Act.38







なんだったんだあれは。

頭から湯ををかぶりながら、ナツメは当惑し肩を震えさせていた。

「なんだったんだあれはぁぁぁぁ……」

がんがんと頭を壁に叩きつけながら必死に冷静になろうとしたが、麻痺した鈍痛が脳を揺らすだけで何も変わらない。

「お、おかし、おかしい……!」

クラサメがあんなに怒っているのをナツメは見たことがなかった。振り返ったときのあのぎらついた目は、初めて見たものだった。あんな顔、昔のクラサメはしなかった。
頭は落ち着かなくても、乱れた呼吸は勝手に静かになっていく。

「……それも、勘違いかな」

自分が知らなかっただけかもしれない。何も見ようとしてこなかった。ナツメは、この世の何も見たくなかったのだ。
ナツメはクラサメを、自分と同じ人間だと思ってすらいなかった。クラサメはナツメにとって完全無欠のヒーローで、傷つくだなんて思っていなかった。
否、それも少し違う。

ナツメは、自分の行動によってクラサメが傷つく可能性を、考えていなかったのだ。
なんと身勝手な。身勝手で上等だと己をあざ笑うように生きてきたナツメは、今それができない。クラサメがあんなに怒るほど追い詰めたのが自分だと知ってしまっては、もう。

「私、……私は……」

守りたかったのは、何だったのだろう。
クラサメの立場だろうか。クラサメの体面だろうか。クラサメの想いだろうか。それとも自分の欲だろうか。
ずっと一緒にいたかった。でも無理だった。そういうことに、しておいてほしかった。

きっと後ろめたかった。
ナツメは一度として忘れていない。
クラサメは、知らない。

ナツメは、あの事件のずっと前から、クラサメのことを。
もう十年も昔、クラサメが手を差し伸べてくれた日から、もうずっと。

あの瞬間まで、ナツメは地べたを這いずりまわる虫に過ぎなかった。今ナツメがあっさり踏み潰す、多くの人間たちと同じように。
ナツメと彼らは、当価値に無価値。それは変わらない。
けれどあのときナツメは、人生の価値を見つけた。自分が虫けらとしてでも存在した理由を、あのとき知った。

そういう風にナツメが完成したのは、あの瞬間だった。
ナツメに冷たかった世界の中で、唯一体温をくれる人が現れた、あの瞬間だったのだ。





シャワーを出て、タオルを借りて身体を拭いて、ナツメは深い息を吐いた。
ナツメは生きている。ルシという存在に有り様を変えても、終わるはずだった日々は明日を紡いでゆく。ナツメは死ななかった。クラサメも死ななかった。けれども、今までと同じ日々は続かない。
それはつまり、また新しく考え直さなければならないということでもあった。身の振り方も、クラサメとの関係も。

「……はぁ、」

何もかも最初から。そして、今度こそ終わりを回避できないだろう。ナツメは事態を決して楽観しない。
ルシになることは、力を得るということ。代償はその他の全てである。

タオルを持って丁寧に皺を伸ばし、シャワールームに備え付けられた物干しの棒に吊るした。灯りを消されたシャワールームは、レンガの壁がどこか独房に似ていた。

「行かなくちゃ……」

ナツメはクラサメに、言わなければならないことがある。
これからナツメが慕情すら失うとわかっていて、彼が言葉をくれたから。彼が、ナツメを見てくれたから。
ナツメを唯一と呼んでくれた、それ以上の幸福はこの世にない。

ナツメは留め金の壊れた四課武官服を羽織ってバスルームを出る直前、鏡を見た。薄暗闇に浮かび上がる白い顔が、幽霊のようだった。
静かに、部屋へ続くドアを開ける。クラサメは灯りのない部屋で、ベッドに腰掛けうなだれているように見えた。

「……クラサメ」

「戻ったか」

「うん」

ナツメはそっと指先に炎を載せて、ぶら下がる室内灯に灯りを入れた。その灯りをまぶしげに見上げるクラサメはまだマスクをしていない。彼の前に立って、頬に手を伸ばしそっとなぞる。火傷の痕が、まだ変わらずそこにあった。
変わるはずがない。白虎から戻って、クラサメとああいうことになって、何度もここに触れているのだ。ある日突然消える痕ではない。もう、完治して久しい。
でもいつも、彼がマスクをとったなら、ナツメが目を閉じて開けたなら、ここに傷はないんじゃないかと浅ましくも思う。五年前、あの地獄の瞬間はなかったと思いたがる心が止まらない。
それでも、言わないと。

ナツメはクラサメを見つめた。

「あのね。……思い出したの。ルシになったから、少しずつ記憶が戻ってきてるの。私は……私はね……」

覚悟を決めないと。

「私は、あなたに救われた瞬間から、ずっとあなたが好きだった。あなたしか見えてなかった」

薄闇が決意を鈍らせても。

「だから、私はっ……」

覚悟を決める。
言ってはならないことを言うための。

これは秘密。
ナツメが抱く、たったひとつの最後の秘密。
誰を守ることも誰を傷付けることもない、無意味な秘密。
でもナツメの、最後の秘密。

その秘密を紡ぎながら、目の前でゆっくり見開かれていく瞳を見ていた。

「あの時、生き残ってくれたのが……あなたでよかった、って……」

だってあなたでなかったら。

「私は……思ってるよ……」

クラサメでなかったら、こうはならなかったとナツメは知っているから。

ここにいるのがクラサメでなかったら、ナツメは四課を選ばなかった。こんなに苦しくて生き難く身勝手で排他的で間違った選択はしなかった。確かにそうだろうと、どこかで冷静な自分が思う。
ずっと自覚はあった。ナツメは一人で生きる道を選ぶ必要なんてなかったし、クラサメを一人置いていく必要もなかった。でもクラサメの傍には、いられなかったのだ。
クラサメでなかったなら、ナツメはきっとあんな選択はしなかったはずだった。×××、××、××××。その誰もが、クラサメより賢くて、冷たかった。つまりは狡かった。だからクラサメでなかったなら、ナツメはあんな方法を取る必要はなかった。

「あなたは、自分のことだけいつも守ろうとしないから……!」

だからナツメはクラサメを守りたいを思ったのだ。何度だって変わらず。
ナツメはそうして四課を選んだ。その選択に後悔がないと言ったら、嘘になるのかもしれないと思う。

でも。

そうしなかった自分を、ナツメは後ろから蹴り倒す。

「だからこれでいい。……私は、ルシになったって、生きたって死んだって、あなたがそこにいてくれないなら何の意味もない。あなたなら……私は……」

ナツメはそれでいい。どんなに間違っていたって、それが正解になってしまう人生だから。
クラサメがそこにいてくれれば、ナツメはこの世界を微笑みでもって肯定できる。ナツメにとって最高に優しい世界だと信じられる。だから、ナツメはこれでいい。

クラサメさえ、そこにいてくれれば。

ナツメが蚊の鳴くような声でそう言った、直後であった。クラサメがナツメの腕を引き、ナツメは体勢を崩して彼の腕の中に落ちるように倒れこんだ。
転ぶ感覚にもがくが、クラサメはびくともせずナツメを受け止めた。

「く、くらさ、」

「動くな」

クラサメの腕はナツメを強く抱き込み、離さない。ほとんどはだけた上衣のせいで、体温が混ざっていくのをまざまざと感じた。ナツメは目を閉じ、顔をクラサメの肩口に押し付ける。

自分はどうすればいいのだろう。まだ決めかねている。
ルシになったということをどう捉えるべきかがわからないから。
これで好きに動ける立場を手に入れたと思うべきか、自由に行動を取れなくなったと思うべきか。
もう死を覚悟しなくてもいいと笑うべきか、感情の壊死がすぐそこに迫っていることを嘆くべきか。

この体温に甘えて溺れていたいけれど、でもそれも長くは続かない。
こういうとき、ただ溺れるだけの追従者になれる人間はそう多くはないのである。

「……ごめんね」

「謝ってどうなる」

「そうだね。どうにもならないね。でも、ごめんなさい」

何も決められなくても、時間は過ぎる。ナツメが人間でいられる期間は少しずつ的確に減っていく。
ナツメはクラサメの肩にもたれて、深く息を吐いた。

それまで、ここで生きていく。その上で傷つく覚悟をしなければならない。
クラサメを傷つけてきたぶん、思い知る覚悟を。その結果を、知る覚悟を。

そんな日が来るとは思っていなかったのだ。行動の結果なんて理解しなくても、その頃には自分なんて死んでいると思っていた。
でも生きてしまった。

ナツメとクラサメは、生き延びてしまったのだ。
だから、生きていかなければならないのだ。


生きなければ。
ナツメは、生きなければ。

だから彼女は今、“魔法局”の扉の前に“立っている”。
クラサメと別れ、一人で魔導院の中を歩いて、やってきた。
もちろんそれには清潔な衣服に着替える、クラサメを説得する、食事を詰め込まれる、クラサメに訴える、クラサメに泣きつく、クラサメを騙すなどといった“作業”が繰り返されたが、いつものことなので割愛した。
ナツメは警備をものともせず、ただ、ここへやってきた。それだけが重要だ。

ドアをノックするために右手を伸ばす。本当にこのドアを叩くべきか、しかして一瞬迷い、手が止まる。
会うべきか。否、遭うべきか。これが災いと知りながら、この先に進むべきなのか。
そうだ、これは災いだ。天災なれど人災なれど、本質は変わらない。どのみち避けようのない、一つの災厄である。

躊躇いがナツメの身体を固くし、手を止めさせた。ここでナツメが何もしなければ、“遅らせる”ことができるかもしれない。ルシがルシとして動けば、それにつられて時代までも動く。そんなことは、クリスタルを信奉しないナツメにだって常識だった。
しかしナツメ自身……自分が影響力を持つという現状を、信じ切れないのも事実。だから、思うように行動したいという欲求は止まらない。それでも、やはりそれが浅慮であるという可能性が否定できない。

どうする。どうすべきだ。

ナツメの脳内を、その逡巡が駆け巡ると同時。

「お入りなさい」

「……ドクター」

「そんなところで一体いつまで暇を潰しているつもり?」

ナツメは細い肩を跳ねさせて、高鳴る心臓を押さえるようにしながら、しかたなしにそっとドアを開けた。
ドクターと呼ばれる女、アレシア・アルラシアはそこにいる。身長がそう違うわけでもないはずなのに、なぜかとても高いところから見下されているような気がした。

「お話が、あります」

「ええ、そうでしょうね。待ってたわ」

嘘だ。直感的にナツメは思った。が、そんなことを追及する意味はない。
ナツメはただ、震える唇を隠すように、苛立つ目で彼女を睨みつけた。

「どこからどこまでが茶番なのか、教えてください」

喉の奥から這い上がる恐怖に負けずに、命の使いみちを新しく見つけなければならない。
ナツメはそれを、知っている。








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