Act.28-b:Trust no one.







真昼と夕暮れの狭間、日が傾き出す時間。
その街にはゆっくりとした時間が流れていた。

ブルネットの髪をゆるく束ねた主婦が、パン屋でバゲットを買い求める。まだ新参の彼女に、中年のパン屋はその日一番うまく焼き上がったものを包んでやった。美しく若い彼女への下心は内心否定しながら。

「もう、街には慣れたかい?」

「え?あ、ええ。とても親切な方ばかりですもの。夫もいつも感謝しているんですよ」

「ここは今、オリエンスで一番安全な街だからねぇ。みんな心に余裕があるのさ」

「ええ、本当だわ!……素敵な方ですよねぇ、アヒム様。おかげで安心して暮らせるわ」

「ああ。あんたたちみたいに逃げてくる人たちには、必ず門戸を開けって。おれたちにとってはもう神様みたいなお人だよ。あの人の言うとおりだった……降伏してしまえば、白虎だっておれたちをひどくは扱わない。みんな早く気付けばいいんだけどねぇ」

主婦はまだ温かいバゲットの包みを受け取ると、代わりに銅貨を何枚か渡した。パン屋の男は、まいどありがとう、と笑いかけた。自覚のある、下手くそな笑みだった。
と、同時に時計塔の鐘の音が鳴った。

「あんれ、もう四時かね?」





時計塔広場の真ん中には噴水があり、その付近はこの小さな街の数少ない憩いの場となっている。
そこで本を読んでいた少女に、軽薄な男がしきりに話しかけていた。

「ねぇ、ねぇニッキー、何読んでるの?」

「タイトルを言ってもわからないでしょう?もう……ちょっと静かにしていて、今いいところなの」

「ふーん……ニッキーは毎日本ばっかりだなぁ、飽きないの?」

「あなたこそ毎日代わる代わる女の子に声を掛けて飽きないわけ?」

「もっちろん!ほら俺、この街に来たばかりで友達少ないからさ、友達を作ろうと思ってさ!」

「女の子だけ、ね。まぁ好きにすればいいわ」

彼女は呆れ返り、浅くため息をついた。本を読むため再度俯くと、長いまつげが頬に影を落とした。
と、同時に時計塔の鐘の音が鳴った。

「……あら?まだ鳴るには早いんじゃあ……」





鐘の音は鳴り響く。
小さな街を包み込むように、鳴り続ける。
夕暮れの手前を切り裂くように、人々が首をかしげるその頭上で。

鐘は、9回鳴った。誰かの声が、重なって響く。

「鐘を鳴らそう?世界を震わせ、伝えよう……」

最初は、女の声。砂糖菓子のように甘い声は、どこか調子が外れていた。

「9と9が9を迎えし時、識なる底、脈動せし……」

次は、男の声。おそらくは鐘を鳴らす、彼の声。

「そして始まりの封が切れし時、雷のごとき声音が響かん」

最後は、またも女の声。しかしそれはひどく単調で、冷たく、面倒そうに呟く声音。

そして最後。
誰かが聞いた靴音のように、気味が悪いくらい重なった声が、街の全ての場所で囁く。


「我ら来たれり」


その瞬間、世界はひっくり返った。


「あ、お金は返してねっ?」

主婦は明るい声音でそう言って、パン屋の首を切り裂いた。

「やっとやっとやっと、こんなクソみてぇな街を出られるのか!」

軽薄な男は感極まった様子で、どこからか取り出した鎌を振りまわす。

街は、血と悲鳴に彩られた。
鐘は止んでいた。

血の色をしたマントをはためかせて、男は鐘の下に腰を下ろした。彼の仕事は、しばし無い。
潜入させておいた連中が内側から叩き、彼と共にやってきた仲間が外から街を焼いている。炎を最も得意とする仲間の指示で、燃料を街の周りに撒いて炎の壁を作っているところだと思う。この街の運命は決まったから、誰一人ここから生きては出さない。
四課が決めたことだ。四課がもう生かさないと決めたから、この街は終わり。
四課はこの街の、フィニスになると決めたのだ。

「ナギ、見つけたわ」

「そか……俺も行こうかね」

「そうね、助かる」

仲間の一人がはしごをのぼって顔を出したので、彼女と連れ立って彼は時計塔を降りていった。住民の阿鼻叫喚など、意にも介さない様子であった。









ナツメは地下へと続く階段を降りていく。後ろをナギがついてきており、靴音は二人分階段に木霊していた。

「なんで地下にいると思うんだ?」

「他の場所にいたら、もう見つかってるでしょ?見つからなかったとしても、あの男に心酔してる連中が逃がそうと必死になるはず。でもそんな様子はなかったからね」

「一人で地下に隠れてるって?最悪の隠れ場所だよな、入り口から燃料まかれりゃ即アウトだぜ」

「それはやっぱり日頃地下で仕事してるから思うこと?」

「まぁ、そう」

地下に四課を封じ込める理由なんて、最初から一つしかない。
四課だけは何があっても叛逆が許されないと知らしめるため。マッチ一本程度の炎で駆除できると、いつも思い知らされている。

「しかしこの地下、報告になかったぞ?街の人間から全部聞き出したはずじゃ……」

「つまり、この場所は街の人間も知らないということね。まぁ、時計塔の地下なんて、普通に考えたらただの貯蔵庫だからね……あいつがここを秘密基地にしてても、誰も気づかないんでしょうよ」

「そんなもんかねー。そういや、白虎潜入中の奴から緊急で変な報告がきたぜ」

「変な報告?」

振り返ると、ナギはため息混じりに首を傾げた。

「ああ。娼婦が減ってるらしい。戦線近くの街に出稼ぎに行って、そのまま戻らねんだと。娼婦は戦場にくっついてくもんだから、もしかしたらと思って報告をくれたんだろうが……どうも、その消えた街っていうのが、ここイリーダから近い場所ばっかなんだ」

「……、」

「きな臭ぇ、よな?」

「そうね……うーん、まぁこれは……見てもらったほうが早いかな」

ナツメは喉を鳴らして笑い、階段の突き当りでドアを押し開けた。ナツメの思う通りなら、そこに広がる光景は。

「あーははは……やっぱりねぇ」

「……おいおいおい、聞いてねぇぞ……」

ナツメたちを出迎えたのは、地下なのに高い天井の梁から吊るされた死体だった。
だらりと下ろされた腕、力なく伸びる爪先、血の気の失せた顔。辛うじて腐臭はないが、ドアを開けた瞬間から充満する血の臭いが喉を刺すような痛みでもって警鐘を鳴らした。
視線を落とせば、部屋の隅に置かれた風呂桶は真っ赤な水に染まり、人間の上半身がうつ伏せの状態で見えた。下半身は綺麗に折りたたまれているのだろう。ナツメの知る限り、あの男は人体をばらばらにする行為は好んでいなかった。

「なんだこれ……女ばかり、十人じゃきかねぇぞ」

「だから白虎から出るなっつっといたのよ。性癖は治癒できないでしょう?」

「俺が性癖として許容できるのは首締めるとこまで、斬りつけるのは範囲外だ。しっかし……あの男が拷問官としての訓練を積んでるなんざ聞いたことも……」

「これは性癖だって言ってるでしょ、拷問官じゃない。単純にあいつの趣味よ。娼婦を買って、拷問して殺す」

そしてそれを、持つ者と持たざる者には当然の関係だと思っていた。あの男は。ナツメがかつて追い詰めたとき、ぴーぴー泣きながらそんなことを喚いたものだ。
あまりにも醜くて、弱くて愚かな殺人鬼が、ナツメの足元で蹲って、助けてくれ見逃してくれもうしませんと世迷い言を叫んでいた。ナツメはその日をよく覚えている。

ナツメは、銃弾が掠めていびつに千切れた彼の耳元に唇を寄せ、止めなくていいと囁いた。代わりに白虎を出るな。対象にしていいのは白虎の人間のみ。兵士にばれたら必ず兵士を殺すこと。逃げる真似だけは許さない。
ナツメはそう告げたはずだった。お願いでも提案でもなく、あの瞬間ナツメは彼に命令をしたのだ。

「……それがどぉしてこんなところにいるのよブッチャー?」

奥の小部屋に続くドアを開けると、そこには精悍な顔を歪めてがたがた震え、必死に銃に弾丸を籠める男がいた。アヒム・ブッチャー。ナツメが唯一、殺さなかった男だ。

「あっ、ひ、ど、どうしてここが……」

「あの時もそう言ったわね。見つけた私をそうやって見上げて。あの時とよく似てるわ、あの夜も……娼婦がたくさん死んでいた。どうでもよかったけれど」

その中に、見たことのあるような気がする女がいた。必死に思い返して、なんとはなしに、幼少の頃同じグループで生きていた女だろうなと思い至った。生き延びた人間なんてほとんどいないはずだった。たぶん、その女が死んだからナツメが今は最後。

娼婦になったのだ。ナツメとは違い、生きていくには厳しい場所を生き抜いて、娼婦に。性を売り、病気に怯え、それでも食事のためにやはり性を売る、そういう仕事をして生きていたのだ。
生き延びるために。

あの日、クラサメに出会わなかったら、きっとナツメもそう生きるのが精一杯だったはずだ。だからあれは、ありえたかもしれないナツメの末路だった。
もう一人のナツメを、この男は簡単に殺した。金を積み、喜んでついてきた女を殴り、犯し、何度も斬りつけて。

だからナツメは、この男を生かすことにした。

「あんたはただ、“こうならなかった私”を殺していればよかったのよ。そうやってどんどん記憶を消して、私という可能性だけが残るはずだったのにね。まかり間違って朱雀に来たらこうなるってわかってたから、白虎を出るなって言ったのに」

「あ、ああ、わかってる!おれは白虎を出るつもりなんかなかったんだ、でも、でも追われてて!」

「逃げるなって言い含めたじゃないの。なんでその程度の約束が守れない?」

怯えて尻もちをついたまま後退るブッチャーの横っ面を、ナツメはすぐ傍の棚の上にあった燭台で張り飛ばす。ブッチャーは倒れる。蠢いて、起き上がろうともがくのをぼんやり見つめていたが、起き上がる寸前に四つん這いの背中を踏みつけた。なんとか仰向けになってじたばたもがく、その足の甲にブーツのヒールを叩き込む。

「ぐぎゃあっ!?」

「約束破るなんてひどいじゃない。傷付いちゃうわ」

燭台を適当に放り投げると、蝋を止めるための針が床に勢い良く突き刺さった。ブッチャーがその音にすら怯えて悲鳴を上げる。

「明確にしましょう、私は誰も信用しない。でもね、あんたとは約束したの。私が約束したのは、生まれて初めてあんただけなのよ?最愛の人とも約束だけはしなかった。生きて帰る約束もしなかったし、求めもしなかった。だけど、あんたとは約束してもいいと思った。ブッチャー?あんたはあんたのために、きっと私を裏切る道は選ばないと思ったのよ。だから私、あんたを逃がしてあげたよね。殺すのなんてとってもとっても簡単なのに、わざわざ逃がしてあげたんだよね?」

「だ、誰か助けッ……!!」

「誰かぁ?誰か、なんてまだ思いつくの?もう街には私達しかいないの、あとは死体が積み上がってるだけよ。あーあ、ただ愚かだっただけなのに、あんたが騙したりするからよ。なんて言って騙したのよ?」

ブッチャーはそれには、口を噤んだ。今更黙ってごまかせるとでも思っているのか阿呆め、とナツメは内心ため息をついた。

「ねぇ。人を信じるのって大変なことよね。この街の連中はあんたを本気で信用したのよね?それってすごいことだわ。私もね、あんたを信じてたの。人を信じたのってすごく久しぶり。あんたはどう?人を信じて裏切られたことってある?とっても、とっても悲しいのよ。私の心は今悲しみで満ち溢れているわ。あと一滴でも悲しみが湧いてきたら、私、ついあなたの皮膚を一枚ずつ剥がしたくなってしまうわ。ねえ、わかるよね?」

どうやって騙したの?
ナツメは、子供にでも言い聞かせるように、膝をついて優しく立場を教えてやった。いつもは拷問する立場なのに、それが逆転したことに気付いて、ブッチャーは血の気が失せて青白い唇を震わせた。

「ぐ、軍の命令だったんだ……朱雀を混乱させるために小規模の街から掌握したいからって、テストケースとしておれが送り込まれてっ……」

「軍人じゃないのに?」

「だからこそ適任だった!それで、ルブルムの民に慈悲をやるんだって!実際来てみたら、それでうまくいってたんだ!街の人間は不満もないみたいだったし、おれ、街の人間は殺してないんだ!」

「はぁ?だから許してくれとでも?」

「くっだらね。その生活が、終戦後も続くとでも?食糧不足が原因で始まった戦争なのに、敵国の人間に食糧を分け続けてくれるって?そんな戯れ言を、町民総出で信じちまったんだ?間抜けどころの騒ぎじゃねぇなぁクソボケが」

ナギがナツメの背後で舌打ちをした。まさしくそれが、ナギの怒りの根源だ。
愚かで、貧弱であること。それを理由に戦いを諦めること。結果的に、その弱さゆえに他人を傷つけて、そして最後には彼らはそれを正当化するということ。
そんなの、誰も許さない。ナギだけじゃない。ナツメだってそんなの、笑い飛ばしてあげることはできない。

「あの時と、状況はとても似ているわ。でも悪いけど、今回は許してあげられない。今回は、ここで息をして、皇国のお恵みに甘えてあいつらの用意した食事を食べた、そういう人間は誰一人許さないってもう四課が決めたから」

ナツメは手を拳銃の形にして、銃口になる人差し指の爪先をブッチャーの額に突きつけた。

「だから、この話はこれでおしまいね」

一発。
弾丸ではない。ナツメの爪先が生んだ炎が、一瞬でブッチャーの額を刺し貫いた。ブッチャーは悲鳴さえあげることはなく、ただぐにゃりと身体を折って石でできた床に仰臥した、それだけだった。

ナツメは振り返る。

「じゃあ、この部屋を燃やして帰ろうか」

「ああ。燃料持ってくる」

ナギと二人、娼婦の死体もきちんと燃えるように後処理をして、階段をのぼり時計塔を出た。その間、ナギは軽口を叩かなかった。
外には仕事を終えた四課が集まってきていて、事前潜入組が話し合いながら記憶の齟齬を確かめ、全員死んだかの確認を行っている。外に出てから、ナツメは時計塔を振り返ってそっと炎を放った。きちんと全てが葬られるように、どこか祈るような気持ちだった。

ナツメがあの時ブッチャーを見逃さなければ、娼婦たちは死ななかった。わかっている。娼婦たちが憎かったわけではない、しかし……。

「お前さ、“ああなるかもしれなかった”のが怖いのか?」

「……は?」

ほぼ無言だったナギが、呟くように問うた。ナツメは戸惑って、答えに窮した。

「あくまで俺の考えだけどね、お前はああはならないと思うよ」

「なぁにそれ……適当なことを」

「適当じゃねえっつの。全然適当じゃない。お前はね、もうちょっと運命を信じてやるべきなんじゃないの」

燃え盛る炎が喧しい中で、ナギはナツメの方を見ずにそう言った。
ナツメはやはり、答えに窮し、ナギがそうするようにじっと炎を見ていた。







潜入組の確認が済んで、彼らは連れ立ってイリーダを後にする。来た時と同じく、任務とは完全に無関係なことを喋りながら。魔晶石を使って魔導院に戻るまで、そうしていた。

「ああもう、なんて最悪な仕事よ!」

ナツメだけが街を一度振り向いて、声をたてて笑った。きっと、数ある任務の中でも“最悪”の名を冠するにふさわしい仕事だった。

魔導院に戻った後、ブッチャーを昔の男だと勘違いした0組に「記憶がないってことは殺したってことだよな!」「わかった、浮気されたから殺しに行ったんだ!」などと妙な追及を受けることになるが、それはまた別の話であり。
彼らに唆されたクラサメが一週間不機嫌になるという珍事もあったが、やはりそれも別の話であった。



ちなみにこれはどうでもいいことだが、かつてイリーダと呼ばれていたその地には、古い石畳と黒く煤けてもう判別できなくなった時計塔だけが残った。
街があったはずだと騒いだ人間もいたが、そういう噂はなぜかすぐ立ち消え、終ぞ正式な調査が入ることはなかった。






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