Act.40
そうと決まれば、ルシとしての権力を発揮しておかなければならない。
感情を失ってしまうのはほぼ確定事項なのだから、自由に動けるのはそれまで。それ以降は、クリスタルの傀儡に甘んじることになるのはわかっている。だから、そこまでを見越して今、できることをしなければ。
「……うん、よし、じゃあ……」
ルシとしての権利を思い出す。そのうちの一つを早速行使しよう。そうと決めたナツメは颯爽と、魔法局を出てホールへ向かった。
ホールにはいつもより少ないながら多くの人がいて、彼らはナツメの姿を認めると驚いたように視線を寄越した。もうナツメがルシであることは知れ渡っているらしい。
尚好都合。
ホールを突っ切って、真っ直ぐ目指すのは軍令部だ。どうせ終わらない会議が繰り広げられているに違いないのだ。COMMの電源を入れながら、ナツメは軍令部のドアを押し開く。中からは声とも知れぬ音がいくつも混ざり、喧しく響いてきていた。
外から開かれたドアに、一拍遅れて視線が集まる。
「る、ルシ……」
「貴様ッナツメ……!?」
ルシ、と呼ぶ声と、怒気を孕んだ軍令部長の声が重なった。ナツメはつい口角を上げて笑う。
未だかつて、一度として、自分がこうも“存在する人間”として扱われたことはなかったろう。皮肉にもほどがある。
ルシになったことを、幸いと呼んでいいのかはわからない。しかし、発言力を得たことだけは理解した。
今更、もしかしたら、“あちら側”に立てるかもしれないと、そんな幻想をいだきそうになる己を罵倒したくなりながら、ナツメは面々を見つめる。四席が鬼気迫る形相で、こちらを見ていた。院生局局長に至っては、青ざめて唇を震わせている。
考えなくてもわかる。彼らはナツメを、恐れているのだ。
「……どうなさいました?すごい顔……」
思ったよりずっと酷薄そうな声が出た。それがより彼らの恐怖をより煽ったらしい。兵站局局長は肩を僅かに跳ねさせた。
怖いだろう。怖くて仕方ないだろう。
今までさんざん捨て駒にしてきた人間が突然、自分たちと同等の権限を手に入れるのだ。しかも、圧倒的戦力を携えて。
そのうえ、同等と言っても、実際のところナツメがルシとして振る舞えば、四席であれ逆らうことはできなくなる。ルシはクリスタル直属の徒であるから、院長でさえ命令はできない。
「あ、あなたの話を、していたのだ」
意外にも肝が据わっているらしい学術局局長が口火を切った。一瞬声が裏返ったようにも聞こえたが、気づかない振りも優しさだろう。
「私の話?」
「あなたが……あなたの能力が、どんなものなのか、を」
嘘だ。ナツメは内心あざ笑った。
あの喧しさが、ただそれだけの会話で生まれるはずがない。ナツメが朱雀を裏切ったらどうなるか、きっとそんな話をしていたはずだ。
ナツメのことなど何も知らない人間たちなら、そういう思考に陥るのもうなずける。これまでさんざん虐げてきた、その自覚があるなら尚更だ。
「私の能力は……なんなのでしょうね」
だから、ナツメが首をひねっただけで、困り切った顔になる。笑ってしまいそうになるのを、ナツメは必死に堪えねばならなかった。
「よく、わからないんです。確かビッグブリッジでは……交換、そう思った気がする」
これは事実。
ナツメはあの瞬間、交換を求めた。クラサメの命と、あの場にいた白虎兵全ての命とを。
それはナツメにとっては、到底対等になり得ない取引だった。まさか白虎兵が何万集まったって、クラサメ一人に足るはずもない。ナツメはそう思っていた。否、思うより強く“理解”していた。
だからクラサメが生きているのは、今にして思えば奇跡である。
「たぶんですけど。命の払い戻し。召喚に使った命を、奪った命で補填する……?とか、そういう能力なんじゃないかと、思います」
「思う、とは……ルシはヴィジョンだかで能力を知らされるのではなかったかね?ルシになったにも関わらずクリスタルに倦まれているのか?白虎の雌犬がっ」
「お黙りなさい!」
反射的に軍令部長がナツメに悪態を吐こうとして、院生局局長の鋭い制止が飛んだ。こればかりは癖だから、そう簡単に治りはすまい。ナツメは寛大な心でそれを放置している。その寛大さの理由は、どうでもいいからとも言えるし、機会があれば殺すだけだからとも言える。
ともあれ軍令部長はもう口を開けなさそうだ。隣で院生局局長が怒りを孕んだ視線を投げている。
「……まぁ、なんにせよ。ルシであることは間違いないみたいですね、呼ばれますし操られますし。ただ、あなた方が知りたいのはたぶん、能力の有効性じゃないでしょう?」
正直に言おう。
ナツメは少しばかり、否それなりに、あるいはとても、もしかしたらものすごく……この空気を楽しんでいた。
だって四席には、一応院生局局長は除くとしても、今まで散々な目に遭わされてきたわけで。特に軍令部長。ナツメが四課に寝返ったとでも思ったのか捨て駒のつもりが生きているのが気に食わないのか会う度やかましくがなりたてられてきたわけで。特に軍令部長。
この機会につい首吊りたくなるぐらい虐めて追い詰めてやりたくなったとしても誰がナツメを責められようか。
「私が朱雀に敵対するかどうか。知りたいのは、そちらでしょう……?」
今度は確かに破顔する。ナツメは珍しく笑顔を浮かべ、そっとテーブルの端に身を寄せた。
ナツメが動いて微かに大気が揺れる度、彼らの顔色は一様に悪くなり続けているように見えた。それを察知することで、ナツメの悪意もまた雪だるま式に大きくなっていく。
これまでのナツメへの徹底した評価の低さが、ルシになったことで浅ましくも覆ったのだ。それは自己評価でもあり、他者評価でもあった。
「どうかしらね?私も今更、朱雀を裏切るのは本意じゃないですけれど、事と次第によってはわかりませんよね?」
もはや誰の声もない。否定もない。ただ静まり返る部屋で、学術局局長が僅かにぱくぱくと口を動かしている。
口火を切ったのも彼なら、ナツメを止めようとできるのも彼だけらしい。やはり、肝が据わっている。暫時の逡巡ののち、学術局局長が「それはやめていただきたい」と掠れかけた声を絞り出した。ナツメが現れるまでに議論が白熱したのか、喉がからからなのだろう。
ナツメは無意味な論議に終始したであろう四席を憐れみながら、「どうして?」と問うた。
「どうして?恩もなければ義もないのに?そもそも軍令部長、あなたはもう私を裏切ってる。四課に入れた時点では捨て駒だったことなんて、今更ですけど私ずっと気付いてましたよ?」
「ぐっ……」
「それから、0組に無用なちょっかいをかける真似をしてたことも気付いてる。戦争初期段階で早くも白虎に尻尾振ろうとしてたくせに、今更私に、何?裏切るな?いいですね楽しそうですねダブルスタンダードを意識的に行使できる立場って本当羨ましいわ?私にはできないし絶対にしないもの、その一線だけは超えたら“成り下がる”し“成り果てる”でしょうからね、あなた方はもう超えた一線なのかしら?」
チクチク。チクチク。
ナツメは言葉を丁寧に選んで、にこやかに軍令部長の砂漠地帯を見下ろした。せっかくだから全ての毛根を殺してやろうか。この距離からファイアでも放ってみようか。ナツメは迷う。
クリスタルからの制止がないということは、その程度はナツメの裁量で勝手にしていいということだろう。ならもっと虐めてやろうか。それともひとおもいに殺してくれようか。次第に悩みの内容がどんどん物騒になっていくことに気づかないままナツメの手の中に僅かなる炎が生まれつつあった。
ナツメが彼にこんなに怒りをぶつけるのはなぜか。その理由が自分でもわからず、一瞬疑問が首をもたげた。何かに気づきそうな気がしたが、脳内は煩雑でひどくノイジーにナツメの思考を奪い続けていたので、結論にたどり着くことはなかった。
というよりナツメが思考を整理し終える前に、事態が急転してしまったのだが。
「はいはいはいはいこの場は!俺が!預かります!」
「ッ!?」
突然ドアを押し開いて現れた旧知が、ナツメの口を後ろから両手で抑えこみ、喋れなくする。
「ぐ、ぅ、離し……ッ離せナギ!!この似非!似非陰険タレ目!」
「イヤだしダメだしその暴言は忘れないしおとなしくしてろ!」
ナギはナツメの腰を掴んで持ち上げると、くるりと振り返り、ナツメをぽいと放り投げた。足場を奪われたナツメは為す術もなく、小さな悲鳴を上げてそこにいたクラサメに受け止められることになる。
「うわっ……と、え、何でいるの」
「呼ばれたんでな」
「てへ!」
「……。また貴様か!!!」
怒り狂うナツメは忌々しくもウインクを飛ばすナギに向けて手を伸ばすも、クラサメが押し留めたので届かなかった。なぜクラサメが邪魔をするのかはまるでわからないが、逆らえないことには変わりない。
なんなんだこれは。戸惑うナツメを置いてけぼりに、ナギは前へ一歩踏み出した。
「失礼しました、うちのバカが」
「……うちの?」
「クラサメさんに反応を求めたわけじゃないんでちょっと黙っててくださいねー。で、ナツメの能力ですが、現状把握が難しいのなら、“大規模蘇生能力”というあたりで、一旦落ち着かせてはどうでしょうか。俺の意見ですが、一応四課からの提案です」
「む……」
ずっと黙っていた軍令部長が僅かに首肯する。ナツメからナギへ主導権が戻ったことで、権勢を僅かに取り戻したらしい。これはまた丁寧に虐め直したい、とナツメ自身初めての苛立ちが脳内を占めるけれど、ナギはそんな欲望も無視して話を進めていく。
「そこで、目下最大の問題となるのは、ナツメが朱雀を裏切るかどうかですが……これに関しても、四課から提案を差し上げます。その鍵となるのが、クラサメ・スサヤ武官」
「ああ」
「……はい?」
意味が。
わからない。
「四課は、クラサメ・スサヤ武官をルシ・ナツメの傍につけることを提案します」
わからない、けれど。
ああ、わかることはたったひとつだ。
クラサメと自分はまた、利用されるということ。起きた悲劇にかこつけて。ナツメを従わせるためにクラサメを使い、クラサメを従わせるためにナツメを使う気だ、四課も四席も。ナツメはそれに気付いて、そして。
――“また”?
ナツメは己の血が沸騰するような感覚を覚える。背筋が凍り、喉奥が締まった。
また利用される、って、何。
「う……」
「……ナツメ?どうかしたか?」
小声で尋ねるクラサメに、返す言葉すら思いつかなかった。
全て思い出したはずなのに、感情がそこに追いつかない。過去を認識できていない。
己は何を忘れている。
ナツメは戸惑い、ゆるゆるとクラサメに視線を向けた。が、緑の目は静かに見返すのみで、彼は何も言ってはくれなかった。
そして、不意にナギの言葉がナツメを現実に引き戻した。
「ご存知の通り、ナツメとは旧知の仲でして。むしろ半ば親でして。彼女はどうあがいても、彼を裏切ることはできません。つまり、彼だけがナツメをコントロールできるというわけです」
誰かが己を支配できると聞けば、ふつう誰だって苛立ちを覚えるはずだ。が、その点においてこそナツメは特殊だった。
ルシをコントロールできる存在ということは、クラサメの立場が守られるということに他ならない。クラサメに関してだけは凄まじい勢いで頭を回転させるナツメは一瞬でそこに思い至り、ナギを注視する。
「というわけで、クラサメ・スサヤ武官を0組隊長と兼任してルシ・ナツメの管理者として公的に扱うのはいかがでしょうか。ナツメへの抑止力としては、適切かと。……ナツメ?それでいいよな?これで、“俺の名前を騙って報告書作ってくれやがった件は許してやってもいいぜ?”」
「……それで、私を“本当に”コントロールするつもりなの?」
「だったら何だって言うんだ?」
ようやく吐き出した声は、思いの外憔悴していた。ナツメがそう思っただけかもしれなかったが。
クラサメに対しては朱雀とナツメを人質にし、ナツメに対してはクラサメを人質にする、ナギの発現の主旨はつまりはそういうこと。
いつもどおりの、汚いやり口だ。揃いも揃って、スタンドプレーが大好きで困ってしまう。
ナツメもナギも、クラサメも。
尖った意思の切っ先は、折れるまでぶつかり合うしかないのだと、こうやって何度も思い知るのだ。
守るべきものがあるから、皆その刃を収めないのだから。
そして。
いくばくかの議論の交換があって。
軍令部長をはじめとする四席のお歴々は、しばしの沈黙の結果、今すぐ正式な決定はできないと言葉を濁した。それが四席のくだらない慣習の一つ、即断しないことで権威を保つ浅ましいやり方であることは把握しており、ナギが肩をすくめナツメとクラサメをまとめて外へ連れだした。少し時間をおいて四席だけで話し合う時間をやれば、ナギの決めた方針に沿うに決まっている。
「……で、説明しろコラ」
「あーっと……まぁいろいろあったんだよいろいろ……」
「はぁ?」
苛立ち混じりに切り返した瞬間、ナギとクラサメがそろって目を逸らした。わかってはいたが、おそらくはこの二人の共謀なのだろうとナツメは判断した。ナギが思い立ってクラサメを脅したのではなく、クラサメもまた同じ意図でナツメを止めに来た。ならば反抗できない。それは強制力というより、ナツメに染み付いた習慣として。
「……ああでも、そうね。下策でもないか……」
「ん?俺の考えた策が下策だったことなんてないだろ?」
「あとで年代順で表にしておこうか?」
「やめろ減俸される」
と、ナギには茶化したけれど、本当に悪い策ではないのかもしれない。
なんせ、ビッグブリッジを生き残ったって、四席に犠牲にされかけた実績を思えばクラサメの立場は已然危うい。四席に“消えてもいい”と思われているのは危険だし、何よりナツメの精神衛生上とてもよくない。突発的に彼らを暗殺してしまいそうなくらいには。自分より権力のある相手と軋轢があってはろくなことがない。その点、彼らの不安材料となったナツメがクラサメの手の内にあれば、彼らはクラサメを守らざるを得なくなる。
そんなわけで、クラサメの立場向上ができるなら、それは感謝すべきこと。
本当に今回は、下策ではないらしい。
そう思った瞬間だった。
バッ、と、ナツメの目の前に何かが突き出された。ひらひらと揺れる薄紅の布地。
「……なにこれ」
「お願いします武官服を捨ててください」
「いや、だからなにこれ……」
それは、膝丈くらいの長さをした、薄紅色の朱雀風ドレスであった。それをなぜナギが差し出しているのか、というかどこから出したのか、疑問は尽きないがまぁそれは無視するとして。
「え、なにこれ?何?」
「いやお前のその武官服さぁとてもよろしくないじゃん?」
ナギがじっと見下ろすのは、ナツメの身体を包む四課内でも数名しか着用しない四課用の武官服であった。より正確に言えば、これは外部に諜報に出る人間が魔導院にいるときだけ着る武官服。ほとんど真っ黒で、ベルトやブーツにのみわずかに朱が混じるだけという極度に地味な仕様。一方で、魔導院内ではひどく目立つ様相。
四課の正式な武官服ではあるが、内務調査を業務の主とする面々は通常の武官服か9組候補生の格好をする。
「ああ……まぁね、囮だからね……」
「……囮?」
「えーっと、いかにも四課ですーって顔してる奴がうろついてれば、四課に攻撃を仕掛けられるとしてもそいつだけで済むかもしれないでしょう?だからこの専用の武官服があって、外部諜報員が魔導院にいる場合だけ着るの。内務調査してる連中が着るには危険すぎるからね」
ナツメは丁寧にオブラートに包んだ説明をクラサメに述べて、ナギに向き直る。
「で?今更これを捨てて私に何を着ろと」
「だからお前のワードローブがすっからかんで第三の部屋と化してることは知ってるから四課内で背格好近いヤツの服パクってきたんだろうが」
なるほど。
ナツメは納得した後でクラサメの腕を引きながら大きく後退った。
「ちょっと待てそれを私に近づけるなやめ、やめろぼけぇ!!」
「後生だからこれを着てくれぇぇ!!お前がそれ着てっと課長が胃をぶっ壊すんだよおお!」
「別にいいでしょうがいくらでもぶっ壊せそんなもん……あ、ああわかった、読めた!ルシは四課と同じく八席と同等権限持ってるから、四課と併せて二票獲得するために私を今なだめすかしておこうってんでしょ!?汚いなさすが四課汚い!そしてその服でなだめすかせると思ってるの!!?」
「……やっぱだめ?」
「だって同じ背格好の人間なんて一人しかいないじゃない……誰の体液がどこについてるかわからん服が着れるかアホめ……!」
ナツメの背後でクラサメが大きく咳き込むが、今は構っていられない。じりじりとにらみ合い見た目だけは可愛らしい体液爆弾を押し付けあう攻防は数ターン続いた。
結果として折れたのはいつもどおりナギで、「課長が心労で死んだらお前のせいだからな」と嫌な捨て台詞と共に戦闘は終了する。
ちなみにナツメとしては上司など死んでも一向に構わないので脅しにもならなかった。
「四課は……本当にとんでもないところだな……」
「魔窟だからね。まぁいいわ……とりあえず、ちょっと色々考えないといけないみたいだし……服に関してはなんとかしようという努力をするか見当してみるつもりになってみるから」
「お前が考え事するとろくなことないんだけど、っていうかそうやって煙に巻く言い方でやんわり拒絶すんなもはや意味がわかんねぇよ」
「やかましいわほっとけ」
ナツメには、とりあえず今はこんなことをしている暇はないのだ。考えなければ。とにかく考えなければ。
“また”利用されることとか。異様に湧き上がる、0組にちょっかいをかけた軍令部長への怒りとか。
そういえば、あの時、何かに気付く寸前だった気が、……。
「……あ」
あ。
「あああ」
あああああ。
「あああああああ……!」
故障したCOMMのように断続的な一音をばらまくナツメを、先行していたナギとクラサメが怪訝な顔で振り返る。ナツメはそれを認識する暇もなく、腹部をはっと押さえた。
ルシになる直前、ビッグブリッジにてナツメは蹴り飛ばされ、意識を失い、戦場の外へと運ばれた。他でもない、マキナによって。
忘れていた。
というより、思い出していなかった。
マキナがなぜルシになったかはわからない。けれども白虎ルシであることを考えれば時期は自ずとわかる、0組が白虎へ潜入していたときだ。まさか国外にいる無関係な人間を眷属にすることはできないはずだから。
そして、廃屋の傍の森でナツメと少し話した時、彼は余裕のないように見えたけれどそれだけだった。とりたてて、様子がおかしいということはなかった。現役四課に見破れないほど嘘が巧い人間に、マキナは見えない。
ということは、あの後、もしかして。
ナツメが放っておいた数時間の間に、彼はルシになったのではないのか?
「げほっ、うぐ、ごほっ……」
ナツメは過呼吸になりかけて、深く腰を折り咳き込む。
考えだしたら止まらない。時系列が明らかになれば自ずと要因も見えてくる。あの余裕のなさがルシ化を招いた可能性。すなわち、軍令部長のせい。
「……ッあの男……!」
「おいナツメどうした!!」
「ナツメ!?」
耳元で呼ぶ声が頭痛に直結し、くらりと足元が揺らぐ。それによってとうとうクラサメがナツメを支えるように抱き込み、彼がナギに「とりあえず休ませる」とだけ告げて軍令部を離れる運びとなった。
きっとクラサメはナツメを部屋にまた閉じ込めるだろう。彼が過保護だということは、さすがにそろそろわかってきている。
だから今は、どうやって部屋を抜け出すか、それだけ考えなくては。
ナツメはマキナに会わなくてはならない。
それは偏に、ナツメと彼の救いがたい共通点のためだけに。
長編分岐へ