Act.42-b:Still breathe.
道すがら、二人は奇妙な気分を味わっていた。
夜半に飛び立つ鳥を見た。暗い海の潮騒の音を聞いて、遠くに雪崩の気配を察し、空気に馴染むような互いの存在を感じた。そのどれもが、これまでそうなかったことだったのだ。
いつも何かに追い詰められているナツメはもとより、戦いに生きたクラサメもまた、そういった世界の移り変わりをそこまで認識する暇がなかった。笑ってしまいそうな話だが、戦争が片付きそうな段になってようやくこの距離の価値を理解できたのかもしれない。
今覚えなくていい感傷だ。彼ら自身、それはよくわかっている。
それでも、思う心は、止められるものではないから。
「……ねぇ、何か話してよ」
ナツメが妙に甘えたような声を出した。久しく聞かない声音だと思った。
自分たちは戻ってきている。五年前、全てが変わったあのときに。
「何をだ」
「例えば……昔の話とか……」
「そうか、ならファブラ協定について講義でもしてやろうか」
「違う違うそうじゃなくて」
我ながら珍しい冗談に、ナツメは喉の奥をくっと鳴らして短く笑う。
妙な話だけれど、こんな時間ですら久しぶりだ。彼らは両方とも会話を好むタイプではないから、二人きりで無為に時間を過ごすことすら少ない。だから、ただ懐かしい。
二人とも、普通に成長して普通に武官になれていたら、もっと違う関係性もあったのかもしれないなと、無駄なことを考えてしまうほど。
「……私達の話とか。あの頃の、こととか」
「……本当に、そんな話がしたいのか?」
「うん。思い出したいから。今ならできるから」
無意識下で結ばれた、それは二人のタブーだった。クラサメは視線を落としながら考える。
あの事件以降、過去のことは誰にも話すまいと生きてきた。一言一言喋るたび、必死にこらえて掴まえた記憶とも呼べぬ寄す処までもを失ってしまいそうだったから。
それはナツメに対しても例外ではなかった。そも、彼女とはあれ以降会話の機会さえそう多くはなかったが。
「あの頃か。私は1組で、お前は4組だったな」
「うん。たまに任務に一緒に出ることもあったね。……でもね、あの頃戦争はなかったから、私、看取った数より殺した数のがすごく多いんだよ」
「それは、私も同じだ」
「クラサメの場合は桁が違うよ。事情も違うしね。あなたは、本当に多くに勝つから、多くを守る。私とは根本的に違う」
ナツメがどうなりたかったか、クラサメは知っている。彼女はそれこそ0組のような、強い候補生になりたがった。
ナツメはクラサメの顔を見なかった。表情は特に無いのに、なぜだか彼女が泣きそうに見えた。
けれど、きっと泣かない。昔からそういう子供だった。どんなに痛くても、苦しんでも、涙は流さなかった。
それをまるで信条か何かのように信じている彼女を、あの頃に止めておくべきだった。泣かない少女はそのまま成長し、泣けない女になった。
「(……こういうところが、とても)」
憐れだ。生まれた瞬間、彼女はそういうハンデを負った。けれど、憐れむには、彼女は強い人間だった。だから誰も、彼女を可哀想に思わない。
それなのに、クラサメは彼女を守りたいと思った。
あの細い木枯らしの身体を知っているからか。十年前を思い出しては、逡巡してみる。それとも端的に、愛しているからだろうか。
ナツメにああ問うておいて、自分自身、よくわからない。本当はそれでいいのかもしれなかった。それでも隣には立っていられる。
されど人間だから、クラサメは答えを知りたがった。答えがないと、愛している資格も許されないような気がして。
彼女とともに、夏の終わりのビッグブリッジへ向かっていく。焼け焦げた大地は、未だにほのかに燻ぶる煙が見えていた。
白虎の兵器が放つ砲弾は、よく燃える。冗談ではなく、何ヶ月も発煙することがよくあった。
「この辺りだよね?」
「ああ、そのはずだ……」
「確か、森のすぐそばで……」
クラサメも、全く覚えていないわけではなかった。
度々の侵入を繰り返す白虎兵の掃討任務。大した仕事ではなかった。四天王を全員配備したのはきっと演習を兼ねているからだろうと思っていた。
あれは冬の最中だった。辛うじて朱雀側だったこちらでは、雪は降っていなかった。
昼間なのに薄暗い森の奥で、あの事件は起きた。
「……ここだよ」
森の入り口、獣道の轍に立って、ナツメは呆然と呟くように言った。隣に立ってみれば成程、確かにこの辺りを通った気がする。
「ここを通って、……奥に入ったの」
「北に三百、西に五百か」
「よく覚えてるね?そう、その辺り」
カウントは歩数だ。
平地ならば大したことのない距離だが、森の中となると事情が違う。
それだけ木に隔たれれば、分厚い壁が横たわるかのように視界はゼロになる。
ナツメと二人、周囲への警戒を怠ることなく真夜中の森の奥へ進んでいった。さすがにあの時のようなことは起こらないだろうが、普通こういった森には得てして多くのモンスターが潜んでいるものだ。
パキ、とクラサメのブーツが足元の枝を踏みつけて折ったとき、後ろでナツメが「あっ」と小さな声を上げた。
慌てて振り返ると、彼女はクラサメの背後の虚空を見つめて硬直していた。わなわなと震える唇が、言葉を形作る。
クラサメに読唇術の心得はないが、"×××”と呟いたのがわかった。×××の魔力の残滓だ、と。クラサメは慌ててナツメに手を伸ばす。けれどそれより早く、ナツメの手が動いた。
ナギ・ミナツチから受け取った、手のひら大の革袋。その中から掴んだ灰を、視線の先へと投げつける。
黒い灰が舞って、一瞬だけ光が乱反射した気がした。そして直後、ぼんやりとした黒い人影。
水に垂らしたインクが濁って残像めいた跡を残して揺らめくのと同じ、そんな印象。それが誰の影なのかはわからないが、文字通りここにいた誰かの残響なのだろう。
『――いいか―オレが全部済ませる。お前は回収だけ――まするんじゃねぇぞ――』
こちらを振り向いて、影は楽しげに話しかけた。聞いたことのある声、そんな気がした。
「×××……?」
つぶやいてから、己の声だと知る。振り返るとナツメが、唇を戦慄かせて頷いた。直感どころではない、ただそう感じただけだったが、確かにこの影は×××のものらしい。
『俺はへまなん―――い、あんたこそ―――と殺せるん―ろうな?』
そして、ナツメとクラサメの僅かな間をすり抜けるように、小柄な影が前へ進む。それが誰だかはわからない。ナツメに視線をやると、……彼女の顔ははっきりわかるほど、青ざめていた。
「あああ……ああ、これ……クラサメ、私、」
「……進もう。考えるのは、全て見てからにするべきだ」
「う、うん、そう、そうだよね」
×××の影は真っ直ぐ、木々の間を歩いていく。クラサメはナツメの腕を引いて、それを追った。しばらく進むと、突然木々がざあっと開けて、日差しの降るぽっかり開いた空間に出る。と、×××はさっと両手を上げ、『や――遅く―ったねぇ皆さん!』と声を上げて、突然、影が崩れるようにふっと消えた。
地面が黒い。焼け跡だろうと、クラサメにも見当がついた。
「ナツメ、もう一度」
「うん」
委細を伝えずとも、ナツメはクラサメの意思をいつもどおり完璧に汲んだ。
ナツメはクラサメが望んだ通り革袋に手を差し入れ、また灰を撒いた。宙を舞う灰はまた黒い影を形作る。
そこに映る景色は、先ほどまでとはまた違っていた。
「く、クラサメ……!これは……」
「ああ、あの瞬間だ……!」
××××が倒れ臥している。
××が武器を構えている。
×××が、クラサメに武器を向けている。
ナツメは、動けなくなっていた。
その確かな過去を見つめて、クラサメは静かに足を動かした。ゆっくりと向かう先には、過去の己。クラサメがそこに立つと、突然に終わった“あの時”の続きをなぞるような、しっくりくる感じがした。
ナツメも呼応するように、静かに己の場所に立つ。かつて立ちすくんだあの日、立っていた場所に。
『―ラサメから離―てッ!!……ナツメ、こっちに来な』
「××……」
××の言葉に従って、ナツメはおずおずと××の影の方へと向かう。それと同時、×××の手元から破裂音が響いた。
「うぐッ!?」
突如走った肩の痛みにクラサメは驚く。それはナツメも同様だったらしく、「クラサメ!!」と慌てるような悲鳴が劈いた。彼女がこちらへ来ようとした、その拍子に、ナツメの手の中から灰がこぼれ落ちる。風に煽られて舞い上がって、彼らの体に血肉さえ与えた気がした。
それくらいはっきりと、彼らの顔がよく見えた。
あの時のことを、クラサメも思い出す。
その記憶を繰り返して、世界が巻き戻った。
そこには××がいて、×××がいて、××××がいて。
二十一歳のクラサメと。
十六歳の、ナツメがいた。
森に入ってすぐのことだった。今日みたいに薄暗くて、ぞっとするほど冷たい空気が場を支配していた。
×××、彼が××××を突然背後から焼いた。絶命必至のその攻撃を受けてなお耐えている××××は、倒れ臥してあまりのことに動けずにいた。
わけがわからず、反応はクラサメが一番遅かったと思う。それでも確かに即座の反応で、××はすぐさま応戦していた。
けれど。
今でもしっかり覚えている、四天王に数えられるようになったのは××××と×××のためだ。二人は強すぎた。歴史を何度塗り替えたかしらないくらいに強かった。××の回復魔法も郡を抜いていたけれど、それでもこの二人が最強と呼ばれる二人だった。そこにたまたま××とクラサメがいたから四天王などと呼ばれるようになった、それが経緯。
だから、つまり、クラサメでは×××に敵わない。その瞬間、そういう判断ができてしまった。そのことが、あるいは命運を分けたのかもしれない。
炎が、渦巻いている。その炎に対して、最初に打ったのは回避行動という防戦の手段だった。だから、ちょうど中間地点にいたナツメに手が届かなかった。
『ウラァ!!』
「きゃあああッ!!」
炎が、文字通りナツメを突き飛ばす。ナツメは爆風に呑まれて、木の影に転げるように倒れた。
それからはただ、大惨事だ。
××は風魔法で対抗しつつも全員の回復を担おうとするため、追いつかない。
白虎兵なんていなかった。そのことに気付いたのは、終ぞ全てが終わってからだ。
×××のジャックナイフが、クラサメの氷剣をあざ笑うかのような速度で空気を裂きクラサメに迫り来る。
避けることは難しい、それならば避けない。クラサメは反射的に、肘を使ってナイフを巻き込んだ。
左腕は犠牲になる。わかっている。両手で剣を持つ戦闘法のクラサメだから、もうろくな攻撃はできない。それでも、何の犠牲もなくこの男は倒せない。
己では×××に敵わないと、知っているからこそ。その判断が……命運を分けた。
それを援護するように、××が×××に足払いをかけた。ナイフを手放せない×××は体勢を崩す。
クラサメは、それを追撃しようとした。けれど。
「やめて!!」
クラサメたちの間に体を滑りこませた者がいた。
それがナツメだった。
ナツメは、今、十六歳の彼女としてそこに立っている。
『ナツメ……!どいて!そいつはもう味方じゃない!!』
「そんなことないッ!だって×××ならもう私達全員殺せてるはずだもん!!」
××は一瞬面食らうように喉を詰まらせた。
ナツメがそんなことを言うとは、クラサメも思っていなかった。
けれども、それは確かでもあった。そもそも×××は隠密に長けている。××××を背後から急襲できたのだから、同時に全員殺せるのは当然のことだった。
×××は、ナツメの後ろでゆっくり立ち上がる。××××が、焼けた手で地面を引っ掻いた。『ナツメ……!』次に何が起きるか、きっと彼が最初に気付いたのだろう。
『……はは、もうナツメはばかでかわいいねえ。ばかな子ほどかわいいもんねえ』
「×××……?」
『でもそれは間違ってる。そいつらはさ、朱雀で生まれて、朱雀で生きて。生まれながらに、オレ達とは違うんだよ。なぁナツメ、本当はわかってるだろ?』
「そ、んなこと、……」
ないとは言い切れないようだった。ナツメは口ごもって、立ち尽くしている。
『ナツメ。こっちにおいで。お前は死ななくていいんだよ。オレが大事にしてあげるから」
ナツメは×××を振り返り、静かに一歩踏み出した。
「ナツメ……ナツメ、だめだ……」
「……ごめんね……クラサメ……」
俯くナツメの腕を引く、×××の顔が、一瞬苦痛に歪んだ気がした。
そして次の瞬間、炎が炸裂する。他でもない、ナツメの手の中で。
『ぐ、うっ !?』
「あぐぁッ!!」
ナツメもまた反動で弾かれたが、転げる寸前×××がナツメの腕を引っ掴み、クラサメの方へは辿りつけなかった。
×××は怒り狂う形相で、ナツメを引きずる。
『てめッ……この、くそがき!!』
「私……あなたについていけば、幸せになれると思う」
ナツメの言葉に、×××の口がぽかんと開いた。クラサメも呆然と、ナツメの顔を見た。
「でも、今の、まだ幸せになってない私が、それを許せない。だからあなたを殺して、一生不幸になったほうがいい。あなたはもう違うから。“どこで生まれたか”なんて、私達の中には必要なかったはず。生まれがどうだって、私達が私達でいることには関係ない!私は、こちら側を選べるよ!!」
『……へえ……。じゃあいつまでオレの傍にいるんだよッ!?』
「あ、がッ」
×××は、ナツメを突き飛ばす。ナツメはなんとか転ばずに耐えたが、肩を押されたせいで半身になって×××に半ば背中を向ける形になった。まるでそれを逃さないように、×××はナツメの背中をナイフで斬りつける。一瞬炎が舞ったかと思ったら、すぐさまそれは小爆発になった。
かつての少女だったナツメが描いた軌跡通りに、ナツメは完全に宙に浮く。クラサメはあの時同様慌てて手を伸ばし、彼女の体を懸命に受け止める。あんな至近距離で爆発を起こされてしまったら一瞬でも彼女は凄まじい速度をその身に受けたはずだった。だからクラサメの集中は一瞬ナツメに割かれた、それは当然のことだった。
その後に起きたことも、そう思ったら当然だったのだろう。
ナツメを庇うクラサメに向かって降ろされる刃を、全身で払いのける女があった。
「××……ッ!!」
『ぐ、ひゅ、ぃ』
腹部を深々と貫かれた××の声は、今にして思えば潰れた蛙のように滑稽で、でもそんなこと思う余裕はなかった。××の指先が光を灯し、ふい、と微かに宙を描いた。
緑色の光だった。候補生なら誰だって、それが回復魔法のものだと知っている。
クラサメはそれを、××××か、××を治療するためのものと思った。
だって今明らかに重傷なのは彼らだったから。
あの時もそう思った。そして、五年の月日が過ぎた今でも、とっさに同じことを思った。
けれど、そうはならなかった。
××の魔法は、ナツメを包み、クラサメを包んだ。二人の傷が、癒やされた。
意味はわからなかった。
『……ぃ、っしょに、――ら、あの子を――』
勝機を狙うなら××××を生かすべきだし、そうでなくとも今×××のナイフを捕らえている××のほうがクラサメより優先順位は高いはずだった。
それなのに、××はクラサメの腕を治し、ナツメを炎から遠ざけた。
このときも、今も、わからないことばかりだ。けれど今だけは、一つわかることがある。あの頃にはわからなかったことだ。
××は魔法を放った瞬間に、何事かをつぶやいた。それを聞いて、×××の目がみるみる見開かれ、唇がわなわなと震えたのが見えた。
『……どうしてこうなっちゃうかねぇ。だから言ったんだよ、オレ一人でお前らに勝つなんかどだいムリっちゅう話だよ、ってさぁ……ねえ?』
「やだ……×××……!」
何がどうして、こんな。
そう思いながらも、クラサメはナツメを押しとどめ、ナツメはその腕の中から手を伸ばす。
これは過去だ。そう己に言い聞かせないと、クラサメも彼らを助けたくて仕方なくなる。五年前、クラサメには何も出来なかった。今の己なら、きっと諦めなくてもいいのに。
これは過去だ。
いくら自分たちがその世界に巻き戻ったって、見えない壁が阻んでいる。
『精一杯優しくしてみたのに、やっぱアレだね、拾った恩ってのは裏切れないもんだね。……まぁそりゃーオレも同じだし、しょうがねぇか……』
×××は、絶命寸前の××を抱き込むようにして笑った。どこか諦めたような笑みが空恐ろしい。
そしてクラサメは気づく。どう考えたって、まだ×××に有利な状況。
このあとどうして、己とナツメは生き残った?
はっと思い返してナツメを更に強く引いて己の後ろへ押し込むクラサメを見て―過去なんだから錯覚に違いないけれど、本当にそう見えた―、×××は目を細めた。
『……それでいい。お前らはそうなるべきだった。そのためにあの日があって、オレたちはお前らと生きてきたんだ。だから』
魔力の奔流が目に見えるほど濃くなって、×××と××の間を埋める。今のクラサメから見ても、あり得ないほど強い魔力。
『だから、お前らは連れて行かない』
その後何が起きたか、クラサメには見えていた。
×××が、××との間に、メテオ魔法を小規模爆発させた。当然、大規模な引火が巻き起こり、そして。
ナツメと彼女を庇うクラサメ、この二人だけを残して、四天王の三人は×××の最大級の炎に、呑まれていった。
そして最後の瞬間。
それは突然のこと。
ナツメが腕のなかで、「あっ」と声を上げた。見ればそこには、人間が一人いた。
木の影に隠れ、こちらを伺っている。
その小柄な影は、おそらく先ほど×××の後ろをついて歩いていた人間だろうと思う。見覚えのある少年。金色の髪と、映えるヘッドバンド。
それは、ナギ・ミナツチだった。
ふっと、影が立ち消えた。受けた痛みも、熱風も、何もかもなかったことになっていた。
ただ、地面に焼け跡が残っている。それだけ。そこにいたはずの三人も、木陰のナギも、もう見えなくなっている。
「……ナツメ、大丈夫か」
返事はなかった。見ればナツメの顔は真っ青に青ざめ、地面だけをじっと見つめている。それでも、何度か体を揺すると、わなわなと唇を震わせながら視線をゆっくりと上げ、定まらない焦点でクラサメを見た。
「く、くらさ、クラサメ、わ、私の、私のせいだった……?」
「違う、落ち着け!」
「私のせいだった!私が邪魔しなければ××も××××も死なないで済んでた!!ぜんぶ、全部私のッ……!」
「だから、それは違う……ッ!!」
クラサメにも、そう思う理由を説明できない。けれどそんな気がしていた。どうあっても、結局はああなった。そんな気が。
そう伝えようとした、けれどそれよりはやく、妙な光がナツメの足元を照らしているのに気がついた。
それは、ナギ・ミナツチに手渡された、あの革袋だった。ほとんど零れた灰の中から、赤いような白いような光が漏れている。
クラサメがつい、手を伸ばして灰を払うと。
「あっ!?」
「これは……!」
真っ赤な光が空間を埋め尽くして、耳の奥が、圧迫されたみたいに痛くなった。
「これっ、ファントマ……!!?」
ナツメが叫ぶように言う。
それから、暫時の空白があった。
『――……ちくしょう。何でオレが死ななきゃならねえんだよ。何で……何で××××と、××と、オレなんだ?何で……四課は、どうして……』
その声は、光から聞こえた。
×××のものだった。
「……四課が命じたのは、なんだったの?」
異様な光景だったが、ナツメはその光が×××であると思っているかのように問いかけた。
呆然としているクラサメをよそに、光は言葉を返した。
『四天王が……力を持ちすぎているのも、理由の一つなんだろなァ。オレらが裏切るのも可能性としてあるわけでさ……だから、まだ魔力の薄れる前に、年長さんの三人のファントマを回収しときたいって。でもそれふつーオレに言うかよ?』
クラサメは言葉を失った。
自分たちはもしかして、とんでもない勘違いをしているのではないか?
年長の三人。思い出す、四天王壊滅時の年齢は確か、二十四、二十三、二十三、二十一。
二十一が、クラサメ。だから、つまり、これは。
×××が裏切り者であるのなら、標的は残りの三人だと思っていた。
けれどこの光が発する言葉がもし真実なら。だって実際、生き残ったのはクラサメだけだ。
背筋がひどく、冷える。
『あれだけ朱雀に尽くしてきてさあ……オレ、いつでも白虎に寝返ること、できたのに。ああもう裏切ればよかったよ。お前を連れて、寒いところに逃げりゃよかったなぁ……』
「……私は、こうして裏切られるって知ってても、寒いところにはもう戻りたくないよ」
『ははっ、じゃあしゃあねぇなあ。そうだよな、お前クラサメのこと大好きだもんね。離れないよね。オレと一緒に来ようとするなら殺してもよかったけど、そうじゃないから連れて行かないよ。自分を救った人間を裏切るようなら無価値だけど、お前はクラサメを何が何でも守るだろ』
はっとして、クラサメは×××の声のするほうを見た。そこには確かに誰かがいるような、妙な気配がした。そしてその誰かは今、きっとクラサメを見ている。
『言い訳になるけどさ。四課に目をつけられたらもう死ぬしか無いんだ。絶対に。オレも××も××××も、もう終わりだったんだよ。お前だけでも、生きてくれてよかった……』
「そんな、ことを……!!」
今更吐かれた妄言に、頭が痛くなってきた。
一言話してくれたなら。クラサメもナツメも、他の全てを捨てたって、きっと四課に抗った。
……だからか。
クラサメは思う。
だから、この男は、せめても己とナツメを守ったのか。この世界に、在った証に。
『まぁ、デモ、それなら、オレの―――叛逆――っと意味は―――』
「×××?おい、×××!」
「もう、限界なんだね……」
ナツメが呆然とつぶやいた。不思議なくらい、この奇妙な光のことを理解しているように見えた。
『いいか――ナツメ。オレ―たいには――るんじゃねぇぞ……!』
そして、光は静かに収束を始める。数秒かけて、空気に溶けて、後には森のなかの静けさとナツメにクラサメだけ。
光がなくなれば、そこには夜半の暗闇が横たわっていたことを思い出す。冷たい風が、ナツメとクラサメを裂こうとするみたいに通り過ぎていった。
呼吸の音だけが互いの耳に届く、そんな冷たい森の奥で、暫しの沈黙。最初に口を開いたのはナツメだった。
「私の記憶が、これは全部真実だって言ってる。……どうしよね」
「本当のことだったとしたら……私達は、今まで……」
「とんでもない遠回りを、五年も続けてたってことになるね。……はは、笑うしかない」
直球に、全力で、四課を叩き潰すべきだった。それで殺されても文句のないふたりだ。
でも、あんなものを見せられた後では、それもできない。自分たちを生かすために、この三人が死んだんだとしたら。
「本当は、救われたのかもしれないね。だって×××が私達を傷付けてでも残さなかったら、きっと私達が裏切り者扱いされたはずだよね。私の背中を傷付けたのもさぁ、……思えば、四課に入るには邪魔すぎる特徴だったから、きっと彼はそこまで読んで動いてたんだろうね。だけどねクラサメ、なんでだろ、私×××を許せそうにない」
ナツメの右頬を、涙が滑り落ちていった。
ああ、なんて珍しい。そんなありきたりな感想を抱いた。
「もう死んでる恩人が、憎くて仕方ない。こんなの、どうしたらいいんだろう?」
「ナツメ……」
ナツメは、良くも悪くも感情の薄い人間だ。
みんなそう言う。エミナもカヅサも、0組だってきっとそう言う。
でも違うのだ。もうクラサメだけが知っている。
地団駄を踏んで悔しがるような、幼稚で純粋な感情を誰にも向けられなかっただけなのだ。拒絶されそうで、怖いから。そういう感情を向けることができるから、彼女にとって己は貴重なのだとクラサメは正しく理解している。
そして四天王が生きていた頃は、彼らもその範疇に在った。
だから、今、ナツメはおそらく初めて誰かを心から憎む。
そんなに強い感情を向けられる相手、それこそクラサメたちしかいないから。だから、初めて。
「白虎に寝返ったっていうのだって信じられなかったけど、でも、こんなのもっとひどい。×××を裏切り者だと信じ続けてきたなんて、こんな最低なことってある?××も××××も、×××が覚悟さえすれば生きられたかもしれないのに!!」
ナツメは駄々をこねる子供のように見えた。
クラサメはゆっくり視線を伏せ、ナツメの腕を引く。
「お前に、似てるよ」
「え……」
「いや、お前が似てるのか。……そうやって抱え込んで、自分の中だけで爆発させて……なんというか、言葉に出して話しあえば解決するものを、自力で全部なんとかしようとするから。それで結局、全部だめになったりするものだ。そういう、母親が無我夢中で子供を守ろうとするようなやり方が、お前たちはそっくりだよ」
きっと、×××はナツメを可愛がっていた。そんな気がする。
ナギ・ミナツチの言っていた通り。クラサメとナツメを連れて行ってもよかったのに、あんな言葉を遺して置いていった、その理由は。
――いいか、ナツメ。オレみたいにはなるんじゃねえぞ。
きっと。
そういう、愛情だったのだろう。
「×××が憎いと思うなら憎め。きちんと憎まないと、お前は一生あいつを憎み続けることになる。恩人だからとか、そういうことは忘れろ。こんな面倒に巻き込んでくれた、面倒な男を、ただ憎め」
「クラサメ……」
「憎しみを押し殺せば、その分心が死んでいく。けれど心さえ死ななければ、いつか許せる日も来るだろう」
これは因縁の話。
×××とクラサメの因縁。
ナツメと×××の因縁。
そして、ナツメとクラサメの、因縁の話だ。
クラサメはナツメを憎んだ。今ナツメが×××を憎む、ちょうどそれと同じ重さで。
でも結局愛はそれに打ち勝った。
愛しているから、クラサメはナツメを許すしかなかった。
ナツメにその日が訪れるのを、クラサメはきっと隣で見ている。
そんな予感がしていた。
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