瓦解する君のインディゴブルー








ルカが飛び込んできた辺りの記憶ははっきりしない。ただ、とにかく窓ガラスを割って乱入してきたという、それだけ。思考を占めるバルトアンデルスの声から逃れるのに必死で、ほとんど認識できていなかった。
彼女がシドの右手を掬い上げ、ルシの呪いを取り去るまでは。

「先輩にもおはよう。もうルシじゃない……もう、先輩は大丈夫」

そう言って心の底から安堵したように彼女が微笑む。目を細め、優しげに口角が上がる。心臓がルシの呪いからの解放を喜んでか、大きく一瞬高鳴った。

呆然としつつ、右手の甲を眺め続けた。そこにはあの忌々しき黒いシルシは存在しない。
何が起きたのか、まるでわかっていなかった。ルシになったらその呪いを解く方法はないというのが一般的な理解であり、専門的な理解となってもそれは変わらない。ルシになったら永遠にファルシの奴隷。抗えばシ骸に、抗わなければただひたすらクリスタル化とルシとしての使命の間を彷徨うだけ。その繰り返しだと、バルトアンデルスがシドに教え込んだ。逃げられないとわからせるために。

ふと顔を上げてみれば、リグディはルカによって部屋の外に追いやられていた。彼とも話をせねばならないがしかし、今はそれどころではない。

「一体何をやった……!」

「やぁだ話聞いててくださいよぅ、やればでき、」

「そういうことを言っているんじゃない!!」

彼女を怒鳴りつける日が来るとは思ってもみなかった。そう思いながらも立ち上がり、彼女の手を掴む。一体何が起きていたのか、彼女の右手を検めた。もしかしたら彼女が下界で、烙印を他人に譲渡する方法だとか、そういう方法を得たのかもしれないと思ったからだ。

けれど烙印などはなく、彼女の両手は小さな傷が増えている気こそしたもののなんら異常はない。指輪が少し汚れているぐらいで、何も変化はなさそうだった。信じられない気持ちでルカの顔を見下ろす。なぜかふいと、視線はそらされた。片目を細めて笑う癖は、後ろ暗い時特有の笑みだ。やはり何か秘密がある、そう思うと同時にふいに胸元を強く押され長椅子に再度腰を下ろした。無意識に、つい彼女を引き寄せ抱き寄せてしまう。しまった、つい癖で。明らかに話をする体勢じゃない。
が、ルカは抱きついてきたくせに自分から体を離し、数十センチの距離からまじまじシドを見つめた。

「先輩。もう私のことはいいから、よく聞いて。ルシたちと一緒に私がファルシはなんとかする!危険なファルシはバルトアンデルスとオーファンぐらいだし、なんとかなるはず……コクーンは落ちるけど、人間は生き延びられる。そしたら下界で自由政府を作ればいい!ね?もう何もかも片付くの」

くらりと、視界が傾くような感覚があった。自分が何を言っているか、彼女はわかっているのだろうか。

「そういう話は君がすることじゃない、それにそう簡単にはいかない!バルトアンデルスはともかくオーファンはファルシのエネルギータンクだ、いくらルシたちでも倒せる相手じゃないだろう!?」

「大丈夫だよ。いくらでも奇跡は起こるんだから」

「君が行く……必要は無いだろう?君はルシじゃないんだ。もう力にもなれないだろう」

「そうだね、確かにルシじゃないけど」

自分がまた、酷いことを言っている自覚はあった。ルカに対しても、ルシたちに対しても。けれどそれでも、彼女を行かせることの危険性には代えられない。
それなのに、彼女もまた酷いことを言う。

「……でももうそういうわけにもいかないかな。もうみんな仲間だから、私だけ抜けるってのはフェアじゃないし」

「そんなこと理由になるか……!死にに行くようなものだぞ!?」

「じゃあそれを理由にするよ。私は、死にに行くの」

背筋に嫌な汗が垂れた。彼女の表情を見たからだ。さっぱりと明るく、ちょっと買い物にでも行くのと言ったときと何ら変わらない顔をしていた。それはその理由に自分で疑問を抱いていない顔。死にに行く、それでいいという顔。
止めなければ……そう思った。九死に一生を得ることもない顔だったからだ。どうあっても死ぬような表情だった。
ルカは静かにシドの左手を掴み、持ち上げ手袋を外す。何をするんだかわからず望むままにさせていると、ふいにルカがシドの耳元に唇を寄せた。

「先輩。×してました。ずっと……」

ぶつん、と、耳の中を虫が這いまわるような嫌悪に一瞬曝された。そのせいで、彼女の言葉がほとんど聞こえない。
そういえば。……そういえば、あの、アークで彼女と出会ったとき。あのとき彼女が最後に言った言葉も同じように掻き消されてまるで聴き取ることができなかった。
何故。
何故、彼女の言葉は聞こえない?

ルカが掴んでいたシドの左手を両手で挟み込むようにして……彼女の右手の指先が予告なく薬指の指輪を抜き取った。それにシドが一瞬困惑した隙に、己の指輪まで抜き取ってしまう。

「だから何も言わず、別れてあげますよ」

「……本気か?」

「ちょっと無能なPSICOM大佐は警備軍准将には似合っても、もう階級もないただの身元不詳な女は暫定政権の立役者には似合わないと思いません?」

彼女はサイドテーブルに手を伸ばし、指輪を落とす。そこにあったシャンパングラスへ。数秒後、指輪がグラスの底へ辿り着き高い音を立てた。嫌な予感が胸を埋め尽くして、どことなく息が苦しい。

「何を言っているのかわかってるのか?死ににいくだのなんだの……、それがどういうことだか、君は本当にわかってるのか!?」

うまく聞き取れないながらもしかし、その言葉が胸の奥に刺さった気がした。彼女に愛されていないと思ったことはなくても、愛されていると取り立てて感じたこともなかったのだ。だから今、彼女を捕まえようと必死になる。

「……だからね、あなたが哀れでしょ。私はもう役に立てないから、ここで捨てていっていいって言ってるの」

頭をがつんと、後ろから殴られたような気分だった。それは彼女に抱いた“理想”だった。シドの道を邪魔しないこと。シドの理想を理解していること。彼女はシドの望みをしっかり叶えている。そのことが、どうしてか痛い。

ルカは振り返って窓の向こうを見つめると、いよいよ本格的に腰を上げ去ろうとする。まずいと思った。今去ったら、彼女はもう戻らないような気がしていた。

「おい待て、話が飛び過ぎだ。まるで説明になってないし、私は……!」

「先輩の意見はもう必要ないの。私の行く先はもう決まってる、それだけ。だから説明なんてしない。時間もないし」

そうぴしゃりと言い張り、彼女は立ち上がり背を向けた。見慣れているのに、別人のような気がしている。肩を掴めばようやく止まって、ゆっくりと顔だけを振り向けた。

「ジルとヤーグのことをお願いします。……私のことは、」

振り返る、瞳。優しげに細められた、穏やかな目と静かな声音。

「もう……忘れてね」

綺麗な笑みだった。本当にルカなのか疑うほどに綺麗な……優しい、聖母じみた笑み。似合わない顔。殊勝な面影。気丈な振り。
あまりもらしくないその表情に当てられて、一瞬シドの時が止まった。その瞬間だった。

強い力で腕は振り払われる。かと思ったら、彼女はすぐさま走りだす。そして穴を一息に飛び出し、ギアを使ってか高く飛び上がった。追うようにシドも窓辺に寄り、穴から下を見下ろす。と、振り返った彼女と目が合う。彼女は微笑み目を伏せた。彼女を追おうか迷い、部屋を出るため一瞬踵を返しかける。が、すぐに思い直して再度下を見ると、彼女はまた飛び上がってレースコースに飛び降り、“仲間たち”と合流していた。
……“仲間”、か。因果なものだ。数週間前までは、その言葉が指すのは己でありナバートでありロッシュであったはずなのに。
彼女の中ではもう何かが違うのか。何が変わったにせよ、それが誰のせいかくらいわかっていた。だから追いすがることはできない。

部屋の真ん中に立って、考えなおしてみる。
ルカが己を解放した……そのときに何が起きたのだか、まるでわからなかった。混乱していた……ただわかるのは、解放されたというその一点だけ。抗おうとする意思を押しつぶされる、そういう感覚が消えている。息もできないような苦しみだったのに、消えてしまえばその存在すら感じられなくなった。喉元すぎればなんとやら……でも、そんな日が来るとは思っていなかった。死に体だったものが、突然何もかも取り戻して……幸福な混乱である。

「……いや、何もかも取り戻したわけじゃないか」

苦い思いで、シドは長椅子のサイドテーブルのシャンパングラスをひっくり返した。まるで口をつけていなかったシャンパンが気泡を弾けさせながらテーブルに広がり、甲高い音を立てて指輪が二つ落ちる。数ヶ月前に購入し、片割れを彼女に与えた……それは婚約指輪だった。彼女の周りに居る人間への微かな牽制も兼ね、若干年齢に似合わないほど可愛らしいものを選んだことを覚えている。
指輪を拾い上げた。……指輪を置いていくとは、そういうことなのだろう。止めるべきだった。……その通りだ、止めるべきだった。自分のことは忘れろとまで言って……死ぬ気で戦うと、そういうことだろうか。彼女は後顧の憂いを断ちに来たのだと、今更ながらに理解する。

右手を見る。やはり烙印はない。生きている。もう意思は奪われない。

けれどその代わりに、ルカは戻らないと言う。

「……そんなはずがあるか」

彼女のことを知っている。あれは、ナバートとロッシュを置いて消えられる女ではない。シドなんて、いざとなれば何でも天秤に載せる人間に一番大切な彼らを頼んで死ぬなんて、そんな危険な賭けができる女では。

指輪を握りしめ、胸ポケットに放り込んだ。そして、彼女を死なせないためにできることはなにか考える。
今できること。壁掛けのPSICOM無線を取り上げ耳を近づけると、喧騒にも等しい声が飛び交いとにかく混乱状態であることがわかった。人々が今、逃げ惑っている。それなのに混乱を収める者は居ない。そのために持ったはずの武器を、シドでさえ手放しかけていたから。

部屋の外に顔を出すと、廊下には険しい顔で床の一点を睨みつけるリグディがそこにいた。部下は伝令に出したらしく、一人きりだ。

「……あいつは、どうしました」

「行ったよ。コクーンを救えるかはともかく、人間は救えるようにすると言っていた」

「あいつに、そんなことができると思いますか。ルシたちと一緒だって……生き延びられるかすらわからない……!」

「それでも私たちは私たちにできることをするしかない」

はっとした顔でリグディが顔を上げた。ルカに言われたことよりも、彼女への心配が勝ってそれどころではなかったのだろう。
無線を、と告げると、リグディは騎兵隊の無線を差し出す。ファルシのところへ送った兵はルシたちが代わりに向かうと言ってもう下げさせたという。今はこのレース場に向けて騎兵隊の全部隊を召集しているところらしい。ならば次にすることは。シドは見慣れた無線機のスイッチを入れた。

「……諸君、聞こえているか。シド・レインズだ」

全員が、ファルシのしもべにまで身を堕とした己の言葉をまだ真剣に聞いてくれるだろうか。不安がないと言えば嘘になる。しかし、今シドが惑えばもっと酷いことになるということも知っていた。

「君たちにとっては、私は今や裏切り者だろうな。……言い訳をするつもりはない。私は事実として、騎兵隊を裏切った。否定したくとも、できない。だがそれはそれとして、事実は語ろう。今語られなければならないものだからだ」

リグディがじっと窺うように見つめている。彼には感謝している。シドが諦めたのちも必死に騎兵隊を纏めてくれていた。その助力がなければ、シドは今ここに立つこともできていない。

「私はルシだった。……聖府のルシだ。君たちに仇なす敵……そして過去の私にとっての敵だった」

ルシにされたばかりの頃の絶望を覚えている。
昔は文字通りがむしゃらで、とにかく多くの権力を手に入れるために必死だった。その目的はファルシから政権を奪い取ることただ一点のみで、それなのにそれだけが叶わない事態に追い込まれたから。

「が、ルシたちに救われた。ルシの呪いから解放された。もう私はルシではない。己の思うままに戦うことができる」

リグディを見ると、顔は強張って、しかし目をそらすことなく真剣な顔で立ち尽くしていた。リグディはわかっているのだ。もうわかっている。シドが、以前のシドであることに気づいている。しかし、変化を受け入れるのは簡単なことではない。

「今、コクーンは混乱に陥っている。これはファルシの策略だ。……ファルシから市民を守らなければならない。それができるのはPSICOMではない。君たちだけだ」

そこまで言って、シドは一瞬息を吐いた。できることは限られている。けれどもその中で、精一杯足掻くしかない。

「そのために今一度、私に力を貸してくれないか。……頼む」

真剣にそう求めた。彼らの力が必要だ。自分一人にできることなどたかが知れている。シドにできることは、誰かを動かすことなのだ。誰も居ないなら何もできない……。

と、外からばたばたと、せわしない足音が響いてくる。広いだけの薄暗い廊下の反対側にふと、見知った軍服が現れた。騎兵隊が追いついた。

彼らは銃を構えたままでこちらに駆け寄ってくる。そして、数メートルのところで足を止めた。

「……まだあんたを、信用していいのか」

数秒の逡巡の後、先頭にいた男が口を開いた。声だけでわかる。小隊長を任せている少佐だ。
彼が当惑しているのはわかる。当然だ。己はそれだけのことをしたと、自覚がある。

信用してくれ。それだけ言うと、彼は数秒押し黙った後リグディに顔を向けた。

「リグディ!お前はどうするんだ」

問われたリグディは一度頭を強く振ると、すぐ顔を上げる。そしてじっと、シドの目を見つめた。

「あんたがルシだとか、そういうことは俺には全くわからない。カサブランカも、なんだか別人みたいで何をしてるんだかまるでわからなかった。……でも少なくとも、今のあんたは、俺が信頼した男だと思う。昔、未来を全部預けてもいいと思ったんだ。だから……俺はあんたをもう一度信用する。もう一度だけ」

シドは、己が一種の感動を覚えたことを否定できない。
信用ほど回収できない投資もない。築くのには長い時間がかかるくせに、崩れる時は一瞬で……人は信用をあえて裏切ることもある。
そういう理性を、しかしリグディは一歩で踏み越えた。それが誰の作った素地かはわかっているつもりだ。ルカはシドを信じてなどいなかったけれど、それでも一番近くに居ようとしていた。ついさっきまでずっと。

「そうか、お前が信じるんなら仕様がないな。預けた命を返してもらいに来たつもりだったが……もうしばらくお預けします、閣下」

「……君たちのような部下を持てて幸せものだな、私は……」

シドを信用するリグディへの信用が一本につながった。シドは改めて組織の強さを見て、無意識に嘆息する。がしかし、そんなことにかかずらっている時間はない。リグディが無線を手に取り、経緯を説明するように話しだした。シド本人に翻意を抱く者はおそらくまだ相当数いるはずだったが、この混乱がおさまるまでの間ならば手を貸してくれるだろう。

「……少佐。我々はこれから、市民を下界へ送り届け保護する必要がある。いますぐ動ける部隊はいくつある」

「はっ。ここに来る前に連絡を取りましたところ、離反者なしとのことです。全部隊、動けます!」

「そうか。では少佐、パルムポルムを担当してくれ。少佐以下、5つの部隊を下につける。リグディ!エデン東部を任せる!」

下界、と言った瞬間にやはり一瞬緊張は走ったが、そこは軍人、上司の命令に何故と問うことはない。
ルカの報告を、シドは何より信じられる。だから、下界は今一番安全な場所だ。その確信がきっと少佐には直感的に理解できたのだろう。

しかし、離反者なしとは。……少佐はもしかしたら、リグディが己を信じようと信じまいと、己の味方になってくれるつもりだったのかもしれない。それで既に、全員を説得済みなのでは。まだ信用する理由もない段階で、自分を信じてくれていたのではないか。
本当に得難い部下ばかり抱えている。己は恵まれている……最も得難い部下だったはずの彼女が今ここに居ないのが、思った以上に残念だった。口惜しいと言ってもいい。

「急ぐぞ。死者を出すな!」

シドは今一度、騎兵隊の一番前に立つ。ルシたちのためにできること。それは市民を最後の瞬間まで守ること、ただそれだけだとよく理解していたのだ。







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