Act.24
眉間に大いに皺を寄せた、険しい表情で現れたクラサメは、ナツメの姿を認め一瞬目を細めた。がしかしすぐさまもう一度目元が歪む、視線はじっとナツメの腹部を睨みつけている。
「あ……、く、クラサメ……」
「院長。彼女は、武装研室長の開発した毒の影響で錯乱しているようです」
「はっ!?何、それ……ぅ……」
「なるほど。その研究は素晴らしい成果を出しているようですね」
知らないところで責任を負わされているカヅサのことなどつゆ知らず、クラサメはぐったりと力の抜けたナツメの腕を取り後ろに引いた。そして失礼申し上げたことを伝え、引きずって部屋を辞そうとする。
「クラサメっ、私は……!」
「黙っていろ」
強く握りこまれてしまえば、腕はもう動かない。武人として鍛錬を積み、その道を究めた者の手から、ナツメが逃れられるはずがない。
たとえそれが、彼であっても。
部屋から引きずり出され、早々に体を壁に押し付けられた。鎖骨と肩の間を手袋に包まれた左手で押さえられ、右手がナイフの柄を握る。じっと傷口を覗き込みながら、クラサメが一気にナイフを引き抜いた。
血が糸を引くように刃先とナツメの体を一瞬つないで、ナイフは彼の手によって後方に投げ捨てられた。大理石の床に金属の音が反響する直前、緑色の光がナツメを包む。傷口がゆっくりと、全身に波及し始めていた痛みを忘れて、最後には力が抜けてしまう。
壁にもたれて、ずるりと力を失った足が膝をつきそうになり、クラサメは即座にナツメを抱え上げ横抱きにした。
「う……?」
「血を流しすぎだ。戻るぞ」
そう言って階段に向かうクラサメの腕を、ナツメはつい引いた。そして、目だけを回して床を探す。
血で光を反射するジャックナイフを見つけて、届くはずもないのに手を伸ばした。察したクラサメが代わりに拾い上げたので、ナツメはそれを受け取って畳んだ。そして、それからクラサメをじっと見る。
「出撃、するの?」
「ああ。もう決まったことだ」
「私にはもう、何もできないの……?」
「……最初から、何も求めてない」
あまりにも胸に刺さる言葉を、クラサメは呆れたように言って、ナツメを抱えたままで階段を下り始めた。全身が重く、ナツメは唐突な眠気に襲われていた。身体は勝手に、休眠を行おうとしていた。
言葉が重い。無力感から逃れられそうになかった。何も求められていないなら、それは、意味がないのと同じことだから。救われた意味も、死ななかった意味も、今ここにいる意味も、全部。
でも。
「何もできなくても、お前はいるだけでいい」
「……ぇ……?」
「お前がここにいるのに、理由なんていらない」
ナツメの怯懦が。姑息で矮小な、戸惑いが。首をゆっくりと締めてくるような、感覚だった。
ナツメは理由が欲しかった。理由があれば、ここにいてもいいと思えるからだ。だったらナツメは結局、自信が欲しかっただけで、そのためだけにこんな行動をとったのだ。
でも。それでも。
「あなたを……一人で、行かせたりは……しないから」
「何を言ってる。……おい、おいナツメ?」
クラサメが名前を呼んでいる。それが嬉しかった。その間だけは、確かに理由なんていらないと思えた。
喉の奥の嗚咽はひとつだけ溢れて、意識が混濁していくのを感じる。暗闇に落ちて、クラサメの体温も浮遊感もすべてが失われていった。
手の中にある、ナイフの感覚だけを残して。
クラサメはすぐに戻ってきた。そして躊躇いなく、ナギに殺気をぶつけてきた。そこから察するに、ナツメの傷は相当にひどかったらしい。柄まで突き刺さってたしな、と思い出してナギはため息をついた。なんて面倒事を引き起こしたのだと、今更ながらに。
ちょうど授業と授業の合間であったこともあり、教卓の教材を入れ替えているクラサメをちらちらと覗いつつナギはうなだれた。俺殺されねぇよなと必死に自分を慰めながら。
「っはぁー……」
「どうしたんだナギ、大きなため息ついて。ナツメのことか?」
「まぁそれもあるけどな……いやそれはこの際どうでもいいけど……お前ら四課に入ったろ?」
「え?ああ、うん、ナツメに会いたくて」
「諜報部の、特に四課に入るには正式な手順がいるんでな……放っておくとお前らの登録番号が四課のリストに載っちゃうんで……」
四課の入り口はわかりにくい場所にあり、入るのに魔法陣は使用しない。ので、魔法陣を使って候補生や武官の登録をチェックできず、そのため階段の最初の一段にその罠は仕掛けられている。一段目を通るために踏み、そして最初の分岐点である踊り場へたどり着くと、その最後の一段と呼応して通った人間の登録を確かめるのだ。と同時に登録外の人間は記録を取られ、のちのち四課の訪問と詰問と拷問を受ける羽目になるという仕組みだ。
0組相手なので実際そうなることはありえないのだが、リストに名前が載るのはよろしくない。何が起きるかわからないのだから。
「んでもさぁ〜?ケイトがなんかぁ、魔法の感じがするーって言って、階段の一番上と踊り場の一個手前踏まなかったんだぁ」
「……ん?」
「ああ……なんとなくだけど、嫌な感じがしたんだよねー。だから避けたの。何かマズかった?」
「えーと……マジで?」
ナギは驚いて目を剥いた。知らずに避けられるものではない。あの階段は暗すぎる。
もちろん魔力を用いて作った罠なので、魔法技術の高い人間ならば察知は可能だ。が、あれだけ暗い場所で、足を踏み外さないよう注意しながら、その上でとなると本当に難しい。ナギの知る限りでは、気づいたのはナツメただ一人である。とは言いつつも、彼女も踏みつけてから気づいたらしい。つまりは、ケイトはそれ以上の能力を発揮したわけで。
「……本当にもう、お株を奪ってくれるなぁお前ら」
「ん?何が?」
「いんや、別に。しかしそうか……それなら、考えたくない方考えないといけないなー」
「ナツメのことか」
「セブンの察しの良さは本当どっから来るんだよ?……いや、もう、本当面倒くさくてな……どうしてくれようあいつ」
「たぶんいまナギをどうしてくれようと思ってるのは隊長だよ」
「ひっ」
会話を聞かれていたのかじろりと睨みあげられ、身体が跳ねた。“刺していいとは言ってねぇぞてめぇこの野郎”と顔に書いてある。第一あんたと組んでしたことだろうがと内心で言い訳をしたが、それは刺したことの言い訳にはなってくれないのだ。
ナツメになんと言おう。考える。彼女になんと言えば、諦めてくれるだろうか。答えの出ないことを延々考えてしまうのは、心配で仕方がないからだ。
ナギとクラサメが気を回した結果、ナツメの次の行動が予測できなくなった。彼女を封じるために次にできることなど縛り上げて本気で拘束してしまうぐらいしか思いつかないが、さすがにクラサメが賛同するとは思えないし次逃したら問答無用で殺される気がする。
「……どうしたもんかね」
「とりあえず謝れよ」
「まぁナツメがそもそも吹っ切れてんのが最大の問題だけどな……」
「わーサイスわかってるぅ……。んでもま、俺が悪い……んだろうな。今回は。反省する理由は、ないけど」
ナギには、打算からの行動であった。四課を守るため、魔導院を守るための。それでも、やはり同時に、ナツメを守るために動いたのは間違いないことだった。それを改めるつもりは、あれだけの殺陣を演じた後でもなかった。彼女もそうであることを、願う。
ナイフが無いので、どこか落ち着かない。魔力を使って自在に取り出せるようにしてあったナイフは、ナツメによって接続を切られ、どこにあるのかもわからなかった。
彼女の血を浴びたナイフに戻ってきてほしいような、絶対に戻ってほしくないような、不思議な感覚があった。
「……あー」
目を覚まして、そこがただの部屋であることに気づいて困惑した。次目を覚ましたら、おそらくは医療課かカヅサの部屋か自室か四課、まぁそんなところだろうと思ったのだ。が、部屋に見覚えがない。殺風景さは自室と似通っているけれども、小物の類は少ない。棚に置かれた鏡が割れているのに気づいて、ナツメは更に戸惑った。が、直後に、その鏡の意匠に見覚えがあることを思い出した。
全身を包む、懐かしくて安心する匂いにも。
「ここは……」
「あっ、ナツメ!起きないの!」
「え……エミナ?どうして……」
「クラサメくんに呼び出されちゃったのよ。こう、“カヅサのバカには今預けられない”とかなんとか言って。カヅサのせいにしちゃったんでしょ?今回の件。それなのにカヅサのところにいるのなんて見つかったら大変だからネ」
「え、ええー……?」
だからって、ここに連れてこなくても。
そこは紛れも無く、クラサメの私室であった。物が少ない、武官寮の一室。自室と点対称の位置にあるだけあって、部屋の構造が逆だ。なぜ自分がここにいるのか、一瞬意味がわからなくて、ベッドから降りようとする。瞬間微かにふらつく頭蓋、眩暈。見咎めるまでもなく、エミナは慌ててナツメを押しとどめた。
「血を流しすぎたそうじゃない。しばらく絶対安静だわ」
「そうは言っても、……っていうかあの……なんていうか、状況にとても覚えがあるのですが……」
「トゴレスから帰ってきたときよネ?ええ、あのときそっくりよもう。一体なにしてるのカナ、出撃したわけでもないのに」
耳が痛い。とても痛い。あの時はある意味仕方がなかったが、今回に関しては完全なる私闘であり叛意の結果に過ぎないのだから。
「……クラサメは……」
「教室に戻ったわよ。ケド、すぐ戻ってくるんじゃないのかな。あなたのことが心配でしょうし。それで、それまであなたをここに閉じ込めておく係を仰せつかったのがワタシなの」
「うっ……そ、そっか」
「ダカラ、今のうちに逃げておこうとか考えても無駄よ。クラサメくんなんかすっごい怒ってたし、見つかったら大変なことになるからネ。どうなっても知らないわよ」
完全にお見通しの目をしていた。ので、ナツメが驚いてつい「どうしてわかったの」と聞くと、「女のプライド」との言葉が返ってきた。
「この状況で男が帰ってくるのをただ待てる女なんかいるはずないわ」
エミナの笑い方が、いつもの穏やかでいたずらっぽいそれとは格段に違って、ナツメは押し黙った。途端にエミナがキッチンから、「はいはいっ、そーいうワケでベッドから起き上がっちゃダメよ。ほらこれ飲んで」と水と錠剤を持ってくる。無理に押し付けられたその薬の正体はわからなかったが、エミナが持ってきたものなので素直に口にした。
と、不思議そうにエミナは首を傾げた。
「ナツメは四課なのに、ワタシが持ってきたものを疑わないよね。どうして?」
「え?……だって、それは……エミナ何もしないでしょう?」
「わかんないじゃない?スパイなのに、そんなことでいいの?心配だナ。例えばワタシが白虎のスパイだったら、どうするつもりなの」
眉根を下げて近くの椅子に腰掛けたエミナをぽかんと見つめつつ、言われた言葉の意味を考える。それはつまり、スパイとしての資質の話で、でも今は。
「……エミナがスパイでも、そんなのどうでもいいことだよ。エミナに殺されるんなら、恨まないから」
「え?」
「カヅサも、クラサメも。もしかしたら、……0組も。殺されても恨まないから、あなたたちが私を殺そうとしたんならそれが正しいと思えるから、だから警戒しないんだよ」
……そこには。
考えてみれば。真剣に、真摯に、悩んでみれば。
もしかしなくてもきっと、ナギも含まれる。
ベッドに横たわりふと見れば、傍らのベッドサイドテーブルの上に、凝固した血の跡が見受けられるナイフがたたまれた状態で置いてあった。見慣れた、ナギのジャックナイフだ。武装研で制作された、ナギの武器。内務調査を主に行うだけあって、音のしない武器だった。刺して、引き抜いて、それだけでお仕舞のナイフ。
「……エミナ。部屋からは出ないから、ベッドからは起きていい?」
「ンー……。まぁ、いいよ。でも、それは起きてからね」
「え、……あ?」
身体が起きなかった。力がまるで入らない。ゆっくりと、唇にまで痺れのような感覚が回る。エミナがそっとナツメの前髪をなでた。
「あなたを起こすなって、カヅサも言ってたのよ。造血剤と合わせて睡眠薬も混ぜておいたわ。五時間は起きられない」
「……、まって……」
でも、私は。私は、ナギに……。
ナツメは手を動かそうとしたが、指先さえぴくりともしなかった。
「おやすみ、ナツメ。眠っていて」
声は返せなかった。意識が白夜の薄い白雲に飲み込まれるような、奇妙な眠りにすべてを奪われてしまったから。
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