Act.26-a
テラスに出ると、空はどんよりと曇っていた。
ナツメの手の中には、あのファイルがある。カヅサのものと、クラサメのもので二人分。カヅサのものが妙に厚いのは問題行動が多いからであろう。とりたてて見たくもないが、きっちり処分するまでナツメはそれを握りしめているしかない。
対してクラサメのファイルは、正直に言って気になる。ナギが言っていた、四課壊滅の件だ。まぁそれを置いても純粋に気になるものだが、だからといってファイルを開く勇気はなかった。自分の過去も現在も押し隠しているくせに、彼のことを彼のいない場所で調べるわけにはいかない。本当に彼を守りたいのなら、彼に嫌われ叱られる覚悟で見るべきだと思う。彼の身さえ守れれば良いのならば。でもそれが、どうしてかできなかった。
今更正常ぶって、何がしたいんだか。ナツメにもそんなこと、わかりはしない。
「エミナ」
ぼうっと考え事をしつつ、探していた彼女の後ろ姿を見つけて声をかける。無人のテラス、エミナは豊かな茶の髪を揺らしてゆっくり振り返った。
「ナツメ?あれ、授業じゃないの?」
「クラサメが何も言わないから、まぁいいかなって」
「ぷ……くく。クラサメくんったら、ナツメに甘いところは変わらないのネ」
「甘くないよ……何度怒られたか」
「そこが甘いのよ。ワタシやカヅサにも、それなりに甘いけどね。最近は0組にも。本当、甘い」
その言い方が妙に気になってナツメは首を傾げる。なんだか嘲るような、そんな雰囲気を感じたからだ。が、エミナはすぐさまいつもの楽しげな笑みを浮かべ、「それで?ナツメがテラスにいるなんて珍しいネ?」と問いかけた。は、と我に返ってナツメはファイルを握る手に力を籠めた。そして胸に抱いて、ぐっと奥歯を噛み締め顔を上げる。
「ナギに頼んで、エミナたちの資料を四課から持ちだしたの」
「……四課の、資料」
「エミナのと、カヅサのと、クラサメの。ちょっとした思いつきだった。このファイルがなければ、四課は証拠がないからうかつにこちらを探れなくなるし、安全策のつもりだった。でもエミナのファイルは、見られなかった。上級権限によって閲覧禁止にされてた」
「へぇ……」
「それで、聞きたいことがある。エミナの、幼少期の空白についてよ」
それは、ナギから聞いただけの話だ。ナツメはぐっと奥歯を噛みしめる。
エミナが白虎の諜報員であろうと、そうでなかろうと。ナツメは彼女に勝てるだろうか。それだけが気がかりだ。勝てなければ、彼女を失う。
「……それがどうかした?」
「エミナは出生の記録さえ、朱雀にない。それは別に珍しいことじゃないけど、問題は、多くの人間があなたを調べまわっているってこと」
「は、……そうなの。なるほどね」
エミナがまとう空気が、変わった。微かに剣呑な色を孕み、ナツメを見下ろすように見た。美人の無表情には凄みがある。誰にも見えない場所で、曇り空の下、二人は静かに見つめ合う。まるで睨むかのような鋭さで。
「遠回りに言う必要、ないよね。エミナは……白虎の諜報員なの?」
「ねぇナツメ、もしかしてアナタってバカなの?アナタが白虎でそう聞かれたらどうする?男だったら色仕掛けかな、女だったらすぐさま刺すんじゃない?」
「……エミナらしくないね。それじゃ、認めてるようなものよ」
「……かもね」
エミナは鼻で笑うようにして、ナツメを嘲った。彼女の言う通りだ。本当にエミナが諜報員で、今も何か任務に就いているのなら、ナツメの行動は愚かとしか言い様がない。自分でわかっている。
でも相手がエミナだから、正攻法以外試せない。無理矢理ここに縛り付けるわけにはいかないので、エミナの気持ち一つしか頼れるものがないのだ。ナツメは彼女に何一つ強要することができない。ある意味では、相手が悪いとも言える。
「こういう秘密が知られるのって、本当に怖いわ」
「でしょうね……わかるよ」
「そりゃあアナタ以上にわかる人間なんていないでしょう。同じなんだから」
「違うよ。全然同じじゃない。っていうか……同じだったら困るの」
言いながらナツメが一歩踏み出すとエミナはぐっと奥歯を噛み締め、あろうことかナツメを睨みつけた。そんなことは今までに一度もなかったので、内心おおいに驚き恐怖したナツメの肌は黒い四課の武官服の内側で鳥肌をたてた。美人は無表情にも迫力があるが、怒りを露わにしても恐ろしい。
「なぁに?自分はクラサメくんに大事にされてて、0組にだって庇ってもらえるから違うって!?スパイのくせに仕事もしないで、かといって完全に朱雀に染まることもできない、ワタシとは違うって言いたいわけ!!?」
エミナは踵を踏み鳴らして叫んだ。髪を振り乱し、拳を強く握りしめて。頬は怒りで紅潮し、元々大きな目は見開かれ、いつも楽しげに空気に載せる声は頬を張るかのような威力をもって。
エミナがここまで感情を露わにしたことが、今までにあっただろうか。慟哭のような、胸の張り裂けるような叫びを聞きながらナツメは思った。そしてナツメもまた、拳を強く握りしめた。
ナツメは彼女のことも、守りたい。
だからここで止まれない。
「そうだよ!!全然違う!!」
一緒になんてしないでほしかった。エミナと己は、全然違った。
「エミナは、仕事をしてないんでしょう。朱雀に染まることができないって言うなら、染まりたいとは思ってるんだよね?私なんかとはぜんぜん違うでしょ?私は白虎なんてさっさと滅べと思ってる、でも朱雀がどうなるかだってどうでもいい、そういう人間よ。白虎の人間を何人殺したかも覚えてなくて、朱雀の人間が何人殺されたかなんて興味もない、そういう人間なんだよ!!」
でもエミナは、朱雀が好きなんでしょう。
決めつけるようにして叩きつけた問いに、エミナは確かに頷いた。
ナツメは違うのだ。クラサメに救われて、クラサメを存在の理由にしてしまって、それ以外どうでもよくなった。それ以外からっぽだった。ナギを殺せなくったって、それは変わらない。どこまでも空虚なナツメは、エミナとは違う。
「あなたはどこにだって行けるんだよ。エミナは、どこにだって……」
「……それは、ここにいてもいいということなの?」
「私は、朱雀が朱雀であることに意味を感じてない。クラサメがいて、エミナとカヅサがいて……そういうことが大事なの。私は、それだけが……」
「アナタは、本当に……ブレないわネー……」
「呆れた顔しないでっ」
エミナが疲れたように口角を上げて笑うので、ナツメは唇を尖らせた。エミナやらクラサメやら、長い付き合いの相手の前ではどうにも子供返りする。エミナはゆっくりと首肯し、深く息を吐く。
「それにしても……今更、四課に漁られるなんて。何もしてないのにネ……」
「戦争になって、内務調査が激化した。みんな知らないけど、もう結構消されてるはず」
「なるほどね。それでいくと、ナツメは危なくないワケ?」
「危ないよ。ナギがいなかったら筆頭で消されてたわ。でも生きてるから、できることをするよ。……エミナは、どうして白虎のスパイになったの?生まれは朱雀じゃないのかな」
「生まれはこっちよ。でも飢餓で村ごと滅びそうになってね……。食事をくれたのは、白虎軍だった」
「……スパイ育成のためね」
「ええ。あなたたちのような、自国の子供を放って……ワタシ達を育てたの。ワタシ達は役に立つから。食事を与えて仕事を教えて、焼き印を入れて……ワタシは道具だった。道具になるように、教育された。朱雀に来て暫くの間は、白虎に報いることに必死だったわ。妙に孤立しがちだったのもあるわネ」
ナツメは知らない頃の話だが、エミナは昔、とても孤独だったという。カヅサ曰く、美人すぎて誰も寄り付かなかったのだと。男はたまに挑むかのように彼女の近づいていったが、エミナに価値を証明できる男はいなかった。女は言うまでもない。
それでもその寂しそうな思案顔が悲しい。
「でも今は違う、でしょう?」
「そうね。クラサメくんやカヅサがいてくれた。そのうち、あなたもきてくれた。そしていまは、0組もいる。ワタシは朱雀から離れられない」
「それだけわかればよかった。私、守るから」
「……ナツメ」
「なんでもする。エミナは目立たないようにしてて。大丈夫、まだ完全には気づかれてない、今ならどうとでも……!」
こういうことが。
こういうことが、あるから。
だからナツメは、四課にいることをそこまで嫌いになれない。四課に忠義はなくとも、憎むこともできはしない。四課にいることで、誰かの危険の防波堤になれるのだから。己がこの先どうなるとしても、彼らの傷つくことのないように。祈るのはそれだけ。
エミナはナツメにもう笑いかけなかった。ただ静かな目で見つめ、逡巡するように口を開く。
「ねぇ。ナツメ。それは、愛じゃないよ」
「エミナ……」
「そうやってなんでも背負って、一人でどうにかしようとする。ワタシの痛みをあなたが引き受けることで、ワタシも苦しい。本当は、自分が背負うほうがずっと簡単なのに、アナタは守ってくれるから……」
エミナは俯いて、首を何度も横に振った。不意にナツメは怖くなる。そうやって悲しい顔をされることだって、ナツメにとっては怖くて仕方ない。
「クラサメくんも、きっとそう思ったんだね。でももうどうしようもなくて、だからずっと苦しいけど耐えたんだ。アナタのために苦しくなって、でもアナタのせいで苦しいわけじゃないから……それなら、同じように耐えるしか、思いつかなかったんだね」
「あ、……え、エミナ……」
「ワタシは、いいよ。彼よりずっと冷酷で、一人で生きていくこともできる。でも彼は?アナタを大事にしていたクラサメくんはどうなるの」
「エミナ……エミナ、わ、私はっ……」
「もう無茶しないで。……なーんて、ワタシに言えたことじゃないんだけどね。助けないでとは、言えないから……」
「……うん。うん、ごめんね」
戦争が、始まってから。
カヅサにもサイスにもケイトにももちろんクラサメにも。そして今、エミナにも……言わせてはならない言葉を、言わせている。
本来なら言わなくてよかった言葉を言わせている。それが苦しくて仕方がないのに、他の方法を採ることができない。
「待っててね、エミナ」
こんなに言わせてまでも、ナツメは方法を変えられない。
目の前でひとりきりの彼女を助けたかった。そんな秘密を一人で抱えて、耐え続けたその想いはいかばかりか。
ナツメは手の中のファイルを強く胸に抱きしめた。ここにもう一冊、加える必要があった。
そして。
数時間が経って。
黒い表紙のファイルが一冊、9組の談話室の暖炉で燃えている。パチパチと火種が跳ねる以外、音も灯りもない部屋でナツメは一人それを見下ろしていた。
「見事にやりやがったな……」
不意に後ろから、呆れたような声が響いて振り返る。炎の赤い光を受けて、金髪をオレンジ色に染めたナギが立っていた。
「私が何をやったって?」
「どーせお前が動くってわかってたからな。文官と武官のリストを持っておいたんだよ。で、ついさっき、思い出せない人間が複数人。しかも、エミナ武官のファイルが消えてるとくれば、答えなんて火を見るよりも明らかだろ。そこの火を見るよりもな」
「物忘れが激しくなってきたみたいね、そろそろ引退でも考えたら?」
「俺が引退したらお前即殺されちゃうだろ」
「あ、そうだった。そんなわけでまぁ気付かなかったことにしてほしいなー」
「まぁどのみちそうなるんだろうけどさぁ……本当、なんでこうも強行突破一点張りかね」
「それしかできないのよ」
生憎、他に方法を知らない。考える脳もなければ、他に行くあてもない。
ファイルの背表紙が完全に燃え、黒い塵が舞い上がるのを見た。ナツメは肩をすくめてみせ、ナギの隣を通りすぎて9組を後にする。
その途中で、ナギが後ろから声を掛けた。
「クラサメさんのファイルは見たか」
「見てないわ。さすがにそこまでルール無用じゃない」
「見てみろよ。お前のその強行突破の結果、あの人がどれほど四課で危うい立場になったか載ってんぞ」
ナツメは一瞬足を止めたが、結局一切返答せず教室を出た。
今は何を言っても、負け惜しみにしかならない気がしていた。
翌朝、0組の教室にて。
ナツメは授業の用意をし、生徒たちが集まってくるのを眺めていた。珍しく十分以上も早く現れたケイトは、ナツメの姿を見つけると大きな目を更に見開いて親しげに話しかけてくる。
「あーおはよーナツメ。どしたの、久しぶりじゃない?」
「昨日はちょっと用事がね」
「ふーん?……あ、ねぇねぇナツメ、昨日今日で魔導院に死者って出たかな?」
「どうして?」
「このね、ぬいぐるみを誰かに上げる予定だった気がするんだけど……思い出せないの。誰だっけなー……」
ナツメの赤い唇が、やわらかな曲線の弧を描いた。
「忘れたってことは、大したことじゃなかったってことよ」
死人は出てないはずだから。
ナツメはそう言って微笑み、それでこの話はおしまいである。
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