Act.11






全身を治療しながら、ナツメは地下道を歩き始めた。
本来なら、もうすでに朱雀に帰還しているはずだったのに。妙なことに巻き込まれてしまって長くなったな、とひとりごちる。
そして、まだ仕事は終わっていない。

「停戦ってことは、院長が来てるはず……」

暗殺のことは、そんなに早く明るみにでないだろう。工作する時間が白虎にも必要だ。
せいぜい一時間といったところか。決して余裕とは言えない時間だった。

院長がいるのは、先程蒼龍女王を探しまわった時に行かなかった場所だ。どこにも要人はいなかった。
けれど、蒼龍女王と院長では違う。女王は暗殺される予定だったのだから白虎関係の建物にいるとわかっていたけれど、院長まで白虎関係の建物にいるはずない。

「きっと大使館にいる……!」

数ヶ月前、開戦に伴って大使館は占拠され、大使館員は一度国外に追放された後で侵略に巻き込まれ殺された。が、大使館は本来治外法権で、停戦になれば治外法権も回復する。そうなれば、院長が滞在するのはまず間違いなく大使館である。
大使館はここからそう遠くない。それだけが救いだ。院長は個人用艇で白虎に来たはずだから、それを使ってきっと帰れる。
だから、警告さえできればいい。

ようやく擦り傷を治しきって、ナツメはようやく地下道を這い出た。血塗れのコートはまずい。ナツメはコートをひっくり返して抱え、ドレスの汚れを隠すようにすると、適当な質屋に入る。そこで先程盗んだアクセサリー類を全て売却し、今度は洋装店に向かう。なんだっていいからとロングコートを適当に買い、自分のコートは地下道に投げ捨てる。血さえ隠せればなんだっていい。

大使館までは、地下が繋がっていない。危険だけれど表を進む。
真昼の街中はまるで普段通りの街みたいだった。暗殺なんてこと、まだ誰も知らない。
蒼龍女王に会ったことがなければ、記憶は持ち得ない。だから記憶が消えるのは、蒼龍女王に触れて記憶になるような感情を得た者だけだ。ナツメだって、ホテルの窓から彼女の飛空艇を見ていらだちを覚えていなければ蒼龍女王の暗殺を察知することはできなかったはずだ。

その点から言えば院長は気づくはずだけれども、それだってすぐとは限らない。早く伝えなければ。心臓が痛みを持ってさんざん脈打ち、息が苦しい。
朱雀の旗が見えてきた。

「院長……!」

無事でいてくれ。彼に今何かあったら、朱雀は終わりだ。
ナツメは人通りの少ない裏道に抜け、トゴレスに侵入したときと同じやり方で高い塀にぶら下がった。そして素早く昇り、中に入り込む。
木々の多い庭を走り、庭に出るための出口であろう勝手口に近寄る。そうして邸内に入ろうとして、しかし一瞬手が止まった。
鍵がかかっている。

「っ……」

ピッキングしようと手を伸ばして、不意に止まった。
したくないと、一瞬思った。

だってまさしくこれじゃないか。こうやってナツメは拒絶されてるんじゃないか。それなのに無理にこじ開けてまで守ろうとしたって、ナツメが裏切られない保証など。
もういいじゃないか。いますぐ逃げて朱雀に戻って、彼らには警告しよう。可能なら一緒に逃げればいい。逃げられる。自分は逃げるのばっかり得意なんだから。

指先が木目の美しいドアを引っ掻いた。走って荒くなった息は少しずつ収まっていく。足元がひどく冷たい。
しばらく静かに待っていた。そして、結局鍵穴に手を伸ばす。

「だから、何を考えてんのよ私は……」

そうじゃない。そうじゃない。
裏切られるから何だ。切り捨てられるから何だ。そんなことより大事なことがあるから、ここまで走ってきたんだろう。
ナツメはアボイド魔法とウォール魔法の応用でピッキングを開始する。時間がないのだ。
ナツメの手の中で魔法が展開され、終わる寸前であった。
不意に、がちりと鍵の開く音がした。

「(……やばっ)」

たとえここが朱雀大使館だとしても、四課が姿を出すわけにはいかない。とっさにピッキングしきった鍵を予定とは反対の方向にまわして鍵をかけた。
しかしもうそこから動けない。さてどうしようと硬直するよそで、鍵はもううんともすんともいわなかった。
が、代わりに、明かり取りのために設けられたドアの小窓に手が浮き上がった。
手袋をしているらしく、黒い。

「……ナツメ?」

「え……」

知った声が耳朶を打つ。……どうして、とナツメが問うより早く、鍵は改めてがちゃがちゃとけたたましい音を立て始める。ドアノブも一緒に掴んでいるのかドアそのものが上下に揺れていた。ちょっと待て。ナツメは慌ててドアに張り付いた。

「クラサメっドア壊れる!壊れるよ!」

「壊す!」

「駄目だってば!」

クラサメの力に勝てるはずもないのに、ナツメは慌ててドアにかじりつき下向きに引っ張った。ドアを壊す必要なんてどこにもないのだから。
なんとか静まらせ、ナツメは今度こそ鍵を開けた。しかしドアは開けず、向こうから開かないよう両手で押さえた。

「おい、開けろ……!」

「お願いそのまま聞いて。蒼龍女王が暗殺されたわ」

「は?何を言って……」

「白虎はその責任を朱雀に押し付けるつもりみたい。院長はまだここにいるのよね?早く脱出を……」

「だからお前は何を、……ああ、本当だ。女王は死んだのか……」

「思い出せないでしょう?」

「ああ」

クラサメはドアの向こうで苦々しく肯定した。

「クラサメが護衛についたのね……」

「1組の候補生でもよかったんだがな……」

「1組が全員来るよりあなたのほうが強いじゃない」

「……そう言うな。かどが立つだろうが」

思ったよりずっとなんでもない会話に、ナツメは安堵して胸をなでおろす。彼にさえ伝えられれば、彼さえ逃げてくれればそれでいいのだ。
しかしその安堵を塗り替えるみたいに、クラサメが突然またドアを開けようとする。がちゃがちゃと騒がしくなった。ナツメが慌てて押さえるもドアがみしみしと上下に揺れる。力勝負で勝てるはずがないので、制止のためにできることは声を上げることだけだ。

「ちょっ何!?もういいでしょ早く院長と逃げてってば!」

「お前は」

「へ……?」

「お前はどうするんだ。お前だって逃げるんだろう。こっちに来い!」

クラサメの言葉がやたらと鋭く、否定を許さない強さで言う。
ナツメはどう言い訳したものか考えて、結局、言い訳なんて無意味だと理解する。

「……逃げるけど。でも、院長たちとは一緒にいけないよ」

「なぜ……!」

「四課は表立って動いちゃいけないから。何があっても。記録の残る飛空艇で白虎を出るわけにはいかないの。私は作戦行動を行った後だから」

「だから何だ!?四課のルールなんて、お前の命より優先することではっ……」

嬉しかった。その言葉だけで。
ナツメは額をドアに押し付けた。ドア越しに、そこにクラサメがいる。それだけでもう。

「クラサメ」

「何だ……」

「生きて帰ってね。おねがい」

もう返事を聞いている暇など。
ナツメは走りだし、すぐさま姿を眩ませる。インビジ魔晶石を使ったのだ。こんなことのために使ってどうすると、自分でも苦く笑いながら。

後ろでドアの開く音と、己の名を呼ぶ声がする。駆け出す靴音も同時に。でも駄目だ。自分はすでに相当やらかしている。兵士を何人殺したかなんて思い出す気にもなれないし、その前に暗殺もしている。
そんな自分が院長と同じ飛空艇になんて乗ったら、院長がそれを黙認することとなる。それは駄目なのだ。四課であるということを差し引いても、あってはならないこと。

「っは、はぁ、はぁ、ぅ、……」

息が切れる。ナツメが疾走って風が起き、通り過ぎると兵士が驚いて見えないはずの彼女の姿を視線で追う。それでも止まらない。大使館が肩越しに見えなくなったって走る。
あなたに追いつかれては困るのだ。困る。困るの。
五年前までは、これは恋だった。今はもうきっと違う。そんなことをふと思って、足が縺れて崩れる。壁に手をついてしゃがみ込む。

あの日までは恋だったのに、もっとねばついた……暗い何かに変わってしまった。
気持ちは変わっていない。ただ、彼を失うわけにはいかなくなった。何があっても。国が滅んでも世界がどうなっても興味はないが、彼が死ぬのは許さない。

「……行こう」

生きて帰れと言った手前、自分が死ぬのは裏切りのような気がした。記憶が消えるなら構わないとしても、率先して死にたくはなかった。
ナツメは地下道の入り口を目指す。
そして、白虎を出るための方向へ伸びた地下道に入る。はずだった。

突然掴まれ、路地裏に連れ込まれなければ。

「ッ!?」

「……仕事は済んだみたいだな」

ナツメは気づかぬうちに引きずられ、地面に膝をついていた。そのせいでインビジが解ける。彼がついでとばかりに支えていなければ、薄汚い地面に倒れ伏していただろう。

「ナギ……あんた、なんで」

「ま……いろいろな。院長にくっついてきて、四課に指令飛ばしてた。んで、ついでにお前に指令を伝えに来た」

白虎の兵士の軍服を身にまとっているし、いつもしているヘアバンドもしていないが、それはナギだった。彼はほとんど無表情でナツメを見下ろしている。
ナツメは立ち上がろうとしたが、立ち上がる前にナギが屈んだのでやめた。なぜナギがここまで来たのか、聞かなければならない。ナギがここまで深く白虎に入り込むことなんて今までにないことなのである。少なくともナツメの知る限りは。

「お前に指令だ。軍令部もどこも一切関与ナシ、四課だけの密命だ。誰にも漏らすな」

「いや命令ばらしたことなんてないんだけど。ナギがばらしてたのは見てたけど」

「そういうこと言わないの。ともかく、仕事だ」

ナギは少しだけ笑って、「0組が」と言った。

「0組が、ここにいる。潜入作戦のことは知ってただろ」

「ああ……新型兵器の破壊よね?」

「その作戦が完了した直後、停戦になった。そのせいであいつらはここイングラムに取り残された。今もホテル・アルマダにいる。確認した」

「……え」

「お前がてめぇの領分を超えて仕事しようとしてくれちゃっただろ?アルマダに戻って兵士をぶち殺してみたり、ここまで走って危険を知らせてみたり。ま、そのせいってわけじゃあねんだけど、今は大変なことになってる」

ナギはその微かな笑みを崩さない。だからむしろ表情がわからない。彼の考えがまるでわからない。まるで面でも貼り付けたみたいだ。
少し、本当に少し、ナツメは悪寒を感じた。ナギは滔々と話し続ける。

「さっきの笑える恋愛ごっこの中でお前が報告してくれた通り、どうやら蒼龍女王は殺されたらしい」

「今のであんたも殺してやりたくなったんだけどどこで見てた?」

「俺には何でも見えてんだよ、忘れんな。で、蒼龍女王の件だが、白虎から報告が来る兆しがねぇ。お前のご推察の通りで、朱雀に責任を押し付ける運びなんだろう」

「……、0組?」

「お前のね、成績は別にそうでもないくせにたまに頭の回転早いとこほんと好きよ」

「いやあの成績捏造じゃ……私もナギももう五年以上テストなんて受けてないし」

「ともかく、0組は格好の獲物だ。ま、これは四課の考えだけどな。もしかしたら白虎政府はそこまで頭が働かねぇかもしんねぇし、奇跡的に0組全員がすでに首都を出てるとかいうミラクルがあるかもしんねぇし」

「さっき確認したって言ったのはなんだったの?」

「で、0組を早急に白虎から逃さなきゃなんねぇの。そのために今一番近くにいて自由に動けて、0組を牽引できる立場なのはお前だけだった。だから俺が知らせに来た」

「……別にナギでもいいでしょう?」

「俺は白虎に潜入した経験も少ない。当然、脱出の経験だって浅い。適任とは言えねぇんだとさ」

不意にナギが一瞬だけ顔をしかめた。言葉に他人からの命令を匂わせる言葉が交じるのはナギには珍しい。
たぶん、最初はナギがその役目を負おうとしたのだろう。0組を助けるなら、ナツメでは戦闘能力から見ても不足なはずだ。確実に0組の助けになれるのはナツメよりナギだ。それにナギは0組が好きだから、可能なら手伝いたかったに違いない。でも止められた。

「仕方ないわね。……0組に何かあったとき、ついでにナギが死んでたら四課も大変なことになる。リスクの分散は第一要件だわ」

「そこまでわかっててくれてよかった。これは言いづらかったが、……純粋な0組メンバー以外、つまりレムとマキナは“最悪の場合”いいってよ」

「ああ……それも言われると思ったよ。私とレムとマキナは代わりがいる。あの子達とは、違う」

ナツメは彼らの戦闘風景を、まだ直接目にしていない。でも扱いの違いはわかっている。魔導院において、とことん純粋な実力主義な四課においてはその差は殊更に顕著である。ナツメが白虎出身でありながら四課内でそれなりの地位にいることからも知れるように。
それは四課が魔導院内で最も入れ替わりが激しく、実力のない人間から死んでいくため結果的に形成された価値観だった。そして、その四課で今一番大切にされているのは0組である。けれどナツメの知る限り、そこにレムとマキナは含まれていない。レムもマキナも実力は高いが、0組に比べると見劣りしてしまうのだという。あと、おそらくはネームバリュー。
外局で育てられた身の上で、ジャマーに対抗できる百年ぶりの0組候補生。それは、常に日陰にいる四課や9組にとっては“憧憬”の存在だ。そしておそらく彼らが思うに、そこに2組や7組の候補生は似合わない。そぐわない。ただの候補生でしかも0組に潜入している軍令部の手先なのだから、余興で殺してしまえと思われても仕方ない。

ナツメは細いため息をついた。あの二人をそうして扱われるのが嫌だと言ったらナギはどんな顔をするだろうかとふと思う。
自分とクラサメにも、同じ価値がラベリングされているようでいやになるのだ。いや、まちがいなくされている。だから今、ナギにこんなことを命じられているのだ。
それでも、任務は任務として受け入れる。難しい仕事だが、それでもナギの言うとおり自分は適任だった。ナツメは笑って、了承の言葉を返す。

「ま……捨て駒根性、よね。任せて、絶対に連れて帰るから」

ああ、信じてる。ナギはそう言った。
路地を出れば道は真逆。ナツメは地下へ向かってもう一度アルマダ周辺に戻らなければならないし、ナギは大使館へ戻ることになる。
ナギがいるならクラサメもきっと無事に帰れるはずだと安堵を覚えつつ、ナツメはナギを振り返ることはなかった。






「……ごめんな」

振り返ってナギは呟く。こんなこと命じたくなかった。あんなに反対して、拒んで、でも結局四課と0組のために受け入れるしかない。

「生きて帰ってくれ。今回だけは、本当に……」

四課の目的は0組の死守である。そのためにできるだけの手を打てとナギは命じられている。
四課が与えたナツメの役目は、0組を白虎から脱出させるだけではない。

蒼龍女王暗殺について0組に責任が被せられるとして、国際的に彼らが責を負うとなると、朱雀内でも0組の立場は悪くなる。すでに自分の保身ばかり考え、今のうちに白虎や蒼龍に取り入ろうとしたり、敗戦後のことを考えている人間がいる。ホテル・アルマダで軍令部長がマキナに何事か話していたと四課の一人が言っていた。十中八九、0組を切り離し戦争を早期終結に向かわせるつもりなのだ。あの男は。
かつてナツメと話した通り、こんなときに稼ぐチャンスを探す時点で能力が知れる。本当に賢い人間は、どんなに窮地でも点数稼ぎをしない。そういう人間が誰にも信用されないことを知っているからだ。

ともあれ0組の窮地を防ぐために、0組より怪しい人間が近くにいるのはとてもいいことだった。他でもなく、0組のために。
0組から疑惑をそらす、弾除けのために。

「でも、お前でなくてもいいのに」

ナギの視界から、もうとっくにナツメは消えている。彼女はナギに言われた通り、急いで0組の元へ向かうはずだ。

「……デコイは、お前でなくてもいいんだ」

ナギは唇を噛みしめる。代わりに負うこともできない痛みとともに、強い血の味がしていた。








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