Act.37








ナツメは少女だった。
五年前のあの日まで、彼女は一人の少女だった。




陽が落ち始めた時間、ナツメはただ、クラサメの部屋の彼のベッドに仰臥していた。
連れて来てからこっち、身動ぎ一つしない。血の気の失せた白い顔が、時々ベッドの横に置いた椅子に座り込み項垂れるクラサメの背をぞっと冷えさせた。彼女がこのまま目覚めなかったらどうしたらいいのだろうと、詮なきことを考える。目覚めるに決っている。そんなことは、わかっているのに。

窓から差し込む最後の夕陽が、ナツメの顔を照らしていた。長い睫毛が影を伸ばし、沈黙に満ちた部屋でさえ呼吸音が響かない。
その顔は、かつての幼さを僅かに残し、もうあの頃とは違った。綺麗で滑らかな肌、長い睫毛、やわらかな髪。もう、少女ではなかった。

手を伸ばしては、その頬に触れられなくて引っ込める。己が何かを恐れているのを、クラサメは確かに感じていた。
その何かがわからなくて、戸惑っている。

クラサメが死んでしまっていたら、この問題は解決しなくてもよかったかもしれない。クラサメがナツメをどう思っていたって、何かが二人の間に横たわっていたとして、そんなのはもう関係なくなったはずだった。
けれどクラサメは現実として生き残り、いまここに存在し、二人には爪痕が残っている。だから、考えなくてはいけない。
生きる限り、考えなくてはならないから、クラサメは深く息を吐く。

「……う……」

クラサメの目の前で、ナツメの睫毛が震えた。ゆっくりとその目蓋が開かれていくのがスロウで映った。
ナツメは見開いた目を何度も瞬きし、それからクラサメが隣りにいることに気付いて、はっとまた大きく目を見開いた。
そして、口角がゆっくり上がり、目が潤んで細められ、彼女は穏やかに微笑む。嬉しそうに、幸せそうに、幼子のように。

彼女がそんな顔で笑うから、どうしようもなくなった。椅子を蹴倒していることにも気づかず、クラサメはナツメを抱きしめていた。

「く、クラサメ……?」

「ナツメ、ナツメ……よかった……」

「クラサメ……?どうしたの?何かあったの?」

「何かあったのはお前だ……!」

慌てふためくナツメの体温が、じんわりとクラサメの身体に馴染んでくる。柔らかいのに骨がすぐそこにあって、改めてその細さが怖くなった。クラサメがもう少し力を入れたら、簡単に折れてしまいそうだった。

「お前はっ……お前は何をしたんだ!!?なんであの戦場にいた、何をした何故っ……ルシになど……!!」

「私……私は……あなたに、会いたくて」

ナツメの声は最初は静かだった。
しかしゆっくり、少しずつ燃え上がるかのように声が力強さを増した。

「あなたに会いたかったの。あなたが生きていてくれないなら、未来なんていらないの。それだけだった……!」

「何を馬鹿なことを……!ビッグブリッジになど来ないで魔導院でおとなしくしていればお前は人であれたのに!!」

「人で、……人間でいられるわけがないでしょう!!」

ナツメは思い切り力を篭めて、クラサメを押し返す。

「あなたを失うことは私を失うことと同じなのに!人間のままでなんていられるわけがないでしょう!!」

「同じじゃない……!」

「どうしてよ!?私にはあなたしかいないのよ!!」

「そこからして間違っているんだ!!」

クラサメが叩きつけるように言うと、ナツメはそのあまりの剣幕にぐっと押し黙った。
呼吸が荒い。静まり返った部屋で、ベッドの上、向い合って二人。お互いの考えどころか自分の考えさえ読めない。何を思っているのか、混乱しきりでうまく表現できそうにない。
それでも何かを言わなければならなくて、唇が勝手に想いを紡いだ。

「私がいなくなったら……全て失うと言ったな。どこまで失うかわからないと……」

「……言ったわ。……あなたがいるから、あの三人とも……絆があったと信じられるの。空っぽの時代が、埋まる気がするのよ……。だから私、あなたを守らなきゃ、」

「同じだけ愛されて、同じだけ愛していたと?」

ナツメの言葉を遮ったクラサメの声が、あざ笑うような色を孕む。無自覚でも滲むその色に、ナツメはびくりと肩を震わせた。

違う、怖がらせたいのではない。

では安心させたい?

……それも違う。

たぶんクラサメは、彼女に思い知らせたい。

「それなら、」

それならば。

「ここに生きているのが」

こうして一人生き残るのが。

「私であった、必要は?」

目の前で見開かれる、ナツメの目を、見ていた。

すっと抜け落ちる表情が、凍るほどの恐怖を示していた。
怖がらせたいわけじゃなかった。でも、恐慌するのはクラサメも同じだ。
あの夜からずっと、クラサメだって怖くて仕方がない。

「私でなくてもよかったんじゃないのか。あとの三人の誰かでも、全く同じことになるんじゃないのか?」

青ざめた唇がすぐそこで震えている。

「隣にいたのが誰だったとしてもお前はそうして守ろうとして、そっくりそのままこの結末をなぞるんじゃないのか?」

呆然と透き通る、淡い目のその色。

「お前こそ、本当は……私を唯一だなんて思っていないんじゃないのか?」

思い知れ、と。

刻まれろと思った。

この想い全てが、ナツメの肌に目に喉に命に、刻まれろと。

この凶悪な想いに、誰か名前をくれ。

「……お前は、唯一だよ。お前がいなくなったら、私はそれこそ……戦う意味を見失う。だが私は違う、私のことを唯一だなどとよく呼べたものだ。他に三人もいたというのに。……お前にとっても、あの時生き残るべき相手が他にいたんじゃないのか。お前が愛した相手がいたんじゃないのか。偶然生き残ったのが私だから、お前と私はああなったんじゃないのか?」

「ち、ちが……」

「私でなかったなら、もっとできたことがあったかもしれない。9組に編入するなんてことをしたときも、お前を連れて遠くへ逃げることだってできた。……お前が9組で楽しそうにしていたのを見て、私がどれほど迷ったか。お前にとっての……一種の安息があの場所にあると気付いたとき、私がどれほど惑ったか。連れて行くこともできた、でもその結果がそれまで以上に安全だなんて保障はなかった。それなのに、ナギ・ミナツチと楽しそうにしていたあの顔。あの顔だ。知り合って数ヶ月であんな顔ができた相手は、彼らだけだっただろう」

震えるナツメに、クラサメはもう手を伸ばさない。

「生き残ったのが私でなかったら、攫っても良かったかもしれない。それならばこんなことにはならなかった。お前がルシになることなんて、なかった」

なぜか無性に腹が立つ、その理由がわかってきたからだ。

クラサメには後悔がある。
ナツメが四課に堕ちた後のことだ。

クラサメは、怒りにまかせて四課を半壊させた。ナツメが戻ったのは、それから一ヶ月以上が経ってからのことだった。
その日々があまりに長くて、何度四課にもう一度怒鳴り込もうとしていたかわからない。カヅサとエミナが必死になって止めなければ、間違いなく今度こそ四課を壊滅させていただろうと思う。

彼女が帰ってきた日。
ナツメは、こちらに気づいていなかった。
四課の人間だろう連中と一緒にいた。
ナツメは口を開けて笑っていた。

ナツメはそんな笑顔を誰にでも見せる人間ではなかった。
もう五年近く一緒にいた。一番近くで見守ってきたはずだった。
ナツメはいつも笑っていた。ただしそれは、クラサメの傍でだけだった。
彼女が信用したのはクラサメだけだった。あとはせいぜいエミナとカヅサ、そのくらい。
それなのに、クラサメが見つけたナツメは、クラサメといるときのような笑顔で笑っていた。

相手が己を傷付けないと安心しきった顔だった。
他のどんな級友にも見せない笑顔だった。
信頼しているのだとわかった。

彼女が笑っていた、から。

「お前を助けられなかった……!!」

連れだしたかった。決まっているではないか。
ナツメをあんなところに置いておきたくなんてなかった。でも、ナツメは笑っていて、クラサメは自分に自信がなかった。

あんなことがあったばかりだった。クラサメはその詳細を断片的にしか語れないが、一瞬前まで味方だった相手にさんざんに屠られて嬲られてナツメを守りきれなかった。彼女の背を焦がした炎を防げなかったのだ。
庇護者としての自信が、なくなっていた。
だから血迷った。

自分が手を出していいのか?
四課にいたほうが安全なのでは?
4組は少し居心地が悪そうだった。
でも、四課は違うのでは?

ナツメを救うには、四課を敵に回すことになる。それはつまり、魔導院と完全に縁を切るということ。四課の追手から身を隠しながら、ナツメとどこまでも逃げるということ。
クラサメもまだ、二十歳そこそこの若者だった。魔導院の外なんてよく知らなかった。ナツメを連れて逃げるには、力も金も何もかもが足りなかった。

彼には荷が重すぎた。
彼女のことを決めるには、彼だって若すぎた。

助けたかったのに。

「でも、どんな手を使ってでも」

見捨てたわけではない。誰だってそうは言わないだろう。
けれどクラサメが己のその行動をどう認識するかは、また別の話。

「お前をあそこから、引きずり出しておくべきだった……!!」

ナツメが四課でなかったら、例えば。

例えばクラサメの恋人になっていただろう。

例えば普通の武官になっていただろう。

例えば0組の副隊長になんてならなかっただろう。

例えばビッグブリッジに出撃なんてしなかった。

そして、ルシになんて、ならなくて済んだはずだった。

クラサメは彼女を助けたかった。
そんな後悔がある。そして。

だから。

その後悔を飛び越えて、ナツメを助けようとする全てが……。

「気に食わない……!」

0組だろうと四課だろうとナギ・ミナツチだろうと何もかもこの世の全てが気に食わない。
クラサメにはできなかった行為を、彼女のために行う誰かなんて、彼にとっては存在してはならないものだった。

ナツメはそれを、よく知らない。
ナツメにとってクラサメは、完全無欠のヒーローだったから。
だからもしかしたらクラサメの“それ”は、誰も知らないたった一つの弱さなのかもしれなかった。

「く、クラサメ、くらさ、……」

「お前は、私の傍にいるべきだったんだ!」

震えて動けない彼女を、クラサメはもう一度無理に抱き寄せた。腕の中でこわばる身体が、クラサメを拒否しているかのようだった。




ナツメは少女だった。
でもあの日から、女で。

クラサメが何をおいても守りたかった、でも守れなかった、どうしようもない唯一だった。





だから。










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