Act.39




かみさま。
かみさまどうか。

地下へ潜った時のこと、意識を失ったナツメはクリスタルの前に倒れ伏した。

赤い石は、ただ静かにナツメの背後を見つめていた。

そこに誰かが立っていた気がした。

それはかみさまと呼ぶべき誰かだった。

赤い意思は、たしかに“彼女”をかみさまと呼んだ。

かみさま。
どうか。

此度こそ。今生こそ。

不可視への鍵なる人柱を、見つけ給う。

疲弊するのは、意思にあらず、石のみなりや。



聞こえた声を声として処理する余力もなかったナツメだけれど、今ならわかるのだ。
あれは、一つ次元を超えた先で成された、クリスタルの懇願であったと。







「……茶番なんて、ひどい言い草ね」

「それ以外、なんと呼べば?……あのタイミングでルシになるなんて、話がうますぎる。ありえないくらいの奇跡だった」

ナツメが望んだことは、多くない。だが彼女の望みは、絶対に実現しないたぐいの望みだった。
クラサメが生き残ること。ルシの支援という、必ず命を落とすとわかっている任務に就く彼を助けること。ただそれだけだった。
しかしナツメは間に合わなかった。というか、間に合ったところで何ができたというのか、冷静になってみると自分でもわからない。クラサメを説得して逃げようとでもいうのだろうか。説得して聞いてくれるはずもないのに。

「私が人間である以上、そして人間としてさえ……私は資質を持ってる方じゃない。どんな場所でだって、私にできることはとても少ない。その私がクラサメを助けるには、ルシになるくらいの奇跡が必要だった。でもそんな奇跡、起きるはずがない。だって私はそもそも白虎の人間で……朱雀クリスタルに、選ばれるはずがないから」

天文学的確率で、あの場にいた数万以上の兵の中からナツメがその資格を掴んだとして、それ以上にナツメは白虎の生まれだという点が朱雀ルシになるのを阻む。ナツメがなれるのは白虎のルシであるはずだ。
しかしドクター・アレシアは、ナツメの疑問を一笑に付した。

「そんなこと、なんとでも説明がつくわ。あなたは育ったのが白虎であるだけで、実際の生まれは朱雀だとか。あるいはあなたは混血で、実際には朱雀人の血が濃く入っているだとか。……ともかく議論に価値はない。そもそも白虎クリスタルも朱雀クリスタルも、本質は同じ。あれは四つ子の魂。どれの子であるかは、お互いにとって意味がないわ」

「……四つ子?」

ナツメはドクター・アレシアの発言の真意がまるで掴めず、戸惑いながら聞き返したが、彼女は煙管を吸い口から紫煙を吐いたのみだった。答える気はなさそうだ。

「ともかく、私はルシになった。そして……クリスタルに初めて直接対面したとき、強制的に理解させられた。“この世界の成り立ち”を」

「……ああ」

「そこにいたのは、あなただった。いずれの瞬間にも、あなたがじっと上から見ていた。だから、あなたが、この世界で最も異質なのだと理解しました。どう表現すればいいかわからないけど、私とは段違いで上位の存在。どの人間より、もしかしたらクリスタルより、上に立っている……?かみさまと呼ばれていたのは、あなたですか」

「呼ばれていたのは私だけれど、私は神じゃない。……あなた、頭はそこまで悪くないようね。良くもないけれど」

「自覚はあります」

賢い人間なら取り得ない選択をし続けているのだ。己を賢いなどと評する人間は、魔導院広しといえどもいないだろうと、ナツメは内心苦笑した。
だが表には出さない。そこまで愚かではない。ナツメがどんな人間か、そんなことはどうだっていいのだ。脱線など許すか。

「あなたが何者か、それは興味がない。高次の何かであること、それ以上の情報が何か価値を持つとも思えない。これからどうするつもりか、それだけでいいからお聞かせ願えませんか。不可視の鍵なる人柱、とはどういう意味なんです」

「伝承を紐解けばわかることをわざわざ聞きにきたわけ。まぁいいわ……。こんなことを語るのはどれほどぶりかわからないから、たまには寛容さを見せましょう」

煙管の先で煙が細く棚引いている。ナツメはくらりと視界が揺れる心地がした。
ドクターの嫣然とした笑みは、どこか楽しんでいるようだった。

「私の目的はアギトを生み出すことよ」

「……え」

「あの子たちはその資格を持っている。だから私の手で適切な試練を与える。そして最後、“フィニス”に打ち勝ってもらう」

フィニス。それはオリエンスにおける、最悪の災厄。ナツメが知るフィニスは、字面そのまま世界の終わりだ。
そんなものに、打ち勝つ?ナツメは理解できなくて瞠目する。そんな彼女に向かってまっすぐ煙管が伸び、ナツメの額を軽く叩いた。
その瞬間だった。

「あ、」

強い力ではなかった。むしろ、触れただけ、という方が正しい。
それなのにナツメの膝は折れ、重心は後ろに傾き、気がついたときには床に崩折れていた。

一瞬だけ、ナツメの網膜を焼く勢いで視界を覆った世界があった。

赤くて黒い空。地平線は海も陸も果て無き闇となった。
海には妙に粘ついた、血のような何かが満ちていた。
全ての命を燃やし尽くした残滓のように黒々とした大地には生気を感じなかった。

そんな中、しかしナツメは立っていた。隣には誰もいなかった。
ゆっくりとナツメは膝を折り、崩れ落ちて地面に座り込む。

何もわからないはずなのに、その世界にナツメの知る者がもう誰もいないことはわかった。
マキナも、レムも。
エースもデュースもトレイもシンクもケイトもサイスもセブンもエイトもナインもジャックもクイーンもキングも。
カヅサもエミナもナギも、……クラサメも。

もう誰もいなかった。
ナツメだけが、生きていた。


「何、いまの……」

「黒と赤だけが彩る世界は、まさに地獄と呼ぶにふさわしいわね。ま、“それすらどうでもいいのだけれど”」

切って捨てられた幻視の世界についてはそれ以上の言及がないまま、ドクターは煙管をまた口に近づけ、吸っては紫煙を吐き出した。
ナツメはあまりのことに、立ち上がることができない。

「今のは、未来の……予知かなにか?」

「いいえ。今見せたのは、過去の記憶よ。前回の」

前回。
その言葉の意味を量りかね、戸惑った。
予知ならば前例がある。白虎にて凶弾に倒れた蒼龍女王は、未来を予言する乙型ルシだった。

けれど過去というのならつまり、あの悪夢じみた景色はもう既に一度“起きた”こと、ということか?
そうなるとまるで話が変わってくる。ナツメの知らない……つまり、一般的に周知されていない歴史があって、それは目の前にいるこの人物によって秘匿されていることとなる。
だがあれは。間違いなく、ナツメの大切な人たちが殺されていた。でも今生きているから、……つまりどういうことなんだ?

そして目的は、“アギト”を生み出すこと。アギトとは、オリエンスの神話において英雄とされ、フィニスを打ち破り世界を救う存在である。つまり、ドクターは、アギトを生み出し世界を救おうとしているとでもいうのか?そしてそのために、0組を……?

「……でも。そんなことをして、あの子たちが死んだら?あの子たちですら、使い捨てだってこと……?」

適切な試練というのが戦争のことを指すのなら、ナツメはそれは賭けではないだろうかと思う。彼らは強いけれど、あの場所で生き残るのに必要なのがただの強さだとはビッグブリッジを経験したナツメはもう思えない。であるならば、彼らもまた四課におけるナツメと同じく使い捨ての駒だと、そういう風に理解するしかない。

ナツメは、たとえそうだとしても驚きこそすれ嫌悪までは抱かない。自分だって使い捨てにされ続けている人間だ。この世界には自分の手駒になる人間を使い捨てにする人間がいくらでもいる。それが人より高次の存在であれば、なおのことそうかもしれないと思ってしまう。たとえそれが0組なんていう強者であったとしても。

けれど、事態はナツメの理解を超えていた。

「そしたら巻き戻すわ。そうやって繰り返すのよ、延々と」

一瞬、その言葉の意味がナツメにはわからなかった。だから僅かな間があった。

「……は、」

それからぞっとした。
何かが違う。何かが、噛み合っていない。こういう感覚をナツメは実はよく味わっている。が、しかし、いつもとは逆だ。

いつもは。
自己を徹底的なまでに顧みないナツメは呆れられ、恐れられ、嫌悪されて、生まれ持った齟齬を感じ取る。ああやはり白虎の路地裏に生まれた己などこの幸せな連中には馴染めないのだ、と。
その差を、誰かが“命の価値”と呼んだ。この世の人間のほとんどを、ナツメは等価値に無価値と称する。だから彼女と人間主義は相容れない。

でも今は。

彼らを愛しているようで突き放す彼女の、極度にまで軽視する声音に慄き、戸惑い、次元の差故の齟齬に苛まれているのは。

「繰り返すって、何」

また次を見つけて、利用して、叶ったら重畳叶わなかったら捨てる、そういうことだろうか。ナツメはそうとしか理解できない。
であるならば、うまくいくまで、何度でも誰かに苦痛を与え続けるというのか。そしてその試行が終わるのはアギトが生まれる時?

「なんでアギトを生むんですか?世界を救うためならもっと……もっと他に、やり方とか……」

「誰が、世界を救うだなんて言った?」

冷たい声音で彼女は答えた。
命をことごとく軽視するナツメよりもっとずっと遠くの地点で、アレシア・アルラシアは世界そのものを軽視していた。

「世界を救う?そんなことはどうだっていい。これは神をおろす儀式で、この世界はそのための戯場に過ぎない。神のためだけに、繰り返しているのよ」

その言葉に大きな違和感を感じた。何かが噛み合っていない。
繰り返す。その言葉の意味を測りかねていたことにナツメは気づいた。

ナツメは、てっきりドクターはルシのように長寿な何かだと目算を立てていた。ルシのように時の止まった何か。そしてアギトという目的を達成するために人間をけしかけ、それがうまくいかなかったら新しい人間を見つけてまたけしかける。アレシアの行動は、そういう気の長い行程の繰り返しだと。

けれど、違うのかもしれない。

繰り返すという言葉と、さきほど見せられた地獄のような光景が重なって、一つの結論にやっと到達する。

人間であるナツメと、高次の何かである彼女とでは、世界に対する認識がまるで違うのだろうと。
ナツメに理解できないのはそこで、彼女が、アレシア・アルラシアという存在がナツメをこうも超越するのなら、きっと彼女が正しいのだろう。
けれども……。

「そんな……そんなの、現実に、あり得るはずが……」

ナツメは小説も読まないし、フィクションの類に興味がない。だからそういう“設定”がどれほどありふれているかなどはわからない。

けれども、そういう話はナツメにとって、紙面に書かれる誰かの空想上の出来事だった。現実に有り得たら、なんて考えたこともない。そんなことを空想して暇つぶしができるほど、ナツメは恵まれていないから。

だから、そんな現実をぶつけられてしまえば、彼女は簡単に思考停止するしかない。

「“世界そのものを何度も繰り返してるとでも言うつもりなの!!?”」

まさかそんなはずが。

「“ええ、さっきからそう言ってるじゃない”」

でもそんなはずはない。そんなはず。そんなはず。
世界が巻き戻るなんてそんなことが。過去に巻き戻るなんて、そんな。

ナツメは魔法を使うから、わかる。白虎の機械にしても蒼龍の呪術にしても朱雀の魔法にしても、範囲設定を“無限”にするなんてできない。周囲数百メートルを被害領域とするアルテマ弾で既に規格外。
世界の巻き戻し現象ということは、どんな魔法であれ……それこそ神術だったとしても、世界そのものに効果を及ぼさねばならない。地面を手で押して標高を下げるだとか、そんなレベルの奇跡を引き起こしていることになる。

ナツメの脳内はぐるぐると、不可能、あり得ない、かみさまって何、とそんな言葉ばかりが回っていた。ぶつ切りにされたみたいに、思考がつながらない。筋道が立たないし、結論も出ない。ナツメには到底わからない。

「……。……もしそうだったとして。それなら、私がルシになるのは何度目?あのとき私の背後に立ったのは?私にこうやって説明するのは、何度目ですか」

それでもナツメは心が折れる前に問い始める。理解できない事態にこそ、柔軟にならなくてはならない……埋没の直前、すれすれでそう気付く。
わからないならそれでもいい、情報は集めるべきだ。少しでも多くを知って、真実に近づくべきだ。知ることでどんな危険に見舞われたって、ナツメはもう躊躇うべきではない。

だから問うた。何十、何百、あるいは何千と答えられても、取り乱さない覚悟をして。

「全て初めてのことよ」

だから、……だから、その返答はある種、最も想定外だった。

「……全て、って……」

ナツメがルシになるのも。
ナツメの後ろでクリスタルを見つめていたのも。
ナツメにこんな、わけのわからない話をするのも。
全て初めて?

「だから私はあなたに興味を持っている。あなたは、“今回まで一度も存在しなかった”」

そう。
初めて。
ナツメに初めて話す会話の中で、初めてアレシア・アルラシアは真剣な目でナツメを見た。

「でも、この世界は“繰り返し”。この世界はもう、“六億回以上”繰り返している。舞台の中身そのものは微妙に変化するし私も手を加えるけれど、存在は消えないしましてや生まれるなどあり得ない。ならばなぜ?」

一度遠ざかったくせに、アレシア・アルラシアはもう一度ナツメに近づいてきた。
冷たい目をしていた。0組に見せるものとはまるで違ったけれど、おそらくはこちらが本性なのだろう。

「ナツメという名も、真名ではないわね。あなたは何者?どこから生まれたの?“六億以上もの己の命を、あなたは何に使った”の?」

「……、」

意味がわからなかった。
というより、思考が理解を放棄した。

六億。
先ほど考えていた“試行の数”とは、桁が違った。
そしてその上、ナツメが初めて生まれた、などと。

「……わ、私を、見過ごしたのではなくて……ですか」

「あり得ない。あなたは確かに、一度も存在しなかった。それが今回突然現れ、0組の副隊長だなんてあり得ない役職についたものだから警戒はしていた。もしかしたらとうとう痺れを切らした“リンゼ”が、小賢しい真似を企んだかと」

「……リン、ゼ……?」

「でも違うみたいだった。あなたは私の邪魔をする素振りも見せないし、あの子たちにも必要以上に近づかなかった。ただひたすら、あの“つまらない男”に尽くす方法だけ考えていた。だからわからなくなったのよ」

教えて頂戴。
あなたは何者なの。

そう降る問いを正確に認識する前に、しかしナツメは彼女を睨み返す。
反射的に起こりうる、最もナツメらしい行動だ。

「……クラサメを、どんな言い方にせよ、“侮辱”するなら許さない。あなたが何者だったとしても、彼に害意があるなら排す。私のたったひとつの挟持にかけて」

「……うふふふ」

妙に刺さる、乾いた笑い声を立ててアレシア・アルラシアは笑った。そしてそれから、「それも面白いかもしれないわ」と言った。
なんだか、飽きているような物言いであった。

「なんにせよ、あなたはルシになってしまった。ことがことだから敵対はしないと分かり次第いろいろと教えてあげるつもりではあったけれど、もう遅いみたいだから。神託の真似事でもしてあげましょうかね」

アレシアは更に顔を近づけて、床に膝をついたままのナツメのすぐそばでナツメに紫煙を吹きかけた。

「げほっ、ぐ、何……ッ!?」

「よく見なさい」

冷たい声音に強いられて、その紫煙を見る。
先ほど、フィニスだという黒と赤の世界を強制的に見せられたのと同じ。与えられるヴィジョンは、ルシにだけ許された特権だとなんとなくわかっていた。
見せられる世界は、しかし、先ほどの悪夢とは比べ物にならない地獄だった。

否。
地獄と呼ぶにも、生温い。

「ぐ、あ、やめ、やめて、やだ……」

見たくないもの。
世界がどう終わるかなんかより、ずっと気がかりな彼の未来。

「頭、壊れそう?」

まさしく。

「見たくなかった?」

この世の何より。

「でも、見なさい」

彼は死んでいった。ナツメの眼の奥で何度も何度も死んでいった。
彼が。クラサメが。ナツメのいない世界で、何度も。
白虎で、戦場で、ビッグブリッジでルシとして。いくつものパターンで微妙に変化を見せながら、しかし彼は確実に死んでいった。

この世で一度と見たくない世界が、六億回繰り返される。そのヴィジョンが脳を揺さぶる。嘔吐反射が刺激されながら、ナツメは絶望の最中に叩き落とされる。

「“六億の試行で、クラサメがビッグブリッジを乗り越えたことは一度もない”」

「ひ、あ、あぐ……」

「“あなたのいない世界で、彼が生き残ったことは一度としてないのよ”」

ナツメは冷えていく。頭も心も冷たく透き通っていく。

彼は何度も消えて、そして世界は一つの結末を繰り返すようになぞり始める。あの悪夢の中、最後が黒と赤の地獄へ繋がる。
そして最後、大きなばけものが、白い顔をした機械じみた奇妙なばけものが世界を蹂躙し、ヴィジョンは終わる。あまりの衝撃にナツメはがくりと床にべたりと倒れ伏してしまう。

アレシアはナツメの中に、六億の地獄を余すことなく叩き込んだ。ナツメは息ができなくなるのに、クリスタルが強制的に喉を押し開ける。呼吸をやめることが許されない。クリスタルの所有物のルシが、その上位存在たるアレシアの言葉を聞き漏らしあまつさえ聞く行為そのものを放棄するのを、クリスタルは絶対に許してくれない。

「ルシにさえならなければ、利用することも考えたけれど。この世界に、“ルシに為せることなど何一つ無い”から。だから、あなたはもういいわ。せいぜいクラサメだとかその周りの人間だとかを必死に守って、終末を待てばいいわ」

「……なんです、最後だけ投げやりに……こんな話を私にして、何がしたかったんですか」

あんまりにもあんまりな言い様に、余裕などひとかけらもないナツメは必死にそれだけ絞り出した。アレシアは僅かに、口の端を歪めた。

「……こういう試行には、鉄則があるの。何億何兆を数える試行を繰り返すことになっても、突然変異を見逃してはならない。だからあなたを放ってはおけないわ。でも、“パルス”は直接手を下してはならない」

彼女の話は、ナツメには到底わからないことだらけ。
わからないことばかり。

一つだけわかったのは、“己の生”も“クラサメの生”も、どちらも六億分の一の奇跡だということ。救いがたい程。

彼女を疑うつもりがかけらもわかないことが不思議でならないが、それもまたルシとなったが故かとナツメはただ飲み下した。
クラサメの死を見せつけられた痛みがまだ指先を震えさせるけれど、なんにせよ今生の彼は生きている。

「……だからって、私を虐めてみたかったとでも?あんなものを見せる必要はなかったはずでしょ」

ぽつりと吐いた言葉に、アレシアは一度鼻を鳴らしたのみで、あとは興味が無いと言わんばかりに椅子に深く座ってもうこちらを見なかった。

そんなものに、ナツメが懊悩し悶え泣き叫んで狂うとでも思ったのだろうか。思ったのだろうなと、ナツメは霞む思考の奥で考える。
想い人の死体を、六億回超見せられて、平常心を保てる人間などいないだろう。ナツメだってそうだ。

ナツメは、上質なカーペットに沈む指先を握りしめた。
ナツメを放ってはおけないと、この“かみさま”は言った。だからこんなことを言った。それなら、ナツメは自力で立ち上がる。そうして踵を返し、部屋を出るしかない。

ナツメは事態を正しく把握していた。
かみさまに公然と逆らえば何をされるかわかったものではないし、そんなのは本位じゃない。どんな侮られ方をしたとしても、そんなのは大したことじゃない。


ナツメは、部屋を出た。
それだけで息を奪う閉塞感からはかなり解放された気がした。

「……こんなことで、私が折れるとでも?」

ばかばかしい。
彼は生きている。ナツメが存在しなかったらしい世界なんて、それこそ存在したかもわからない。かみさまを疑えないとしても、膝を折る理由にはなりはしない。

「こんな、ことで」

ナツメは折れない。ここで折れるなら、五年前既に折れていたはずだった。

「私達が生きるのがどんな奇跡だって、絶対、このままで」

だからこのまま生きていく。
今更誰に負けることも自分に許さない。

ナツメはルシになったことを、いま初めて僥倖と捉える。
もう、己の無力を嘆く必要もないのだから。この奇跡を、失わせない。

「……、私は」

ルシになったのだから。








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