罪の在処、盗掘の徒
先ほど飛び出したばかりのリンドブルムに戻ってきているのが、どうしても不思議だ。
腕を引かれたまま見知った廊下を通る間も無言で、沈黙があまりに怖い。腕を握る力が強すぎて、振り払うのさえ億劫だった。
連れて行かれる先はやはり彼の私室だった。当然だ、これからどんな会話をするにせよ他人に聞かれて気持ちいいものにはならないだろう。なぜか知らないけれど、彼はひどく怒っている。
そう、謎だ。なぜかすごく怒っている。外に出してくれなかったこともそう、あまりにもおかしすぎる。ルカが目覚めてからもうずっと、シドはおかしい。執着されている?そういう言い方が正しいのかさえ、ルカは自分でわからないが。
と、部屋に入った途端突き放すようにルカの腕は離され、ぐらりとよろめいた。シドは後ろ手にドアの鍵を閉める。
「……先輩」
錠の下りる音が、痛みにも似てルカの心に突き刺さった気がした。本能的な恐怖がどうしても彼との間にはある。それが悪い方に転じたことはなかった、今までは。シドは絶対に、ルカが本気で嫌がることは強いなかったから。
でも今は、ルカにも自信がない。どうしてだか、まるで別人のような気がしている。この人は自分のよく知るあの男なのだろうか?本当に?気配が違う。表情も違う。何があったら、こんな変化の仕方をする。
「ルカ」
シドがルカの腕を掴み直す。今度はそう強くないのに、息が一瞬苦しくなった気がした。直後には、強い力で引き倒され、シドの大きな机の上に身体を押さえつけられていた。固い固い机に押し込むみたいに、彼の大きな掌が鎖骨の辺りを圧迫している。そうなると“みたい”ではなく、実際かなり息苦しかった。
「せん、ぱ、」
「どうしたら君は言うことを聞いてくれるだろうか」
「んぐ……っ!」
圧迫はどんどん増している。苦しい、苦しい。ルカはまともな声さえ上げられない。小さな窓が一つあるきりの薄暗い部屋の中で、灯りもなくてはシドの顔は陽が逆光で窺えず、それなのに目だけが光を吸い込む水底のように見えた。
あの時間を、ルカは思い出す。ヴァルハラの海の底で息を吹き返したあの瞬間を。息ができなくて、光なんてどこにもなくて、最後に吐いた命の泡沫が上を目指して昇っていった。そしてその先に、ルカは救いの手を見つけた。
シドの手は、ライトニングのあの手に似ているとルカは思う。望んでもいないのに強制的に己を掬い上げる、救世主の手だ。今も。この手に触れられていると、無条件で甘えが出る。何もかも忘れて縋っていたくなる。だからこの人の近くに、居たくないときもある。
ふいにシドが嘲るように、皮肉げに笑った。誰を嘲りたいのか、ルカにはわからない。
「どうして……君はここにいてくれないのか……」
「……づ、ぁ」
「いつも、いつもそうだ。もう何度目だ?パラメキアに行ったときも、レース場でも……!何も説明せず、ただ消える!君は……」
シドの顔はすぐ近くにあった。あり続けた。首を締めるみたいに、もう一方の手が首の根本に添えられている。そこも確かに圧迫されていた。シドの声に、見たことのない感情が滲むのを感じて、ルカは怪訝に思った。これは悲しみだろうか。……そして怒り?本気で怒っているらしい。でも、何故?
ルカは恐る恐る、自分を押さえつけているシドの太い腕に触れた。と、一瞬びくりとシドは肩を跳ねさせ、僅かでも身を引いた。それでだいぶ楽になる。
「……だって……」
それで余裕ができたから、言い訳したかった。だってわけがわからないのだ。
何で目覚めてからこっち、自分はさんざん怒られているのか。何も悪いことなどしていない。いつだって、守りたいものを守るために戦っているだけ。
「私は行かなきゃいけないんだよ……いつだって行かなきゃいけなかった……!パラメキアに行ったのは、あのままリンドブルムにいたら先輩は何も教えてくれないと思ったから!先輩はルシだってわかってたから……!行かないといけなかったの!!」
「ならレース場は?……死ななきゃいけなかったと、本気で思ってるのか!?」
「思ってるよ!コクーンができたのも私のせいなんだから!」
「君がいなかったら!!」
シドの声が、あまりにも悲痛に鼓膜を打った。嬲られているみたいだと錯覚を覚える。ルカは必死にシドの目を見た。暗くて、でも、やっと少しルカにも見えるようになった。その目が必死で、ルカにはどうしても苦しい。
「君がいなかったら、本当に、ああならなかったとでも思うのか。君がいなかったらどうなっていたか、君は本当に考えたことがあるのか」
「え……」
「ファルシはコクーンを作らなかったと思うか。彼らはルシにならなかったと思うか。私はルシにならなかったと、思うか」
「それは……」
「君がいなかったらどうなった?私は死んだだろうな。ナバートも。ロッシュも死んだだろう。君は本当に、それを考えたことがあるのか」
考えたこともなかった。確かに……ファルシはコクーンを作っただろう。ルシだって、作るのは難しいことじゃなく、そしてこの人を利用しないなんて理由はない。そして確かに、みんな殺されたのかもしれない。
……それでもファルシの側に一度でも立っていたことは事実なのだ。ルカにはその事実を曲げることができない。
それに、そもそも。
「何でそんな怒ってんですか……私何も、いけないことなんてしてないんだよ。今だって行かなきゃいけないの。どうして先輩が止めるの……!」
どうして止めるの。ルカは笑おうとした。追い詰められているときこそつい笑って誤魔化そうとする、あの悪癖で。でもうまくいっていないことはわかっていた。唇が引き攣っている。
答えが予想できないから。どんな答えが返ってくるか、まるでわからないからだ。
それなのに。
「愛してるからだ……!!」
そんな言葉は、聞きたくなかった。一度だって聞こえなかった言葉が、驚くほどクリアに届いた。
ルカは呆然とシドを見上げる。ようやくちゃんと顔が見える気がしていた。目が合って、視線が真っ直ぐ自分に注いでいることを知る。
「君が起きるのを二年待った。あれだって酷い苦しみだったのに、なのにそれから今度は八年……私が罰を受けるのはわかるさ、私は君を殺しかけた。君がいなくなるのも仕方ない、それはそうかもしれないが……!」
「待って、違う、罰なんか……そんな……そんなこと考えてない!」
違うと言いつつ、ルカは心の内側がざわめくのを感じた。そんなこと考えてない。確かに考えてなかった。でも、無意識下での仕返しの自棄だったんじゃないかと言われてしまったら、もう否定できないとも思った。
吐き気がする。ルカは口を手で抑えた。嫌なものが駆け上がるような気がしたからだ。だって最低だ。あてつけだったと思ったら、納得してしまえそうだから。でもそんなの、本当に何もかもやめてしまいたくなる。生きることも愛することも全部、また衝動的に投げ出してしまいたくなる。
「……違う。罰なら、それでいい。それなら納得した。でも、ナバートとロッシュが隣に居たのはなぜなんだ」
「へ……」
「あの二人がいつまでも君にとっての最愛であることは、もうわかっている。それでも、あの二人だけ許すのはなぜだ。全員で殺し合ったのに。どうしてあの、二人だけ」
目に眩むものが何なのか、ルカは必死で考えた。愛しているって、私を?……それは本当?
考えている。でも、解けそうになかった。
「誰も許されないなら、こんな馬鹿げたことは考えないで済むのに……どうして、どうしてだルカ!」
「……違う」
それは違うの。ルカはようやく腕を伸ばしてシドに縋り付いた。目の裏が酷く熱い。苦しい。
「先輩、せんぱい……好き、ねえ知ってるでしょ先輩……あのときも、言った……だから違う、先輩だけ苦しめようなんて思ってないよ……!」
「……あのときは聞き取れなかった」
「エトロが邪魔してたから……私が、悲しまないように。エトロにとっては、強い想いは悲劇に過ぎないから」
「でももう聞こえる。聞こえただろう、私の言葉も」
シドの唇がこめかみに押し当てられ、口吻けが何度も肌を温める。ルカはぼろぼろと粒になって涙が流れ出るのを感じていた。息が苦しい。どうしてこんなに苦しい?
「……八年、ずっと待っていた」
「うん……」
「君は世界のどこにも現れなかった。ネオ・ボーダムから突然姿を消してそれきりだった……!」
でもきっと、彼の方がずっと苦しいのだと、今なら理解できる。一度も考えたことなかったけど、でも、そうだ……自分よりシドの方が苦しそうだ。
ようやく思えた。シドが自分の目の前から突然姿を消して八年は、きっと耐えられない。ジルだろうとヤーグだろうと耐えられないけれど、シドでも耐えられない。
……そうか。私は、この人にそれを強いたのか。消えて、戻らなかったから。
――悲しむとか、懐かしむとか、その程度で終わると思っていたのか。忘れろと言ったから、本当に忘れてなかったことにしてしまえるとでも思っていたのか。
――あなたは身勝手です。誰かを傷付けることを躊躇わないんです。生きてさえいればいいと思っているんです。それ以外全てどうでもいいんです、あなたは。
彼らの言葉を、己はちゃんと聞いていただろうか。……聞いていたら、もっと早く気づいたかもしれないのに。
シドが傷ついたと、彼はルカに傷つけられたのだと教えてくれるまで、ルカはまるで素知らぬ顔をしていたのだ。最低だとホープは言った。その通りだ。自分は、最低だ。
自分なら耐えられない。……もしかしたらシドも、耐えられなかったのではないか。だからどこか別人のような空気を纏い、ルカを威圧するのではないか……。
そう思ったら、もう息が苦しいなんてものではなかった。
「先輩、ごめんね……ごめん」
「……もういい、八年は戻らないんだ。どうせもう事実は変わらない。だから君にできることは、ずっとここにいることだけだ」
シドの手がまた強く、ルカの両腕を握りこむ。頭が首の横に滑り込み、襟口を割って入ってルカの首を噛んだ。ぴりりと甘い痛みが走り、ルカはつい小さな悲鳴を上げた。触れ方がさっきまでと違う気がしたからだ。なんというか、“その先”を匂わせるみたいに。
「ちょ、先輩待って!待って、待とうちょっと!……いや私戻るよ、ライトに頼まれてんだもん!行かなきゃ!」
「行かせない」
「行かせない、じゃなーい!先輩、今回のことはもう、全面的に私が悪いけど!でも行かなきゃいけないんです!ライトはセラちゃんを助けるためにあの旅に出たんですよ!?私にとっても他人事じゃないの!」
「行かせないと言っているだろう!」
シドの声が鋭く響く。さっきまでのどろりとした、全身を掴み上げるような怒りとは違うが、確実に怒っている。まだ。
それも仕方がない。
「……八年」
ルカは呟いた。八年……。ルカが旅に出さえしなければ、味わう必要のなかった時間。苦しいだけの時間だと、彼は言う。
「先輩。……私、帰るよ。先輩のところ。旅に出ないわけにはいかないけど……でも一度帰る」
「……八年前にか」
「本当はあんな、無理やりに旅に出るべきじゃなかったんだ。なにも解ってなかった……」
シドが一人で苦しむ世界を、ルカはもう選べない。最悪の世界線を覗いてしまった。あの強い人が、ここまで痛みを抱えてしまう。何もかも自分で背負いこむ人を、ルカに想いを打ち明けるほどに傷付けてしまう。
戻らなくてはいけない。彼を苦しめてはいけない。せめてちゃんと話して、説得しなければならないと思ったのだ。
……旅路の果てにちらつくものがヴァルハラである以上、ハッピーエンドを約束することはできなくとも。それでも自分は、誠実であるべきだった。仮にも恋人、なのだから。
シドはルカの言葉を聞いて、目を細めた。
「……なかったことになるんじゃないのか、それじゃ。八年前の私を、騙すつもりではないのか」
「そんなことしない。しないし、できない。……そりゃあご都合主義的かもしれないけど、でも……逃げるのはやめようと思ってる」
「くだらない。そんなこと信用できない。君は私に、真実を語らない」
シドがそっと、ルカの鎖骨の辺りに額を押し付けた。ルカはそれを抱きしめる。こんな風にするのは初めてだ。ゆっくりと身体を起こしながらシドをきちんと抱きしめた。あんなに強くて大きい存在だと思っていたのに、自分の腕でも抱きしめることができたのか。守るみたいに。自分ではこの人を守れるはずがないと思っていた。
「それでも、そんな戯言が……どうしてか救いに見える」
「先輩……」
……違う。守ろうとしなかっただけだった。必要ないと思っていたのだ。強いから。己なんかより、ずっとずっと強いから。そしてルカのことなんて、この人は愛していないと思っていたから。
「先輩、あいしてる」
「……私も」
あいしてる。息が熱を孕んで伝わった。ルカは口吻けをねだってシドに抱きついた。
ごめんなさい。今までの全部が間違っていたかもしれないとやっと思う。それでも同時に、全部尊い。起き上がった自分の背中にシドの両腕が回るのを素直に嬉しいと思いながら、ルカはシドの頭頂部に顎を載せた。愛おしいと言葉にできることが、こんなに嬉しいなんて思わなかった。
エトロに何があったのかわからなくても、どうでもいいと思ってしまいそうな程。
沈黙が痛いのは、何もルカたちだけではなかった。
「……」
「…………」
ジルとヤーグ、そしてホープの間でもそれはひどく重い。と、ベースキャンプの入り口に掛けられた布を跳ね上げて、一人の男が入ってきた。それはリグディだった。ヤーグは驚きに僅かに目を瞠る。彼は少し年を取り、一瞬リグディだとわからないくらいだったからだ。さすがに顔や雰囲気は大して変わっていないが、髪が短くなっていたことも理由だろう。
「よう、ホープ。悪いんだが、そこの二人引き渡してくれっか」
「リグディさん。……申し訳ないのですが、それはできません」
「あの人たっての命令なんだ、頼むよ」
「そんなこと言われましても。僕はレインズさんの部下じゃありませんから」
ホープ・エストハイムは存外強い言葉でリグディの頼みを切り捨てた。リグディはホープを説得できないことがわかっていたのかそれ以上食い下がることもなく、深く溜息を吐いてじろりとヤーグたちを睨む。
「お前らがあいつ止めときゃこんなことにはよ……」
「仕方ないでしょ。言って止まる子じゃないもの。私は一応止めたわよ、助長させたのはヤーグの方」
「返す言葉もないがお前もなんだかんだ着いてきただろう……」
「言ったはずよ。あの男は今なら地の果てまでも追ってくるって。その通りになったわ。…………ルカは本当に、帰ってこれるかしら……」
ジルはひどく陰鬱とした様子で俯いた。彼女らしくないくらいに落胆していることに気付いて、ヤーグはついと視線を逸らした。ジルが落ち込む理由はわかる。レインズがどうするつもりか知らないが、もう二度と会えない可能性もある。レインズは、そういう男だ。
ルカだけが気付いていない。あの男との間にあるものに、ルカだけが気づいていないのだ。
「ともかく、リグディさんはお戻りください。お二人を引き渡す気はありません。命令ならなおさら。頼みなら聞くぐらいはしますが、それでもルカさんを連れてレインズさん自らいらしてくださらないと」
「……お前ほんとふてぶてしくなったよな」
「ファングさんに似たかもしれませんね。いや、ライトさんかな」
あとスノウとカサブランカだな、とリグディは苦笑し、ジルとヤーグに一瞬だけ視線を傾けてベースキャンプを出て行った。その視線に、苛立ちは混じっていなかった。ただ旧知の人間に向ける、かといって親愛でもなんでもない視線。つまりいつものリグディだ。ヤーグたちを力づくでも連れ去ろうとまでは考えていないのだろう。
それも当然か。レインズの目的はルカ一人のはずだ。むしろ、ヤーグたちと引き離しておくほうが溜飲が下がるに違いない。ルカが騒ぐのを怖れて、近くにおいて人質として扱うという手もあるのだろうが、さすがにそこまですればルカ一人でも戦争になる。相手は確かに、コクーンを救った英雄の一人なのだから。
リグディがいなくなってしまうと、ホープが「とりあえず一つテントをお貸ししますよ。ルカさんが今日中に戻られるかもわかりませんしね」と言って、案内するためにジルとヤーグを手招きする。それを見たジルが顔を顰め、怪訝な顔をした。
「……あなたが、私たちを庇うなんて思わなかったわ」
「ルカさんのお願いですから」
「ルカの頼みならなんでも聞くわけ?大した仲間意識だこと」
何で突然喧嘩を売るんだ、とヤーグは内心呆れ返ったが、それがジルの防衛本能の一つだと知っているので何も言わない。彼女は彼女なりに、ホープの裏を探りたいだけだ。
ホープもなんとなくそれに気付いているのか、喧嘩を買うことはなかった。
「いいえ。あなたたちに関する頼みは、つまりルカさんのお願いの中でも特別ですから。僕に預けることには躊躇いがあったと思うんですけど……まあそこは培った信頼の結果でしょうね。僕達は信頼されていますので」
……僕達“は”、ときたか。ヤーグはひやっと背筋に嫌な汗が滴るのを感じた。ホープは喧嘩を買わなかったが、違う方向で売りつけてきている。
ネオ・ボーダムでも思い知った。やはり、……やはりというか、自分たちは憎まれている。文字通り親の仇なのだ。ヤーグは暗澹たる気持ちがあることを否定できない。そこまで覚悟してあの裁可を下したのだから結果を甘んじて受けるべきだとわかっている。
それでもどうしてもそれに逆らってしまうのは、ルカのせいだ。ヤーグたちが生きていない世界なら生きる価値はないと言った、あの言葉がまだヤーグの中で息衝いているからだ。
しかしホープは、まるでヤーグの心を読んだみたいに言い放つ。
「パージのことはもう、あなたがたを責めるつもりはないんです。恨んでないかと聞かれれば恨んでますけどね。でもそれなら、コクーン市民全員を憎まなきゃならなくなる。あなたがたが直接手を下したわけでもないですし、あなたがたが居なければああならなかったのかと言えばそれは違いますし」
「……でも、我々がもっと早く気づくべきだった」
「ええ、その通りです」
ファルシが何を企んでいるのか考えてみるべきだった。人間を守るのは人間だ。人間を殺すのも、人間だった。
ファルシは殆ど手を下していない。人間が殺したのだ。殺し合った。その責任は自分にある。
「……でも、他にも気づくべきことはありましたよ。僕はパージについてはあなたがたを責めないけど、でも責め続けます。ルカさんのこと」
「……それはあなたには関係ない」
ジルがじろりとホープを睨み上げた。自分が悪かったと解っていて尚、ルカに対して抱く痛みさえジルは手放そうとしない。
しかし今度はホープも真っ直ぐジルを見下ろし、譲らなかった。
「関係ないと、本当に思いますか。あの時ルカさんの痛みを知っていたのは僕らだけですよ。隣に立っていたのは僕らです。あなたじゃない」
「何よ……!たった数週間だけじゃない!それだけなのに……ッ」
「……。一度だけ、ですけど」
怒りに声を荒げたジルから、ホープはそっと視線を逸らした。もちろんジルに押し負けたわけではない。目には懐かしむ色を載せて、ジルにもヤーグにも重い言葉を放つ。
明らかに、言葉一つで刺し貫くために。
「一度だけ、ルカさんが泣いたことがあるんです」
一瞬で、脳が空っぽになったような錯覚を味わった。泣い、た?
ヤーグは一度だって、ルカの泣き顔など見たことはない。どんなことがあってもルカは泣かなかった。再会したときだって、別れのときだって、一度も泣いたことなどなかったのだ。
「あれは、あなたがたの幻影に惑わされた時でした。バルトアンデルスの策略だとわかっているのに。ルカさんもかなり弱っていたのでしょうね。あなたがたに否定されることを、ルカさんは一番嫌がるんです」
それは初耳だった。バルトアンデルスとは、ダイスリーのことだろう。あれもファルシだったということはレインズから聞いて知っていたが、ルカにそんなことをしたのか。
ヤーグは怒りを覚えたけれど、そもそも原因は自分たちだ。そう思えば、怒りは急速に萎んでいった。隣のジルも同じらしい。
ホープはジル、次いでヤーグをじっと見つめた。
「……僕の仲間をさんざん傷付けて、挙句泣かせたあなたがたを、僕は一生許しません」
「……仲間、か」
「はい。大事な仲間です」
ヤーグはひどい寂寥を覚えた。きっと同じことをジルもレインズも思うだろう。リグディやカーライルさえ感じるかもしれない。
ルカは一瞬だけ、ヤーグさえ知らないところへ行った。やっと戻った彼女はもう、自分たちだけのものじゃない。
自業自得。業の深さに溺れてしまいそうだった。
「……さあ、着きましたよ。このテントを使ってください。あなたがたがいることは秘匿にしてありますから大丈夫だとは思いますが……危険のないよう気をつけてくださいね。ルカさんがベースキャンプを血の海にするところは見たくありません」
「ああ、そうだな。私もそんなものは見たくない」
ヤーグは苦笑して、テントの入り口の布を跳ね上げてまずジルを通す。ジルは礼も言わず、背中が怒りを伝えてきていた。ホープ・エストハイムが悪いわけでもないのに。……いや、これはルカがいないから不機嫌なだけだな。
ホープの背中を見送り、ヤーグも中に入る。丸椅子に腰を下ろし、ジルはじっと地面の一点を見つめていた。歩み寄ると、視線を落としたままで彼女は先ほどと同じことを問うた。
「……ルカは、戻ってこられるかしら」
「どうだろうな。難しいだろうが……レインズと、あいつはもっとちゃんと話さなきゃならないんだろうよ」
「え」
ジルはきょとんと、驚いたように目を瞠った。ヤーグの言葉が意外だったらしい。
「レインズとロクに話し合いさえしないから、こんな面倒なことになっているんだろう?」
「え、ええ、だから最初に言ったじゃない。許可を取るべきだって。あんたは無視したけど」
「あのときに許可が取れたと思うか?」
そう聞くと、ジルは言葉を詰まらせた。それもそのはず、許可など取れたはずがない。
何せルカ自身がその必要性を理解していないのだ。だから、レインズが納得するような言葉を提示できない。
そしてレインズも、ルカにそれを伝えない。話しあえば互いの罪に向き合わなければならないから。ルカが、ヤーグたちが傷付くことを何より厭うように、レインズだってヤーグだって、ルカが傷付くのが一番怖い。ルカに傷付けられたと告げるのがとても恐ろしい。
でも同時に、伝えなければならないともヤーグは思った。そうしないから、カタストロフィの日、ああなった。傷付けることを是としたからではない。傷付けまいと互いに必死になりすぎたからだ。
ただ、レインズはそうは思っていないようだったけれども。
「レインズだって、ルカに全部伝えるべきなんだ。私たちもな。……まあ、話し合うにしても、8年経っていたというのは予想外だが」
「……と告白すらできなかったチキン野郎のお言葉です」
「お前……そういうことをわざわざ言ってくれるなよ……」
ヤーグは脱力した。それを見て、ジルはようやく少し笑った。ルカがいないと、怒り以外の感情をあまり見せない彼女なので、とても珍しい。
ルカはすぐに戻ってくる。不思議とそんな気がしていた。
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