Act.25-b
冬の夜だった。ナギが覚えているのはそれだけだ。
その日の早朝にナツメが初任務に発ったのを見送って、そして夕方。ナギの瞼には、彼女の姿が妙に鮮烈に焼き付いていて、四課の暗い地下室の中でぼうっと彼女のことばかり考えていた。翌日が期限の書類仕事が手に付かないほどに、そればかり。
気になるのは、彼女の背中のことだ。
一度、服を脱がせた。身体に何か特徴があると、万が一手配されるような事態になった時に困るためである。顔は大して特徴的な差異を見つけられないものだし、髪は染められる。が、身体的特徴はごまかせない。
その背中、肩甲骨よりは下だった。尾てい骨よりは、ずっと上。ちょうど背中の真ん中辺り。
そこに、妙な傷跡があった。
「……ありゃどんな傷だろうな」
剣で付けられた傷のようにも見えた。一方で、火傷にも。おそらく火傷の可能性が高いだろう、つい先日の事件のことを思えば。それにしてもおかしいのは、彼女の手管なら……そう、ナギを先だって致命傷からさえケアル一つで治療したあの腕があれば、あんな傷かけらも残さず消せたであろうということだ。
では幼少期の傷なのかとも思うが、その程度の見分けはつく。ピンクに盛り上がった皮膚の跡は、まだ傷が新しい証である。先日の事件、あれで負った傷。
そして何より、とても奇妙なのは。
その傷を指摘し、気をつけないとそれで手配されるぞと忠告した数時間後、つまり初任務の直前には……その傷が綺麗さっぱり消えていたことである。
「一体、何がどうなって……」
ナギはこの仕事を始めて長い。一年か二年で十分に長いとされる四課のキャリアを、もう十年以上続けている。そのナギですら、傷跡をさっぱり消してしまう技術など知らない。傷を消す飲み薬でもあれば四課としても喉から手が出るほどほしくてたまらない、そんな代物だというのに、ああも完全にふさがった傷を消してしまうなんて、そんな事。
ナツメが任務から戻ったら聞いてみようか、とナギは解決しない思案を切り上げた。考えていても無駄なのだ。
初任務はそう厳しいものじゃない。あの女ならまさか失敗するはずがないし、ただの暗殺だから二週間もすれば戻るだろう。
そう思った、まさにその瞬間だった。荒事には慣れているナギでさえ、何が起こったのか理解するのに時間がかかった。
それぐらいありえない出来事だった。
四課の入り口が、階段下の、地下室へ入る唯一の大扉が、鋭い氷にめった刺しにされていただなんて。そして直後、木っ端微塵に吹き飛ばされたなんて。
吹き飛ばした張本人は、果たしてそこに立っていた。飛び散った氷の破片を踏みつけて、ゆっくりと室内に入ってくる。
怜悧な視線が、ナギの喉を干上がらせた。どうして、……どうして。
「朱雀四天王の……クラサメ・スサヤ……!?」
どうして、あんたがここにいるんだ。
ナギの当惑など気にする素振りも見せず、クラサメはナギを睨むように見た。
「……あいつは」
彼はぞっとするような無感動な声で、ただ問う。あまりのことにナギは一瞬言葉を失い、そしてそれが命取りになった。
「知らないのなら用はない」
「うぐぅあっ!!?」
椅子から立ち上がったその瞬間を狙うように、クラサメは躊躇いなく拳を突き出して、ナギの鳩尾を深くえぐった。気がついたときにはナギは地下室の固い壁にたたきつけられており、身体は動かなくなった。
辛うじて失わなかった意識だけでは、地下を降りていく彼の姿を追うこともできやしない。
ある冬の日のことだった。
冬の午後だった。クラサメが覚えているのはそれだけだ。
ナツメと“そういうこと”になって、翌朝、隣にいるはずの少女がいないことに気がついた。慌てて起き上がり視線を彷徨わせたが、やはり室内にはいない。何をしているんだかと思って、このときはまだ焦ってなんていなかった。
むしろ多少の苛立ち混じりに用意を整えて、彼女を探してやろうと思っていた。だから、その後一日、どこを探しても見つからないのでようやく何かあったのではという考えに至った己を、クラサメは今でも責めている。
辞令が出たのは、クラサメが顔を隠して数日が経った後であった。武官に昇格したばかりだったクラサメは、きっとすぐ降格解雇だろうなと覚悟していた。そうなったらナツメはどうしようかなんて一時はのんきに考えたりもしていたのだ。モンスター討伐を生業にしてもいい。それならナツメを連れて行くこともできるかもしれないとか、そんな甘い展望を。
そしてそれは、件の辞令によって打ち砕かれた。最初に知らせてくれたのはエミナだった。
「――クラサメくん!!大変!!」
仕事をしているところに駆け込んできたエミナに言われるがまま辞令を確認しにいくと、そこにはナツメの名だけがあった。孤児であるがゆえ苗字のないその名と、移籍を命ず文面。
「これ……は……」
以下ノ者、移籍ヲ命ズ。
ナツメ。4組ヨリ、9組ヘ。
たったそれだけの簡素な文面。ナツメの知り合いでもなければ気にもしないような薄っぺらい一枚の張り紙。たったそれだけの存在が、クラサメの視界を一瞬とはいえ黒く染めた。
ある冬の日のことだった。
冬の朝だった。ナツメが覚えているのはそれだけだ。
初めての任務を前に、心はじとりと水気の多い霙雪のように死んでいた。4組として最初の任務についたときはどうだったかと思い返して、無駄なことと吐き捨てた。
そもそも覚えていない。
「……みんな死んだしね」
ナツメを構成するものが、もう手の中にない。どこかに落として、探す術さえない。
雪を孕んだ白い風がナツメの行く末から迫り来る。懐かしくも憎いその風を一身に受けながら、ナツメは祖国へ歩いていく。
ある冬の日のことだった。
冬の朝だった。冬のくせに、やけに夜明けが早かったのを記憶している。カヅサはその日のことを、まるで昨日のことのように覚えている。
まだ夜中とも言えるような時間帯、研究室の机で眠りこけていたカヅサを、よく知る声が叩き起こした。妹のように思っている、小さな女の子。どんなに成長しても、カヅサには魔導院に来たばかりの、おどおどとしたあの女の子に見える。
彼女は必死な顔でカヅサを揺り動かして、名前を呼んでいた。
「……んあ、何ぃ?」
「起きて、お願いカヅサ起きて!頼みがあるの!」
起こされて、彼女の顔を見上げる。彼女はじっとカヅサを見つめ、寝起きの頭にも飲み込みやすいようにか、ゆっくり細切れに言葉を吐き出した。
「傷を、消す、方法が、知りたいの」
「……傷?」
覚醒した頭で彼女の言葉を噛み砕く。
「傷って、いつのだい?」
「……この間の、事件の時のよ」
「え?でも身体的な怪我はほぼないって聞いてたのに」
「クラサメが、多分向こうでケアルを使ってくれたの。それで、もう完全に治ってる……でも、それじゃだめなの」
彼女の顔は曇っていて、静かにカヅサを見つめていた。
鬼気迫る表情は、尋常でない様子を感じさせた。
「傷を消す方法、カヅサなら知ってるよね」
「……場所にもよるけど。手足とかなら比較的簡単だけど、顔とか胴体だったら相当大変だよ」
「背中なの。方法は?」
「背中だったらやめておいたほうがいいよ、相当激痛だから……!」
「でもやらなくちゃ!!」
ナツメは肩を震わせて叫んだ。明らかに様子がおかしいので、落ち着けようと手を伸ばすが、彼女はじりじりと後ずさった。
「わた、私、四課に入ったの……四課で生きていくの、四課でやることがあるの……!だから消さなきゃなのよ!四課で生き延びて信頼を得て、それでようやく私は目標を目指せるの!そのためには、この傷は、邪魔なの!!」
クラサメが治してくれた傷でも。クラサメが、最後のケアルを使って助けてくれたのだとしても。
でもクラサメを助けるために、あの日の真実を知るために、私はそれを振り払わなければならないの。
彼女がとつとつと続けた嗚咽混じりのその声は、本当に必死で。
カヅサはゆっくり頷いた。彼女の気持ちはわかるから。
「四課に入ったの?……じゃあもう戻れないんだね」
「うん。もう、四課で生きていくしかないんだ」
「……そうだね」
四課は、一度入ったら絶対に出られない。薬剤提供のため四課と関わりのあるカヅサは知っている。
だから静かに、ポケットの鍵を取り出して、戸棚の奥の鍵のかかった箱に手を伸ばした。
「特殊な塗り薬がある。それを塗ると、皮膚が綺麗に焼ける。傷がどの程度の深さなのかはわからないけど、少なくとも表面は完全に焼ける。そこにケアルをかければ、まっさらな皮膚が手に入るよ」
「本当!?よかった、少しわけてほしくて……!」
「だめ。……ここでやってあげる。背中なんて自分じゃ塗れないでしょう。君はまたひとりで無茶する気だ。……本当に、ひどい激痛だよ」
「うん。大丈夫。ありがとう」
彼女は虚空を睨むように、そう言った。カヅサが見たこともないほど、追い詰められた双眸で。
カヅサは知っている。この日から、ナツメの痛覚が鈍りだしたことを。彼女は己の背中が焼ける激痛を、そうやってじっと耐えていたから。意識を失わないために、痛覚を麻痺させてまでも。
忘れないために傷を残す彼と、忘れさせないために傷を消す彼女が、違う道を歩き出すのを……カヅサは見ていた。
ある冬の日のことだった。
冬の夜半のことだった。ナギはその日を、思い出す。
なんとか身体が動かせるようになって、地下を更に降りて、クラサメを追った。ずっと先、地下深く。四課の連中が気絶しているので、それを道標にすればクラサメは案外簡単に見つかった。
彼は、奥の資料室を漁っていた。ナツメの記録を探しているらしい。あるはずないだろうに、とナギはため息をつく。こんな目のつくところに、四課の人間の資料なんて置いてあるはずがないのだ。
「何してるんですかあんた」
「ナツメはどこだ。知らないのなら用はない」
「……今頃白虎ですよ。イングラムかな」
「……お前」
振り返ったクラサメの鋭い視線に射抜かれた。やっべ殺される、そう思ってしまうくらいには。
「知っていたのか。ならなぜ先ほど答えなかった」
「聞く気あったんすか!?あんな一瞬で吹き飛ばされちゃ答えようもないでしょうが!」
ナギは深いため息を吐きながら、部屋の入口に凭れ掛かる。クラサメを見つめながら、思う。
今まで、こんなことをしてくれる身内を持った人間が四課に堕ちてきたことはない。誰もが孤独で、絶望した後で、仕方がないから四課にやってくる。だからみんな、早く死ぬ。最初からどこか自棄だから。
ナツメはそうじゃなかった。なんとなく、そんな気がしなかった。それはおそらく、この男が……。
「……あんた、ナツメを愛してんだな。だからあいつ、ちょっと強いんだ……」
「何の話だ」
「あんたがあいつを想ってんなら、あいつは大丈夫だよ。何度でも生きて帰ってくるだろう。あんたが生きてさえいれば」
ナギはつい、笑った。なんだか守りたくなってきてしまうではないか。
こんな風に助けようとしてくれる人間、ナギにはいなかった。あの女、こんなに大切にされていてよくもまぁ四課に自ら落ちてくるものだ。
ナギだってこんな人間が欲しかった。きっと四課の誰もが思うこと。
四課なんて場所に堕ちていく己を、心配してほしかった。守ってほしかった。助けてほしかった。愛してほしかった。
だから羨ましくて妬ましくて、眩しい。
「……悪いこと言わないから、もう帰ってくれ。ナツメはどうせここにはいないし、すぐには戻ることもできない。それに、全面的にあんたとナツメの問題だろ。四課を巻き込むな。ナツメが四課に来た件に関しては、完全にあいつの自由意志だから」
「それでもこんなところにいたら、あいつがどんな目に遭うかッ……!」
「そうだな、その通りだ。それに関してどうにかしたいなら、あいつに話せ。四課をどんなに破壊したって、その問題は解決しねぇだろ」
納得はしていない様子だったが、ともかくナギはクラサメを追い返した。おかげ様でやることが山積みなのだ。
こんな面倒を起こして、ナツメが良い諜報員にならなかったら許さない。
「……守るものがある奴ほど、土壇場で力を発揮しやがるからな」
四課は良い拾い物をしたかもしれないなと、クラサメの背中を見送りつつ思った。
さて、ほとんど壊滅状態の四課を復旧させつつ、クラサメの記録を消さなければ。
羨ましくて仕方ないものを、ナギは懸命に守ろうとする。
それはナギの稀有な才能であり、誰もが持ちえるものではない長所だった。
誰も、知ろうともしないけれど。
ナギは笑って、ナツメのために最初の無茶をした。
ある冬の日のことだった。
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