Act.34








声がろくに出なかった。ひりつく喉が焼けて、問いたいことがいくつもあるのに、言葉にならない。
そんなナツメに、マキナは。

「……」

一言もなかった。弁明も懺悔も説明もなく、ただ突然、マキナはナツメの目前に迫っていた。そして直後、自分の身体が投げ飛ばされてから、ナツメは痛みを知る。
知らないはずの痛みがナツメを支配した直後、ナツメはフェンスに叩きつけられ、ぐしゃりと地面へずり落ちた。
意味が、わからなかった。

「ぐ、ぎゅっ……」

傷だらけの腕を伸ばして、ナツメは何かを探していた。何かを掴もうとした。それが何かは、ナツメにもわからなかった。
濁って判然としない視界、靴がナツメの目の前の土を踏んで音を立てる。それが、意識を失う前に見た最後のものだった。



そして。
ナツメは、夢を見た。

寒い地面、凍えて何度も擦りむいた足を守るものは何もなく、それでも売られた娼館から逃げた日のこと。
小さな盗賊団の裏切りあいを掻い潜り、盗んだ小銭を片手に一人で街を飛び出したあの日のこと。

寒かった。酸素が足りなくて胸が苦しくなった。
それでも走って、森を抜けようとしていた。

あのとき、ナツメの命はナツメのために息衝いていた。生きるために、生きていた。
あの日のナツメにとって、ナツメ以上に大切なものはこの世に存在しなかった。他の全てを犠牲にしてもいいと思った。

今は……、

「ちがう」

違う。違う、違う違う違う。
もう、今は。

「クラサメッ……!」

あの時、ナツメの手を取ってくれたのは彼だけだった。ナツメにはあの日からずっとクラサメしかいない。
だからナツメは起き上がる。どんなに冷たい地獄の底からだって、全てを巻き戻して戻ってくる。

昔のナツメは、泥濘の中を抜け出したいだけだった。クラサメがそこから出してくれたから、今はもうクラサメだけが唯一。

目を覚ましたら、森の中だった。ナツメが夢に見たあの寒い森と同じで、土が湿っていた。
木々に切り取られた空が、つい先程までより濃くなっているのに気付き、ナツメは慌てて身体を起こす。
こんなところで寝ている場合ではないのだ。
しかし。

「ここ、……どこよ……!!」

気を失っている間に運ばれたのか、ナツメはまるで知らない森の奥にいた。
誰が運んだのか、なぜ運んだのか、何もわからない。けれども今はそれはいい。大事なのは、これからどうするか、ただそれだけだ。
そしてそれは、弛まぬ糸のように一本、変わらずナツメの中にある。

「(戦場の音がそう遠くない、爆音がする。そして風は北から吹いているはず、だから、こっちが北……!)」

今の己がどこにいるにせよ、戦場から離れていないのなら、ビッグブリッジは北のはずだ。
急がなければ。カトル・バシュタールが死なない限り、この戦いは終わらない。

ナツメは転びそうになりながらも、もう一度走り始めた。
16時を過ぎた頃、暁の中、森の奥。
泣きたくなるくらい、胸が苦しい。酸素が足りないからか、純粋に恐怖から逃れられないのかはわかりかねていた。










「それほどまで……」

遠くに並ぶ白い軍隊と、そこでなぜか昇った火柱、明らかに戦場を包む混乱の渦に慄いた候補生たちを落ち着けるために、クラサメがルシ・セツナの過去の戦績をさわりだけ語ってみたところ、思った以上に彼らは勇気づけられたようだった。
彼らの恐れは当然で、誰だって死ぬのなら勝利のために死にたい。戦に絶対などありえないが、秘匿大軍神を召喚さえできれば白虎兵をみな屠ることなど何ら難しいことじゃない。リヴァイアサン……かつてオリエンス大戦の折セツナ卿が呼び出した秘匿大軍神は、街一つの犠牲でもって一地方を文字通り滅ぼした。今でもその海岸に、蒼龍の人間は寄り付かない。
同じだけの強撃の人柱となることを、ただ憂えるほど楽天的な戦況ではない。けれど、そんなことをただ喜べる人間もいない。

「朱雀の歴史上、セツナ卿を上回る召喚士はいない。よく見ておけ」

たとえ、最後の記憶であろうとも、そうそう見ることのかなわない大召喚だ。
セツナが長い衣服を風に揺らしながら、静かにクラサメたちの方へ歩み来る。彼女は感情の篭もらない目で、クラサメとその後ろに立つ数十名の候補生を見つめた。その温度の低さが誰かに似ていて、クラサメの喉の奥が乾いて苦しくなった。一人で向かっていく彼女は、いつもそんな目をしていたから。

「0組、0組。……聞こえているか」

クラサメは、COMMのスイッチを入れた。0組だけに届く内線を使って、最後の言葉を。妙に感傷めいていた。
戦争の音がする。金属音と銃声。かつてクラサメが身をおいていた世界の音だった。

「お前たちに……こんなことを言うとは、自分でも思っていなかったが……」

『……クラサメ隊長?』

クイーンの応える声がした。それがやたらとくぐもっていて、どうやらお互いの声がかなり聞こえにくい状態のようだ。
むしろ好都合だと、思った。

「ここまで来たのは、お前たちの選択がゆえだ。お前たちが、自分で選びとった未来だ。……よくがんばったな」

『クラサメ待って!!……が、……が死ん……ッ』

クラサメがその言葉に聞き返す前に、ぶつ、と通信が切れてしまう。かけ直そうと思ったが、どのみちクラサメにできることはもうなかった。
もう、クラサメはその舞台からは退場した後だった。だから、この話はもうおしまいなのだ。

セツナがゆっくり振り返り、無感動な目でクラサメを見た。

「刻々と時が来た。……一つ問おう」

彼女の声は空気に溶けるように妙に響いて、ただそれだけで厳かな雰囲気に包まれた気がした。ざわめいていた候補生たちも一斉に押し黙り、彼女の次の言葉を待つ。

「汝らは何に代えても朱雀の……クリスタルの意志に推服するや否や?」

今更な問いだった。
兵士とはそういうもの。使われるもの。もう戦えない命でも、そうやって使われるのなら。
きっと守るための、剣になれると。

「無論従います。朱雀の者は皆、その覚悟をもって戦場に来ています」

そう言って静かに、彼女を見据えた。セツナは透きとおり過ぎていていっそ恐ろしささえ覚えるような視線を眺めるように投げかけてから、「了とした」と答える。そして、崖の先端に足を進め、

「では 粛々と初めるとしよう」

ぞわ、と。
吹き出す魔力が頬を舐め、背筋が粟立った。空気が淀むように変化するのがわかったらしい候補生たちが肩越しに後退る。ルシの魔力とはこれほどのものなのかとクラサメは内心歯噛みした。トゴレスの一件もありさんざん見せつけられてはいても、やはり認識を上回る。セツナ卿の掲げる右手の上に、光が零れた。

「セツナ卿に魔力を送れ!」

今がその時だと、誰に教えられることもなく知っている。それは朱雀の民ならばみんなそうで、候補生たちはやり方を聞き返すこともなく一斉に片膝をついた。

「転回始めるは楔放つ歯車、一つ。二つ。三つ……」

誰からも判然とはしなかったが、彼女の手の中には魔術具が現れていた。彼らの耳に、ガチャリと金属の擦れ合う音がかろうじて届いた。

最初はなんということはなかった。ただ、ドサリと倒れる音がいくつも届きだしてからしばらく、やはり彼にも魔力の枯渇は訪れた。それはとてもゆっくりと、迫り来る最後の一線であった。
沸騰して、減っていく水のような。粘ついて赤を強く放つ、己の命そのものが見える気がした。

「(……ナツメ)」

最後までうまくいかなかったなと今更思う。クラサメのことを信用はしているくせに、信じているくせに、何一つとして委ねない。あなたの隣に立つわけにはいかない、そう言って震える唇が脳裏に張り付いていた。生まれのこと、仕事のこと、五年前のあの日のこと。それらはきっと引け目として、クラサメにはわからない程の重みで以ってナツメを追い詰めている。
それでもクラサメは、そこにいて欲しかった。それがどんなに彼女にとって重い事実だったとしても、隣にいてほしかった。クラサメにとってもどうしようもないほどの苦痛となってのしかかった、五年前失った全てを見つめるその時に。クラサメだってナツメの隣に立つ資格が欲しかった。ナツメが諦めたそれを諦めきれない。
クラサメだって、彼女に対して引け目はあって、それでも愛していたかった。

ナツメは最後まで、クラサメと生きる覚悟ができなかった。
クラサメは最後まで、ナツメの弱さをひっくり返すことができなかった。

五年前に芽生えた何かを恋と呼んだとして、それを守り育てることが二人にはできなかった。
今となってはそれは過去だけれど、ならばやっと取り戻したその何かを、クラサメはどうすればよかったのだろうか?

どうすれば、よかった?

「セツナ卿……!」

魔力がぶくぶくと、体を焦がしてまで彼女に“吸い取られる”。当然ながら経験のない、軍神を召喚するというのは斯くも苦しきものだったか。知らずに見送ってきたことを後悔してしまうほど、数多の候補生たちは本当に勇敢であった。
クラサメはどうすればよかったのか、まだ決めかねていた。決めていないのに、全てが終わる。クラサメの全てが終わってしまう。

その何かを育てる時間はなかったし、育てたところで実らなかったかもしれない。でも捨てることは、到底できはしないのだ。
なのにどうして。

「朱雀に……クリスタルの、加護あれ……!!」

震えた右手を左手で支え、天に向かって突き出した。魔力を全て、出しつくすように。受け入れるしかない運命を、つかみとるみたいに。
彼女の名を呼びたかった。その瞬間だった。

「深淵より……劫罰の叫び響かせ……天に現出せん……」

セツナの唱える声が止むと同時に、光が、一瞬だけ止んだ。そして次の瞬間には、むしろ世界を焼き尽くすようにあふれる。白く染まる地平線。それがクラサメの見た、最後の世界だった。







「そうか……これが、神意……か……」

セツナは一人崖の上で、頬を滴り落ちる血の雫にも構わず嘆息した。“視”えたから。最期の瞬間にすべて、“視”えたからだ。

神。この世界には、神が居るのだ。クリスタルなんて石ころは違う、あれは反射的に作用するだけ。決められた法則の中に世界を封じ込めるためのもの。あんなものとは違う、この世界には“神”が居る。
彼女が直接定めを決めることなどないけれど、誰かがこの定めに必然性を見出した。そう、例えば、“アレ”とか。近くに感じる女の気配に、セツナは微かに微笑む。そう、この定めの上では、お前はここに居なくてはならないのだ。

濁流に呑まれるような生であったなと、セツナは思う。上も下もわからなくて、流されながら必死に誰かの手を掴んでいたはずなのに、結局どうしようもなくて最後には手が離れてしまう。

セツナが奪ったものを、きっと誰かが取り戻す。その歯車は、これまでになかったものだ。だから世界は、少しだけでも変わるだろう。
そしてそれはきっと、誰かにとっての救いになる。見ることは叶わないけれど、でも、やっと救いになる。

セツナは腰元から赤い短刀を取り出した。覚えている。覚えているが感慨を事実としてしか受け止められない、愛すことができない寄す処。

多くのものを信じた。多くのものを裏切った。
多くのものに拘泥した。多くのものを切り捨てた。
多くのものを追いかけた。多くのものを見失った。
多くのものの始まりを見た。多くのものの終わりを振り払った。
多くのものを見届けた。多くのものを見放した。

そして私は、多くのものを奪った……。

あれから幾星霜。もう思い出せない、仮初めの愛情だとか。
とにかく最期に、誰かが私のようにならずに済むことを、祈るよ。

セツナはじっと地平を見つめた。胸の奥が痛んだ。なんて久しぶりの感覚かと、戸惑いながら目を閉じる。

「ここが私の……辿り着きし、末路……か……」

何年を生きただろう。いや、きっと生きたとは呼ばないか。こんなものを、人は生と呼んではならない。

だからこそ、生きてくれ。最後まで生きてくれ。そして世界の最期を見てくれ。人の走る音がする。近寄ってくる、一つの気配。待っていたもの。継ぎし、愛し子の異端分子。
泣きわめく声がやけに耳の奥に響いて、つい笑った。奪わないでと叫ぶ子供。そう、お前は……それでいい。お前の寄す処はお前が守れ。奪われたくなければ取り返せ。そのために力を今、求めればいい。

「これはそういうものがたりだ……」

セツナは最期、包み込む光に笑った。思い返す愛情。ずっと、抱きしめていたはずのそれ。

「これが、末路。私の末路。ああ、なんだか……寒いな……」








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