Act.7





振り上げられた拳にとっさにどうしていいかわからず、ナツメは無様にも背中を見せ走った。まだインビジが効いているのだから、目視されるまえに逃げてしまえばいい。こんなのどうせ敵わない。
そう思ってすぐ近くのドアにかじりつき、開こうとする。が、押しても引いてもびくともしない。恐怖に震えながら一体どんな理屈なんだと思ったが、開かないのも当然だ。ドアが開くのなら、今ゴーレムの足の裏で潰されている候補生たちがむざむざ殺されたはずがないのだから。

はっとして、振り返る。振りかぶられた手が注ぐ。
寸前、ぎりぎりでウォール魔法は間に合った。

「ひっ……!」

それでも目前に迫る規格外の大きさの拳。堅牢なはずのウォール魔法に、ヒビなど入れられたのは初めてだた。二撃目は耐えられない。わかっている。
しかも今の一撃のせいでインビジが解けた。おそらく当てずっぽうだっただろう今の攻撃とは違い、これからは姿を見られ追撃されることになる。逃げられるのだろうか?ナツメは立ち尽くした。
足が震える。

数拍もおかず、ゴーレムの足が床を踏み鳴らし全景が揺れた。それではっと我に返って、ナツメは唇を噛み締めた。

勝てない。わかっている。力の差など、考えるまでもない。もはや戦闘にさえならない。自分は屠られるだけである。
逃げるべきだ。しかしできない。扉が開かなくなるのと、ゴーレムの召喚条件はおそらく重なっている。ゴーレムを倒せないなら、たぶんここからは出られない。

たとえそうでないとしても、大して広くもない空間でゴーレムに追われながら扉の解錠方法を考えるなんて、酔狂にも程がある。

「っふ、ぅ、……ふ……」

不規則な息をそっと潜める。そう多くもない選択肢すべて、勝率は0パーセント。技能も魔力も意思も数も、何もかもが足りない。自分一人では何一つ成功しない。わかっている。
必死に目を凝らした。それでも何かないか。どこかに活路は存在しないか。いくら勝率が低くても、諦めることはできなかった。諦めたって何も得られないと知っているから。

「ゴーレム……こういう罠の設置方法は……」

走りながら、必死に考えはじめた。軍神を利用した罠には、それなりに多くの人間を生贄にする必要がある。彼らが自身の血で刻んだ魔法陣、その察知範囲に敵が侵入次第戦闘を開始するのだ。

これがただの軍神ならば、時間切れを狙ってもいい。あれは数十分しか威力を発揮しない。しかし、多くの人間を犠牲にしているこのゴーレムではその理屈は通用しないだろう。自分の体力が尽きるほうがはるかに早い。
とはいえ、弱点がないわけでもない。性能は軍神よりは少々劣るし、そのエネルギー核ならどこかに存在するはずだ。でなければゴーレムを発現させられない。発動用魔晶石、それさえ砕ければあるいは。

だとすれば、可能性が高いのは?

「っづあぁぁああぁあ!?」

何度も迫り来る拳を、とうとう最後は躱せない。燃えたぎるような一瞬の痛みが足を吹き飛ばし、骨の砕ける音と共に頭に響いた。
まっすぐ前へ倒れこみ、石の床を転がる。そこかしこをすりむくのに痛みを感じない。潰された足の有り様のせいで、それどころではなかった。

「あ、あ、あ、あ、」

声が声にならないのに、ゴーレムが止まるはずもなく。ナツメはうつ伏せのまま、顔だけ動かして必死に見上げた。降り注がんとしているのは、たったいま足を潰した拳。その手にはおびただしい血が見えた。
それが己に到達するまでの一秒を、ナツメは走馬灯には使わなかった。浪費できるほど、そういうものを持ち合わせていないからだった。

代わりに小さな狼煙を上げる。詠唱などいらないくらいに、その炎はナツメの皮膚に馴染んでいた。

「ファイガ……ボム、セカンド!」

そういう名前のついた炎が、彼女の体を中心に巻き上がり、一秒未満でゴーレムに襲いかかる。生き物のように、意思を持って。それは使いたくない魔法。嫌いな色……何もかも焼き尽くす、一番嫌いな炎だった。それなのにどうしてか、死の間際にあってつい放ったのはそんな魔法だった。
嫌いな行為ばかり、自分は得意だった。殺すことも、癒やすことも、燃やすことも。

ゴーレムを一瞬、ほんの一瞬だけ弾いて、後ろ向きに転ばせた炎を纏い、ナツメはゆっくり立ち上がった。ケアル魔法はすさまじい速度で潰された足を再生させる。ナツメは倒れこんだ体勢からすぐさま復帰しようとするゴーレムにはもう目もくれず、すぐさま走り始めた。己の最大出力の魔法であっても、ゴーレムにダメージを与えることは難しいとわかっていたからだ。おそらく、足を止められるのもほんの少しの時間だけ。
魔力はもうほとんど枯渇した。次のチャンスはありえない。今、走りきらなければ。

治した足は神経がまだ戻っていない。縺れる、転ぶ。けれども動かすことだけはできる。無理に立って、無様に走って、あの魔法陣を目指した。魔法陣を起動させるには魔晶石が絶対に必要だ。それが即ちゴーレムの発動用魔晶石かはわからないが、試す価値はある。それ以外、この部屋に隠せる場所なんてない。それ以外、ナツメに生きて帰る道はない。
走る。また転んで、でも必死になった。生きて帰りたい。いつも任務の最後にだけ思うことを、今も思う。

生きて帰りたい。まだ何も終わっていない。何も掴んでいない。終わりまであなたを見ていたい。それ以外もう、自分には残されていないから。

ナツメは一歩、大きく跳ねた。魔法陣は血で描かれている。ナツメがそこに近づいていることを知ったゴーレムは慌てたらしく、すさまじい勢いでナツメを今度こそ叩き潰さんと追ってきていた。ナツメは今度こそ捕らわれない。
届いてくれ、と手を伸ばす。周りに炎を顕現させながら。

ゴーレムのその拳がナツメの全身を砕こうとする寸前、かろうじて彼女は間に合った。放ったファイガ・ライフルは魔法陣に到達する。硝子の砕けるような音がした。

ゴーレムは悲鳴さえあげなかった。振り返った時には、そこにはもうゴーレムはいなかった。ただそれだけ。死屍累々と、死体がいくつも転がっていただけ。
ナツメは安堵した。生き延びた。倒したわけではないにしろ、撃退はできた。魔力はすっからかんだが、とりあえずもう帰投しても許されるはず。予備のインビジ魔晶石を使って、早く逃げよう。息も絶え絶えの中、それでも日常に戻るために踵を返す。
足はまだうまく動かないが、なんとかなる。インビジさえ使えれば。ナツメは魔晶石を取り出しながら、部屋を出るためドアに向かう。ドアを引くと、きしむ音とともにそれが動く感覚を味わった。やはりゴーレムが起動されていると開かないのだ……そんなふうに自身の選択を思い返して納得した、瞬間であった。

爆音。ナツメは己の体が吹き飛ばされると共に、何かに貫かれる感覚を味わった。









白濁の意識を引きずり戻したのは激痛だった。どれほど気を失っていたのかわからない。数秒かもしれないし、数時間かも。どちらにせよ、自分がもう動けないことだけは明らかだった。
全身を取り巻いているのは瓦礫の山。ゴーレムが何かやらかしたのかとも思うが、それなら自分はもう内蔵を飛び散らせて絶命しているはずである。ならば、何か全く違う理由で起きた爆発に巻き込まれたと考えるほうが自然だろうか。
体を起こそうかと思ったのに、両足と右腕が動かない。完全に折れている。目だけ動かして己の姿を探ると、両足はなんと両方とも外側に向かって折れていた。どうしたらこんなふうに折れるんだか、笑えもしない。唯一の救いは瓦礫そのものに押しつぶされていないことだろうか。それが救いになる状況下さえ、考えられない。それぐらいに痛む。
そしてもう一つ、気づいたことがある。

心臓の下辺りに、何かが刺さっていた。
おそらく篝火を壁に固定するための杭であろう。血がどくどくと溢れでている。ああ、ああ。
これは致命傷だ。そんなのたぶん、誰だって見れば気づく。

唯一動く左腕をゆっくり動かして、その杭を掴んだ。刺さったのだから、抜けるはず。力が入らないぶんは、魔法で補えばいい。血が吹き出すのを感じながらも、ナツメはサンダーで腕を無理やり動かして、傷口からささくれだったその杭を引き抜いた。出血がすさまじい勢いで増えて、一秒ごとに意識は薄れ始めた。
そんな中でも、ケアル魔法は傷を塞ぐ。

「ぅ、ぁ、ぁ、……あ、」

傷がふさがったところで、痛みは消えない。最も深かった胸の傷に痛覚を支配されていただけで、焼ける痛みは足と腕に取って代わられた。当然だ、この有り様で痛みがなかったらもう死を受け入れるしかない。
さて、ここからどうしたものか。ケアル魔法は今の一回で打ち止めである。そもそも魔力の総量が少ないナツメにしては、よくやったのだとさえ言えた。ここまでやれるはずがなかった。ゴーレムを突破した、それだけでもうナツメには過ぎる結果である。0組なんかとは比較にならないほど、ナツメの能力は低いのだから。よく戦った方、なのである。

けれども。
どんなに、“比較的良い結果”でも。
残念なことに、命はひとつしか持ち得ないので。

「(終わりか……長かったんだか短かったんだか……)」

不意に、ずっと己に明かりが差していたことに気づく。見れば壁の一部が吹き飛んでいて、そのすぐそばに己は倒れているのだった。これならどこか暖かいのにもうなずける。武官服も散々破れてしまったというのに。

「(ごめんねぇナギ。あんたは……また逆戻りだわねぇ)」

内心だけで友に詫びた。彼の求めるものを持つ人間が現れたならいいのだが。彼を止めることができて、かつ、彼に入れ込み過ぎない人間が。そういう人間はなかなかいないのだ。自分だって、状況が状況でなければただナギとは殺しあうだけで終わっていたと思う。

「(結局、四課に入った意味なかったなぁ……何も見つからないし。どんだけ情報を隠したら気が済むのよって……)」

世界は静かに白んでいく。指先が冷たい。痛みも、どうしてかほとんど感じなかった。最悪の兆候だと、己が最期に向かって突き進んでいるのだとわかっていて尚、しかし止めることができない。

「(……クラサメは……)」

あのひとも、私を忘れるかな。
聞かなくても当たり前のことを、ふと思った。

「……、……!!――!」

消えていく世界の中心、ナツメの鼓膜を最後に何かが揺らした。誰かの声が遠くから聞こえていた。
浪費されていく途中で一瞬だけ眩む。見えたのは彼だった。こちらを見て目を細める彼だった。そのかすかな表情の動きが、ナツメにいろいろなことを教えてくれていた。
好きだった。辛かった。守りたかった。愛おしかった。世界は、彼でできていた。

「(……ダメだなぁ私も)」

あの日、捨てた命だ。軍令部に、そして四課に売り飛ばした命だ。もう自分のものではないのだから、思うように好きに選択する余地なんてない。
わかっている。
わかっている、けれども。

「クラ、サ……メ、」

求めたのは、死ぬまであなたを思い出していられる世界だ。
まだあなたを思い出したくて、縋る寄す処を手放せる気がしない。

だって、自分だって本当は。
同じように、彼に思い出してほしいから。
望む権利などないと知っていて、だから隠し続けた祈り。浅はかにも願って、左手の指先が石の床を引っ掻いた、瞬間であった。

「……い、おい!いるなら返事をしろ!!ナツメ!!」

ざわっ、と。
背筋を何かが舐めた。

その声は、ずっと思い返していたものだった。愛しくて苦しくて愛しくて、どうにかなりそうだった。
どうやら、壁の下から聞こえてくる。

「ナツメ!!」

だから、ナツメは左手の傍にあった杭を握り、そちらへ投げた。一拍遅れて跳ねる金属音。
と、ナツメがここにいることは理解したらしいクラサメがCOMMを起動し、耳から少しくぐもって彼の声が聞こえてくる。

『おい、そこにいるんだろう!?早く降りてこい、逃げないとまずい』

「逃げる……?」

何を言っているのだろう。逃げる?……足も、腕も動かないのに?
笑い出しそうになるには、肋骨が痛すぎる。次の言葉を聞いた瞬間には、そんなことを考える余裕も溶けた。

『そうだ、早く逃げないと死ぬぞ。今、ルシがこちらへ向かっているらしい。おそらくトゴレスは数分で焼け野原だ』

今。
今、なんと言った?

ルシが来る?ここに?焼け野原。それは、つまり。
ナツメは恐怖する。それはあるいはゴーレムと対峙した瞬間より重苦しい恐怖だったので、ナツメは軋む骨など無視して声を振り絞る。

「……によそれ……クラサメ、にげて……!」

『お前は話を聞いているのか!?いいから早く降りてこい!!』

「む……り。置いてって……」

ナツメは懇願する。置いていってくれれば、それで安心だ。
自分が助かったとして、クラサメが逃げる足手まといになるだけだとわかっている。ルシなんてほとんど天災のようなもので、できるだけ遠くに逃げるに越したことはないのだから、やはり自分がついていくべきではない。彼の生存率を少しでも下げないために。
そう、思うのに。

『お前は。私が、お前を置いて逃げられるとでも思うのか?お前が死ぬとわかっていて、置いていけるとでも思っているのか』

「……」

『わかったら降りてこい。逃げるぞ』

もう一度、逃げよう。耳元で囁くように続けられた言葉は、確かにナツメの心を揺らした。もう一度と彼は言った。彼と逃げるのは三度目だった。救われるのも、もう三度目になった。
言葉はひとつも返さなかった。必要ないとわかっていた。

左腕は勝手に動き、ナツメの体は仰向けからうつ伏せの体勢をとる。そして指先に必死に力をこめて、体を前へ動かしていく。
一瞬一瞬が何度も耐え難い激痛を産んだ。意識は擦り切れそうなのに、どうしてか全部平気だと思った。ここで立ち止まって、彼さえ巻き込んで死ぬなんて三流の結末に比べたら。
崩れた壁のすぐそばだったのが幸いして、ナツメは数メートルを這っただけで外が見える位置まで来た。真下で見上げているクラサメと目があって、そして、体はずり落ち地面に向かって落下し始める。
落下のさなかに意識は断ち切れ、真っ暗な視界に彼の存在だけを感じていた。







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