Act.35








ハッピーエンドがあるのなら、祈りもしただろう。
でもそうじゃないから、ナツメは銃を取ったのだ。それは今更変わらない事実。

ナツメにとって、この世界の価値はクラサメ一人だった。五年前のあの日から、もうずっと。


「っは、はぁ、はあ……!」

息が切れて、一歩進む度乾ききった喉が引き攣るような痛みを覚えた。それでも、足は止まらない。
心臓が止まらないから、足だって止まらない。

「どこに、どこ、どこにいるの……!?」

カトル・バシュタール。あいつを殺さないといけない。
森の中、暗い獣道をがむしゃらに駆ける。枝が服を裂き、中の皮膚を傷つけて血がたらりと滑り落ちた。けれど、痛みも神経にまでは届かない。足を動かすこと以外に思考が回らない。

「っあ、」

湿った地面に滑り、転げる。手をすりむいた。いびつな音で鳴る関節の悲鳴など無視して、急いで体を起こす。なんとか上半身を起こして顔を上げたとき、それが見えた。
ぞっとして、心が冷えて、指先が震えて、唇が戦慄いた。

「なに……あれ……」

巨大すぎて距離も大きさも測れない魔方陣が、空に二つ。
軍神を呼び出すためのものであることはすぐに知れるけれども、あれほどのサイズのものは見たことが無い。きっと誰もがそうであろうと思った。たぶん、ルシ・セツナ以外は。

嵐の月17日、16時21分のこと。
秘匿大軍神の召喚が、始まってしまった。

「待って……待ってよ……!!」

何度も転げそうになりながら、それでも走る。呼吸はまともにできていないし、足は千切れそうだった。
秘匿大軍神なんて存在を、ナツメはたぶん正確には理解していない。けれどもそれが、ナツメの愛しい人を犠牲に喚ばれるものだということは、知っている。
だから止まれない。走り続けて体温は上がっているはずなのにどうしようもなく寒くて、目に薄い膜が張って視界は歪みぼやけてしまった。

己はまた失くすのだろうか。あの苦痛を、また味わうというのか。
冷たい風の匂いを感じながら。凍りついた花を踏み潰すように。

「待ってぇぇぇ……ッ」

その苦痛が、味わうだけで済むとでも?
バッドエンドだったとして、それが、確かに終末であるとでも?

本当の地獄は、終わらない。
自分が何者だったか忘れて、ナツメはただ生きていく。そんな日々が、もし未来にあるとしたら。

「クラサメ!!」

そんな未来に、置き去りにしないで。お願いだから。


爆音にも似たけたたましい音。世界の根本を掴み、ひっくり返したかのような地響き。
アレキサンダーが顕現し、真っ白な光が白虎軍の方へ伸びていく。
戦場すべてを焼きつくす、清浄なる光だった。ナツメの炎とはまるで違った。どこか厳かに、しかし到底ナツメには真似できない熱量で生き物を消し去っていく。


足を止められないナツメが、森を抜ける。アレキサンダーの光が視界を満たして、世界は一瞬で切り替わる。そこに飛び込むのは死屍累々。色とりどりの、候補生を意味するマント。
ナツメはその死体を平然と踏みつけて前へ進む。

「っはああ、あああ……!」

どうだっていい。他人の死体なんて踏み潰して、進まないといけない。
これまでそうしてきた。一人にならないためになら、これからだってナツメはそうする。

死体の群れの、ずっと先。そこに、目的の彼はいた。

「クラサメッ……!!」

彼は、そこにいた。膝をついていた。
ぐらりと横に傾ぐ身体を、ナツメは見ていた。

駆け寄って、手を伸ばす。
ナツメは、見ていた。
間に合わない自分の手が空振って、彼が倒れ伏すのを、見ていた。

動く気配もない身体に触れた瞬間、気がついてしまう。

己の感情から剥落してゆく、愛しさという一縷の糸。決して撓まないそれを、引きちぎられる気配がした。クリスタルの果てない忘却が、忍び寄る。

間違いなく悪夢だった。知りたくない見たくない最悪の絶望。失うということ。彼を、失うということ。

抗うことのできない、最低の現実。
五年前、ナツメとクラサメを襲った、あの恐怖。

……い、

「いやぁぁぁぁあああぁああ!!」

嫌。嫌、嫌、嫌。
それだけはやめてくれ。そう何度、願ったかしれないのに。
この人だけは奪わないでくれ、世界はどうなったっていい。自分はどうなったっていい。何を賭けてもいい、何だって代償にする。お願いだからこの人だけは、私から奪わないで。

ナツメは、初めて祈った。銃を持っても意味がないと気付いて、ようやく彼女は祈った。名前をもらう前に祈りを諦めていた彼女が、初めて。

きっと最初で最後、目蓋の奥。赤く透き通る石。白虎に生まれた己が傅くにはいやに滑稽だなと内心笑い飛ばしていた、赤きクリスタルへと、最初で最後の祈りを捧げる。

「嫌っ……!私はどうなったっていいから!なんだってするからぁ……ッ!この人は奪わないでよ!!お願い、お願いだからっ……!」

この時、なぜクリスタルに祈ったのか、ナツメは自分でもわからなかった。
もしかしたら、意識していないだけで彼女の中にはずっとその信仰が隠れていたのかもしれないし、あるいは、

「これは」

振り返る彼女が最後に教えてくれたように、

「そういう物語だ」

だからかも、しれなかった。

落ち葉のようなスカートがナツメの目の前で風を孕んで揺れた。セツナの目からは血が流れていたが、彼女は確かに微笑んでいた。
その言葉には、聞き覚えがあった。

――「川に……飲まれるようなものだ。流れの疾きに飲み込まれ、流されていく。離れないように懸命に掴み、抱きしめても、とうとう最後にはその手が離れてしまう」

飲まれたナツメたちは、流されていった。懸命に掴んでいたけれども、抱きしめていたつもりだったけれども、結局最後、手が離れてしまった。
これは、そういう物語。

けれど。

もし、本当にそうだとしても。

これがそういう物語で、クラサメという登場人物が描かれるのがここまでだったとしても。

物語?

「あああ、ああ、そんなわけがッ……!!」

そんな言葉で、一体何を諦められるというのか。どうしてクラサメを、ナツメにとっての世界そのものを、諦めることができるというのか。
それを諦めないために、いっそ死んでしまいたくなったことが何度あったか知れなくても、それでも四課で生きてきたのに。

怒りに震える唇を、セツナは静かに見つめていた。
そしてふいに、セツナの腹部の烙印が赤く輝いた。冷気が空気中に満ちた、それと同時に彼女はクリスタルへと化していく。言葉もなく見つめるナツメの耳に、ふと異音が届いた。高い音はどこか金属音にも似て。

その音は、耳障りに思考をぶつ切りにしていく。

「あ……あ……?」

何の音だろうと思う暇も与えられていなかった。脳を内側からがりがり削られるような感覚だった。
極限まで洗練された細い細い“糸”のような何かが、空気を裂き森を裂き、迫り来るのを感じていた。
一体何が?ナツメにはわからない。けれどもそれは、尖った先端でもって、ナツメを深く深く突き刺した。背中から赤い何かが貫通して腹部へ抜けている。

それが何なのか、ナツメには的確に表現する術がない。けれども、本能的に理解していた。それは、ナツメの……いや、全ての魔法の源となるものだった。魔力を濃く煮詰めたような、ルビーのような光。
それは、ナツメなどは目にしたことすらない、魔導院の奥深くに眠る、ペリシティリウム朱雀の根幹。

「く、クリスタル……!?」

まっすぐにナツメを貫いたクリスタルの強烈な魔力は、貫通して腹から生え、先端が裂けるようにばらけた。そしてゆっくり、花弁のように形作られていく。
血反吐の臭いが勢い良く食道を駆け上り、口から大量の血がこぼれ落ちた。脳を削られるような痛みは増すばかりで、混乱どころの騒ぎではない。

赤い光が弾け、脳髄を染め上げ、視界は赤く濁ってゆく。両手に感じたこともない魔力が迸る。何だこれは、戸惑うナツメの身体は痙攣した。こんなに莫大な魔力を感じたことは一度としてない。
ぶちん。肉を断ち切るみたいな音がした。糸がナツメのすぐそこで切れて垂れた、振り返って見なくてもそれがわかる。

「あ あ あ あ、?」

おかしいではないか。どうして己が?その恩恵を受けうる存在ではないはずなのに。白虎の血、白い血。赤に染まれない血。嫌な色だと、思っていた。一度だってクリスタルの加護など感じたことはなかった。
一度だって、受け入れられたとは感じなかった。どんなに努力しても魔力に恵まれない己はきっと、クリスタルにすら歓迎されていないのだと。
それが、今、なぜ。

「ぎぁ、ぐ……、何で……何で、私が……!!」

ナツメの喉がきゅうっと締まった。ナツメの全身を埋め尽くす、溢れんばかりの魔力。上手く量ることもできない、強制的に満ちる水。その使い方は、途切れた糸が遺していった。代わりに意思は奪い去られた。
クリスタルはナツメの言葉を聞いていた。何を代償にしてもいい、自分はどうなったっていい。その想いを、クリスタルだけが聞いていた。

「あ……あ。うん。そう。わかってる、そうよ、そうね、もう理解したわ」

嵐のように吹きすさんでいた感情が、凍りつくように硬化した。ナツメの手の中には、今更力が宿っている。

「大丈夫。大丈夫、まだ忘れてない。大丈夫、能力を行使する」

真っ赤に染められたナツメの目には、世界はこれまでとは違って見えた。死体に小さな灯りが灯っているのが見える。
それをファントマと呼ぶのだと、四課に属していた彼女は知っていた。見たのは初めてだったが。

ナツメは、糸を手繰った。戦場に溢れかえるファントマが、ナツメの手につながっている。
叶えたいのはたったひとつ。曲げたい理不尽は、ただひとつだけだった。
そのひとつのために、ナツメは世界を変える。

「代償を払うのは、もう慣れてるのよ……」

いつだってそうだった。

ナツメが望む通りに生きていくためには、いつだって代償が必要だった。思えば今まで、随分と払ってきたものだと思う。
あの寒い街を出て、朱雀の人間の多くが当然のように享受する生活を手に入れるために、どれだけ泥にまみれたかわからない。汚辱を汚辱と理解するのにも、どれだけの時間がかかったか。

その生活を何が何でも守りたくて必死になった。五年前、ナツメが四課に落ちてまで守りたかったのは、本当にクラサメだったのか。今となってはもうわからない。だってクラサメは魔導院で生きていけるけれど、ナツメは本来違うから。
なんにしても、ナツメがナツメとして生きるのには、代償が要った。

いつだって……そうだった。

「交換、しましょう。世界の外へ、私から。この戦場のファントマを私が集めて、あなたに送るわ」

実体の無い闇のくせに、ねちゃねちゃと嫌な音がしていた。ナツメの背中にそっと触れる、真っ暗なそれに正式名称はない。けれども今、ナツメはそれの正体に気がついている。
これは、境だ。死した後向かう暗い底とはきっと、この闇のことを指して言うのだろう。

「飲んでいいよ。連れて行きなよ。でもそれは、あの白い連中に限る」

ナツメが膝をつく、目の前に横たわる誰かに彼女は覆いかぶさった。彼だけは連れて行かせない。
ナツメの手の中で、白い光が煌々と輝く。その背後で、闇は蠢いていた。

彼女の抱く光は、空気を裂くようにして漏れ、世界に広がっていく。それはアレキサンダーが放った光にも似て、しかし春の夕暮れのようなやわらかな暖かさでもって世界を席巻した。
その日、ビッグブリッジには、二度光の雨が降った。一度目はルシ・セツナの召喚した、歴史上類を見ないほど強大な断罪の光。そしてもう一つが、ナツメが叶えた奇跡の光。

覆いかぶさったナツメの喉の奥から、もう一度血が溢れて地面に落ちた。頭は割れそうに痛んだが、もうそれも知覚できそうになかった。
ナツメの心臓の下で、どくり……と、鼓動がもう一つ重なった。それだけは辛うじて認識して、ナツメの唇がそっと笑みの形をつくる。

「ああ……よかった……」

これで良かった。払う代償は大きいけれど、それでも彼が生きている。
それ以外に、ナツメの世界に必要な成立条件はないのだから。


手に入れた代わりに、耳の奥で何かがひび割れる音がした気がした。
おそらくどうでもいい、何かが。








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