Act.43





何かが解決したような気がしたとしても、日常は恙無く誰の上にもあり、受け入れがたくとも変わらずに続いていく。
それはいつものこと。なんとなく釈然としない不快感を伴って、くだらないことに少し笑って、無能な上司に苛ついて、恋人におはようとキスをする、誰だってそういう世界を取り戻してしまう。

悪夢のような緊張感もどこへやらと、二日前と同じ今日。

「……頭痛い」

すっかり意識の隅に追いやっていたけれどそういえば戦争中だった。ナツメは深いため息を吐いて、霊廟に立ち尽くしている。

ルシになってまだ一週間も経っていないというのに、時折雑音めいた感覚が意識をジャックしてくるのを感じている。その奇妙な感覚は、視覚や聴覚のみならず、雨の匂いを感じ取る嗅覚や足が地面に触れる触覚、たわいのない考え事や記憶の奥底にある誰かの淡い笑顔すら搦め捕って、一瞬ナツメを世界の外へと放り出すみたいだった。
究極的に唐突で、徹底的な断絶。

それを辛いとは、ナツメは思わなかったけれど。
この感覚に完全に搦め捕られた時、すべて終わるとわかっていた。
ナツメとして生きてきた人生すべてがなかったことにはならなくても、そこから先は、もう無いのだと。

真空状態みたいな最後がナツメを待っている。
すぐそこで、大きく口を開けて。

立ち尽くすナツメの背後で、やたらと響いて靴音が鳴る。

「何をしている」

「……あなたにはどうでもいいことでしょう。ああ、……でも」

一つだけ知りたいことがあるから、ナツメは振り返った。シュユの無感動な朱い眼は静かにこちらを見つめ返している。

「ルシとして感情をすべて失ったのに、あなたはどうして朱いマントをしているの?0組だったことを、忘れないため?」

「なぜそんなことを聞く」

「それは……、」

なんと表現するべきか躊躇って、一瞬閉口した。自分でも判然としないことだ。クラサメを置いていくのが嫌なのか、クラサメに置いていかれるのが嫌なのか、あるいはその両方か。
けれどいずれにしても、有り体に言葉にしてしまえば同じだと気付いて、顔を上げる。寂しくて、悲しい。この上なく普遍的で、解決できない感情。

「私はまだ、すべてを諦めることができないから、だよ。感情を失くしても、何かを背負ったまま生きられるかどうかは大事なことだと思うから」

シュユは片眉を上げ、しばし考えこむような顔をした。こうして見ると、ルシも無表情なばかりではない。乏しいだけで、起伏そのものは存在していた。

「何かを信じるかどうかは、己が決めることであり、誰かができることを己もできるなどという保証はない。逆もまた然りだろう。何かを守りたいと強く望めば、それが叶うのは必然だ。叶わなかったのなら所詮その程度の望みでしかなかったということ」

「……遠回しでわかりづらいけど、ルシにだって譲れないものはあっていいというわけね。納得したわ」

「応」

冷たい眼で見下ろしたまま、シュユは僅かに頷いた。

「そう。……それが聞けて、よかった。安心した」

先はなくとも、過去を何もかも失うわけじゃないのなら、死ぬよりマシかもしれない。少しだけでも前向きになれれば、それでよかった。

「安心して、どうする。何も変わらない。何も起こらない。粛々と死んで、粛々と生まれるのみ」

「そのさなかに生まれたのだから、他人事にはできないよ。その中に、守りたい人がいるから」

「守れると思っているのか?ルシが?」

それは、言葉尻とは裏腹に、冷たさも何もにじまない、純粋な疑問符で以って形作られた言葉だった。シュユの声に皮肉めいたものは一切混じらず、ただ単に疑問に思って問うたようだった。
ナツメは彼から視線をそらす。それからしばし考えて、

「そのためなら死んだっていい。世界を滅ぼしたって、いい」

他には何も、いらないから。ナツメの答えに彼が納得したかはわからない。きっと答えになっていない。
それでもいいと思った。

「くだらない話をしてもいい?」

「するだけなら、勝手に」

「あなたは、人を愛するってどういうことだと思う?」

その瞬間、シュユは僅かに片眉を上げ、苦いものでも飲み込んだような顔をした。それが妙に表情豊かに思えたので、ナツメはつい少し笑った。

「そんな顔しないでよ。真面目に答えて」

「……真面目に、も何も。そんな問いへの答えは持たない」

「じゃあ考えて。持ってないなら、作り出して」

シュユはこの話の着地点が掴めないらしく、浅いため息だけの返事しか返ってこなかった。
ナツメはしばしの沈黙の後、クリスタルを見上げて言う。

「私は、愛って肯定することだと思う。相手をじゃない、自分を肯定するの。どんなに思い出したくない暗い過去のことだって、それがあったから今があるなら全部正解にしていいんだって肯定する。これからもそうやって繋いでいくから、私はもう、ぜんぶ正しくて、正しいからきっと後悔なんてしない」

誰の否定をも物ともせず、ナツメは終わりへ突き進む。愛は肯定。愛は答え。解けてしまった最終命題。
いまさら疑問なんて生まれない。

「こんな話に付き合わせて、悪かったわね。もう行っていいよ」

シュユがどう思ったかは定かでないし、興味もない。シュユは何も言わなかったし、ナツメも聞かなかった。
だから彼はただ踵を返し、後にはナツメ一人のみが残された。嵐の前の静けさのような、不気味な静寂を感じていた。










「……」

「……?」

ナツメが0組の教室に入るや否や、ナギが片目だけを細め首を傾げた。一体何だと聞き返す前に、ナギはナツメの半歩前までやってきて、手を伸ばしナツメの脇腹を掴む。

「やっぱり……?」

「離してよ何やってんの」

「お前太った?」

ナツメはノータイムノー躊躇でナギの側頭部を薙ぎ払った。

「ぐびゅぅ!」

「しね」

「お前本当怒り狂うまでが早くね!?沸点12℃くらいだろお前!!」

「いや……今のはナギが悪い」

「ああ、ありゃ万死に値するってヤツだ」

珍しくセブンとサイスの賛同を受けながら、ナツメは首を横に傾けパキりと鳴らした。ゴングの鳴る音がした。
そして体感には長い、実際には短い彼の走馬灯は去り、後には屍のみが残される。

「ミンチよりひでぇや」

「大丈夫、こいつのしぶとさは四課でも伝説だから。二十秒もしたら回復しているに違いないから」

「ナギはなんなの?化物なの?」

「類似した何かではあると思う」

0組とナツメが口々に勝手な事を言う中で、いつもどおりマイペースなトーンを差し挟む声があった。

「そういえばさぁ、ナツメってどうして軍令部の命令も聞いてたの?」

シンクであった。
世間話のノリで振るには少々めんどくさい話題を、彼女はナツメに問うた。なぜ今聞く、といったタイミングではあったが、0組はいつものことといった顔をしていたし、ナツメもそのあたりはまあまあ寛容なので暫し悩みながらも考え始める。どう話したものか。

「えーと……めんどくさい話なんだけど、そもそも候補生って軍令部の管轄でもあるの、わかる?」

「うん、わたしたち候補生だもん」

「私も四課への異動までは4組候補生で、それを異動させたって状態なんだけど。軍令部から諜報部に移すってのは簡単じゃないのよ。部をまたぐ異動はそれだけで異例だから、そもそも査問会を開いて本当に適切な異動か会議のうえで決定されることなので、四課としては絶対に避ける事態。そのせいで、軍令部の所属でありながら実働としては四課所属、っていう事態がわりと頻発するのね」

「うわ、めんどうくさっ」

シンクの隣で聞いていたケイトが口をへの字に曲げて言う。
人事というものはどこの世界でもめんどうくさいものなのだろうと思う。そこに、イリガリティーな仕事が関わってくるならなおさら。

「まぁ、四課としては9組を四課に割いてもらって、適度に人員補充してもらってる借りもあるので、そういう異動の仕方をした人間はある程度軍令部の命令を受ける余剰がある、って言えばいいかな。軍令部の機嫌も損ねないでくれって最初に言われてるのよ」

「へえー……なんか、二つ上官がいるってたいへんなんだねぇ。わたしたちで言うならクラサメが二人いるよーなもんかー」

「……いえ、軍令部長と軍令部長がいるようなものよ。クラサメ隊長が二人でも、命令が食い違うことないでしょ」

ていうか今の軍令部長になる前はこんなに軍令部の言うこと聞いてなかったんだけどな、とナツメは内心ひとりごちる。
やりすぎたら命がとられるという程度のことさえ認識していないところが軍令部長の愚かなところで、軍令部長に就任して以降、かなり好き勝手に四課を使ってくれている。ナツメのことに関しても、0組とのパイプは多いほうがいいという課長判断がなかったら、軍令部長はその命と引き換えに命令を撤回させられていただろう。

「軍令部長は命令食い違うんだ!?」

「魔導院の指揮系統で起きるトラブルの二割はそれが原因だからね、本当に」

「五回に一回て……」

「ナギみたいに、最初から9組に連れてこられてる奴らは純粋に四課所属のみになるから、軍令部には対等に喧嘩を売れるんだけどね。無理を言ってもしょうがないんで、軍令部の命令も聞いてるわけ」

「それじゃあ俺らが軍令部をいじめてるみたいじゃねーか?」

「本当に復活が早いな……」

「っていうかね?俺のマントを見てなんとも思わないのかねお前?」

ナギがずいと身を乗り出して、マントを見せつけてくる。仕事内容以上に色が微妙に似ているので気が付かなかったが、ナギの首に括り付けられているマントはいつもの凝固した血のような赤褐色ではなく。

「え?……えええ……?何でよ!?何がどうなったらこうなるの!?」

0組だけに許された、流れたばかりの血のような赤い色をしていた。

「いやね、お前ルシ化したじゃん?それで、元々ろくになされてなかった0組諜報任務をこなせる人間がいなくなっちゃってさー、俺にお鉢が!」

「俺にお鉢が、じゃないわ!節操ないな断わんなさいよ!?」

「何言ってんだよばか、どうせ報告されんなら俺が情報厳選できたほうが確実で安心だろうが。まぁ確かに節操はねぇけど、これも仕事だ諦めろ」

ナギが言い、ナツメは戸惑う。戸惑ったが、それが結果的に0組を守ることになると言われればそんな気もしてくる。
最終的に、

「……流す情報は私にも一応つたえてよね」

ということで決着させることにした。

「いやなぜ俺にそんな義理があるっていうのか」

「できないなんて言わないよね」

「お前が言わせてくれないからな」

「まぁそれはいつもどおり」

そう言って、ナギとナツメが首を傾げた瞬間だった。教室の大扉を押し開けて、0組隊長、クラサメ・スサヤが入ってくる。
お、隊長だ、おはよー隊長、今日も不機嫌そーだな、などと0組の面々から声が上がるが、クラサメはそれに「ああ、」と生返事を返し、視線をさっと滑らせた。
そしてナギの姿を認めると、目を僅かに細める。
本当だったのか、と言わんばかりの様子なので、

「残念なことにえらくマジだよ」

と返事をする。

「心を読むな」

「心なんて読めないよ、クラサメがわかりやすいんだよ」

「ナツメがなんか恐ろしいこと言ってる……」

「しっ、見ちゃいけません!」

クイーンがエースの口を後ろから慌てて塞ぐ。クラサメは0組の雑多な声をため息一つで黙殺すると、僅かな靴音をたてて教卓の前へ進み出る。後ろからついてきたトンベリはナツメをじっとにらみながら、クラサメになにやら書状を差し出す。

クラサメめ、トンベリに芸まで仕込むとは。ナツメは内心唸った。
それぐらい私でもできるのになぜトンベリにさせるの!という心の声がナギには聞こえていたらしく、ナギが隣で吹き出すのを聞いた。

「おまえたちにまた作戦が発布された。白虎軍の追撃に際し、有事に備え候補生も待機することとなる。今回は1組と2組の合同任務なので、指揮は彼らが取る。お前たちは後方に待機し、遊撃隊として動くように」

「あー、クラサメ隊長?」

ナツメはさっと手を上げて、首を傾げる。

「ルシの出撃はありますか」

「……それが知りたいならお前は軍法会議に顔を出せ」

「だってシュユ卿がルシはそんなことしなくていいとか言うんだもの。……まぁ、クリスタルの命令はなさそうだから、好きに動いていいのかな。ナギ?どう思う?」

「四課的には今はやめとけってのが回答だな。秘匿大軍神のおかげで、皇国軍は一掃されたも同然だ。師団と呼べる敵がいない以上、ルシの力を使うより1組や0組の方が圧倒的に戦場では有利だ」

「……ふうん。じゃあやめとく」

ナツメとしても、戦場に出たい理由はない。そう思って壁にもたれかかる。クラサメは目を細めたが、ナツメは肩を竦めて返した。

クラサメなら出るだろうなと思った。クラサメがルシで、自分が出ればそれでも被害が減ると思えば戦場に出るのだろうなと。
けれどクラサメはそれをナツメに求めない。ナツメはそれがエゴであることを知っているし、クラサメの唯一ゆらぐ“正しくない”心だと知っている。

その正しくなさを愛と呼ぶなら、ナツメは己を肯定しよう。
クラサメもそうできるといい。正しくはなくとも、間違ってはいないのだと。




ブリーフィングは明日の早朝であること、終わり次第セトメ地区に向かい朱雀軍と合流することなどを簡潔に話して、まるでついでのように課題の返却をしクラサメは教室を出ていった。
再提出を命じられた数名が上げる悲鳴を背中で聞きながら、ナツメはナギを置いてクラサメを追う。

「クラサメ」

「……何だ?」

一拍置いて振り返る彼の顔を見つめ、ナツメは一言、

「私が出撃しないほうが、うれしい?」

と聞いた。

クラサメは暫時、沈黙した。視線をナツメの足元にやり、どこか透き通るような微妙に焦点の合わない目で何事か考えているようだった。

「……私を、隊長として失格だと思うか。0組が出撃するなら、その役に立つものはなんでも戦場に配置するべきだと、そう思っているのは確かだ。しかし」

「はばかられる?」

「心を読むな」

ナツメは彼の顔を見つめ、僅かに笑った。

「でも、うれしいから、もうどっちでもいいよ」

「何がうれしい」

「0組よりちょっとだけ、私を優先してくれること」

そう言って彼の横を通り抜ける。
振り返るとクラサメは、わけがわからないとでも言いたげな顔をしていた。
わからなくていい。間違いは間違いとして謗られるべきだというのなら、そういうところが好きだと笑おう。

二日前までと同じ今日が、きっと明日も続いていくと思う。
でも生きる自分たちが、二日前までとは違うのだということを、骨身にしみてナツメは知る。
五年前のことを、真実を知っただけで、世界は少し変わってみえた。四課を恨み続けても、きっとその憎しみは、これまでナツメが全方位に抱いてきたものよりずっと小さくて、ずっとわかりやすいものだと思うから。少なくとも、重荷は減った。
かつて己を愛してくれた彼らが安らかであることを祈る余裕は、今まではなかった。彼らもきっと、できるだけ己の参戦を止めるだろう。エゴをエゴとして愛する強い人たちだ。
そう思うだけで、救われている気がした。






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