I wish you all the love in the world.







やっぱり。
ジルは口の中で呟いた。それから視線だけを動かし、その声が聞かれなかったことに安堵した。言いたいことなど何もない……ないから、溜息さえ聞かれたくない。

ミトがルカたちの頼みを受けて持ってきてくれたのは、資料とも呼べないような擦り切れてボロボロの革の手帳がひとつだけ。それはジルもかつて所持していたものだった。つまり、PSICOMの支給品だったもの。
今はそれを真ん中に置いて、三人でテントの中にいる。薄い敷き布の上に敷かれた毛皮の上に座していた。ルカは俯いて無言。ヤーグはいつもどおり無言。

中身はいわゆる手記だった。冒頭ではパージを何度も振り返り、聖府へ唾を吐き、上司の愚痴も零しながらこの郷を築くまでとその後のことが少し語られている。流し読みでも、とにかく苦行であったことが理解できた。特に……市民たちに追い掛け回されたこと。守ろうとした相手に、謂わば“裏切られた”こと。
それでも必死に彼らは逃げて、そしてここに隠れ住んだ。

文字は薄くなっていて、ところどころ読めない。本のノドが裂けているのに、ページが行方不明になっていないことは奇跡みたいだ。ジルは無言で感嘆した。
この郷はあからさまに文明というものから一線引いているように思えるが、歴史的資料の意味を知っている。そしてその理由もこの手帳に起因していた。なんせ、コクーンで最高水準の教育を受けた、見識ある人間が始めた郷だったのだ。

「……名前はわからないけど。各々心当たりはあるみたいね」

ジルたちとは完全に無関係の誰かという可能性はとりあえず考慮せず、少しばかり投げやりに言うと、ヤーグは背中から攻撃を受けた時のように険しい顔をした。痛いところを突かれたとあからさまに伝えてくる。本当にわかりやすいやつ。しかし、ルカは動かない。

「ルカ?」

「へあっ……、ああ、いや……そうね、私の部下かも……しんないね」

ルカの困惑は、見ればわかる。全員何人も部下を抱えていたのだ。こんなの、当てはまらない方がおかしい。

ジルにも心当たりはある。けれど、合致する場所より合致しない場所を探せば、おそらく想像上の誰かと同一人物ではないという可能性も同時に存在する。つまり、確信を持てるほどではないということ。その程度の内容だ。
それはきっと、ヤーグもルカも同じはずだと思う。いくら数年一緒に仕事をしていたって、その部下のことを何から何まで知っているわけじゃない。手記の口調、スペルミスし易い単語、見解の深さ、言葉の選び方……。なんとなく、あいつだと思う瞬間もある。でも、それだけ。署名もなく、上司の名前も友人の名前も何一つ明記されていない。かつての上司への愚痴がいくつも見受けられるが、どれもありがちで耳に痛い言葉だった。ありふれている。つまり誰にでも当てはまる。

ジルは冷酷な人間だ。自分で知っている。
賢すぎて冷酷だと、昔付き合った男にさんざん言われたこともある。最後まで言う前に叩きのめしたから、あまり記憶にないけれど。そういうことをね、私に語っていい人間は限られているのよ。ジルは顔を上げ、その“限られた人間”を盗み見た。

冷酷だから、この手記に言いたいことは何もない。
想定の範囲内だ。己のしたことはとことん最低で、卑劣で、挙句責任を取らず逃亡。倫理的に言うのなら、自分は処刑されるべきだったのだ。市民の溜飲を下げるために、そうやって消費されるべきだった。そうしなかったのだから誰かが代わりに傷付くのは当然だ――いや、違うわね。別に、代わりにというわけじゃない。自分が処刑されていればこうならなかったかと言われたら、それは違う。
それでも、責任から逃げた事実は変わらないのだ。道理を説いても、何の意味もないこと。

そう、こんなのは、ジルにとっては無意味。ヤーグにとってどうかは知らない。でも、少なくとも自分にとっては。
賢すぎて冷酷?その通りだ。ジルにはわかっていた。あの日、ルカが探しだしてくれなかったあの最初の日、雨に打たれて走りながらジルはすべてに気付いていた。

それから起こること全部、ジルにはわかっていた。例えば、ジルとヤーグが置き去りにした、ルカが気にも止めずレインズが人身御供にしたジルたち三人のかつての部下が、世紀の大罪人として追い回されどこか遠くの辺境で朽ちるのを待つだけの日々を送ることになる可能性も。即刻処刑とどちらがマシかと言われれば、個人差のあるところなので明言は避ける。が、数年で飢餓か何かで死ぬくらいなら、こうして400年後にまで子孫を残しているのだからジルの想定よりは少々良い結末を迎えたようだ。

「……私の部下よ、きっと」

そんなことをつい口にしたのは、ルカの双眸があまりに揺れ戸惑っていたからだ。怪訝にこちらを見るヤーグが機微に疎いのはいつものことなので気にしない。とにかく、ルカさえ騙せればそれでいい。

「確か、子供が産まれたばかりだった部下がいたわ。子供のことに関しての記述に、年齢も合致する。多分彼よ。ルカの部下じゃないわ。覚えてるでしょ、二人で結婚式に顔を出したじゃないの」

「……でも……、」

「確証はない?言い出したらキリがないわ。私の言う部下がそうだったとしても、そうじゃないとしても」

ルカさえ、騙せれば。
そう思うのに、声が微かに震えた。自分の弱さをそんなところで思い知る。

ルカは非情な人間だ。自分とはまた違う意味で、冷たい人間だ。誰にでも温かいくせに、ふとした瞬間それら全ては翻る。例外は身内、すなわちジルとヤーグだけ。もうずっと前からそうだ、変わらない。ルカは全く変わらない。エトロがどうのという話は、今はする気はないけれど。
そんなルカだから、つまり身内にはとことん優しいのだ。部下に対しても、どんなミスをしてもただ見捨てることはしなかった。同輩の目から見ても決して頼りがいのある上司ではなかったけれど、決して悪い上司ではなかったと思う。だから、この郷がルカの部下がさんざん追い詰められた成れの果てならば、ルカにとっては重すぎる。ヤーグにとってそうであるように。……ジルにとって、そうであるように。

ルカには基軸が二つある。一つはジルとヤーグの、そしてもう一つはレインズのためのもの。
そしてそのうえで、頑なな優先順位がある。

ルカは最上位を守るためだけに必死になった。だから、部下を顧みなかったのはある意味当然である。意識して切り捨てたのではない、たぶん、ただ単純に“思い至らなかった”はずだ。

ルカには覚悟がなかった。ジルとも、そしてヤーグとも違う。とことんわかっていなかった。
誰かの生命を、未来を、遠く宙に放り投げるということ。落ちた先でどうなるかは神のみぞ知れと、捨てるということ。それだけは、覚悟できていなかった。あんなに必死に戦っていたくせに。

ルカにはきっと覚悟がなかったのだ。所詮覚悟もなく、ただジルとヤーグのために必死だった。それだけだった。

「これは返してくるわね」

だからジルは手帳を手にとった。もうこの話はやめるべきだ。
ルカが自分のためだけに必死だった。ジルにとってはその事実だけで、あとはもういい。どうだって。

ヤーグを見やると、目があった。彼が微かに頷いたので、ルカを任せてテントを出ることにする。外に出ると、灯された火が集会所らしき場所で熱気を舞い上げていた。火を囲んで食事をするものだと、そういえばさっきミトかだれかが言っていたような気もする。自分たちはパスだな、と思いつつ、ジルはミトを探した。彼女はすぐに見つかり、ジルを見ると快活そうな笑顔を作ってみせた。

「どうかしたかい?あ、メシか!」

「えっ?いいえ、これを返そうと思ったのよ。ありがとう、とても興味深かったわ」

ジルは作り慣れた柔らかい笑みを意識して浮かべ、手帳を差し出した。柄にもなく、少し震えた。
ミトの胸に、小さなアクセサリーめいたブローチが鈍く光る。その形を見てしまったから一瞬だけ硬直してしまった。……PSICOM将校の襟章に、どことなく似ている気がしたからだった。
そういえばこの郷にいる人間はみな、首に似たような小さな首飾りを下げている。金属製のプレート。あれは、一兵卒のドッグタグの名残かもしれない……。

音が耳を打つ。炎が弾ける音が、笑い声が、風の音が、ないまぜになってジルの身体を包む。
兵士が流した多くの血。守れなかった市民。そもそも自分は何を守ろうとしていたのだった?その果てにあるものの、中心にジルは立っている。

「おい?どうした?」

「……ねぇ。あなたたち、ここにいて幸せ?」

世界がひっくり返った日、ジルは手に抱えられるものだけ持って、同時に他のすべてを捨てた。ジルだけではない、全員がそうした。
ルカも、ヤーグも、多分ルシたちも。そうしなかったのは……あの男くらいか。すべてを守るために躍起になっていた。はたから見れば、滑稽なほど。だって大事なものは全部傷付けられて、何も取り戻せないかもしれなかったのに、それでも市民のために必死になって。地位をあっさりかなぐり捨てて、市民の生きる明日を作ろうとした。
それが彼のずっと昔からの目標だったと知ったのは、実はつい最近のことだ。

ミトはジルの突然の問いに大きな目を丸くして、しばらく逡巡した後、首を捻った。

「どーだろ。たまーに凶作が続くとメシさえ食えないこともあるし、機械でコントロールできる天候にも限界があるし、チョコボはやっぱり慣れてても臭いしね……」

最後の言葉にジルはつい噴き出した。あの獣臭さは慣れても続くのか!
しかしミトは、ふいに顔をほころばせた。

「でも、今年の羊の毛はすごくいいんだ。それにセラたちのおかげで狩りもこれからはもっと上手くいく。そしたらしばらくは美味いもんが食える……ああ、うん、幸せだよ。あたしはあたしの人生をただ生きるんだ。それ以上の幸せって、ここじゃなければ見つかるようなお手軽なもんかい?」

「……いいえ。あなたの言う通りだわ」

思ったよりずっと、彼女は賢い。
場所は関係ない。救いはどこにもない。だからジルは探さない。
それを冷酷と人は呼ぶ。唯一呼ばない二人は、ジルのその冷たさがいかに鋭く彼女自身をも傷つけるか知っている。ジルの鋭利な切っ先は己にも向く。倫理も常識も飛び越えて、ルールを定める彼女だからこそ。

きっと彼女は罪人になるのに向いていない。贖罪のために祈ることも、己を罰することも、死ぬことも、何一つ自分に許さないから。あえて切り捨てたからこそ、感傷に甘えて浸ることを彼女は自分で許さない。

一番辛い生き方をするジルは、だからこそ孤独なはずだった。ルカとヤーグがいなければ。……ああ、誰かと共に生きている……その温かさを、ジルは何度も思い知る。

息苦しささえ表情に出さないジルに、ミトは笑いかけた。

「まぁ、ともかく助けになれたならよかったよ。で、メシだけど。食うだろ?持って行くかい?」

「えーと……そうね……」

ミトの問いで我に返ったジルは、返答に迷った。食事までもらっていいものかわからないし、携帯食もある。
が、携帯食ばかりを摂取するのはお世辞にも良いことじゃない。その上、いつ補給できるかもわからないからできるだけ持っておきたい。結局礼を言って、食事を受け取ることにする。

「ほーらたんと食いな!!」

ただし、どんと積まれた肉の塊は、丁重にお断りさせてもらったが。







翌朝、ルカは夜明けに起きだした。おそらく狩りに行くのだろう、外が人の声や足音で騒がしかったためだ。とはいえ、ルカは殆ど眠りにつかず、一晩中外を警戒していたので、起こされたというには語弊があるのだが。

「うるさいわ……」

「あ、おはよージル」

「……お前、寝てないのか?」

ジルに続き、目を覚ましたヤーグが怪訝な顔でルカを見る。ルカは「ショートスリーパーだから」と肩を竦めた。事実、少しは寝た。少し。具体的には、三十分ほど。

昨日の手帳のことがあって……この郷にPSICOMの、万が一にも部下の血が継がれていたらと思うと怖くなったのだ。詳細な記録が他にあれば、もしかしたらルカたちはただの旅人ではないのではと疑われることがあるかもしれない。その上でセラたちが過去から来たことを知っていたら、あとは想像力が少しでも働くなら真実に気付いてしまうだろう。
この郷に住み着いた過去の彼らは、鍛冶道具に記章を埋め込んで記録するほどに軍人としての矜持の強い人間だった。秘密裏に、PSICOM兵の視点からみた当時の真実について記録を残している可能性は高い。

一体、あの手記は誰のものなのだろう。部下たちならば、ルカを恨んだだろうか。……わからない。部下の手記かもわからないのだ。ああ、自分は何もわからない。愚かだから。……女神を笑えないな。

それに、たとい彼らに恨まれなかったとしても、彼らが辛酸を舐める結果を招いたのはルカだ。愚かさ故に。それならこの郷の人間に憎まれる道理はある。
そうしなければコクーンが沈んでいた?それはまたきっと別の話。

あのとき、ルカは何もできなかった。ジルもヤーグも何もできなかった。けれどそれはすべてルカのせいだ。ルカの立ち回りがもう少し上手ければ?もっとその後のことを考えるべきだったんじゃないのか。自分がただの人間ではないと思い知ったショックで頭に血がのぼり、自分はただ突き進んだ。結果置き去りにしたすべてにルカは詫びるべきで、償うべきだとようやく知った。……すべてはこんなに今更で、その無知もまた罪のひとつに数えなくては。

例え現実に彼らが、部下のみんなが、ルカを許してくれるとしても、ルカはそれを信じられない。だから今は、彼らも敵である可能性を考慮する。ルカはジルとヤーグをどうしたって守りたい。だから寝られなかった。警戒していた。なんて、自分勝手な……。

最低だって知っている。それでもルカには罪を上塗るしか。

出立の準備を素早く纏めてテントの外に出る。今日は霧はそう深くない。しかし雲は厚く、遠くの景色を視認するのは昨日同様不可能そうだった。

「……行こうか。あの機械を使えば、霧を晴らせるでしょ。スノウくんを探したい」

「ああ……」

ヤーグはルカの態度を不審に思っているのか、窺うようにルカを見ながら頷いた。心配されている。それで十分救われる気がしていた。

三人並んでミトの元に向かい、世話になった礼ともう去ることを伝える。ミトは少し惜しむように目を細めた後、「まぁ旅ってなぁそういうもんだね」と笑った。
その通り。旅ってそういうものだ。一瞬身を任せて、そしてすぐ次を探す。通り過ぎるだけだ。だから旅は、無性に寂しい。

郷を出る前に、機械の使用許可を求めると、ミトとティボは躊躇いなく頷いて許してくれた。ルカは機械の前に立つ。

「……あ、違う、これ専門外だ」

「は?」

「これ新式の操作方式じゃないですか。私旧式しか使えない」

「ああー……そういう……もういい、退いてろ」

できないことだけは明確に理解しているもので、ルカは言われるがまま素直に退いた。ヤーグは慣れた様子でレバーを引いては押してを繰り返し、あっという間に空から雲を拭い去ってしまった。と、後ろに居たミトが感嘆の溜息をついた。

「はぁー……セラといいアンタらといい、一体なんなんだ?」

「……私たちはセラ・ファロンとは違うわ。私たちは……ただの……」

ジルがそこで言葉を詰まらせた。戸惑って揺れる視線が悲しみを湛える。
ルカも同時に同じ痛みを理解した。もう自分たちをどう呼称すればいいかわからない。そのことが、こんなにも足許を危うくさせるなんて。

「私たちは……あなたたちの同胞よ。もうずっと昔からね」

ジルはしかし、答えを提示した。
それは到底彼女らしくない甘さだと思った。そして同時に、ジルが何を決意しているのかも感じ取れた。

ここは、罪の墓標。ジルとヤーグ、そしてルカが、犠牲にすることさえ意識しなかった災厄。ジルはかつての罪に、一つの結末を与えるのだ。彼女が何を思ってかはわからない。それでもジルが決めたことなら、ルカは歓迎して隣に立つだけ。

ルカはジルの手を掴んだ。そしてそのまま握りこみ、ついでに反対の手でヤーグの腕も掴んだ。

「じゃねっ」

短く別れの挨拶を投げて、ルカは二人ごと櫓を飛び降りた。爽快な風が一瞬全身を舐り、そしてすぐに足は地面に辿り着く。ジルが微かによろめいたのを慌てて支えようとして、同じ行動を取ったヤーグの肩に頭をぶつけルカまで思い切りよろけてしまった。

「うおぉぉいヤーグさんやシンクロしすぎもよろしくないよ!」

「やかましい誰のせいだバカが」

「今回も九割私のせいだけどそれとこれとは話がちがう」

「ルカ、あんた前触れ無しで動くのやめなさいよ……殺す気?私に撃ち殺されたいわけ?」

「やだバイオレンス」

ジルは眦を吊り上げたが、ルカはそれすら笑って躱し西に向かって歩き出した。

背中に背負うハイペリオンが重い。それでもその重さがまたルカの強さになってくれる。罪の重さが自重を増して、落ちる圧力も比例して増す。
物語は前に向かって進んでいる。ルカはそれを理解した。ジルの罪はきっと、“理解しているのに捨てた”こと。それなら贖いは?

ルカは呟く。

「なんだっけ……歌であったよね、“あなたが世界中から愛されますように”」

“でも、私からの愛を一番に受け取ってほしい。”

逃れた罪はこれからまた何度でもルカたちを狙って迫り来るのだろう。けれど、やはり立ち止まるつもりはなかった。








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