Act.2







助走なんてものは、必要なかった。
彼は降り注いだ拳を掴み、回し、そして離しただけ。あとはまっすぐに床へと落ちていく。
ナツメはそれを、ただ見ていた。

「うぐぁッ!?」

彼女の横をすり抜けた瞬間の、「何が起きているんだかわからない」という青年の顔。少々哀れといえば、哀れかもしれないが……。

「んにゃろッ!」

「ケイト!」

投げ飛ばされた彼の後に続き、魔法銃を手にした少女とカードらしきものを握りしめる少年がクラサメに襲いかからんとした。ナツメは邪魔にならないよう後ろに一歩引いて、その二人がいなされるのを見送る。そしてクラサメの手に現れた透き通る剣の先端を突きつけられて、少年は動けなくなった。

「ひゃー、強いねぇーあの人!」

教室の後方で興味深そうにこちらに身を乗り出した少年が素っ頓狂な声を上げる。
それをぼうっと見つつ、ナツメは内心ため息をついた。五年ほど顔を合わせていなかったけれど、まるで変わらない。大体先に手が出る。かつてはよく鉄拳制裁されたものである……懐かしい。それもまぁ、訓練生になるまでだったが。

寡黙な印象を与える人だし、それは決して間違っていないのだが、いかんせん喧嘩っ早いのだ。面倒だと思ったらとりあえずぶっ飛ばしてしまう。それがむしろ話を面倒にすることが多いのだが、彼はわかっているのだろうか?
……と言えたら苦労はないけれど、したくない苦労でもないので耐える。己は耐える。でも、彼らをそれに付き合わせるのも忍びないので。
ナツメはじっと視線を上げ、彼らを見た。ゆっくりゆっくり、全員の顔を見る。そして途中、長い黒髪の少女と目があった。多くいる生徒の中で彼女だけは、真摯な目をこちらに向けていた。ただし、その視線が注ぐのは倒れ伏した青年。
ナツメは眉根を寄せ、目尻を下げて彼女を見た。縋るように。こういう顔をされて放っておける性格ではなさそうだからだ。その予想は正しかった。

「あなたたち!いい加減になさい、マザーの命令が聞けないの!?」

彼女がそう声を上げると同時、生徒全員が顔を前に……つまりナツメたちに向けぴしりと動きを止めた。もともと静かに座っていた、ほとんど動きの無かった生徒さえ、呼吸しているのか怪しいほど完全な静止。

「(ん、んん……?)」

表情には出さないように、しかしナツメも戸惑った。面倒そうに窓の方を眺めていた少女も、手元の武器を拭いて整備していた少年も、それまで一切関心を示さなかった子たちまでもが“マザー”という単語一つで操舵を奪われたのだから。まるで、操り人形がロープで横繋ぎにされているみたいだった。
ドクターの子供たちだって噂は本当なんだろうか。しかし12人はさすがに多すぎる、気が。それに、もしそうだとしたら兄弟?兄弟にしては、親密すぎる気が少し。

硬直はしかし一瞬で溶けた。ナツメが思考を終えるまでに視線は宙で交わり、クラサメとナツメに集束する。じっとこちらを見るその目に宿る感情は色とりどりで、少しだけ困惑している。
一応話のできる状態になった。

クラサメはそれを待っていたかのように、意図の読めない視線を一瞬こちらに遣った。それから生徒たちに顔を向ける。

「以後、諸君は私の指揮の下“ミッション”に参加してもらう。こちらから指示のない時は、他の候補生と同じように院内で生活するがいい」

クラサメが淡々と告げる。と、先程突っかかってきたうちの一人である、魔法銃の少女が不満気に「院内で?」と声を漏らした。そして、後方で一人でニコニコしている青年もまた、「今までそんなことしてなかったのにー?」と素っ頓狂な声を上げる。彼の場合は明るい声音だったが。

彼らが魔導院へ所属することになって一日、0組の寮が早くも作られた。というか、寮そのものはもうずっと前からあったのだ。この教室も。0組という名前は、魔導院の伝説だから。ただし、もう百年近く放置されていたのだが。
聞くところによれば、それを掃除するのが大変すぎて12組が消費されたという。戦闘直後から始めて、掃除を終わらせ、まだ寝ているらしい。なんと哀れな。

「それと……候補生マキナ、候補生レム、入れ!」

クラサメがそう扉の外に声を掛けると、おずおずとした様子でドアが開き、青い髪の青年とピンクブロンドの少女が顔を出した。中の微妙に辛辣で複雑な空気に外で困り果てていたに違いなかった。ので、ナツメは微笑みを浮かべそっと手招きをする。彼らは強ばっていた表情を和らげ、教壇に向けて歩いてくる。

「本日付けで0組に配属となるマキナとレムだ」

「あ、マキナ・クナギリです。よろしく」

「レム・トキミヤです。よろしくお願いします」

お目付け役ってところかしら。そんな声が、黒髪の少女の口から漏れた。
それは微かな音量だったが、確かにナツメの耳には届いた。

「(……ふむ)」

お目付け役……か。ふぅん……?
ナツメは目を細めた。お目付け役は、己のはずだ。ではこの二人は?
……まぁ、移送用魔方陣ですら使わせないほどに信用の無い己一人で、あの男が安心するわけがないか。軍令部長の顔を思い出して、ナツメは内心で項垂れた。

「では別命あるまでは自由にしろ。諸君の成果に期待する。クリスタルの加護あれ」

横で告げるクラサメが、決まりきって聞き飽きた文句を落として教室の出口へと歩き出す。それを見送り、彼が部屋から完全に姿を消してから、ナツメは頭を下げた。

「私は、副隊長に任じられました。専門は治癒魔法と、白虎の……文化です。何かわからないことがあったら、私に尋ねてください。どうぞよろしくね」

一瞬言いよどんだのはご愛嬌で、微笑みと共にそう告げる。満面の笑みではない。ほんの少し口角を上げた程度の顔が、一番他人の警戒を解く。それは間違いなく成功し、ほとんどの生徒は笑みを見せるか、返事を返した。もちろんそうしない生徒もいる。例えば銀の髪を結い上げた少女や、先ほどの黒髪の少女とか。特に黒髪の彼女は、じっとナツメを見つめている。そして躊躇いがちに、口を開いた。

「あなた。その武官服……見覚えがあります。確か四課……諜報部のものでは?」

「……驚いた。もう知ってるの?そんなことまで」

皮肉でなく、本当に驚いてナツメは目を見開く。本当は数日くらい保たせたかったのだが、無理か。

「そうよ。四課に所属しています。正式な命令はまだだけど、おそらく四課に属したまま0組のフォローにあたることになると思う」

何度も言うけれど、四課から下はない。特に自分みたいなのは、次は死体だ。だからこれ以上の異動はありえない。

「それは……魔導院の上層部が、わたくしたちを疑っているということでよろしいでしょうか」

「まぁ……そういうこと、でしょうね。ただ、それだけでもないけれど」

どういうことですか、と続く問い。「まだ知らなくていいわ」とナツメは答えた。それだけでもないけれど、教えるわけにはいかなかったりする。確実に不信感が増してしまうので。そんなの、困るので。問い詰められる前に教室を出る。
疑われているのは彼らだけではない。ドクターだ。基本的に沈黙を守る院長より、ドクターの方が今は発言力がある。一種の専制と呼んで申し分ないほどに。
そんな中、特に軍令部長は、四席でも一番彼女を厭うている。0組を探るのは、ドクターが初めて見せた弱みだからである。

「……戦時下とか、そういうのわかってるのかしらねぇ」

わかってないんでしょうねぇ。ナツメはひとりごちる。
しょうがない。朱雀という一つの集団だからって、違う人間だ。自分だけ助かればいいと思う人間は数多くいる。例えばこの、自分とか。

「顔合わせ済んだかよ」

「ナギ」

廊下の端に凭れて、なぜだかナギが待っていた。聞けば「四席がお前呼んでるー」だそうで、新たな職業に伝書鳩を進めておいた。あるいは伝言板。

「もしくは人間に立ち戻って、郵便配達員とかどうかしら?」

「お前って本当、ナチュラルに俺に毒舌だよね」

「ん?お互い様では?」

「どこが!俺、お前には暴言吐かないじゃん!」

「ナギは一番大事な時に言ってはならないことを言うでしょ。それでイーブンだよイーブン」

靴音を鳴らしながら、二人ホールに向けて歩く。四席が待っているといえば、当然0組のことだろう。先程黒髪の彼女に伝えた通り、おそらく正式な人事を食らうことになる。昇進という扱いになるだろうが、嬉しくもなんともない。

「……ねぇ、ナギ」

「ん?」

「一つ聞きたいんだけど。……私のお願いって、どこまで聞いてくれる?」

一瞬だけ足を止め、前を向いたまま隣の彼に問うた。彼は、続ける言葉を躊躇わなかった。

「まだ死にたくはねぇんだけど」

「私ごときにさえそんなに素敵な返事ができるのにどうしてナギってモテないんだろうね」

「やかましいわ」

っていうかモテなくないわとぎゃあぎゃあ騒ぐナギの言葉は無視して、ナツメは強く前を睨んだ。
何が起きているのかぐらいはきちんと把握していないと、いつ後ろから刺されるかわからない。物事が大きく動くタイミングではなおさら。

「じゃあ、ちょっと調べてほしいなぁ」

「何?クラサメさんの女性関係とか?」

「そこの窓で6通りのやり方で殺してやろうか」

「あ、知りたくないんだ!そうだろ!まぁ頼まれても調べねーけど、変な事実とかあったらお前首吊りそうだし」

余計なお世話だ。

「そうそう、お前武官寮に引っ越しね。俺の真上ね。辞令もらったらダッシュで用意始めろ」

「用意も何も、所持品なんてほぼないしなぁ」

「年頃の女がよ……」

余計なお世話連打でため息をつくナギに、頼み事の内容を伝える。彼を9組の教室へ続く魔法陣に押し込んで、ナツメは先程訪れたばかりの二課へと足を向けた。
ナギがいてくれて助かった。ナツメにできない無理はナギが通してくれる。

軍令部のドアをもう一度押し開くと、そこには四席しかいなかった。全員顔色が悪い。目の下の隈と充血具合、それに疲労の程度も考えると、そろそろ限界が差し迫っている。なんせ歳だ。
ここにいるのは八席のうちの四席……即ち兵站局長、学術局長、院生局長、そして軍令部長。八席の一角を一応担っているはずの四課は、基本的にこういう政治には四課は口を出さない。四課というのは存在そのものが兵器であって、政治家ではない。

四席はナツメを視認すると、表情をゆるめた。特に院生局局長は「ああナツメ、待っていましたよ」と言って微笑む。昔彼女に教わっていた時期があるため、彼女はナツメを蔑視しない。

「遅くなりまして、申し訳ありません」

「いいえ、いいのですよ。あなたが仕事を遂行しているのはわかっています」

院生局局長は、そう言ってナツメを許した。優しげな声だった。それに軍令部長が苛立っているのはわかるけれど、相手が同程度の立場では怒鳴り散らすこともできないだろう。少し滑稽だ。

「ナツメ。あなたを正式に四課武官として任命します。そして、同時に0組副隊長に任命します」

「はい。……拝命します」

そして、と続けられなくても、続きがあることはわかっていた。

「それから。0組の内情を、探ってほしいのです。ドクターからの密命がないか、彼らが本当にただの救国の英雄なのか」

「はい」

「この仕事については誰も知りません。クラサメも、四課もです。……むろん多くが勘付くでしょうが、証拠はどこにもない」

「承知しました」

頭を下げるナツメの前に、任命書が差し出された。クリーンな命令書だ。久しぶりにこんなものを目にしたな。ナツメは内心苦々しい思いで受け取る。
用件はそれだけらしい。大事な用事なのは事実だが、これなら朝済ませてくれればよかったものを。そう思いつつ、部屋を辞す。

しかし……0組に潜入か。相手が年下で、ましてや集団だなんて初めてだからどうするべきか。ドクターはどうして彼らを外局なんてところで育てていたのだろう?多くの候補生同様、ナツメはその存在すら知らなかった。そもそもどの程度周知だったのかわからないが、対白虎専門とはいえ四課のはしくれの己が知らないのだから、やはり一般的な存在ではなかったはずだ。

「……あら」

「っ、ドクター」

顔を上げたら、大魔方陣の傍らに彼女が立っていた。彼女のことを考えていたせいで、驚いて声がひっくり返った。

「あなたよね?あの子たちの補佐をするのは」

「はい。ナツメといいます」

「そう……、あの子たちをよろしく頼むわ。……あの子たちのことは、多分あなたが一番理解できると思うのよ」

その言葉に驚いて、下げていた頭を上げると、彼女は「ああ、もちろん私は除いて、よ?」と微笑んだ。
……変だ。彼女はこんなに物腰の柔らかい人間じゃない。こんな顔見たこともない。ナツメが目を白黒させている目の前で、彼女は心配そうに表情を曇らせて続ける。

「あの子たちはね、回りに頼れる大人が私しかいなかったものだから、出来るだけ自分たちでなんとかしようとするのよ。もう少し歳相応の癖も持って欲しいのよね。……あなたには、彼らの姉みたいな存在になって欲しいわ」

いよいよ妙で、血の気が下がる。懐柔しようとしているのかなんなのか。全く意図がつかめない。鳥肌が立ち、背中が粟立つ。
ナツメがなんとか、「はい、そのように努めます」と答えると、彼女はまたふっと微笑み、「それじゃあ、また」と言って大魔方陣に消える。ナツメはその場に固まって、たっぷり十秒は動けなかった。








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