Act.47-a:Envy.







???
頭の中を色のない声が駆け巡り[わたし]は命の終わりを知った。不思議なものであんなに嫌悪した男の熱が体温が、死体になってしまえば別段憎いものでもない。心臓のある場所に手を載せて、あのやかましくがなる鼓動が消えていることに安堵して、[わたし]は己を愚かだなと思った。誰にも脅かされないところで生きてきて、それを自分から捨てて、いまさら守られないことに恐怖している。

???
ともあれここに命はもうなく、彼女を脅かした白い指先はいまや黒く変色し意味を根源に還元させている。ただの、死体だ。死体ならばもう怖くない。彼女はそれでようやっと笑う。がちがちに固まったひどい笑顔だった。さっきまで男に見せていたものに、似て。

???
脳天を貫いた自分の悲鳴が、まだ喉の奥に残っている。男の精のような苦さだった。ぶちぶちと何かが切れる音がしている、耳の奥。[わたし]はもう捌け口ではないのに、何をしているんだろうと思った。でも、できると思ったんだ。彼のためなら他の誰に抱かれたっていいと思ったんだ。本当に、[わたし]はそう思っていたのよ。







しばしナギと二人で静かにちびちび飲んでいたが、途中ナギが他の9組の呼ぶ声につられてふらりと去った、夜半の宴会のさらに半ばだ。
ナツメはただ静かに瓶を傾け、喉が乾きを訴えたらそれを口にする。苦い味は好きか嫌いかと聞かれたらたぶん嫌いな部類だが、アルコールが舌を少し麻痺させてくれている。
大騒ぎする連中に混ざることもなくただ静かにそこにいる。ナツメは、こんなふうだ。しずかでおだやか、ぼうっと遠くを見ていることも多いから、言われなければ四課きっての危険人物だなんて思われない。実際、地雷さえ踏まなければ誰にとっても危険ではない。
ナツメはこんなふうだ。いつもそうだし、ずっとそうだった。

「まだちゃあんと生きてるみたいねぇ」

「……そういうことは適当に記憶だけで確認してくれてもいいのに」

「仲間の生存を面と向かって確認しちゃいけないなんて厳しいことねぇ?ひどくなぁい?」

「この国にあんたの仲間はいないんでしょう」

「あっは、そうだったわぁそうだった!みぃんな敵なんだった、寝ない相手は味方だと思うことにしてるからぁ」

「四課としては正しいのかもね」

突然隣に現れた後家がナツメ同様、だらりと壁に身体を預けて笑う。ナツメの近くに腰を下ろすと、じっと睨んだ。

「にしても、ずっるいわあ。あんたずるすぎぃ、四課でも恨みを買ってるわよぉ?四課のくせに、ルシになって、ずっとむかしからの想い人と今は好い仲?出来過ぎで笑えないわぁ、どんな幸運よぉ」

「……やかましいわね。それから、私とクラサメが幸運だったことなんて、一度もないわよ」

「そうかしらぁ?」

後家……エステルは嘲笑うように言って、ぐいと手の中の杯を呷った。いろんな酒がまざっているらしく奇妙な色をしていた。アルコールならなんでもいいという態度が透けて見える。

「四課でハニートラップ要員として五年も仕事をした女を受け入れる男なんて、はっきり言って酔狂としか言えないわあ。クラサメ・スサヤって男は自分の女が寝取られても特に文句のないチキン野郎なわけぇ?それとも、そんなことさえ想定できないようなオツムの弱い、」

「“死にたいのね”」

ひゅ、という僅かな声ばかり漏らして、エステルはナツメが叩きつけたビール瓶を辛うじて避けた。壁に叩きつけられた瓶は酒を運搬するためにかなりの強度のはずなのに、まるで薄氷の如く軽やかに割れ砕ける。

「あ、あんたねぇ、やば、やばんなんだから!!すぐ殺せばいいって考え方どうかと思うわぁ!!?」

「好き勝手に挑発しておいて生きて帰れるっていう思い込みのほうがどうかと思うわ」

エステルはナツメから目を離すこともできずしばしぷるぷる震えていたが、結局のところ暫時の沈黙を選んだ。ちびちび酒を飲み続け、ナツメも無言エステルも無言の時間が過ぎ、結局沈黙に耐えきれなくなったのはエステルの方だった。

「そ、そういえばぁ……全然噂とか聞かなかったんだけどぉ、ナツメは……どういう仕事をしてるわけぇ?ハニートラップ、してたんでしょお?」

ハニートラップ。
字面でいえばさほど危険な臭いはしない語感だ。意味合いとしては、世間一般で言えば色仕掛けで騙し、情報を引き出すことを言う。美人局に発展する場合もある。

ただ諜報部の概念で言えば、関係を持つ→情報の内容あるいは在り処の特定→暗殺の流れを指す。四課で通常発生する任務の中ではかなり難しい部類に入り、担当する課員もそう多くはない。

基本的には短期で特定の相手を騙すのがハニートラップ要員だが、ナツメは白虎に滞在する期間が長いので、一度白虎にいったらその短期任務を複数立て続けにこなして帰ってくるというのがだいたいのスケジュールになる。適当な拠点を作り、作戦を立て一人ずつ殺していく。時には二人同時に騙すこともある。集めた情報は即座に精査し、連絡員を用いて朱雀に送る。人一人騙すのがまず大変なので、なかなかにヘビーな日々になりやすい。

だからナツメが一目置かれている部分も、あるのだ。
相手の情報を探り、好みの女を演じ、関係を持ち、信用させて最後には殺す。一度だけでも時間がかかりひどく手間の多い仕事、当然疲弊する。それを立て続けにこなすのはナツメくらいだ。

「あんたらとそう変わんないわよ。数が多いだけ」

「それだけ多く寝てて、よく嫌にならないわねぇ?……い、一般論よぉ?一般論では、嫌なんでしょお?」

「…………」

エステルはびくびく怯えているくせに熱心に聞いてくる。ナツメは、押し黙る。そして考え込む。
一般論では、か。そんなこと考えたこともなかった。

「なんで黙るのよぉ」

「……二回だけ」

口を開いたのは、気まぐれか酒が滑らせたせいか。ともあれナツメは、至極珍しいことに他人とまともに会話をしている。

「へ?」

「二回だけ、そうね、寝ようかとしたことがあった」

それはつまり最初の二回。運良く成功しただけの仕事。
男の荷物をあさり、家を調べて、ほしいものを集めることができた。本当に幸運だった。

「二回、って……」

「できると思ったの。大したことじゃないと思ってた。でもそれが、迫ったら、もうだめだった」

本当に、ばかだったな、なんて。今更思う。






クラサメの体温と肌の匂いを思い出して耐えようと思った「あったかいね服早く脱ごうね」彼だと思い込もうとした「きれいだねほらこっち見て」必死に彼のことを考えて「ほんとうにきれいだね舐めていい?」浮かべる笑みが固まる「だいじょうぶほらゆーっくりいれるからね見てて」彼の顔が浮かぶ。

僅かな笑顔も。
怒るときの声も。
体温が少し遠い、皮膚の厚い手も。

うん。
無理だわ。
ただそれだけ思った。

無理だったわ。
私には。

ぶちぶちと、

「きっ、あっ、あぁぁぁぁぁあぁぁあああああああぁぁぁぁあああぁぁああああ!!!!!!」

耳の奥、鳴る、千切れる音。

「ヒッ!!?」

あああああぁあああああああああああぁああああああああああああああああああああ!!!

脳天を劈いたそれが自分の声だと知るのに時間がかかった。男があてがう熱を憎み、怒り、恐怖した。突然絶叫した女に、男は酔った目を見開いて驚愕した。そしてそれが、まさしく死相となった。
投射される爆炎は男をただただ深く貫き、がくりと崩れ落ちてこようとするその体をナツメは思い切り蹴り飛ばす。荒い息。悲鳴で焼ききれたみたいに痛む喉。ごろんと床に転がった死体を見下ろし、ナツメはぽっかり空いた心臓の穴を、それからひどく焼け焦げた皮膚を見る。男は何者でもなくなっていた。ただの、死体だ。ナツメは苦い思いで目を閉じる。
そしてひどい後悔をする。できなかったことにも、しようとしたことにも。

耳の奥。千切れる音。
頭の血管が一つ一つ丁寧に指先で千切られるあれ。
ナツメはそれを覚えている。クラサメと出会う前の腐った人生の残り滓は、その音だけが支配している。



その後ナツメはもう一度、なんとかして乗り越えようと同じことをしたけれど、やっぱり無理だった。ぶちぶちと裂ける音がして、またついとっさにブチ殺してしまい、そして悟った。


私には無理なんだ。無理だ。できない。クラサメがくれた熱を忘れられずにいるのに、その熱を溶かしてしまうようなこと。
男の死体を眺めていたら、こんなことはクラサメへのひどい嘲弄になると思った。彼が一瞬でも許してくれたものを、愛してくれたものを、情をくれたものを、ぽいとこんな奴にくれてはいけないと。強烈な嫌悪は全てそこから始まっている。
あの熱が、まだ私を生かしている。あれが消えたら、死んでしまう。だから仕方ない。それは愛の証左でもありながら、身を焼き尽くす毒のようでもあった。
諦めも決着も早い。ナツメはこんなふうだ。

けれど。
それでもナツメが抱いたのは、焦燥だ。

こんなこと四課の女なら下手したら初潮前のガキでさえ軽々とやっていることだ。それが、できない。誰もができることが、できない。そんな人間を囲って、情報を与えるほど穏やかな職場じゃないのはわかっている。このまま四課で生きていくのなら対処するべき問題だ……つまり軽々しくセックスできるようになるか、あるいはしなくても情報がとれるようになるか。

一瞬以上、ナツメは悩んだ。四課で使い物にならなければ、クラサメに危険が及ぶかもしれない。そもそもあんな“手術”まで行っておいて、こんな。どうにか状況を打開せねばと、二つ目の死体の隣に寝そべって考える。危惧が拭えぬ。
そして、どういうとき男が一番仕事のことを喋るかって、「少なくとも寝てるときじゃないよな……」思えばクラサメはあのときすごく静かだった、いつも以上に。あの緑の目で、じっとナツメを見つめていた。真剣な顔で。素敵だった。「いやそんな話じゃない」いま思い出してどうする、バカ。

男がべらべらと仕事の話をするのは、思えばベッドに入る過程でだった。変な話だが、仕事ができないやつほど自分の仕事を重大事のように思っていて、大仰に語るのだ。それしか女を落とす手がないとでも思っているみたいに。
そういえば、腕のいい結婚詐欺師ほど、口だけで騙すと聞いたことがある。

「……本当にできるのかなそんなこと……」

うまくいけば、寝なくても情報がとれるなら、それもまた一つの有力な手段の確立だ。寝ても情報が取れない男っていうのはやっぱり一定数いるみたいだから。

ナツメはそうして彼女なりの手法を作り上げていった。ナギはよく結婚詐欺の真似事と笑うが、最終的に殺してんだから結婚詐欺はもうどうでもよくね?ただの殺人じゃね?というのがナツメの談である。







「二回寝たのね!?」

「話ちゃんと聞きなさいよ」

「二回!!寝たのねぇぇぇぇぇ!!!」

「二回とも手が滑って殺したんだよ聞けよ」

エステルは何が楽しいのか目をらんらんと輝かせながら走り去った。9組に話を流布して回りたいらしいので、あとで適当なタイミングでぶち殺そうと決めた。
ナギが戻ってくる。両手を広げてくるくる回っているエステルを横目に見ながら怪訝な顔で、

「一体どんな餌を与えたんだ?なんだあのフィーバー」

「さぁねえ……よくわかんないわ、アレの考えてることは……」

「お前にぶちのめされたの覚えてないんかね?こいつはあの頃と何も変わってねぇのに」

「やかましいわ」

「いやあ懐かしいよなぁ。クラサメさんを揶揄しただけでかったい椅子で滅多打ちにすること数十回。治しちゃ壊しを繰り返し、最終的にごつい椅子がぶっ壊れたんだから笑えるぜ。俺はこれがギャップ萌えかと思ったくらいだよ」

「やっぱりナギはちょっとおかしいよ、私が言うのも何だけども」

「お前みたいなのはこの掃き溜めにも珍しいってこった」

ナギはまた同じ場所に腰を下ろし、新しい酒を投げてよこす。ナツメはそれを傍らのテーブルの端でこじ開け、ぐいと呷った。
更けていく四課、嵐の前日、夜半のこと。騒ぐエステル、吐瀉物に沈む酔っぱらい、呆れるナギ、疲れ果てるナツメ。
彼らはそんなふうだ。四課は、ずっとこんなふうだ。

感じるこれは安堵かもしれないしもしくは仲間意識なのかあるいはただの同族嫌悪かもしれないが、それでも四課は、ナツメにとって杯を傾けるべき場所だった。
という、ただそれだけの話。





???
頭の中を色のない声が駆け巡り[あたし]は命の終わりを知った。不思議なものであんなに嫌悪した男の熱が体温が、入ってしまえばもとからそうであったみたいによく馴染んだ。しばらく突いて、ゆっくり男は崩れ落ちる。心臓のある場所に手を載せて、あのやかましくがなる鼓動が消えていることに安堵して、[あたし]はその男を愚かだなと思った。こんな子供にあっさり籠絡されて、足を絡め、口から泡ふいて死んでやがる。守られるまでもない、[あたし]は一番無防備な褥の半ばでこそ強いのだから。

???
ともあれここに命はもうなく、彼女を脅かした白い指先はもっといま白くなって意味を根源に還元させている。ただの、死体だ。死体ならばもう怖くない。彼女はそれでようやっと笑みを消す。静かな表情はただただ白く、死体のようですらあった。目の前に転がる男の肌に、似て。

???
腹の底を貫いた鈍い痛みが、まだ身体の奥に残っている。最初は、ぶちぶちと裂ける音が耳の奥に届くみたいで、あんなに腹が裂けるかと思ったのに、いまでは。ともあれ[あたし]はただの捌け口で、毒だ。最初は無理だと思っていたけど、なんてことはないじゃないか。大したことじゃない、大したことじゃない。辛くなんてないわ。本当に、[あたし]はそう思っていたのよ。







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