Act.25






目を覚まして、身体の硬直を感じた。傾いで差す夕陽の色に、自分が数時間は眠っていたことを知る。薬を飲んだにしては早い目覚めに、おそらくは造血剤が確実に意味を成すように設定されて睡眠薬は少量混ぜ込まれていたのだろうと思った。カヅサにまたも迷惑をかけたのだ、己は。そう思ってから、ナツメは自嘲する。迷惑を掛けているのは、まわりの人間全てに対してだと思い直して。

薬で眠ると、“眠り”と呼ぶより“落ちた”と形容したほうが的確という有り様で、体力の回復は感じられない。それでも造血剤の効果はあったらしく、眩暈は大分楽になっている。
クラサメの匂いが包み込むベッドを抜けだして、サイドテーブルの傍らに立つ。そこには変わらずナイフがあって、ナツメはそれを拾い上げる。血は完全に固まりきっていた。

「……バカだなぁ、本当にもう」

それは卑下であり、嘲笑であった。愚かなのは自分と、あの男と。その他大勢も含めてしまって問題なかろう。ナツメにとっては世界の多くが愚かに見えて仕方がない。だから、そうでない人間を守るために、愚かな人間は全員死んでも構わないのだ。
そんな己だから、裏切る覚悟なんて、四課に堕ちた最初から決まっていると思っていた。おそらくそれは間違いではなくて、でもそれだけでは済まなくなった。一緒に生きてきた仲間だったからだ。互いを守って、命を使ってでも隣で戦い続けた、戦友だったからだ。

「鈍ったわけじゃなかったのに。私は何も変わってなんか……」

そう信じていたし、これからも信じ続けるのだろうと思う。一方で、最後の踏ん切りがつかなかったということは、ナツメには確かに変化があったのだ。あってはならない変化が、微弱ながらも確かに。
クラサメが大切で、それは揺るがず、変わらない。けれど、それだけでもないのだ。0組の彼女たちを眩しく感じるように、0組の彼らを頼もしく感じるように、ナギのことだって……おそらくは、大切だった。気づくのが遅すぎたのだ。ああして血まみれの姿で院長の前に現れて、院長にああして啓されるまでそれを理解できなかった。院長が、ナツメの名も知らずに見抜いたことだったのに。

ナイフを握りしめ、ナツメは洗面台へ向かう。ナイフを開き、蛇口を捻って冷水に刃先をさらす。固まった黒い血はぼろぼろと剥がれて、排水口に吸い込まれていった。細かな模様に入り込んだ血を爪先で削りながら、ナツメは冷えていく手のことなど考えずにいた。そうして指先の感覚がすっかりなくなってしまうまで、ずっとナイフを洗い続けていた。

「……おい」

「あ、」

後ろから大きな手が、ナイフを握るナツメの手を包んだ。それがあまりに無感覚なので、ようやく指がうまく動かせないことに気づく。

「やりすぎだ。指が固まってる」

「……気付かなかった」

「ナツメ……、お前、まさかとは思うが、」

訝しげに注ぐ視線は厳しく、続きの言葉は簡単に予測できた。“痛覚が鈍っているのではないのか”、そう続くのだろうと。
クラサメは4組の魔法を知っている。痛覚を一時的に麻痺させることができることも、それを繰り返せばそのうち本当に痛覚そのものが感じ取れなくなってしまうことも。なぜ知っているのかは、思い出せない。死んだ誰かの記憶が絡みついて、記憶を黒く染めていた。
クラサメに追及されたら言い逃れなどできないナツメは、慌ててクラサメの目をじっと覗き込んだ。

「0組の子たちは……何か言っていた?授業中に先生を取っちゃって、悪かったな」

「問題ない。それより、お前が無事かどうかの方が気になるようだった」

「……そう」

いまさら、そんなふうに思ってくれる人間が現れたことが、妙に気恥ずかしい。
五年だ。五年、ナツメは四課以外の人間との接触を極力断ってきた。だから、あの奇妙なまでのドライさに浸って、慣れきっているのだ。命の応酬など前提で、生きて帰るかどうかは運で、死んだらそれまで忘れてどうぞ。誰も自分たちのことなど知らないし、気にもしない。それが当然になってしまうと、例外が怖い。
手を包む手の体温がほとんど感じられないのは、それが今やその“例外”だからだ。こうして冷水にさらされて、感覚を失くして動かない手指が、如実に己を表している気がした。

「もういいだろう。血なら落ちている」

「……落ちてないよ」

「落ちている。よく見ろ」

「落ちてると、思えないの」

自分の血は、とても汚いから。水で浚っただけで綺麗にできるとは到底思えない。
血なんて全部そうだった。血を見ると、人間はみんな同じなのだと思い出す。ナツメの知る限り、くだらなくて愚かで冷たい生き物だ。人間なんて、ほとんどすべてが。
除外されるのは、この男だけ。ナツメはゆっくりと、隣の男を振り返る。

ああでももしかしたら、あの子達も除外される?だからあなたは、あの子達を育てるの?

「あの子達って……どうしてか、きらきらしてるよね。こんな戦争の真っ只中なのに」

「……」

「どうしてかな。他のクラスの子は、ただ翻弄されているように見える。私も、ナギも含めてね。命じられて、殺して、なんとか生き残って、その繰り返しで……自分の意思で行っていることなんて、ほとんどないみたい。でもあの子達は違うの。あのとき、白虎を一緒に脱出したとき、それを感じた」

彼らは何も言わずとも地下道を選んで逃げてきた。自分たちの意思で。命令が望めないとわかったら即座に独自行動に切り替えた。彼らは、絶対に足を止めない。自分たちの行動に、ひとかけらの迷いもないみたいに。
その点においては、ナツメも同じだ。けれど、そこに意思はない。生き延びるついでに殺しているだけ。

「強いんだね、あの子達。生き延びることに疑問がないんだ。明日を生きることに躊躇いがないんだ。私やナギは、自分勝手で、いつも惑うのに」

「……お前たちは、簡単に自分の命を賭ける。彼らはそうしない。ただそれだけの差だ」

「賭けないと、何も救えないのよ。私もナギも、弱いから」

「それは弱さではない。ただ残酷なんだ。お前たちが度を越しているだけで、誰もが同じだよ。結局、私もそうだ」

自分の命は、いつも軽い。死ぬことは大して怖くないからだ。誰かのために死んでやるのなんて、本当はとても簡単なのだ。
そのほうが尊いと思えば、人間は疑問を抱かない。

「あの子達は、誰かのために死のうとはしない。彼らが生き残るほうが世界にメリットがあるって知っているから。それを事実として受け止めることは、強いと思ったんだ。自分を冷静に見つめて、それで狂わずにいられる彼らを……」

「……もういい。彼らと自分を比べるな。お前が同じである必要はないんだ」

クラサメはナイフを取り上げて、洗面台横のタオルの上に置いた。ナツメはそれを見送り、自分の指が動くのを確認してからクラサメに向き直る。

「私、四課に行かないと。ナギに会わないと」

「……今日でないほうがいいだろう」

「どうして?」

「先ほど一度会ったが、混乱していた。落ち着くのに時間をやれ」

「ナギが?あいつは混乱なんてしないよ」

「お前がそう思っているだけだろう
。誰だって戸惑うし、混乱はする。表に出すか出さないかだけだ」

「そう……なのか、な。想像できない……。クラサメもそんなことあったの?」

「あったさ。何度もな。最近だと、とある人間が一緒に脱出すればいいものをできないと言い張り敵地で孤立、その上誰の指令か知らんが0組の補佐に回りたった十五人で敵国を脱出するというバカバカしいにもほどがある任務についている間はずっと戸惑っていたさ」

「あっはいすいません死にます」

「お前を死なせないためにどれほどこちらが苦心したと、……もういい。生きていれば、いい」

クラサメのため息が耳元で痛い。そんなにも心配を、……かけた、だろうな。ナツメは唇を噛んだ。
ナツメは自己中心的で愚かな女だけれど、それでもその程度わからないほど無知でもない。クラサメは優しい、だから自分のことを心配しないはずがなかったのだ。

「私……部屋に、戻るね。明日、なんて言って謝るか考えないと。全然、思いつかないから……」

「それくらい、考えなくてもわかるだろう」

「わかんないよ。わかんない……っていうか、謝るべきじゃないのかな?私はどうせまた同じことをするんだから、謝らないほうがいいのかな?」

ナギは友人だ。だから最後の一線、ナツメはほんの微かに踏みとどまって、そこにクラサメは間に合った。
けれどこれがナギでなかったら。他の四課だったら、あるいはもっとどうでもいい誰かなら。
ナツメは止まらなかった。絶対に。立ち止まることなどなかったはず、だった。

「ならば私も彼も、またお前を止めるために全力を尽くすだけだ」

「……なんか、最高に不毛……」

クラサメの言葉に、ナツメはつい苦笑を漏らした。永遠のおいかけっこで、根比べ。ナツメが終わらせない限りは。そして、ナツメは絶対に終わらせない。
どんなに不毛でも、無意味でも、クラサメの生きている世界だけがナツメにとっては正義だった。なにより正しくて、なにより尊い。

どのみち部屋は出ようと思って踵を返す、後に残った方の手をクラサメが掴んだ。驚いて振り返る。クラサメもまた、なぜ止めたのかわからないような顔をしていた。

「だめだよ」

何が。
自分でもわからなかった。何もわからないくせに、ナツメの唇は勝手に否定の言葉を紡いだ。何を拒絶しているのか、それすらわからずに。

そしてその瞬間、空気が変わった。ただ捕まえているだけであったはずの手は力を宿して、強く握りこまれて一瞬痛みが走った。

「く、クラサメっ……」

「何が駄目なんだ?」

「離して、痛い……」

痛みを訴えれば、痛みを感じるほどの力は消えた。けれども依然として手は掴まれたままだ。

「答えろ。何が駄目なんだ」

強い口調は、確実に怒りを纏っている。何が彼の逆鱗に触れたんだかさえわからないナツメは戸惑って唇を震わせるのみだった。そのまま強い力で抱き寄せられ、彼の腕の中へ押し込められる。

「ここにいろと願うことの何が駄目なんだ。共に生きる未来の何が許せなかった?」

緑の目は、怒りだけでなく憎しみさえ感じさせて、ナツメを冷たく焼いた。それなのに心の奥にどうしてか、妙に温かな何かがほころぶのを感じた。
だから、今度は逃げられないと、思った。









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