男?」

「お前によくついてくる、黒いコートの……」

「ファッ」

ナツメは硬直した。

「なにそれいつどこでどこのルシどうしてクラサメがルシになるのいつそれ私いたでしょそれなんでそんなことになるの誰のせい誰が悪いの誰を殺せばいいの!!?」

「し、知らん」

「知らんってことないでしょおかしいでしょなんでそんなことになるのどうしてなのなんで私はそれを黙って見てたのアホなの死ぬの死んだのああそうね死んだのよね!!ざまぁ!!」

狂人の反応速度で掴みかかられたシュユは困惑しきりに後ずさるが、ナツメは暫し混乱と暴走を続けた。シュユには過去の己にざまあみろと思う神経が全くわからないのだが。一方ナツメは「あなたにまで引かれるのおかしくない?なんなの?私そんな……やばいの?確かにちょっと……ちょっと行き過ぎてるかなー?ってときもあるけど」なんて、ここにナギがいたら確実にぶん殴られるようなことを平然と言い放つ。

閑話休題。

「えー……っと、ともあれ……そうね……私がルシになった経緯もまあ、私にとっては大事だけれど……問題は、あのばけもののことなのよ」

「ばけもの」

「なんか背が高いやつ。金属っぽい……ぬるぬる動く……」

「ルシ同士でなければ確実に伝わらんぞ」

そう言いながらも彼はナツメの言うことを理解してくれたらしい。軍令部がルルサスと呼称していたことを教えてくれた。
ルルサス。浅学なのでナツメには詳しいことがわからないが、また神話かなにかから取った名前だろうか。

「ルルサスって、どうやったら倒せるの?対処法が全くわからないんだけど」

「我々には不可能だ」

「だとしても、私はたぶん次なんてないから、間違いなく限られたチャンスなのよ」

ルシになるのに、一体どれだけ時間がかかったのか。また何億回も繰り返すなんて嫌だ。次があるかなんてどこにも保証がないし。
ナツメはできることなら、今回全て決着がついてほしい。

「……それなら。記憶を見るか」

「あなたの?」

「完全な保持ではないし、誰と関わったこともない。ただ、世界の理を遵守する墓守だった」

だからそれなりに客観的な記憶だと言いたいらしい。彼こそ、ルシ同士でなければ意思疎通できないじゃないかと内心苦笑しながらも、ナツメは続ける。

「……記憶を共有するなんて、可能なの、そんなこと?」

「ルシ同士だからな。……だが、特定の時点を引き出すことはできないし、お前が意図的に“見たくない”と思う記憶でもあるだろう。目を逸らすことも不可能だが」

「……」

目を逸らすこと。それは、ナツメがずっとしてきたことだ。都合の悪いことは無視して生きてきたし、これからもそういう人間であることは変えられないだろう。
でも今はそんな我儘を言える立場にない。ナツメは大丈夫だと頷いて見せた。

シュユが、ナツメがしていたようにクリスタルに手のひらを押し当てる。彼が顎でくいと指し示すので、ナツメもそれに倣い手をもう一度クリスタルに伸ばした。
伝わる振動と、変わらない熱。ゆっくりと流れ込んでくる魔力。その奔流を飲み込むように、そっと目を閉じる。


暗闇の奥、もう一度光がちらつく。


叩き込まれる情報は過去を想起するときに似て、断片的に意識に馴染んでくる。実際の数十倍の速度に思えた。
その中には朱雀像に重なる朝日の白がありセツナのうっすらとした微笑みがあり院長の苦悩に満ちた懺悔がありニンブスの仮面が転がっていて、隣にエースの死に顔を見た。

[ナツメ]はそれを呆然と、シュユの中で見ている。


あの赤い夜が来る。
朝を埋めて。空を割って。


エースの死を見る。

デュースの身体が二つに裂かれ、トレイの足が折られた。
シンクの頭が撃ち抜かれ、サイスの喉笛が裂かれた。
エイトの胴が潰され、ナインの首が飛ばされた。


悲鳴をあげることができない。[ナツメ]は思考の奥で泣き喚くのに、その声が口から出てこない。
シュユがこの惨劇を、ただ見ていたのだと知る。

赤くて黒い空。地平線には海も陸も関係なく、果て無き闇だけがあった。
海には妙に粘ついた、血のような何かが満ちていた。
全ての命を燃やし尽くした残滓のように黒々とした大地には生気を感じなかった。

ばけものがくる。
ルルサスという、ばけものが。

そして。
クラサメの身体が貫かれて傾ぐ。
それら全てを、[ナツメ]は上空から見ていた。

内側から身体が火かき棒で引っ掻き回されるような苦痛だ。細胞一つ一つに至るまで、[ナツメ]は彼らの身代わりになってでも彼らを助けたかった。一つとして、見たくなかった。なのに身体が動かない。シュユの目だけが[ナツメ]のものになったみたいだった。
世界が切り替わる。次の悪夢へ。

先程見た己の記憶には数が及ばないながら、繰り返される惨劇の中で、彼らは何度も何度もかたちを変えて殺されていく。身体を完全に押さえつけられていると、内側で頭が少しずつ狂っていく気がした。
[ナツメ]は彼らを助けたいし、ルシであるシュユなら可能だってわかるのに、シュユはずっと動かない。指の一本も動かせない。でもそれが、いつしかクリスタルの強制と同一であることに気がついた。
シュユだってきっと助けられるものなら助けてしまうんだろうと、思った。それなのに、うまくいかない、繰り返し。

今度はクラサメだけじゃなかった。みんなが死ぬ。
見たくなかった。
狂っていく。
おかしくなる。
感情が死んでいく。
ルシはこんなことを繰り返しているから心が死んでいくのかな、そう思った。[ナツメ]は後から気付いたけれど、シュユは気付いたままで繰り返しているのだから。

そのうちに、ルルサスを見ても、拒否反応が起きなくなってくる。なんのことはない、見慣れたのだ。
誰かが言ったとおり、人間は何にでも慣れる。観察する余裕が生まれる。痛みの消え去った世界で、これ幸いと[ナツメ]はルルサスに見入る。

気がついたことは二つ。
まず第一に、ルルサスは任意の場所にテレポートが可能だった。これは現存の魔法体系では理論上ですら実現不可能な魔法なので、ルルサスは異なった魔法法則に従って動いている可能性が高い。
第二に、どんな人間でもルルサスの斬撃を二回受けると死んでしまう。一撃目で倒れ、動けなくなり、二撃目でトドメ。魔導院を飛び出してきた魔法局局員が死ぬまでの間に騒いでいたのを聞けばどうもルルサスの攻撃はファントマを破壊してしまうものらしい。ファントマを破壊されたら、誰でも死ぬ。ルシでさえ例外ではない。
致死性の高い攻撃にどうやって対抗したものか悩みながらも、ナツメはじっとルルサスを注視した。動きの滑らかさ、緩急のある攻撃、倒し方。
倒すのはそう難しくないということもその観察から知った。

クラサメなら一斬、エースなら三撃、トレイなら二撃、セブンなら三打。
シュユなら一撃、ナギでもニ斬。ナツメなら炎一つか二つだろう。

強いことは強い。だが、独特すぎる間合いと攻撃の緩急にさえ慣れれば、適応はできると思った。

むしろ問題はその後にあった。
ナツメの過去の輪廻の記憶の中でそうであったように、ばらばらに分解されるように崩れ倒れるルルサスたちは、数秒後、例外なく復活してしまった。最初は、驚異的なまでの回復能力があるんだと思った。けれど何度殺されても、ルルサスはゆっくり起き上がる。
0組も候補生たちも、いつもそれに驚愕し、訝しむ間に殺されていた。
復活するのでは、強いも弱いもない。永遠に崩れない壁も同じだ。[ナツメ]がとる戦法と同じ。つまりルルサスというのは、強くてやっかいな己ということか。皮肉にするも、笑えない。

その解決法が生み出されたのは、シュユの最後の記憶でだった。

満身創痍のエースが、不意に、倒れたばけものの身体からファントマを抜き取った。
その死体は元に戻らない。散らばった歯車がさらさらと融けて、赤くほどけていく。

その行先を、[ナツメ]は見つめていた。
ここは最果て、枯れ果てて混濁した意識が元に戻ろうとして、失敗し、すうっと透き通っていくみたいな気がした。透明になる。
どこにもいなくなっていく。
融けていく。
すべてが。

目が、開けられない。
意識が戻れない。どこにもいけなくなる……。


「おい」

千千に解ける[ナツメ]をつなぎとめたのは、シュユだった。ふっと惨劇の世界が掻き消え、[ナツメ]が目を開くと、そこは変わらず霊廟だった。霊廟をかすかに満たす、うっすらとした赤い光がナツメの目を焼くようにすら思えた。

「っは、」

知らぬうちに呼吸をずっと止めていたらしい。酸素を脳が受容した瞬間、くらりと目眩がして膝をついてしまう。
シュユはそれを助けたりはしない。ただそこにあって、これで充分かとだけ無言に問うてくる。

「……」

ナツメはただ、窮し、座り込んでいた。暫時の沈黙の後、当て所無く紡いだ言葉を吐く。

「私たちは、ルシは、あれに立ち向かえる?」

「否」

端的な答えが降る。不可能。
そうか。

そもそもルシが一度でもまともに抗えていたら、こんなふうに壊れるばかりの世界を見る必要もなかったか。
六億の輪廻も、いらなかったか。

「ルシは絶対に逆らえない。ルシは、あの終末に立ち向かってはならない。クリスタルのために戦う、それだけだ。絶対に敵わぬ。殺されるだけだ」

「クリスタルの強制で?」

シュユはそれに、僅かな首肯でもって答える。なんてことか、絶対に勝てない戦いを、億を数えるほどにシュユは挑まされ続けてきたのか。
そしてシュユがずっとそうだったなら、きっとナツメも抗えないだろう。抗おうとして、敵わなくて死ぬんだろう。

「それじゃあ、あの子たちの戦いなのね」

今度は首肯すらなく、シュユはただ沈黙していた。どうするのが正解かナツメは惑いながら俯いた。
シュユはナツメに、話をしにきただけなんだろう。彼はもう用は済んだとばかりに踵を返し、去っていく。

その背中をただ見つめて、ナツメは細い息をゆっくりと吐いた。
大丈夫。まだ、ここからだ。全部ここから。
これから始めるんだ。




考えがだいぶまとまってきたのをナツメが感じている。
あのばけもののこと、六億の世界のこと。ナツメのことも。

まずルルサス。赤い世界の災害の一つにあのばけものを挙げるとして、ファントマの奪取が効果的なのがわかった。これは収穫。あれが現実になってしまったとき―さすがにそろそろあんなのただの悪夢だなんて希望的観測を抱けなくなっている―、ナツメとシュユは少なくとも対処法を知っている。

そして、六億の世界の、ナツメのこと。
これに関しては、ある程度把握できてきた。

ナツメは別段、秀でたところがあるわけでもない普通の女だ。特別なことなどなにもないから、六億の中に一つでも記憶があるなら確定的に全ての世界に存在したと思う。ぽっと出で現れるんならもっと何か、特別な人間でもいいような気がするのだ。クラサメみたいに強いとか、そういうふうに。
やはりナギがいたらお前みたいな普通がいるかよと激怒される話だが、ナツメはそんなこと知る由もないので。

そして、最後に見たナツメの記憶と、シュユの記憶を重ねてみる。
ナツメは、最後の世界においての救いを求め霊廟で懇願していた。クラサメの隣にいるために。

「……」

思い出せ、己に問え。
ドクターはあのとき、こうも言っていた。“六億以上の命を、何に使ったのか”と。
であるならば、ドクターもまた、最初の時点ナツメが毎回存在したことは承知のうえなのだ。それが消えたのはなぜか、ドクターが問うたのはそういうことだ。

「命を、使う……」

言われてみれば、自分はどうにも、そういうことをやりそうな女に思えた。もしも可能なら、悪魔に魂を売り渡して手軽にいろいろ済ませたいタイプだ。愚かである。
可能なのかどうか、今の私にはわからない。が、可能だったのかもしれないと思った。だからもう一度、手を伸ばす。

視線の先、赤く燃えるクリスタルへ。

「ここに、私もいる?」

手の下でどくりと鳴る、鼓動めいた振動を感じたとき、遠くで鐘が二つ鳴った。午前二時、聞き慣れた時報の音のくせに、ナツメはびくりと肩を震わせた。

それから。
帰ろうと思った。
クラサメもきっと、帰ってきてくれるから。







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