カメリアは咲かない







明らかに異常事態だった。どうしてこんなことに……原因を考えるのもばからしい事態。それでも、異常だと認識するのは難しい。なぜなら己をとりまく現実だから。
ヤーグは静かに、壁に凭れていた。今は補佐官の報告待ちだ。

「なんなのよ……どうしてレインズが聖府代表に……」

小声で、自分同様報告待ちの隣の友人が呟いた。全くだった。この異常に気づいたのは、それが発表された時だった。ファルシの厳命に従わないわけにいかないPSICOMは言われるがままセレモニーの準備をしている。そのことにヤーグは激しい嫌悪を感じながらも、抗うことなどできはしない。

数日前、騎兵隊の知り合いが突然私用コミュニケーターに電話を寄越して誘拐がどうのと大騒ぎしたと思ったらこれだ。わけがわからない。騎兵隊がそれ以降黙りこくっているのも気にかかる。
ばたばたと、ホールやそこへ続く廊下を多くの兵士が書類やダンボールを抱えて走り回っている。あまりにも急だったから、準備が当然のように滞っている。だから誰もヤーグたちの小声の会話を聞いていない。そのことが、いやに口を軽くさせた。ので、言いたかったことを今の内に言っておくことにした。
彼女はパラメキアであいつに会ったという。自分にだけ、その邂逅の中身を語った。庇われた、とただそれだけでも。

「……ルカはルシじゃない」

「そう……かもしれないわね。あんたがそう思うんなら」

返ってきたそれは、ジルの言葉とは思えないほど素直な言葉だった。驚いて目を瞠るヤーグに、彼女は苦い笑みを返す。皮肉も怒りもない、ただ苦みがあるだけの純然たる微笑み。

「でもそこにあんたの願望が欠片もないって、本気で言えるかしら?私もそうよ。どうせもうこの呪いは解けないのに、あの子がルシじゃなければ戻れるかもって思ってる。くだらない幻想を抱いてる。そんな願望を忘れられないのに、どうして私たちの目に本当のことが映る?」

彼女は綺麗だった。綺麗な目で、まっすぐ前だけを見ていた。何もかも、希望も未来も拒むみたいだった。それはヤーグのよく知っている彼女だ。そしてきっと己も、他者には似たように映るのだろう。

「真実は鏡よ。探せば探すほど、自分の願望しか見えなくなるの……。だから、何もわからないのは当然なのよ。その中で必死に走り回るしかない」

「……そう、だな」

その通りだった。それなら自分ももう、覚悟を決めるしかない。
ヤーグは強く目を閉じた。






コクーンの外郭をくぐるのにルカは若干の不安を抱えていたのだが、自動でステルス迷彩とチャフが発動され、ゲートもなぜか取り払われていて問題なく通ることができた。これじゃあ今外から何かが飛んできたらコクーンの地表にクリティカルヒットだ。今更ながらに、民衆の安全をファルシに丸投げしていたことを恥じた。脱出も侵入も、簡単すぎて泣けてくる。
己はファルシ打倒を謳いながらも、ファルシに生命線を委ねていた大馬鹿野郎である。わかった、はい、反省終わり。じゃあ次、今度こそ殲滅する方法を考えようか。

エデンでは、何やらセレモニーが行われているようだった。後ろのスノウが、エデンのマップを広げながら作戦会議中のルカとライトニングの間に割り込んだ。そんなことにも、ライトニングがいらだちを表さなくなってずいぶん経つ気がした。でもまだ一、ニ週間とかそこらなの。不思議。

「なんか騒がしいな。あそこに突入するのか?」

「うん。戦争を避けたいんだったら、市民が自衛本能をバリバリに発揮する状況にしちゃえば勝手に逃げてくれると思う。それにセレモニーしてるんだったら、市民保護のために会わなきゃいけないヤツはあそこに全員居るはずだよ」

PSICOMの高官も、騎兵隊も、そしてもちろんシド・レインズも。
ルカがそう他人事のように喋ると、ライトニングは片眉を顰めた。強がっているように聞こえただろうか?いや、もう強がってなんかないよ。少なくとも意識的には――安心させるためにルカは微笑む。大丈夫だ。

「ねえ、突入するんなら、みんなには召喚獣があるよね?バラけて個別に向かったほうがいいと思うよ。飛空艇じゃ、これ一機落とされたらお終いだもん。だから、私だけこのステルス迷彩で侵入するよ。召喚獣のいない私はやっぱりド派手に蹴散らすのには向かないし、……リグディを探してなんとか騎兵隊を下げさせる方に回る」

「そうだな。その方がいいだろう。私たちが言葉を尽くすより、お前が必死に訴えたほうが軍部のやつらには響く」

「みんなはオーファンの居所を探して……っていうか、多分それは聖府中枢に答えがあると思うから、そっちに向かうために血路を切り開いてほしい。だから作戦としてはね、今さっき望遠で覗いた感じだとレースをするみたいなんだ。と、やっぱりほとんどの人の視線はそっちに集中してるから……レースに参加しちゃえ。んでガッタガタにしてまえガッタガタに、ぎっちょんぎっちょんにしてしまえ」

「ルカなんか怒ってないか?」

「いいえー別にぃー私をぶっ殺しかけて数日で聖府代表になってレースを楽しんでたって別に怒ったりしませんしぃー」

「いいだろ生きてんだから……」

生きてりゃいいってもんでもないんだよ。ルカはそう頬を膨らませつつ、マップの上でまた指を滑らせる。

「で、私はうまいことどっかに降りて、そしたらリグディを探すから。……なんとかうまくやる。あいつが私の命令を聞いてくれるかはわからないけど話くらいならきっと」

そう呟いて、転移装置とギアチップの調子を確かめようと手を伸ばした時だった。機体の外から空気を震わせて微弱な、しかしほのかに甘い気配が鼓膜を揺らし、反射的に背筋を伸ばす。

『…………自らの手で切り拓いてほしい。消え行くものの意志を継ぎ、未来を……』

微かに聞こえたそれは彼の声のような、気がした。

一瞬心臓が跳ねたことを伝えたら、また笑ってくれるだろうか。少しだけ、苦く……。仕方ないなぁと言いたげな、あの顔で。
なんだかまた泣きそうだ。そんなルカの背中を誰かの手が支える。ヴァニラだった。

「ねえ、ルカはさ、もうどうしようもないって言ってたよね。コクーンから外界に向かう時。ルシじゃないから呪いは解けない、って」

「……うん」

「でも、呪いなんて解けなくても……また会えるね」

「うん……それは、君たちと一緒にコクーンを出なければあり得なかったかも。……呪いが、私の命を繋いだの」

先輩たち全員と袂を分かち、コクーンを飛び出した。その結果、もしかしたら彼らを救えるかもしれないと、今は希望に満ち溢れている。もう戻れないが故……彼らにはできないことを、自分は叶えられる立場にいる。
なんて痛烈な皮肉か。しかし、なんて幸福な希望か。

と、ファングが考えこむように顎に指先を当てた。

「……レインズを蘇らせたっての、私と同じなんじゃねーのかな。あいつも一回クリスタルになってっだろ?クリスタルになったルシは目覚められる」

「だったら……」

「壊れた、っていうのはたぶん、使命を果たさずにクリスタルになったから。そうしたらどうなるか、なんてのはわかんねーけど……」

言葉を選び選び、ゆっくりとファングが告げる。その耳良さにルカは目を細めた。彼女らしくないこまやかな気遣いだ。

「ありがと、ファング」

もし本当にファングと同じだったなら、シドは目覚めた後烙印は進行していないはずだ。
しかしファングのその白焦げた烙印は、ラグナロクの証だと聞いていた。ヴァニラの召喚獣に二人きりで立ち向かったあと、キャンプに戻ったファングはそうルカたちに伝えたのだ。あの時のファングの不安げな視線をルカは忘れないだろう。ファングは、ラグナロクとしてコクーンを破壊しようとした過去を、思い出せないくせに背負おうとしていた。ルカが思うに、その苦痛を代償に彼女の烙印は進行がないのだ。
であれば、シドの烙印が本当に同じ状態のはずがない。きっと変わりなく黒い烙印が、彼の右手の甲に刻まれているに違いなかった。

でも、どうしようもないことは、今は考えない。ルカは身を乗り出し、右手で銃の形を作ってサッズのこめかみに押し当てた。

「さーてサッズ!私にハンドルを渡してもらおうか!」

「強盗みたいだなお前……もうちっと直前まで俺が操縦したほうがよくねぇか?」

「私も一応ライセンスあるんだよ?そりゃもう五年ぐらい操縦してないけど」

「それはライセンス持ってるって言わねぇよ!?」

サッズががたがたとやかましいのを押しのけて、数分ののちルカは見事操縦席をぶんどった。リグディの後ろによく乗せてもらっていたので、ただ授業の一環でライセンスを取得しただけの同輩よりはずっと得意な自信があった。急降下と急上昇に慣れているという意味でだが。
ハンドルを切ると、その拍子に指輪がガチリと鳴った。一度も外さない指輪。他人との絆の象徴だ。自分をこの繭に繋ぎ止めている気がしていた。

「じゃあ、……行ってくる。後で必ず、合流するぞ」

「おうよ!怪我すんなよ」

笑うルカを置いて、ルシたちは次々に飛空艇を飛び出していった。そしてルカの眼下で召喚獣を喚び出して、色も鮮やかに彼らは落ちていく。さながら神獣。いつか神話に語られそうだな、なんて軽快な皮肉を一人で飛ばす。言ってる場合か。

「……私も行かないとね」

ルカは着陸出来る場所を探すため、高度を下げ始める。気圧の変化が軽い頭痛を引き起こしてクラクラしたが、構っている余裕もない。

と、機内に知った音が鳴り響いた。
コミュニケーター?違う、己のコミュニケーターはパラメキアに潜入したときに壊している。今持っているものの番号は誰も知らない。というかルカでさえ覚えていない。それに、着信という音じゃない気がした。じゃあ、これは……?
見回せばすぐに気がついた。無線だ。無線がコールされている。

「……どうしよう」

普通に考えれば、取るはずがない。しかしこれはバルトアンデルスのもたらした飛空艇、連絡してくるからには何か罠を仕掛けているはず。……それに飛び込めば必ず次へのヒントが手に入る。いつもそうだった。だから今も、とりあえず直前まで踊らされて、バルトアンデルスに近付くべきなのだ。
迷っている暇はない。

「あーもうはいはい、もしもしルカさんですが」

『……あんたって、ほんとバカね。出るとは思わなかったわ』

呆れたような声が耳を打った。それはずっと聞きたかった声だと、鼓動が高鳴り全身に知らせる。

「……んー、でも本物のジルかわっかんないなー。じゃあクイズだ、第一問!私が昔レイダに盛られた毒の名前は?」

『硫酸亜鉛』

「ピンポーン。では第二問!私はヤーグに何戦何勝で……」

『いい加減にしなさいバカだまれバカ学習なさいバカ』

ジルの呆れた声音が、鼓膜を揺らしている。本当は第一声でわかっていた。
……ああ、ジルだ。ジルとまたこんな軽口を、交わす日が来るとは。

「なんでこの機体の無線周波を?」

『さあ?適当に合わせてたら見つけたのよ』

「嘘だねー。誰に聞いたのかな?……先輩かな」

『あの男の話をしないで。……なんであいつが聖府代表なのよ、まったく……』

ジルのなんてことない口調から、先輩はやはり元気なままで生きているのだと知れて安堵する。その安堵が全身に巡って落ち着いた。バルトアンデルスがなんと言おうと、彼女の一言を超えることはない。
その安堵が、過ぎたのかもしれなかった。
ルカは間違いなく集中を欠いていて……だから、チャフが切れたことに気がつくのに時間がかかったのだ。

チャフというものは、微弱な粒子などを機体に纏わせることでレーダー探知されなくする標準的なデコイだ。ステルスは視認させないだけ。チャフがなければ、すぐにルカの現在位置など知れてしまう。

視界の端に、榴弾の微かな赤が煌めく。

『……ハイ、探知完了』

「しまっ……!」

ルカは舌打ちをして、シートベルトを外す。発射まで1秒、到達まで1.5秒、爆破まで2秒。それだけあれば……!

幸運だったのは、つい先程ルシたちが飛び降りるために開けた横腹のドアが微かに開いていたこと。ルカは後部座席へ跳び様その入口に足を掛けてこじ開け、そのまま外へ体を投げだした。

誤算だったのは、その高度。まだ100メートル前後はある。落下速度が増しすぎて、グラビティ・ギアで重力を操作する判定が……どうしようもないほどシビアだ。
唯一の救いのグラビティ・ギアだが、残数はたしかいくらかあったはず。……それならなんとか、連続で作動させ続ければ……!

そう思った時だった。
視界の端に、白い光がちらついた。

それは、朝焼けだった。
―違う、今はそんな時間じゃない。

地平線はまっすぐと、しかし微かに山なりのアーチ上に光を描く。
―違う、それはコクーンでは起こり得ない。

その、光の中に……。

落ちてきた飛空艇が、重なった。
それは目のかたちをしていた。あの目。エトロの目……ルカはそれを知っている。

下界で通ったテージンタワー。あの壁画。最初に描かれた御使。あのときはかすれて見えなかった模様が今はありありと思い出せる……。
御使の向こうに描かれていたのは、目だった。表面は掠れていたけれど……もう間違いない。エトロと目があった、気がした。

エトロはそこにいる。ルカを視ている。ルカを通して、世界を視ている。
女の声が、耳元で何かを囁いた。だからルカは未来を視る。

「うがっ、はっ……」

(ジルは既に死んだ。バルトアンデルスの魔法が彼女を打ち、パラメキアで殺された)

(ヤーグはこれから死ぬ。モンスターと戦うために自爆覚悟で手榴弾を使って)

(先輩はもうまもなく殺される。コクーンを守るために必死な人々にとって彼はもう敵だから)

確定的なそれらが眼の奥をぐるぐると回っていく。脳髄まで突き刺さる。
己はエトロに出会って、血を受けて、その力に呑まれた。そして今この瞬間に至るまで、彼女の目として世界を視てきた。

あの日――エデンの路地裏で目覚めたとき。あの時の私は既に、十五歳のルカ・カサブランカなどではなかったのだ。あの時すでに……何もかも嘘だった。全ての違和感の正体はそこにあった。贋物はコクーンではなく、己だった。そもそもコクーンの人間ではなかった。
なんてくっだらない……茶番か!不可視の混沌を笑い飛ばして、彼女は首を反らせ地面を見た。グラビティ・ギア、残数はニ。

地面にたどり着いた。全身が微かに痛んでいた。生身の体が、あの急落下に涼しい顔で耐えられるはずがない。当然だった。
それでもすぐに身を起こす。大丈夫、大丈夫だから……もう行かないと。体の変調だとか、そんなことに惑っている暇はない。どうせそう簡単には死なない。

見上げると、飛空艇はここよりずっと遠くで爆破され、レースの真上で落下を始めていた。周囲を見回してみると、そこはセレモニーの会場だったレース場のすぐ裏手の警備軍支部教練場だった。ギアを早い段階で使用し始めたせいで、落ちる中で少し風に煽られたのだろう。

「……コクーン、かあ……やっちゃったなぁ……無駄に長い人生の中で一番の大失敗だよ、まったくもう」

吐き気がする。ざわざわと背筋が粟立ち、寒気がして視界が霞んだ。ぐらぐらと煮立って茹だる。
彼女は視線を巡らせた。先へ進まなければならないのに、その先がわからない。足を動かしていいのかさえわからなかった。
そんなとき、後ろから声がした。

「ルカ!!」

揃う靴音が響いて、誰かを呼ぶ声に振り返る。金の髪の美人が立っていた。
……、……?誰だろう。すごく綺麗で、もし自分にもエトロが見えたならこんな感じかなんて考えた。ああでもエトロは莫迦だからな、こんなに知的な美人のはずが……、……?
己は何を考えているんだ?彼女は……ジルじゃないか。

「ジ……ル……?」

くらくらする。わからない。私は何を……何をしようとしていたんだっけ?

「……先輩だ……」

よくわからない。でも彼に会わなければいけない。顔を上げると、ジルはたくさんの部下を伴い私と対峙していた。綺麗な顔は怪訝に歪み、まじまじとこちらを見つめている。
ルカは彼女の部下たちに銃を向けられていることに気付き、己の体に赤い点が浮かび上がっているのを確認する。ああ、デジャヴ。でもだからといって止まれる時間は、今は無いので。

「ジル」

ルカは己の襟章に手を遣り、無理矢理に糸を捩じ切った。手の中の、金の襟章をひっくり返すと、美しい字体でルカ・カサブランカと刻まれている。それも他人事だった。どこまでも遠くにある名前だ。もう自分には関係ない。
襟章を、ジルに投げ渡す。綺麗なアーチを描いた襟章は、驚いたジルによって受け止められた。

「ルカ?ちょっと、何よこれは!」

「あー……捨てといてくんない?もう要らないから。急ぐし」

「はあ?……急ぐって、そんなの許すと思ってるの?」

「許してくんないんなら、ジル以外殺すとかそういうことになるからなあ……私が殺したくないのは今この場ではジルだけだからなあ……死んでくれる?みんな」

そう言いながら視線を彷徨わせ、ギア魔法を手の中で転がした。がうまくいかない。炎は赤を飛び抜けて青く変化し、まとわりついてうざったい。振り払うために手を軽く振ると、ただそれだけですり抜けた炎が教練用の的に当たり全てを焼きつくし始める。消化活動まで負わせるのは忍びないので、仕方なくブリザガ魔法も同様に放つ。と、炎が凍りついていくのが見えた。
と、なぜか見慣れたはずのPSICOM兵は視線を交錯させ躊躇っているように思えた。どうやら怯えているようだ。ルカの手の中でギア魔法が異常な威力を発したからか。出力がうまくできない……やはり魔法は、下手なのだ。何百年経ってもうまくできない。焼きつくすことは難しくないのに、一人だけ焼くのは難しい。
ルカはその程度のことでたじろぐ兵士たちを鼻で笑い、歩き出す。まだ己はルシということになっているのだろう。面白いことだ。ルシと呼ばれたバルトアンデルスが笑った理由が、今なら分かる。笑っちゃうよなぁルシだなんて。

ジルの隣を通り過ぎ、一旦立ち止まる。ジルは振り返ってくれなかった。

「ねえジル……私のことは、忘れていいからね」

だって全部思い知ってしまった。それはつまり、もう戻れないことを意味する。
自分がまともな人間じゃないとか。呪いとか。そんなの気づきたくなかったと思ってはいけない。不遜。思い上がり。

「この十年は、今まで生きてきた中で一番幸せだった。最低だった長すぎる人生をもう棒に振ってもいいって思えるくらいには。……だから、ねえ、死なないでね」

「今更何を……っ!」

「いまさらも何もないよ。あの時もジルはそう言ったけど。……でも、ジルのいない世界に、一体どんな価値が?」

己の言葉にジルは一瞬言葉を詰まらせた。ほんとうのことだ。ジルのいない世界にどんな価値が。ヤーグのいない世界にどんな価値が。そして、彼のいない世界にどんな価値が?
わからない。わからないから、無価値だと思う。それなら破壊されてもいい。しかし逆説的に、今はまだ価値がある。だから行かなくては。

「あんたが何言ってるんだか、まるでわからないわよ……!」

ルカはそれに笑い返し、そして二度と会話するつもりもなかった。残念なことに、もうジルの理解さえ必要ではない。むしろ理解されたら穴掘って埋まって100回窒息したくなるのでやめてくれと更に笑う。
それなのにジルが止めようと鋭い声を飛ばす。

「待って!!……あんた、どこに行くつもりなの」

「どこって……ちょっとそこまで?」

「そんなわけないでしょ……!?ねえちょっと、待ちなさいよ!」

「絶対生き延びろよー」

笑いながらそう言って、後ろ手に手を振って。もう振り返ることもなく歩き続けた。そうして薄暗い廊下を抜けてセレモニー会場への入り口をくぐる。後ろから呼ぶ声があったのでドアを閉めてロックも掛け、手近にあった掃除用具からモップを抜き取りつっかえた。しばらくは開かないだろう。

会場は、すでに観客は逃げた後のようですっからかんだった。寂然としている。妙な騒がしささえなければ。

ファルシというものは生まれた瞬間から腐りきっている。彼の発想は正しい。あんなものに手綱を握らせた人間の行く末なんてたかが知れている。
供犠……シドはそう言った。そのとおり。人間がたくさん死ねば門は大きく開き、その先に居るはずのエトロは可視世界から手を伸ばせる存在に成り下がる。神は……ブーニベルゼはその瞬間を待っていて、パルスとリンゼはそのためにファルシを創りだした。
だからファルシは、こんな回りくどい虐殺を行う。腐りきっているから。人間をエトロに繋がる糸としか捉えていないから。

「……そんなの、皆殺しよ」

ファルシはもう、一匹も許さない。許せない。
自分のしたことは棚に上げてそう思う自分を嘲笑う。

「先輩……やっぱり先輩は正しかった……ファルシなんて全部、死んでしまったほうが……」

喉が掠れて、息をすると痛んだ。レース場の階段をゆっくりと登っていく足さえ、自分のものとは思えなくてふらつく。
急がなければ。急いで……シドに会いに行こう。彼は特別展望室にいるはず。あれは聖府代表のための部屋だから。そしてこのレース場で、一番安全なはずの部屋だから。

自分の口角が上がるのを感じた。微笑んでまた歩き続ける。
幸せだ。手段は全て手に入れた。全て救えるはずだ……そのために今、先に進める。ほしい未来は手に入ると、もうわかった。最高の未来だ。
たとえそこに自分がいなくても。

「あははっ……!」

幸せだ。幸せだ。幸せだ。
こんな幸福がこの世にあろうか!ずっとこの日を待っていた!

登り切ったレース場の客席の最上階からエデンを見下ろした。と、アークの機械兵器が不可視の領域を侵し、慣れ親しんだ街へ舞い降りるのが遠くに見えた。
……急がないと、エデン市民が皆殺しにされそうだ。

「全部なんとかなるわ……大丈夫」

ひとすじの光明が見えた。
ただそれだけで、ルカは幸せだった。








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