Act.47




そうして9組寮にナギと共に帰還したナツメだが、割とすぐに後悔した。

「あ〜ナギぃぃー!」

「ナツメもいんじゃーんスカートめくっちゃえ」

「お前何も見えてねぇだろスカートじゃねぇよそれカーテンだよ」

「うおぼぼぼぼぼぼぼ……」

「くっけええけけけきぇああああああ!」

「おぼろぅえっぱー!!」

死屍累々。
意識のある者は揃いも揃って顔が真っ赤で、倒れ臥している者は己の吐瀉物に沈みながらも酒を流し込んでいたりする。死ぬぞ。
控えめに言っても地獄であった。

「ねぇナギ、なんでこいつら放置して私迎えに来ちゃったの?もう死人出てそうなんですけど」

「だって俺がいる間はお上品に飲んでたからよ……」

「学習してんのよこいつらも……」

なんでこんなに死にたいのだろうかこいつらはと思いながらも、ナツメは戦争開始の頃よりだいぶ減った同僚たちにケアルをかけてまわるしかないのであった。
もう慣れたもので、寝ゲロを詰まらせようとしている連中に関しては顔を蹴って横に向ける有り様。

「なあそれ4組的にセーフ?」

「こだわりが無いのが私の数少ない長所だと思ってるんだけど?」

面倒なので、一気にやってしまう。アルコール分解なんてできないし、ナツメがそんなことできたらこいつらは味をしめるだけなのでできなくていいとも思う。

「死にそうな奴はレイズかけてやっから早めに申告することー」

「うぼぁい」

「ねえねえスカート捲っていいのねぇねぇ」

「それズボンの裾な。そもそもナツメスカート履いてねぇし」

「よっしゃああタイガー酒一気じゃああ!」

愚か者どもめ……と舌打ちしながら、ナツメは壁際の比較的綺麗な床に腰を降ろす。ナギがまだ無事なエールの瓶を2つ確保してきて、隣にすとんと座り込み片方を差し出してくる。
飲み口をぶつけて、高い音で鳴らし乾杯。二人ほぼ同時にぐいっと呷る。大して強くもない酒のくせに、脳の奥に染み入って強く揺らすような感覚を引き起こした。やはり疲労が積み重なっていたのだろう。いろいろと、考えることもあったのだし。
その考え事が終わっていないことが懸念事項だが、今日だけ今日だけ。繰り返し、己を甘やかす。

「……ずいぶん遠くまで来たような気がすんなぁ。あとたった二ヶ月で開戦から一年だぜ?一年。怒涛って感じだった」

「よく生き延びたわねーマジで……。戦争が始まった時、まだみんな宣戦の布告見てなかっただろうから戦争ともわかってなかったでしょう。開戦布告、私が慌てて帰ってきた直後で、任務報告の真っ最中だったの覚えてる」

「初っ端から死ぬかと思ったもんだぜ。大変だったー」

「そうだったっけ?」

「主に!お前の脱走を止めるので!大変だった覚えしかねぇな!」

「……そうだっけ」

「お前都合悪いことすぐ忘れんのやめろや……」

ナツメはそんな適当な返事を返しながらも、あの日のことを思い出している。忘れてなんていなかった。

あの日。あの日だ。
開戦の日。
水の月、12日。

くぐり抜けた修羅場の数もそこらの武官とは桁違いのナツメだが、それでもあの日を忘れることはできない。




よく晴れた朝のくせに、やたらめったら暗かったのを覚えている。白虎の空中機動軍の空母や兵器が空を覆い、火の雨を降らせていた。
ずっと白虎に潜り、軍人の知り合いも多かったナツメは、早々に悟っていた。彼我の戦力差は埋めようもないと。敵軍にルシがいたことも、そいつがクリスタルジャマーなんて恐ろしい兵器を操る技師だったことも更に災いした。
どうしようもない。すぐにわかってしまった。いつだって彼女は冷静だ。命と命、二つきり。それ以外一つも失うものがない女だから。

プライドもなにもない。端的に事実を理解した。
魔法の使えない朱雀がどう抗戦したところで、児戯に等しいこと。

もうどうしようも。朱雀は終わってしまう。わかってしまっていた。
ナツメはここには、いられない。

「お前どこ行くつもりだ!?さっさと治療班に回れ、このままじゃみんな死んじまうだろうが!?」

背後で叫ぶナギをちらとだけ一瞥して、ナツメはしかし任務帰りの粗末な背嚢を再度背負い直した。ナギは怒り狂い、顔を真っ赤にしていたが、

「もう何をしても無駄。早く行かないと」

「おい……お前、それ、何言ってっかわかってんのか……!」

ナギはまだ残る一般市民の避難経路を確保するために、ナツメと共に魔導院のふもとの路地を守っていた。暗くなる道の真ん中で、ナツメの腕を掴むナギと彼女は二人睨み合った。
彼の言いたいことは至極単純だ。敵前逃亡など、9組の人間には……否、魔導院に関わる人間、戦闘職種ならば誰一人として許されるはずがなかった。

ナギの立場ならば見逃すわけにはいかない。即刻死罪とするほかない。ナツメを今殺すしかない、彼女は彼にそんな選択を強いていた。

「……聞かなかったことにしてやる。だからそのふざけた口を閉じて、今すぐ、治療班に回れ。これは命令だ」

「聞くと思ってんのか、バーカ」

それでも、彼女は皮肉げに笑った。目の前の、唯一仲間や友と呼べるかもしれない男が己を殺すその寸前に。
ナツメはずっと使用を禁止されていたCOMMを耳にねじ込み、起動した。クラサメを呼び出すためにコードを読み上げ認証を始める。乱戦の最中、COMMはひどく混線していて、なかなか誰にもつながらない。苛立った。

「早く……クラサメ、どこにいるの……!」

「おいふざけんな、クラサメさんまで連れて逃げるってのか!?そんなん無理に決まっ、」

暴挙を許せぬナギが悲鳴混じりに叫んだ、その瞬間だった。
乾いた音が、四発。重なって鳴った。

あ、と息が口から漏れ出たのだけ、ナツメは感じた。

胸に咲く赤い花、一瞬で崩れる膝、倒れ臥した地面のひどく冷たいこと。
次いでわかるのはそれくらい。痛みはなかった。ただ、胸と腹の燃えるような熱と石畳の温度があまりにも違いすぎて、ナツメは困惑する。

と、靴音が振動に鳴って頬に伝わり、白虎兵が近づいてくるのがわかった。そのうちの一人が、ナツメの腹を蹴り上向かせる。破れた背嚢からポーションがこぼれ落ちるのを、充血していく目で見ていた。

「おい、こいつ白虎人じゃないか?」

「裏切り者か、簡単に殺すんじゃ惜しいな。連れ帰って処刑扱いにしたほうがいいんじゃ」

「だがこれからまだ侵攻するんだ、荷物にするには重いだろ」

心臓が送り出す血が血管を通り損なって、胸に空いた穴からこぼれ落ちる。石畳に同化するみたいに、身体が冷たくなっていく。
あ、死ぬ。ただ単純に、事実として察した。

思いの外動かせる眼球を動かして見れば、ナギが目の前に倒れていた。ナギの身体からも、ナツメと同じか、あるいはずっと早い速度で血が流れ出ていく。
ナツメの勘が告げる。あと200mlで、ナギが死ぬ。あと160。  140。

100。

こぼれ落ちていく。
ナギが、ナギの記憶が。

50。

10。

0。

ナギの目から。
ナギの、あの黄金色の目から。

急速に光が失われるのを見た。

その一瞬、ナツメはわずかに後悔をして――9組に入って最初の任務で刺したこととかさんざんっぱら振り回し利用してきたこととかそれでも見捨てないでいてくれたことに対する些少の感謝があったこととかそういえばそれすら言ったことがないな何で私はナギにも何も言えなかったんだろうか、悔やんでいると言い放つには戸惑いがあるけど後悔がないわけじゃないんだ、それから、たったいま見捨てて逃げようとしたことも含めて、私は――、そして、終わりゆく覚悟を始めた。

もう無理だ。ナツメもナギと同じように、命を零して失って、全てゼロになる。

何もかもがゼロになる。声も温度も血も色も全て。
クラサメの声すら耳の奥から消えていってしまいそう。それだけがいやで、どんな苦界でも生きてきたのに。

ナツメは最後、感覚の消え行く腕を必死にナギの方へと伸ばそうとした。ナギもまたそうしようとしていた。
全てが溶けて、無になっていく世界で、二人が何をしようとしていたのか。それはお互いもよくわかっていなかった。今になってなお、ナツメにはわからない。

ともあれ、二人は手を伸ばし。
そしてその時のことだ。

ナツメは、赤く光る糸を確かに見た。
指にその光は絡み、ナツメに力を与えた。

これは魔力だ。血潮と同じく、ナツメの中にずっと流れていたもの。白虎で生まれようがなんだろうが、ナツメに朱雀に立つ根拠をくれるか細い糸。
ナツメに与えられるそれは明らかに少なくて、とても頼りなかったけれど、今ナツメを死の淵につなぎとめる。

ああ。

「ああ」

ああああああああ。

「ああ、あ……あああ……」

魔力が体内に戻ってくるのを、ナツメは感じた。それは血より熱く、身体の中を焼いて焦がす炎だった。ぐるぐると勢い良く体内を巡り巡って、それはすぐに雷になった。そして最後、氷のごとく冷たくなって、混濁する意識に冷水を叩きつけるが如く。
視界が戻る。
ナツメは、命を得る。


なので。それなら。
それなら、話が変わってくるので。

「ケアルラ!!」

「サンダガ!!」

魔力を手のひらに宿したナツメが回復魔法を放つと同時、ナギもまた黒魔法を放った。ナツメがケアルをかけるとわかっていたが故の、捨て身の強攻撃。

「うぐぁああッ!!?」

「何だ突然っ」

「魔人がっ……!!」

ナギの魔法が爆ぜて、二人を撃ち抜いた白虎兵が死んでいく。傷が塞がろうが、血を流しすぎて満身創痍の体で立ち上がり、二人は荒い息を隠すこともなく視線だけを噛み合わせた。血走った目が似合う状況が少し、笑える。

「魔力が戻った……」

「理屈はわからないけど、上向きの状況ね」

「それどころか反撃の狼煙だぜ」

「やっぱり旅行はキャンセルしようかな。さっきの提案まだ有効?」

「旅行?お前にそんな前向きでまともな趣味あったっけ」

聞かなかった振りを選択してくれたナギに皮肉を感じて笑いながら、ナツメはまっすぐ白虎兵の来た方へ向き直った。
これでまともな戦闘になる。それなら五分以上の確率で、自分たちは生き残ると判断できた。あんなものに、ただの人間なんかに、ナツメもナギもクラサメも負けたりしないから。

そしてそこから先は、周知の通り。
朱雀は0組の力によって白虎軍撃退に成功。ナツメたちも生き残り、戦争真っ只中に逃走を図っていた件についてはナギが握りつぶした。
そうやって、彼女たちは日常へと回帰した。騙し、侵し、殺すだけの日々。
始まってしまえば、彼らにとっては戦争など所詮日常の延長でしかなかった。






「……いろんな事があったわねぇ。しみじみ」

「ごまかすなごまかすなお前このやろう」

「生きてんだからいいじゃないもう。ちっさい男だな」

「酷い……お前ほんと酷い……あと小さいは禁句だからマジでうっかりクラサメさんに言えばいいのにそんでフラレればいいのにそしたらマジざまぁなのに」

「急性アルコール中毒にしてくれようか」

「すいません」

酒の失敗は四課にいると割りと身近なので、ナギは謝り押し黙る。あれは辛いわなとナツメも内心ため息まじりにそれを許した。いっそ死にたくなるほど酷い頭痛と吐き気、時々嘔吐。それが延々続くのだからまったく罪深い飲み物だ、酒というものは。

それにしてもと、ナツメは回顧を続ける。

「0組のおかげで魔力が戻って、白虎をひたすら押し返して……あのとき、私たちのことも助けたんだって、あの子達知ってるのかな?」

「言ってないしなぁ、知らねぇかも。でも魔導院も国の人間もほぼ全員、きっと一度はあいつらに救われてんだろ」

「あの時はこんなに関わることになるなんて全く思ってなかったよねぇ」

「ああ。まさしく“光栄だった”ってやつだな。……笑うなよ?俺、あいつらの役に立つとき、生きててよかったって思うんだよ。あいつらはこの世界の誰より、強くて。価値があるから」

「まあ、わからなくはない」

滑稽だとは思ったが、言わなかった。なんにせよそういう生き方だ。ナギにとってそれが重要なことなのは疑うべくもなく、なによりナツメにとってはクラサメがそうなのだから。

強くて、自分よりずっと価値のある人。恋に似た憧憬。自分のために生きられない私たちに許された、数少ない生きる意味。
笑う権利はないし、笑いたくなかった。滑稽ではある、が。


ともあれ、いろいろなことがあって。
それでもまだ二人は生きている。生き延びた。終わらずに済んだ。
だからナツメは、まだ生きたいと思ってしまう。
思ってしまうのだ。

だから。









深夜の深まる頃、クラサメはようやく自室に戻ることができた。

魔導院に戻った直後、0組こそが最大の功労者なので、クラサメも今日くらい水をささずに彼らの思うがままにさせようとした。それで、カヅサやエミナとともに武官たちの酒宴に途中まで付き合って、タチナミが脱ぎだした辺りで0組に顔を出した。彼らの半数程度が寝潰れているのを確認したので、呆れながらも残った数名と彼らを寮に引きずっていった。
そして寮にまで運んだところで、クイーンやセブン、キングといった最後まで意識を保っていた面々が、あとはこちらでなんとかするからもう戻ってやれと言い出した。さすがにこの状況を放置するのはと思ったが、セブンが苦笑して首を横に振った。

「ナギがさっき言っていたけど9組はたぶん……相当大変なことになるって。突発的な飲み会でもナツメは忙しいのに、戦勝記念なんてついたら死人が出かねないから、って……」

「……そうか……」

それなら確かに、4組出身の治療師であるナツメは大忙しになるんだろう。死屍累々におわれる彼女を想像して、少し辟易した。そんなことに巻き込まれないでいてほしい、そう言ってもナツメは肩を竦めて笑うばかりだろうから、言わないけれど。
あれは、クラサメの苦い顔を冗談だと思っていやがる。ひとかけらも冗談ではない、法が国を守ってなければ四課を叩き潰して引きずり出している。その後ナツメのいない残骸など凍っても砕けても知ったことではない。さすがにそこまでは言っていないが、やはり言っても無駄だろう。


もしかしたらナツメはまだ戻っていないのではと思ったが、果たしてナツメは部屋にいた。テーブルに突っ伏し、眠っているかのように見えたけれど、クラサメが部屋に足を踏み入れるとゆっくり顔を上げ微笑んだ。

「クラサメぇ、おかえりー」

どうも酔っているのか、甘えた声を出して抱きついてきた。途端、面食らうくらいにきついアルコールの匂いがクラサメの鼻腔を刺すように漂った。どれだけ飲んだのだと、呆れより先に怒りが来るけれど、酔っぱらいにはどうせ言っても無駄だ。風呂にいれて寝かせるしかない。

「きゃあ!」

さてもう一仕事と抱き上げると、嬉しそうな悲鳴を上げ彼女は笑った。ナツメは酒に弱いのだろうかと思ったが、白虎系は大概ザルだと聞くしどうなのだろう。思えばクラサメは、ナツメが飲酒しているのを見たことがない。その姿を、9組の連中はどれほど知っているのだろうと思って、奥歯がぎしりと鳴ったのを感じた。

五年間、クラサメはナツメを放っておいた。
結局全てナツメが望んだことで、ナツメはたぶんクラサメ以上に気を許せる人間ができた。聞けば否定するんだろうが、クラサメにはそう思う。それはきっと、いいことだ。
一般的にはいいことなのだ。いくらクラサメが友達選びなさいなんだあの連中簀巻にして海に捨てれば問題解決なのかどんな悪影響を受けているのかという話であって云々と思っていたとしても一般的にはいいことなのだ。きっと、たぶん、もしかしたら。

クラサメもしょせん若い男であるということだ。最善と思ったことが大概最善じゃないのもよくあることだ。

ともあれクラサメはナツメの幸せだけを願わなければならない。そうでないなら、クラサメの望むように彼女を縛るのなら……あの日助けるべきではなかった。彼女が望むなら何をしてもいい。望むなら。それが人生だ。
彼女がどう生きて、どう死ぬかは、クラサメが決めるべきじゃないのだ。わかっている。


それでもただ、腹が立つだけ。
あなたのためになんでもする。ナツメが蕩けた目でそんなことを言うたび、恐ろしく間違っていると思う反面で、それならなんでと思うのだ。
それならなんで四課になんて入った。それならなんでルシになんてなった。それならなんで、ずっとクラサメの傍にいなかった?

「クラサメ、どうしたの?」

「……ん?」

「やなことあった?さっきは嬉しそうだったのに」

鋭さのない、少女じみた声音だった。これだけは、少なくともこれだけは……ナツメがクラサメにだけ聞かせる、優しい声だ。
彼女はクラサメの腕の中から白く冷たい手を伸ばして、人差し指でそっとクラサメの眉間を撫でた。
その途端、すっと心が軽くなった気がした。戦争は終結して、もう何もかもが終わった。彼女とのことだって、これから一緒に生きていくならきっといくらでも解決できる。

「なんでもない。もう全て終わったからな」

「……そう!うん、そうなの!」

ナツメは突然、声を荒げて言った。クラサメはわずかに驚いたが、ナツメが楽しそうに笑って抱きついてくるのでまぁいいか、と思った。
なんとか彼女を風呂に入れるところまで終え、ぐったりと二人でベッドに倒れ臥したのはもしかしたら夜明けの方が近いような時間帯だったかもしれない。


床に就いたナツメはものの数秒で寝息を立て始めた。彼女を抱きしめ、クラサメもまた安堵と共に、眠りについて。


翌朝。



燦々と注ぐ陽光に霞むナツメが、窓際で、外を見下ろしている。クラサメはそれを寝起きに見つけた。どうしたのかと声をかける。彼女は答えない。

ただ静かに、きちんと武官服を着て、ブーツも履いて、ナツメは。

クラサメの言葉に答えるのではなく、独り言のように何かを呟いた。

「空が……」

遠くを見るみたいに、目が細められる。白い光に髪も肌も融けて、まるでどこかに消えてしまいそうで怖かった。

「割れる……」

どうしようもない後悔を宿すように震える、彼女の赤い唇が見えた。

ナツメは振り返り、クラサメをじっと見てから、わずかに俯き。
何を言うでもなく、部屋の入り口にかけてあった上着を手に取りさっさと出ていってしまった。

クラサメは急いで身支度を整え、それを追う。様子がおかしい。

もしかしたらルシとして、何かの使命が下ったのかもしれない。クラサメはそれを許容できない。クラサメにとって、悪夢は戦争だけでは終わらない。ナツメがルシなんて宿命を背負ってしまっていては。
戦争が終わったって、次はその宿命と戦わねばならぬとわかっていた。彼女がクリスタルになるのも、シ骸になるのも、感情を失くしていくのも嫌だった。

寮を出て、まだ静かな魔導院の中を走り、ナツメを探した。ホールに出たところで、彼女の後ろ姿を見つける。

彼女は音もなく、魔導院の外へ出ていく。
クラサメもまた、それを追って外に出た。

「おいナツメ、お前どこに……」

異変は確かに、そこにあった。

「行くつもり……で……」

魔導院を出て前庭に出て、ようやく理解できた。何がナツメをここまで呼んだのか。
そこにはシュユがいて、ナツメはシュユの隣に並び、空を見上げていた。

蒼天をゆっくりと裂く、赤い闇。
地平から天上へと伸びる赤い線が少しずつ太くなり、広がっている。空が軋む音がするかとすら思った。

「あれは、何だ……!?」

「クラサメ、0組を呼んで。早く」

ナツメは両手を空に向けて翳し、ウォール魔法を唱える。薄氷にも似た薄い壁が魔導院を覆っていく。
ルシなればこその魔法展開に驚く暇ももらえない。

「何が起きるっていうんだ!?お前は、何を知ってる……?」

クラサメが問うと、ナツメは振り返り、唇を噛んで苛立ち混じりに。

「戦争が終わっても悪夢は終わらない。9と9が、9を迎えたから……あの子達が必要なの!」

混乱しながらも、クラサメはCOMMで緊急召集令を発する。応答はなかったが、向こうでは応答するまでアラートが続くはずだ。届き次第、来るはず。

と、シュユがナツメの隣を通り過ぎて、ウォール魔法の外に立った。
そこに隕石のごとく、注ぐ光。突風にクラサメはつい腕で顔を庇い、そしてようやく前を見て、ナツメの言葉の意味をやっと知る。
悪夢が終わらない。

シュユの眼前に、奇妙な何かが立っていた。長くまっすぐ伸びた足の上に、人間にどこか近い上半身が載っている。全身は薄膜の金属にでも覆われているかのようにつるりと光を反射させ、その上から鎧を纏っているように見えた。
顔にあたる部分も金属製の仮面をそのまま貼り付けたような鉄面皮。表情なんてものはなく、腕が手にしている剣は鉱物をそのまま切り取ったかのような色で、わずかに発光しているようにすら見えた。

クラサメは、オリエンス各地に任務で赴き、数多の魔物と戦った。兵器とも、竜とも、人間とも。
だがシュユの前に立つ“それ”は、そのどれでもない何かだった。姿形こそ人間に近い気がしたが、人間とは大きさがまるで違う。人間の倍近い高さに頭があった。生き物であるかさえ怪しいのに、兵器ともとても思えなかった。
ただ一つ。化物であると、ただそれだけ。

“それ”が、シュユに向けて、剣を振り下ろした。
相手はルシなのに、クラサメは恐怖を感じた。
ルシが負けるなんてありえないのに、シュユに危険が迫っていると思ったのだ。

「シュユ卿!!」

彼は危なげなくその攻撃を回避し、容赦なく腕で化物を叩き潰す。化物はあっさりと潰れ、人形が関節から崩れていくみたいにばらばらになって、石畳に転がっていった。
ほ、と無意識にクラサメは安堵の息を落とした。杞憂だったと思ったから。

だが、数秒も経たないうちに、その人形の関節が自発的に動いて一箇所に集まっていくのが見えた。

なんなんだ、それは?

困惑したクラサメは、とっさに剣の柄を握った。クラサメは戦士だ。ためらうときにも硬直することだけはない。
透き通る青の刀身が一陣、化物を構成する何かを断った。
視界が一瞬広くなって、その後ろから続々歩いてくる化物の群れに気がついた。

全く均一の化物。体躯も色も気配も顔も動きも速度もおぞましさも何もかもが、同じ。

ぞっとして、クラサメは再度剣を構える。そして視界を埋めるべく、また組み上がる化物。
シュユが潰しクラサメが斬った、その傷などなかったことにして化物の身体はパチンパチン音を立ててまた出来上がってしまう。

「クラサメッ……」

ナツメが背後で悲痛に叫ぶ。それを振り払うかのように、クラサメはまた目の前の化物を薙ぎ、崩れ行くのを蹴り飛ばして遠くにやった。
異常な状況下だが、クラサメの脳はこの事態にどう適応するか、そのためだけに回り始めていた。
ピースがあるなら組み上がる。ではピースを壊す。幸いにしてルシ・ナツメのウォール魔法は寿命が長いらしい、化物が入ってくることを防いでいる。
試すなら今。クラサメは足元のピースを剣先で強く叩く。ガシャンと音をたてそれはあっさり壊れたが、その中からぼろぼろと歯車が、留め具がこぼれ落ちていく。

「これは……」

ピースのピース。どこまで叩いても、最小単位に至れない。
三度、四度、五度。
崩れた先が、また歯車。

「クラサメ、それじゃだめだと思う」

ナツメが隣に立ち、地面の歯車を見下ろして言う。

「きっと破壊しても再生され続ける。あの子達はまだなの?」

「呼んでいるが、応答がない」

「みんなまだ寝てるのね……四課も動きがない。あの、間抜け共……!」

クラサメには見せたことのない不機嫌な顔で、ナツメが舌打ちをした。続けざま、有事に役立たない諜報員なんて後で簀巻にして海に捨ててやる、とも呟く。発想が似ていて笑える話なのだが、今は思い至る余裕がクラサメにもない。

それと同時に、背後でホールのドアが開く。

「なんなんだ、隊長ー?まだみんな寝てたのにCOMMのアラートが鳴り響いてうるさいったら」

「エース!!エースエースエース、早く手伝って!!」

ひょっこり顔を出したエースの襟首をナツメが引っ掴み、外に引きずり出す。それからクラサメの足元でまた組み上がろうとする化物の元へ連れてきて、「ファントマ!」と鋭く叫ぶ。

「私には抜き方がわからないの。やって」

「え……、でもこんな、魔導院のど真ん中で、機密違反になるだろう」

「言ってる場合じゃない。このままだと、機密なんて作った人間含めて、私たちは全員死ぬ」

「……は?」

「いいから、早くして。それが特効になるはずなの」

エースは一瞬逡巡したが、結局は即断し、手を伸ばして化物のかけらの上に翳した。すぐに魔力の奔流を感じ、数秒後、化物のピースからエースに向けて、何かが吸い取られるように移動したのをクラサメは見た。
その光は見たことがある。魔法精製を主に研究対象とする同輩が瓶に入れて持ち歩いていたこともあったし、魔法局の職員が運んでいるのを見たことも。

そして光をエースがすっかり手の中におさめてしまうと、クラサメの足元で元に戻ろうと蠢いていたピースは地面に散らばったまま動かなくなった。

ナツメが膝をつき、ピースの一つを指先で弾くと、それはすっと溶けて空気に混ざり消えていく。

「よかった。少なくとも対症療法はある」

「ナツメ、お前、もしかして」

ぼそりと呟いて、数多の化物に向き直るナツメにクラサメは問う。

「こうなることを、知っていたのか?」

ナツメの髪を風が巻き上げる。一瞬の沈黙、帳にも似た気配。
振り返る双眸に感情は滲まずただ柔らかい唇がそっと動いた。

「ごめんね」

ただそれだけ言って、ナツメはまた踵を返し、先を行くシュユを追って歩き始める。
まただんまりか。
クラサメは舌打ち混じりに、剣を抜きそれを追う。

「エース!早く全員を召集しろ!ファントマ要員として各所配置し緊急隊列を組む!!」

「わ、わかった!すぐ集める!!」

悪夢はまだ終わっていない。
見れば空はすっかり赤く覆われて、地平は黒く染まっていた。

……五年前の惨劇とも、トゴレスの消滅とも、ビッグブリッジのあの、音のない殺戮とも違った。
それはクラサメとて見たことのない、静かに迫りくる悪夢だった。







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